天界集落の煌き[History of Takase]

【第二章】山人と山茶


見上げるような山の頂上に
位置する集落(仁淀川町)。

願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。――― 明治43年に発行され今なお読みつがれている柳田國男の『遠野物語』は、日本における民俗学の黎明期に大きな影響を与えた山村の説話集であり、これは同書の序にある「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし」に続く有名な言葉である。

天狗や河童、座敷童子などの奇々怪々な話の中で、ひときわ興味をそそるのは山人の実在感ではなかろうか。この当時、山奥に住んで暮らしを立てることはそれほど困難なことではなく、現に昭和の中頃まで、木地師*1、修験僧、マタギ、タタラ師など種種雑多な山の民たちが山脈の尾根や谷をつたって全国を行き来していたことも分かっている。

柳田國男は、これら山に生きる民を縄文人の末裔といった感覚でとらえていた。弥生人(稲作による国家経営をめざす集団)が幾多の抗争を繰り返しながら大和政権へ収束していく中で、これを避けて山地に逃げ込み、あるいは抵抗をし続けたいわゆる「纏ろわぬ(服従しない)人々」の系譜、すなわち、稲作という渡来系の政権と日本の先住民族という鮮やかな対立軸を描いたのである。

当時は、蝦夷、隼人、蜘蛛族、熊襲など蔑称で呼ばれた多くの部族がおり、日本は100のクニに分かれていた。渡来の政権に屈することを潔しとしない誇り高き部族が山地で抵抗を続けたことは、むしろ当然と言えよう。この山人研究は何故か柳田自身の手によって封印されてしまう*2。しかし、この大胆かつロマン的な学説は、彼の跡を継ぐいわゆる柳田民俗学として、地名、風俗、伝統芸能を研究する際に避けては通れぬほど大きな学問的風土を形成することになる。



ここで話は茶の歴史に変わる。高知県人のお茶好きは有名であり、今もいたるところに茶堂という四阿がある。仁淀川町も茶の特産地として知られているが、これは現在の日本茶、すなわち緑茶である。それとは別に四国の山中には、大豊町の碁石茶*3に代表される「山茶」という野生種が生えている。

日本の茶は、平安期に空海や最澄らの留学生が大陸からもたらしたとされている。各地の茶の発祥地は行基、栄西、空也、法燈などの僧侶を由来とするなど真相は不明であるが、渡来系の栽培種であることは共通している。しかるに、その外来の栽培種が来るはるか以前から日本には野生の茶があったという。この「山茶」と呼ばれる種である。

茶飲の習慣はおそろしく古く、縄文時代にさかのぼるらしい*4。貴族たちが嗜んだ茶とは違い、山の民、修験道の行者や山村で愛飲されてきたという*5
「山茶」とは文字どおり、山に自生する茶であるが、その分布はほぼ西南日本の山岳地帯に限られ、特に三波川変成帯、秩父帯など石灰石系の地質上に連鎖的に認められるとある。
この山茶の分布するところには必ず焼畑農業の形跡があり、山茶と焼畑はワンセットで伝播したことになる。事実、山茶は、山を焼いた後に自然と生えてくるらしい。


中村地区の農地。仁淀川町は茶の産地である。序章の大見槍・松尾集落の農地も、現在はほとんど茶畑。

興味深いことに、山茶は弥生や古墳時代の遺跡周辺には全く見られないという*6
山茶や焼畑は木地師との関わりも深い。そもそも彼らの故郷ともいえる近江六ヶ畑(滋賀県東近江市)は茶の産地であったし、茶筅を作るのも木地師の仕事であった。彼らが遍歴した場所には、轆轤、六郎谷といったロクロに関する地名とともに、夏焼、焼山など焼畑に関する地名が多い。漂泊民とはいっても所々で半定住し、焼畑で食料を得ながら、近くの里へ蓑、椀、盆などを売って暮らしを立てていた。

さらに奇妙なことに、この山茶の自生するところには、ほとんど平家の落人伝説があるという。そのためか「茶は平家の落人が広めた」とする伝承も根強く残っている。
確かに、四国山中の平家伝説のある山村はいずれも昭和の初期まで焼畑が行われていた処であり、山茶の自生地でもある。

さて、以上述べてきた「柳田の学説」「山茶」「石灰石系の地質」「焼畑」「木地師」「修験僧」「平家の落人」等々といったことを重ね合わせると、そこには、この列島を二分するような巨大な断層、日本最長の谷といわれる大地の亀裂が浮かび上がってくる。

*1 木地師とは、全国の山中を渡り歩き、ロクロを使って椀や盆などを作って生計を立てていた山の民であり、律令制度が崩壊した頃、近江の「六ヶ畑」(滋賀県東近江市)周辺の六村で発祥したとされている。

*2 柳田は『遠野物語』を出す前に九州や四国の山中を訪れ、そのあまりに稲作社会とかけ離れた狩猟や焼畑の営み、独自な生活習慣などに接して『後狩詞記』を著し、さらに北国・遠野の話にも多くの共通項を見出すに及んで自説の確証を得たらしい。漂泊民などに関する様々な論文を経て『山の人生』をまとめあげるが、その後、山人の研究を止める。盟友・南方熊楠との論争、あるいは万世一系という皇国主義に染まっていく時代の中で、先住民族がいたという自説の危険性を感じて研究を止めたとも言われている。

*3 碁石茶は、山茶を漬け込んで完全発酵させるという独自の製法で、日本には他に類を見ない。乳酸菌が多く薬効もある。

*4 山田新市『日本喫茶世界の成立』などより。
縄文の遺跡から茶の実が出土したという記録があり、山口県の宇部炭田からは3千万年前の茶の葉5点と種子2点の化石が出土している。

*5 山陰には陰干し茶、琵琶湖から北陸には黒茶、阿波や美作には番茶、山陰から北四国にはボテボテ茶、沖縄にはブクブク茶。これらはいずれも山茶を使用しており、新しい製茶法が導入される以前の、古代の製茶法だと推測される。なお、北陸のバタバタ茶は蛭谷集落(富山県朝日町)が有名だが、この集落は木地師の故郷である「六ヶ村」の蛭谷に由来するという。

*6 松下智『ヤマチャの研究』

※ページ上部イメージ写真 : 仁淀川町 茶堂


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