戦国時代から江戸時代

戦国時代

 応仁の乱に続く戦国時代の百年は、戦国大名による支配をもたらしました。戦国大名は、経済的基盤の拡充を目指して、流域的規模の開発を盛んに行いました。例えば、甲州の武田の釜無川や笛吹川、越後の上杉の信濃川、安芸の毛利の太田川が挙げられます。


信玄堤。水を治め、利することが戦国大名にとってサバイバルの条件だった。



豊臣から江戸幕府へ

 豊臣秀吉は、全国統一後、太閤検地によって新たな土地制度を確立しました。
 豊臣の後を受けた徳川は、大名による土地支配と強固な身分制度によって社会を秩序立てることとし、米の生産量を基準として耕地に石高を割り当て、米を年貢の形で徴収することを、経済的、財政的基盤としました。
 従って、この体制では、米を確保することが政策の基本となり、各地で大規模な新田開発が進みました。この時期の新田開発は、中世期以前には開発の手が入らなかった大河原の氾濫原、いわゆる沖積平野などで行われました。この代表的な例として、利根川の付替工事とそれに伴う湿地帯の大規模開発が挙げられます。


徳川中期

 また、8代将軍吉宗とともに幕府入りした井沢為永は、新田開発奉行として、関東平野の大開発に当たりました。この時期に導入された技術としては、洪水の越水を許さず、連続堤で流路を固定し、下流に一気に流下させるものでした。この新技術は、これまで放置されてきた三角州地帯の開発を進め、我が国における大河川を利用した大規模灌漑システムを確立しました。この代表的事例としては、見沼代用水が挙げられ、このような技術体系は、紀州流と呼ばれています。
 この新田開発の結果、豊臣秀吉の頃約150万町歩であった全国の耕地面積が、100年後の元禄の頃には、2倍近くの約300万町歩に増加しました。


見沼代用水の元圦(取水口)の絵図
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 戦国期から江戸時代の新田開発は、北海道を除き現在の耕地形態の基盤をほぼ形作るものでした。明治維新後、我が国は数十年にして近代国家となりましたが、その飛躍的な発展のため国力蓄積には、近世の農業開発による農業生産力が一つの原動力であったと考えられます。