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1. はじめに
2. 古くから拓けた農業地帯
3.安定した農業用水を確保
4.造成地の営農と施設を利用
5.事業の概要
6.ある入植者の体験記

icon 1. はじめに



 広島県の中央よりやや東に位置し、森林が全体の70%を占め、標高450m~600mの丘陵地帯で通称「世羅台地」と呼ばれる地域ですが、 瀬戸内と出雲を結ぶ交通の要所であることから、奈良時代以前から拓け農業が主体で発展してきた。昭和20年の終戦により森林を切り開き食料確保のための緊急開拓事業が、 その後昭和36年から開拓パイロット事業が実施され、平均約20haの梨、煙草、飼料の大規模農園が農事組合法人で展開し、昭和47年からは県営農地開発事業等により、 梨、茶、煙草、飼料の大規模農園の営農が開始された。こうしたなかで、協業経営を主体にした大規模経営を実施し、更に畑地かんがいにより、 より経営の安定を図り企業的農家の育成と、地域経済の発展を図るため、国営広島中部台地農地開発事業が着工した。 しかし、農業を取り巻く情勢の変化もあり、計画を見直し、大規模経営の展開とともに、果樹、花卉等の品目を中心に観光農業地域として農村と都市の交流の場や世羅農産物のブランド化を図っている。 こうした、事業の変遷や事業を契機とした地域の振興が図られている現状について紹介する。

icon 2. 古くから拓けた農業地帯



 世羅地方は古くから人が住んでいた形跡があり、多くの縄文土器や石鍬、石斧等が発見されている。また、この地域が瀬戸内と出雲を結ぶ交通の要所で、 伝説によると素佐男尊は簸の川上流で八岐の大蛇を退治し、櫛稲田姫を救い世羅郡小童へ住まわせたとの説話が残っている。
 通称「世羅台地」と呼ばれるこの地域の世羅町、甲山町を中心に「太田の荘」と呼ばれ、平安時代末期には平清盛の五男である平重衡の荘園となり、 平氏滅亡後高野山に寄進され高野山領となり、総領所代を置き、この地域の管理を行い、耕地は613haであったとの記録があるように、古くから優良な農業地帯であった。


 しかし、世羅町を北東―西南に分水嶺が通っており、世羅町北部と世羅西町のほとんどが日本海にながれる江の川水系に、世羅町南部と甲山町、久井町のほとんどは瀬戸内海に流れる芦田川水系に属しているように、古来より水の確保に苦労してきた。
 たとえば、甲山町では田に水を引く際には時計代わりに線香を用いたり、孟宗竹をくりぬいて「水ふいご」で揚水したとあり、山泥棒は酒を配るか罰金で済むが、水泥棒は村八分の制裁を受ける程とされた。 世羅西町では、17世紀ごろに多くのため池が造られ、その数は県内一を保有している。

icon 3.安定した農業用水を確保し、広島方式による大規模経営農園を目指して



1.戦後の取り組み
 昭和20年の終戦後に緊急開拓事業が実施され、麦類、陸稲、たばこ、馬鈴薯、落花生、柿、栗など換金作物を取りいれた営農計画で、 甲山町、世羅町、世羅西町で622haの開拓が実施された。
 昭和36年に農業基本法が制定され、開拓パイロット事業の制度が創設され、世羅台地では、世羅東部開拓パイロット事業、 津田西開拓パイロット事業により約100haの農地造成が実施され、酪農と梨を基幹作物に、協業経営組織による営農を行った。
 この地域は農業就業人口が約5割を占めているように、農業が主体で発展してきたものの、谷間の狭小な水田、棚田が多く平均経営規模が1haと零細であり、 加えて、昭和30年代から近隣の福山市を中心として工業の発展にともない兼業農家が増加し、農業生産が停滞ぎみとなっていました。 しかし、世羅台地は農業への依存率は高く、今後においても立地条件、地域資源等から見て農業を第一に考えないと地域経済の発展が望めないとの判断から、 世羅東部開拓パイロット事業等により営農を開始した世羅幸水農園等の農事組合法人が生産性の高い土地利用型農業を展開していることを受け、 高度経済成長期で農業が停滞する中で、今後の活路は農業であると定め、昭和47年には県営世羅中部地区農地開発事業に着手し、梨、茶、たばこ、酪農の営農を開始した。 これらを基盤として、昭和46年には「世羅広域営農団地整備計画」が策定され、協業経営を主体とした大規模経営を実施し、 更に畑地灌漑により経営の安定を図り企業的農家の育成と地域経済の発展を図ろうと、広島中部農地開発事業が計画された。


2.大きな夢を抱いて
 昭和46年度に策定された「世羅広域営農団地整備計画」に端を発し、協業経営による大規模で生産性が高く、 定期的な休日や安定的な収入が確保できるゆとりある農業の展開を目指して、関係町で構成する「国営広島中部台地農業開発推進協議会」が設立され、 農地開発基本計画樹立について共同申請がされた。その背景として、農家戸数の減少や兼業農家への移行が進む中、広島県全体の農家率22%に対し、 本地域は77%、就業人口率から見ても全県で16%に対し、本地域は48%と農業への依存率は高く、今後においても立地条件、地域資源等から見て農業を第一に考えないと地域経済の発展は望めないという判断に起因している。
 農林水産省においても、昭和47年度から基本計画の調査に着手し、昭和52年度より関係5町を受益として、地域内の未墾地834haを対象に農地造成を行ない、更に畑地かんがいを行うため国営広島中部台地開拓建設事業に着工した。

3.広島方式とは
 本事業は、1団地1法人による営農を原則として、広島県農業開発公社が山林原野を一括取得し、農地造成を行った後に、農業生産法人へ売り渡すいわゆる「広島方式」を採用した。 この取り組みが全国的に注目を浴びる中、地区内に点在する山林原野を農地造成し、畑地かんがい施設の整備を行い、 梨、ぶどう、野菜、たばこ、花木、茶、飼料作物を栽培し、県農業のパイロットとなる高生産性、高所得性農業経営体の創造と新しい食料基地として地域農業の発展を促進する目的で着工した。
 この「広島方式」は、従来農用地開発は事業に参加する者が自己所有の未墾地や他者所有の未墾地を借用して事業参加し事業実施されているが、 この方式によると団地構成が必ずしも希望どおりにならなかったり、あるいは個人の事情の変化により脱落し、営農の担い手が確保できずに造成された農地が放置される例があった。 こうしたことから、広島県農業開発公社が用地を一括取得し、営農の担い手は原則として意欲のある農民の組織する農業生産法人として、 農地造成後に公社が法人に売り渡すいわゆる「広島方式」を採用することとした。このような取組み方針を設けたのは、 昭和36年ごろは水稲単作経営の営農を行っている地域に開拓パイロット事業により幸水農園や世羅大豊農園が大規模経営農園を軌道に乗せて安定した経営を行い、更に、世羅西町には六反田葉タバコ協業組合が誕生する等し、これらの成功が手本となった。

4.国営広島中部台地農地開発事業の実施

(1)事業の実施
 昭和52年度より世羅町(旧甲山町、旧世羅町、旧世羅西町)、三原市(旧大和町、旧久井町)の関係5町を受益として事業に着工した。
 本事業は、1団地1法人による営農を原則として、広島県農業開発公社が山林原野を一括取得し、農地造成を行った後に、農業生産法人へ売り渡すため、最終受益者となるべき者に使用収益権を与え、その者を三条資格者とし、事業申請人は受益者の同意のもとに町が連名で申請した。
 昭和52年に開発可能地704haを対象に、次の計画で着工した。


 当初計画
  造成面積 610ha
  受益戸数 144戸
  ダム   2箇所(目谷ダム、京丸ダム)
  揚水機場 5箇所
  用水路  幹線 19.7km、支線 30.6km
  道 路  幹線 17.6km、支線 31.7km
  なお、東西を結ぶ基幹道路として、世羅広域農道が県営事業で実施されている。

 昭和53年度以降農地造成工事を実施するとともに、水源である目谷ダムに工事着手した昭和56年までには、9つの農事組合法人が設立され、 造成された農地において梨、ぶどう、野菜、たばこ、花木、茶、飼料作物を栽培し、県農業のパイロットとなる高生産性、高所得性農業経営体による営農が始まった。


 しかし、事業着工から12年が経過し、新規入植農家がいない状況になり、造成予定地の編入及び除外、造成工法及び道路計画の変更を行い、平成3年度に第1回計画変更の手続きを了した。
 このように受益町からの入植者の不在から、関係機関が連携して県民だより、田舎暮らし、新聞、ラジオ、テレビ等のマスメディアを利用し募集を行ったところ、 平成5年度だけでも250件の問い合わせがあり、面談の結果就農意欲の強い13名程度の方に絞り込まれた。これらの方はサラリーマンからの転職組で施設花きや野菜の栽培を目指しているが、 この方々の定着のため低利の融資制度、研修制度、住宅資金の充実等を行い、村づくりの推進者として受け入れ態勢を整備し、地域の活性化を図っている。
 こうした新規就農者の受け入れる一方、既設農園では省力栽培技術の確立を図り、同じ労力で経営規模を倍増している事例もある。この稿の終わりに、既設農園の方の体験を掲載させていただきました。


(2)第2回計画変更の要旨
 ガット・ウルグアイランド農業合意等、農業を取り巻く情勢の激変もあり、かつ造成した農地の売り渡し状況も芳しくないことから、 一部の造成予定地を除外した。また、これにより生じる目谷・京丸ダムの余剰水について平成6年の大干ばつにより既存の水田及び樹園地での用水確保の要望があったため、 附帯土地改良工事(用水補給、畑地かんがい)の編入等による事業量の変更、さらに、農畜産物の価格低迷や自然災害の影響等により、観光農業を取り入れた営農計画の見直しを行い、 平成9年度に第2回計画変更の手続きを経て、同年度に事業が完了した。

 変更計画(第2回)
造成面積 357ha
用水改良 213ha(既耕地水田113ha、樹園地100ha)
受益戸数 21戸
ダム 2箇所(目谷ダム、京丸ダム)
揚水機場 6箇所
用水路 幹線 25.9km(主幹線3路線)、支線 45.3km(25路線)
道路 幹線 20.8km(6路線)、支線 14.0km(11路線)
 なお、広域農道に加え、南北を結ぶ通称フルーツ道路が農用地整備公団で実施。

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事業概要 一般計画

(3)農業用水の有効利用

 本事業の受益町である世羅町、世羅西町及び目谷ダムの下流に位置する吉舎町(現 三次市吉舎町)では、近年の生活様式の多様化とも相まって、 上水道に対する地元 住民の要望は高いものの、本地域が台地でかつ分水嶺に位置することから井戸に頼 っており、安定的な水源が確保できない状況にあった。 このため、事業完了に安定 的な水源である目谷ダムの農業用水の一部を上水へ転用したいとの要望を広島県及 び中国四国農政局に行い、 施設の建設費の負担、施設の財産権、水利権等の調整を 行い、地域資産である施設と水の活用を図っている。

icon 4.造成地の営農と施設を利用した地域活性の取り組みと課題



1.大規模営農の展開
 平成15年時点で農地造成団地で営農を行っている経営体は、法人経営体が18、個別経営体が19である。
 このうち、法人経営体が、トマト等の契約栽培や畜産経営等に積極的に取り組み、生産性の高い、大規模な営農を展開しているが、一部では有効に利用されてない農地も見られる。

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2.観光農業、6次産業ネットワークへの取り組み
 造成団地で栽培されている、梨、ぶどう、リンゴ等が有名で、特に「幸水」「豊水」は、その豊かで芳醇な味わいを求め、中国地方からの入込客があり、 さらに、各農園の創意により、春のチューリップ、ポピー、夏のラベンダー、ひまわり、秋のコスモス等の観賞が楽しめる。

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 観光農園は、広大な広がりを持つ農地を活用したアメニティ空間を形成している。また、既存の観光農園(せらふじ園、花夢の里ロクタン、世羅高原農場、 世羅ゆり園等)と相互補完・連携・分担しながら、地域の活性化や振興を図るため、平成11年には世羅郡内の各農園、農家、直販市場、 農産物加工グループ等が「世羅高原6次産業ネットワーク」を形成し、この地域の農産物の直販、加工について連携を図り地域ブランドの確立を行った結果、観光客は年々増加している。
 さらに、平成18年には、中心部に「県民公園」と「せらワイナリー」を包括したせら夢公園をオープンし、広域的な観光ルートの形成を目指している。

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中部台地観光マップ

3.今後の課題
 以上のように造成農地の有効利用が図られるなかで、一部では入植者の撤退により有効に利用されていない農地が見受けられることから農地の有効利用を図るため、引き続き担い手の育成や新規就農者の募集を行う必要がある。
 また、この地域の自然環境を保全する観点から、耕種農家と畜産農家の連携による土づくりを図り、家畜の排せつ物のたい肥化による環境に配慮した資源循環型農業のより一層の推進が課題とされている。

icon 5.広島中部台地開拓建設事業の概要



(1)事業工期
 昭和52年度~平成9年度

(2)受益市町村
 広島県県世羅郡世羅町、世羅西町、甲山町、賀茂郡大和町、御調郡久井町
 ※市町村名は事業実施時点。

(3)受益面積
 (570ha)
 (内訳)農地造成 357ha、附帯土地改良 213ha

(4)主要工事
 目谷ダム 総貯水量 1308千m3、堤体積 535千m3、ロックフィルダム
 京丸ダム 総貯水量 499千m3、堤体積 21千m3、重力式コンクリートダム
 幹線用水路  25.9km
 支線水路  45.3km
 幹線道路、準幹線道路  20.8km
 支線道路  14.0km

icon 6.ある入植者の体験記 ―梨樹20年の思い―



 昭和48年吹雪の舞う寒い日、県営中部地区農地開発事業による大豊農園の起工式が行われました。その時私は、世羅町保育所の保母でしたが、 第二子をお腹に抱え、主人の入植した他の5名の参加農家の方と参加させていただきました。
 当時この地域では、昔ながらの水稲作中心の農業だけでは経営が苦しく、工場や建設業に職を求め、農業は「日曜百姓」「母ちゃん農業」等という言葉が流行っていた頃で、 我が家でも1.9haの水稲と僅かばかりの肥育牛では足りなくて、主人は近くの酪農家へ日雇いとして手伝いに行っていました。そこに農地開発事業の話があり、 もともと農業に対する大きな夢を持っていた主人は、赤ナシの生産団地へその夢をかけ入植しました。そして一年が経過した頃、経営管理をする人が必要だから来てほしいという話があ
 私は、保母の仕事に生きがいを感じていたので、家族と連日話し合い、悩んだ末、49年5月、大型農業に夢を託した主人の気持ちに負け、 「この人と生きて行こう」と梨造りの道を歩み始めました。世羅郡農協の古い倉庫をもらって、みんなで建てた木造倉庫兼食堂、その奥の一番暗い一室、 そこが私の仕事場でした。シーンと静まり返った事務所での仕事は、私にとって今までの環境とあまりにも違い、それは寂しい毎日でした。 そんな時、甲山農業改良復旧所生活改善の先生のご指導で先輩幸水農園を手本に婦人部を結成して、みんなが健康で働けるように健康管理をしていこうということになり、 やっと私も農園の中で婦人部の友達もでき、少しずつ楽しみを見出すことができるようになりました。
 しかし、開畑は当初計画どうり進まず、オイルショックと物価上昇により、事業費は大幅に引き上げられ、 間作に植えたスイカ、白菜、大根もあまり良い結果とならず、経営は困難の道をたどり、来る年も来る年も赤字の連続でした。 家庭にとりましても先祖伝来の田も山もそして家までの担保にして借入金をし、それはそれは一大決心であったと思います。一家をあげて生涯の生命を賭けての挑戦でもあります。 しかし、そうした家族の思いとはうらはらに、経営の苦しさも追い打って、人間関係のもつれから脱退者も相次いであり、これまで知ることもなっかた大人の社会の醜さを思い知らされ、 「もうこんな集団から逃げ出したい」と、もうそのことばかり考えていました。昭和58年設立十周年の年、借入金は莫大となり、 経営は絶体絶命の危機に陥り、組合員、家族に悲壮感が漂いました。指導機関のご指導に長期計画の見直しは実に5回目を数え、組合員、婦人部の日当はいままで以上に最低生活のできるギリギリの支給となり、 婦人の負担も大きくなりましたが、苦しさを乗り切るため歯をくいしばって頑張ってきました。そんな中で組合員も一致団結の兆しが現れました。 丁度その年は幸いにして台風等の災害もなく、設立以来初めて4千万円の黒字となりました。 それから、梨の販売量も順調に伸び、お客様も増し、市場からも高い評価をいただくようになり、私たちの計画は夢でなくなった。やれば出来るという自信と生産意欲が湧いてきました。(中略)
 平成4年に発足20周年を迎えることができましたが、ここから大人の第1歩の始まりです。今までの20年を土台として、1人1人が技術の向上を目指し、 映画「てんびんの詩」で「売る者と買う者の心が通わねばモノは売れない」の言葉を思い出しますが、1年間苦労して育てた梨を通じて、買いに来て下さるお客様と心が通い合う商いを目指したい。 そして、同時に、地域とのつながりを大切に、来るべき高齢化社会に向けて高齢者でも出来る農業は、働く場所の提供、又ムーブメント広場の無料開放から地域のコミュニティに活用して頂いたり、 梨の販売時期、農家の人から野菜販売の提供など地域との共存を大切に、平成5年10月開港の国際空港近隣の都市にマッチした自然豊かな食料の宝庫、世羅台地の農業を支える一人として、 農業に自信と誇りを持って、毎日を生き生きと暮らしたいと希っています。

参考文献

・『広島中部台地事業誌』(中国四国農政局 広島中部台地開拓建設事業所)
・農林水産省中国四国農政局ホームページ
(http://www.maff.go.jp/chushi/kj/tyutyo/)