尾張平野の最大資産 ― 宮田用水  通水400年 [Miyata-Yousui since 1608]

【第五章】近代化への苦闘

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水質汚濁防止と水管理のため、日本で初めてパイプライン化された用水路(昭和63年完成)。排水路左の砂利道の下には写真のようなボックス型のパイプラインが埋められている。

場所によっては、写真のような構造で排水路も用水路もパイプライン化されている。

パイプライン化された水路の上部は公園や駐輪場として整備され、地域の人々に活用されている。

主要な施設は中央管理所で遠隔操作ができ、集中管理されている。

次世代に農業や水路の大切さを伝えるため、「田んぼの学校」や出前授業など様々なイベントを開催している。

「営利会社は重ね重ね理をつくしての懇請かつ協約を無視して、突如新設ダムを締め切り、以来四昼夜にわたり、ほしいままに断水をあえてし、濃尾平野百万石の美田を涸渇せしめ、独り十数億立方尺の水をろう断する破天荒の暴挙を敢行したのである」(『宮田用水史』より)。大正13年8月、木曽川に全国で最初のダム式発電所が完成し、同発電所は川の流れを止め、ダムの貯水を行った。これが工業社会との水をめぐる軋轢の始まりであった。

もともと小牧、尾西地方は日本有数の綿作地帯であり、織物業は尾張の伝統的産業でもあった。昭和に入ると、一宮を中心とする毛織物業は全国生産の4割を占めるまでに成長し、愛知は一大繊維織王国を築く。やがて、満州事変や世界大戦の軍需、さらに朝鮮戦争の特需などを契機に、この地域は重機械、重化学工業地帯として不動の地位を築くことになる。

工業化は、当然のことながら電力開発をともなう。木曽川の豊富な水量を狙って発電ダムの建設ラッシュが始まったのである。
そのために木曽川の水位は、毎日40~50cmも変化し、農業用水の取水に甚だしい支障をきたした。加えて上流からの土砂の流出が止まり、河床低下が進行。各用水とも、取水口や導水路の修理に莫大な労力と出費を強要されることとなった。
農業と工業の川をめぐる深刻な対立は次第に激しくなり、今渡ダムの建設などその調整には数十年を費やしている。
もっと深刻なことが起こった。尾張の干拓地では、18,600haにおよぶ地域で1mもの地盤沈下が発生したのである。工業化の進展と都市化による過剰な地下水の汲み上げが原因であった(その地下水も尾張平野の広大な水田が涵養したもの)。

「破天荒の暴挙」とはいささか手厳しい物言いかもしれない。しかし、数百年にわたって営々と築き上げられてきた尾張平野の緻密な水秩序が、わずか数十年の工業化で根底から崩れてしまったのである。
これらの事態は、今渡ダムや犬山頭首工など水利の近代的再編で解決が図られ、馬飼頭首工の建設によって地下水の代替水源(工業・都市用水)が確保されて地盤沈下は沈静化。さらに、国営尾張西部農業水利事業(平成八年完了)や県営の地盤沈下対策事業などが行われている。

しかし、変わってしまったのは水秩序だけではなかった。いやむしろ、こちらの方が真に憂うべき事態なのかもしれない。
昭和初期までの水路の水は煮炊きにも使えるほどきれいであった。日本人は水を神様と崇め、洗い物の水すら水路に流さないようにしてきた。
しかし、工業の発展にともなう都市化とともに、水に対する思いも世の中から消え失せてしまったらしく、本来あるはずのない所業が日常の風景と化してしまった。
水路に投げ入れられた大量のゴミや周辺地域からの雑排水の流入である。

百の診療所より一本の用水路を ―― 笑うべきか悲しむべきか、今の私たちの社会は一本の用水路より百の診療所を望んでいるのではなかろうか。
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