瀬戸内海のほぼ真中に位置する岡山県笠岡市。車で数キロ走ると広島県福山市に入るこのまちは、
岡山の西のはずれに位置しています。まちの中央にある小高い丘、ここはかつて瀬戸内海一体に勢力を持っていた村上水軍の居城があった場所。
古城山とよばれるこの山の頂から北に目を向けると、いかにも密集した市街地を見ることができます。市街地のすぐ後ろには山がせまり、
一見山あいの町を思わせるような風景、しかし、町のかたすみには、小型の船が停泊しており、この町が海に面していることを教えてくれます。
一方、西に目を向けると、眼下には左右を丘陵地に挟まれた広大な平地を見渡すことができます。そこには整然と区画された農地が広がり、目を凝らすと遠くにはうっすらと工場が見えてきます。
多くの人は、この広大な平地がかつて海であったといわれても、容易に想像することはできないでしょう。
しかし、約30年前、この平地は干拓という人間の営みによりつくりだされたものなのです。このまちに新しく平地を生み出したのは、国営笠岡湾干拓事業です。
一体何故、笠岡市に、このような広大な土地が生み出されたのでしょうか。そこには笠岡の持つ歴史的な必然性がありました。
笠岡市が面する瀬戸内海は、古くから畿内・九州・さらには朝鮮や中国を結び、貿易・交通・軍事上の最重要航路でした。そのため、古代から近代まで中国・四国地方の瀬戸内海沿岸には、
港町として発展してきたまちが数多くあります。笠岡市もその一つであり、港町としての歴史は鎌倉時代までさかのぼります。
鎌倉時代、笠岡はこの地方近郊で勢力をもった在地領主、陶山氏の支配下にありました。陶山氏は、現在の古城山に笠岡城を築き、町場を形成しています。
また、当時の記録には、笠岡諸島で生産された塩などを積んだ船が兵庫に入港していたとあり、陶山氏の治下で港としての基礎が築かれたことがわかります。
陶山氏の後、笠岡城には瀬戸内海一帯で勢力を誇った村上氏が居城し、笠岡は村上水軍の前線基地として整備されていきます※。
村上水軍は、安芸に本拠を置く戦国武将、毛利氏の軍の一躍を担い、瀬戸内海をはじめ各地の海戦で活躍していました。
天正4年(1576年)、毛利軍は石山本願寺の合戦で織田信長の軍を破っていますが、村上水軍はそのきっかけをつくったといわれています。
陶山氏の統治下、その基礎が築かれた笠岡の港は、村上氏の統治下には軍事の要衝として整備されていったのです。
※ 当時、瀬戸内海では、その複雑な地形や潮流を生かし、海上の特殊な知識と技術を身につけた水軍と呼ばれる組織が勢力を誇っていました。水軍は、陸の米・穀物を中心とした領地支配に属さず独自な行動規範を築いており、海上における輸送の警護や用心の護衛などの活動をしていました。また、戦闘技術に長け、普段特定の戦国大名の支配下におかれることはありませんでしたが、折をみて、戦国大名の強力な傭兵となるなど、海戦では恐れられていたといいます。
中世に港の整備が進められた笠岡は、江戸時代初頭にはかなりの賑わいをみせていたといわれています。江戸時代の笠岡は、元和5年(1619年)から備後の福山藩水野氏の支配下におかれますが、
初代福山藩主水野勝成は、笠岡を領地としたとき、その港町について「ことのほか、繁栄していた」と話したといわれています。
水野氏の支配は元禄11年(1689年)まで70年間続きますが、その間、笠岡は藩領東部に位置する拠点として重要視され、積極的に町造りが行われています。
この時代、米、鉄、木材、大豆など、備中西北部、備後東北部からの産物や笠岡諸島の海産物などが笠岡に集められ、畿内への輸送が頻繁に行われていました。
また、当時、瀬戸内海沿岸ではタバコや綿、イグサなどの商品作物の栽培が盛んであり、これらの商品作物を流通させる笠岡商人の活動も賑わっていたといわれます。
中世から交通・軍事の要衝だった笠岡は、江戸時代に入り商業的な性格を持つ港町としてさらなる発展を遂げたのです。
笠岡が古くから、港町として発展することができたのは何故でしょうか。その背景には、瀬戸内海にみられる独特の潮流があります。
古代から江戸時代後期まで、動力を持たない船による航行は、潮流、風向きに左右されるものでした。とりわけ、航行における潮流は重要なものです。
瀬戸内海は、中央から東西に向けて二つの潮流が生じる世界でもめずらしい海域です。潮の流れは、瀬戸内海の中央部を境目に逆向きとなるため、
潮流に乗って航行するには潮流の境目で“潮待ち”をしなくてはなりません。広島県の鞆の浦沖から笠岡沖は、その潮流の境目にあたります。潮の流れが変わるまで、
船が停泊する港として笠岡には多くの船が入港するようになったのです。
交通・商業の要衝として栄えた笠岡は、江戸時代から近代にかけて、備中西南部の行政の中核としての役割を担うことになります。
元禄11年(1698年)まで続いた福山藩の支配の後、笠岡は幕府領となり代官所がおかれました。周辺の農民たちは、他の農漁村集落と異なる機能を持つという意味で、
「笠岡千軒、鞆千軒」と称したといいます。
また、廃藩置県後の明治5年(1872年)には、備後東部と備中一体を県域とする小田県※の県庁が置かれました。
笠岡は小田県の中央にあたり、土地が高く乾燥していて道路も四方に通じているという好条件を備えていたためです。県庁との諸連絡のため、
笠岡には県下から数多くの住民が訪れ、商店、飲食店なども繁盛し、大変な繁栄ぶりだったといわれています。
しかし、明治8年(1875年)、小田県は岡山県に合併され県庁所在地としての役割を終えました。そして、明治以降、国が近代化されていくなかで笠岡の繁栄ぶりは徐々に停滞していくことになります。
※ 明治4年(1871年)、備後東部と備中を合わせて深津県(県庁は福山)が編成され、翌年、小田県と改称された。県域の中央部にあり、伝達、往来などに便利といった理由で、笠岡に県庁が移された。
笠岡の発展にかげりがみえた最大の理由、それは港の衰退に他なりません。明治以降、運輸、交通の主流が船舶から鉄道へと移り変わるなか、
江戸時代に繁栄した瀬戸内海の港町の多くは徐々に衰退し、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。
一方で、瀬戸内海では、江戸時代に盛んであった木綿機業の蓄積から、繊維業を中心とする軽工業が発達し、その後、化学工業、造船業等の産業が徐々に増え、
戦後の臨海部を舞台とする重化学工業の発展へと向かっていくことになります。しかし、笠岡では、このような時代の流れに乗れない宿命的な問題があったのです。それは、土地の少なさと水の不足でした。
岡山県には、高梁川、旭川、吉井川という三本の大河があります。
県の沿岸部には、これらの川の旺盛な堆積作用によって、岡山平野を代表とする沖積平野が作られてきました。
しかし、笠岡にはそのような大きな川はなく、大規模な平野は形成されませんでした。市内を流れる川は、幅5m内外の小河川のみで、降雨時に流水がみられる程度なのです。
また、近くに大きな川がないことにより起こる必然的な水不足。笠岡は平地の少なさと水の不足により、農業や工業など何かを作り出すような産業の発展は望めなかったのです。
平地の少なさと水の不足、これは簡単に解消できるようなものではありません。しかし、笠岡では港町として発展を続ける一方で、この問題を解決するための営み「干拓と利水」が営々と行われてきたのです。
笠岡での大規模な干拓は、江戸時代、福山藩水野氏の支配下で始まります。江戸時代初頭は、幕藩体制を確立し、年貢を徴収する基盤を拡大するために、各藩がこぞって開墾干拓に力をいれた時期でした。
しかし、水野氏は、「耕地が広がり生産力が上がれば最初に喜ぶのは農民である」という考えのもと、利水と治水を第一に干拓を進めたといいます。
干拓をするには堤防を築いて海を囲わなければなりません。干拓地を潤すためには、川から水を導くか、ため池をつくり水源を確保しなければなりません。
そして、これらの工事には、多額の資金と優秀な技術が必要となります。福山藩の財政は、築城という大事業を行ったこともあり、決して潤沢ではなかったといわれます。
それでも、開墾や干拓により耕地を増やし、生産力を挙げることが、国が発展する礎になると捉え投資を惜しみませんでした。また、干拓という難事業を成功させるための優秀な技術者も多かったといいます。
土地と水を求める笠岡にとって、水野氏の支配下におかれたことは幸運なことだったのです。
右の図は、現在までの笠岡市内の干拓地を示したものです。水野氏の時代にいかに、大規模な干拓が行われたかがわかります。
また、水を第一に考えていた水野氏は、干拓を進める一方で、必ずため池等の水源をつくりました。それでも、瀬戸内海式気候に属し、年平均降水量が1,000mm程度の寡雨地帯に属する笠岡では、石高がなかなか安定しなかったといいます。
水野氏の支配以降も笠岡では、小規模な干拓が繰り返され、昭和に入るまで約300haもの干拓がなされています。しかし、それでも港町として発展してきた笠岡に、農業や工業など、新たな可能性をもたらすことはできませんでした。同時に水不足の問題も解消されることなく昭和を迎えることになるのです。
■コラム:笠岡湾における干潟の形成
笠岡の沿岸部の地形は、屈折の多い海岸線が形成されており、それぞれの湾入部の奥には流量こそ少ないものの小河川が流れ込んでいました。
これらの小河川は、洪水時に上流から土砂を運び、少しずつ海に積もっていきます。
また、瀬戸内海の激しい干満差は、海に積もった土砂を再び陸地近くまで戻します。長い年月をかけた川と海の堆積作用により、笠岡の沿岸には干潟が形成され、干拓しやすい条件が整っていたのです。
昭和に入り、急速に近代化、工業化が進んだ日本では、新たな発展の道を探る必要があった町が少なくなかったはずです。
笠岡の周囲には、繊維業などの地場産業を基盤にして工業化に成功し、高度経済成長期から急速な発展をみせた福山市や倉敷市があります。
いずれも古くは笠岡と同じように交通の要衝としての港を持ち、行政の中核となる機関が置かれ栄えたまちでした。
これらのまちと笠岡の違いを考えた時、行き着く先はどこなのでしょうか。それは、やはり「土地と水」の存在なのです。
倉敷市を流れる高梁川、福山市を流れる芦田川、それらの河口に広がる平野、いずれも笠岡には存在しないものです。
同じような発展の歴史を持つ周囲のまちが、近代化にともない変化していく過程で、笠岡は改めて「土地と水」の重要性を認識したのではないでしょうか。
平成2年に完工した国営笠岡湾干拓事業は、農業用地1,190ha、工業用地(共同事業)460haを造成し、
笠岡が宿命として抱え続けた「土地と水」の問題を一挙に解消するものでした。しかし、完工までには様々な紆余曲折を経ています。
当初、水源として予定していた小田川上流への天神ダム建設構想の挫折、これは、水利権にからむ流域市町村からの反対により着工直前に頓挫したものです。
干拓地の用水は、水源を高梁川支流の成羽川上流の新成羽ダムに求め、延長24Kmの水路によって水を引くことになったのです。
また、昭和45年から始まった米の生産調整は、造成される農業用地を水田から畑地へと大転換させ、計画は根本から見直されました。
さらに、企業誘致の動向に左右され、数度の変更がなされた工業用地と農業用地の調整、着工後に行われた排水計画の変更など、たび重なる苦労の末、完工までたどりついたのです。
この苦労により笠岡が手にしたものは、果てしなく大きなものでした。甲子園300個分にも及ぶ広大な農業用地と日本有数の企業の誘致が決定した工業用地、
これは、商業・交通を通してモノを流通させるまちとして発展してきた笠岡が、モノを生み出すまちとして発展するための基盤となるものです。
そして、市の隅々までゆきわたる豊かな水。本事業の導水事業は、干拓地はもちろん笠岡市の上水道用水、沿線市町の工業用水、
上水道用水をも取水し住民を潤すものでした。かつては、「笠岡さばく」といわれ、子供たちが、水筒やビール瓶、一升瓶に入れた飲み水を持参して学校に登校したことがあるほど水が不足していた笠岡は、ようやく念願の水を手に入れたのです。
広大な平地と豊かな水、それは、笠岡が求めつづけた資源でした。そして、この資源を将来にわたり有効に活用していくこと、それが笠岡の新たな発展につながっていくのです。
干拓面積(農業用地)
1,190ha
主要工事
揚水機場 1か所(船穂揚水機場)
用水路 |
共用道水路(1) |
22,246m |
|
共用道水路(2) |
1,798m |
|
地区内幹線用水路 |
4,490m |
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地区内支線用水路 |
38,720m |
排水機場 2か所(寺間排水機場、片島排水機場)
排水路 |
幹線排水路 |
6,597m |
|
支線排水路 |
5,835m |
|
小排水路 |
24,868m |
|
承水路 |
5,689m |
|
東堤潮廻 |
2,439m |
|
河川放流工 |
356m |
道路 |
幹線道路 |
19,648m |
|
支線道路 |
28,604m |
|
地区外道路 |
928m |
岡山県 ―笠岡湾干拓事業
「海の路 uminet.jp」サイトより転載