天界集落の煌き[History of Takase]

【第四章】地すべりの恵み

「地すべり」とは、急に発生する山崩れや崖崩れとは異なり、図1のように山や傾斜地の一部がゆっくりすべるという現象である。
粘土などすべりやすい土層が地下水位の影響を受け、ゆっくり動き出す。その規模はまちまちだが、大きなものでは100ヘクタールに及ぶという。したがって、すべった後も、下の写真のように土地の表面は現状をとどめている場合も少なくない。

写真 中越地震による地すべり(新潟県小千谷市塩谷)
独立行政法人防災科学技術研究所 地すべり地形分布図データベース ホームページより引用


こうした地すべりが発生する地域は、基本的には図2のように3つに分類される。
第三紀層……170万~6500万年前に形成された地層。泥岩が多く、水を含むと泥状となり、地すべりが発生しやすくなる。
破砕帯……破砕帯とは断層などの亀裂により岩石がコナゴナになっている場所。中央構造線に沿って分布する三波川変成帯と秩父帯に集中しており、四国の地すべりはこのタイプ。
温泉地……温泉熱やガスの影響で地層が粘土状になったところで発生。鹿児島や北海道の温泉地帯に多い。

山の民は、目ざとくこれに注目したに相違ない。すべった跡は傾斜が緩くなっている。延焼を防ぐために周りの木々を切り倒す手間も省ける。表土(表面の腐葉土など栄養分の多い土)もそのまま。まさに天の恵み、「ここを焼いてくれ」と言わんばかりである。
さらに、地すべりの場所には大きな利点があった。水が湧き出るのである。地すべりの多くは地下水の充満が起こす。つまり、彼らは労せずして定住に必要な水を得ることができたのである。

仁淀川町 戸立集落(標高約500m)

写真は、集落が広がる状況をよくとらえている。地すべりの起きたところを焼畑にして定住し、さらに家々が増えてくると、すべり残った急斜面もイモ畑などにしたのであろう。この集落でも数ヶ所で山水がこんこんと湧き出ている。

収穫が増えれば人口も増える。定員(?)過剰になった村では、別な地すべり個所を見つけて分村していったのではなかろうか。この地域の山頂、あるいは山腹に位置するほとんどの集落は、この地すべりの跡地に成立しているのである。
さて、いささか回り道となったが、序章で示した「景色の真相」には、以上のような推測が成り立つ。

一方、当然のことながら、集落は下からも拓けてきていた。
平安京が造営される際、川又神社(仁淀川町大植)の近くで巨大なヒノキを供出したことが古い記録にある(大ヒノキの跡も現存)。安芸の杣人72人が木像を一体づつ刻んで奉納し大雨を祈願、やがて起こった大洪水とともに巨木を土佐湾にまで運んだ。この時の木像72体がばらばらに流れ着き、そのうち21体が救われて各集落に分納、それがあちこちにある五所神社の由来と言う。こうした記録から見ると、延暦年間(782~806年)には川沿いの平地の主要な集落はほとんど人々が定着していたことが分かる。現在300戸ほどの集落である長者も、この頃は6戸であったらしい。

この地の古い記録は京都や奈良にも引けを取らない。旧村ごとに分厚い村誌、郷土誌の類を持ち、平安の頃からの様々な出来事や風物が事細かに綴られている。集落の成立も開拓者の氏名、日付、理由など詳細を極めている。
これは、土佐の国が遠国の歴史を持つことと無関係ではなかろう。遠国とは政治犯の配流地であり、土佐へは池田親王、弓削浄人、藤原師長、土御門上皇など多くの中央貴族が流された。彼らは並みの血統ではない。まさに朝廷の中枢にいて覇権を争った人物である。中には当代一流の歌人石上乙麻呂や流罪ではないが紀貫之などの文化人もいた。いわば、京文化の精髄が人物ごと移植されたことになる。
こうしたことがこの地の高い教養と現在まで続く中央への反骨精神や気位の高さを育てたと言えなくはない。
平安中期に仁淀川町松尾で勢力を持っていた別府経基も藤原純友の乱に呼応している。平家の残党が土佐に逃れてきたのも、土佐の持つ文化性や政治的風土と無縁ではなかろう。

しかし、戦国時代の末期になると、例えば長宗我部検地帳に見られるように、すでに都集落をはじめ天界に位置するほとんどの村々の詳らかな記載が残っている。
つまり、この頃には、貴族や武将を祖として山間深く雌伏しながら天界から拓けて来た集落の気高い文化と、一流の教養を持ちながら中央に抗ってきた平地の雅な文化が融合し、「仁淀川山村文化」とも呼べそうな一種独自な文化的風土が形成されるのである。
これも地形や地質が招いた歴史的必然であると言えば穿ちすぎであろうか。

*藤原純友は藤原北家の出身であったが瀬戸内海の海賊の首領となり、中央の腐敗した政治に反抗して反乱をおこす。関東の平将門の乱と同時期に起こっているため、承平天慶の乱とも呼ばれる。将門は2ヶ月で鎮圧されたが、純友の乱は2年に及んだ。一説では、松尾集落に純友の妻が落ち延びたらしく、松尾には藤原姓があったという。

※ページ上部イメージ写真 : 仁淀川町の集落と山々

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