我が国の農耕の始まりは縄文・弥生時代にさかのぼる。以来数千年の歴史を経て今日の農業に発展してきた。われわれの祖先が最初にたどりついたのは焼畑農業であり、それは縄文時代末期と言われている。大化の改新(645~649)は中央集権国家体制の確立を目指して行われた。中でも「条里制」と言われる土地区画制度は「耕地整理」の始まりと言えよう。「条里制」遺構は島根県下各地で確認されている。出雲風土記(700年代)はほぼ完全な形で伝えられており、この時代にすでに出雲において大堤防工事の記録が見られる。その後平安時代に「荘園制」が進むと土木工事も荘園拡大のために実施された。安土桃山時代には「太閤検地」が行われ、荘園制度に終止符を打った。江戸時代になると石見地方でも各地で開拓が盛んに行われた。
島根県大田市の土地改良は古代における「条里制」が始まりである。中世(鎌倉、室町時代)には土木工事も地頭達の手によって行われ、大田市久手町では湖水の氾濫防止工事が実施され、江戸時代にはこの地方でも堤防工事、開田、開畑、水路工事が行われている。明治維新後、地租改正(明治6年~14年)、府県設置、町村合併を経て、明治23年に水利組合条例、明治32年に耕地整理法が公布され、耕地整理(明治35年~36年)が行われている。昭和に入ると羽根湖干拓、戦後は三瓶等の開拓が行われ、昭和50年には島根県大田耕地事業所が開設され、種々の県営土地改良事業、農道事業、圃場整備事業などが実施されるようになった。
邑智町(現美郷町)では明治42年に開墾及びかんがい排水施設による開田事業が行われ、大正時代も未開の山林原野での開田事業や用水路開削を行っている。当時としては画期的なものであった。昭和40年代になると圃場整備事業が急速に進められている。
事業区域のほぼ中央部に石見銀山遺跡がある。
石見銀山遺跡は、環境に配慮し自然と共生した鉱山運営を行っていたことが特に評価され、2007年7月に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、国内では14件目、鉱山遺跡としてはアジアで初めての世界遺産に登録された。
石見銀山は東アジアの東辺にあたる日本列島の西部にあり、大陸に面した日本海岸に位置する。1526年に九州博多の豪商神谷寿禎によって発見されて以来、1923年の休山まで約400年にわたって採掘されてきた日本を代表する鉱山遺跡である。大航海時代の16世紀、石見銀山は日本の銀鉱山としてヨーロッパ人に唯一知られた存在であった。それは当時ヨーロッパで制作されたアジアや日本の地図に、銀鉱山と記されており、今も遺跡として当時のまま残されている。
石見銀山遺跡の入口部に石見銀山領(天領)の代官所跡がある。
井戸平左衛門正明は、江戸幕府で勘定役を務めていたが、享保16年(1731)60歳という高齢ながら、大岡越前守忠相の推薦もあって、第19代石見銀山領の代官に任命された。着任翌年の享保17年は「享保の大飢饉」といわれる大飢饉の年。長雨や冷夏の影響、「いなご」「うんか」の大発生などで稲作は甚大な被害をうけた。飢餓に際し、平左衛門は自らの財産や豊かな農民から募ったお金を基金として米を購入するとともに、幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて飢えた農民に米を与えた。また、年貢も被害の大小によって免除や減免とした。享保17年に大森の永泉時で修行僧の泰永に出会い薩摩国で栽培されていたサツマイモの話を聞き、早速持ち出し禁止の種芋を幕府に依頼して約90kgを石見に持ち帰った。最初の栽培はほとんどが失敗でしたが、「いも釜」という貯蔵法も考案し、翌年からはサツマイモ栽培が普及することとなった。その後石見銀山領では、餓死する者がいなかったという記録がある。平左衛門の死後はその功績を湛える顕徳碑が島根県の他鳥取県や広島県で490ヶ所も確認されている。
井戸神社
肖像画
主峰の男三瓶山(標高1126m)を始めとする複数の峰が「室ノ内」と呼ばれる窪地を取り囲むように、環状に連なる稜線を描く三瓶山。登山ルートは室ノ内の周りを縦走したり、男三瓶の北斜面に広がる自然林を抜けたりと、異なる山の表情を味わいながら登山が楽しめる。中でも火山噴火によって埋もれた太古の森が、4000年の時を超えて姿を現した埋没林は、世界的にも貴重な神秘の森である。
当地区の農業は、水稲を基幹作物とし、野菜、果樹、畜産などを組合せた山村特有の零細な複合経営が主体で、1戸当たりの耕作規模は61aと零細であり、加えて米の生産調整等により農業生産は停滞し、農業所得への依存度が低下していた。
このため、現状の農業構造を改善するとして大田市と邑智郡邑智町の郡市界周辺に広がる標高200~300mの山林原野908.3haを開発し、573.9haの農地を造成するとともに、畑地かんがい施設の整備を行い、ぶどう、たばこ、野菜、酪農及び肉用牛を導入し、受益農家の経営規模と地域農業の改善を図ることとした。
大邑開拓は昭和48年11月に「大邑地区国営農地開発事業推進協議会」が結成され、昭和49年度から昭和52年度まで基本計画調査、昭和53年度には全体実施計画を作成し、19工区36団地が造成されることとなった。昭和54年10月に大邑開拓建設事業所が開設され、着工された。(S54.10~H6.3)
13年の期間をもつて島根県のほぼ中央に位置する大田市及び邑智郡邑智町(現美郷町)の山林原野が農地として開発され、畑地かんがい及び飲雑用水施設が設置された。しかし、その後の社会情勢及び農業情勢の変化により開拓面積は縮小され、最終的には地区面積448haを対象として224haの農地開発を行った。
受益地 大田市・邑智町(現美郷町)
工期 着手 昭和54年度
完了 平成5年度
事業費 97.6億円
工事内容
地区面積 448ha
造成面積 224ha
道路延長 20,884m
飲雑用水施設
取水施設 10か所
導水管路 4,370m
配水管路 11,820m
主要作物 じゃがいも、さつまいも、たまねぎ
牧草、はくさい、ブロッコリー等
日本全体の中の大田地区の位置図