吉野川はその源を高知県土佐郡の四端、瓶ヶ森山(標高1,897m)に発し、途中銅山川、祖谷川と合流し、
徳島県池田町より徳島平野を貫き紀伊水道に注ぎます。長さは194km、支流の数は124本(延長1,143km)流域面積は3,750km2 。
四国四県にまたがる大河川。利根川の板東太郎、筑後川の筑紫次郎に続く三男坊として「四国三郎」の名で呼ばれています。
上流水源地の年間降雨量は3,000mmにも達する有数の多雨地帯、降った雨はすべての流れを集め、その最大洪水流量が24,000m/s、
一挙に徳島平野に押し寄せ、大洪水を引き起こす暴れ川となります。しかし、渇水時の最低流量は20m/s、川底が見えるまで細り、川の恵みは極端に途絶えます。
洪水と渇水という季節による流量の変動が極めて大きいという相反する気性を持った暴れ川でもあります。
吉野川の源流は高知の山の中、そこに降った雨は大小の沢を集めて、四国の中央を貫く御荷鉾構造線に沿って東へ流れますが、
突然その進路を北に変え、池田町を目指します。そして、今度は、中央構造線が刻んだ渓谷に沿って徳島の河口に注ぎます。
この地形の影響で思いもよらないことが起こります。徳島平野は晴れているのに、高知の山で降った大雨が突然、徳島平野へ怒濤のように襲ってくる、
いわゆる鉄砲水です。これは、遙か上流(高知県)に降った大雨は、高知の方へも、愛媛の方にも流れず、大半がこの吉野川へと注ぐことから起きる現象です。
天を恨むしかない自然の摂理。しかし、自国に降った雨が自国に流れない高知県、水不足に悩む愛媛県、その恩恵からもほど遠い香川県、洪水と渇水の被害を被る徳島県、四国四県それぞれの思惑が交差します。
一方、池田町から吉野川の北に広がる狭長な吉野川北岸平野。この平野の大部分は洪積平野、つまり、土地が高く水がとれない地形です。
一見、水に恵まれているように見えるこの地方の歴史は、この自然の地形に翻弄された歴史でもありました。
「阿波の北方、月夜にひばりが足を焼く」とは、少しの照りでもカラカラになる、という自嘲的な表現ですが、笑い事ではない水不足の深刻さを言い伝えています。
徳島藩初代藩主である蜂須賀至鎮(よししげ)は、淡路を加増され養う人口が増えたため、未墾地であった吉野川、勝浦川の下流の三角州の開拓を行い、
たばこの栽培や西瓜、南瓜の栽培を奨励しています。その後、度重なる飢饉のため新田を開発し、溜池や用水事業を盛んに行いました。正保4年(1647年)、
美馬町に坊僧の池を堀り、寛政5年(1793年) には、名東郡下町の上溜池を築造しました。また、文政元年(1804年)、脇町の佐野溜池、
慶応3年(1867年)名東郡上八万の星河内池などを築造し、かんがい用水の水源としています。河川や小渓谷を利用した農業用水としては、
文化3年(1806年)に着工、文化5年に完成した入田用水、文政10年(1827年)に再建した三村用水、文化7年(1810年)には芝用水、
天保10年(1839年)の名東用水と、各地に小規模ながら農民達は命がけで水路を築いています。
しかし、これらの用水も度重なる洪水の被害を被っています。また、吉野川から離れた北の高地は、十分に潤すだけの用水は整備されず、
殆ど手つかずの状態でした。池の築造や小水路の整備では解決しない恒常的な用水不足が続いていました。
この地で藍が生産されるようになったのは、吉野川下流の藍住町に住む見性寺住職、翠桂が藍を栽培して衣を染めたとする説「見性寺記録」と、
江戸時代、蜂須賀家政が阿波の国へ入部する時に播州竜野から伝えたという説があります。
もともとこの地は頻繁に発生する洪水により、米作りには適さない土地柄でした。しかし、逆に、藍は洪水が運ぶ湿潤な客土(砂土)を好む作物、
しかも、8月の台風が襲う前に収穫が可能です。これこそ天の恵みと歴代の藩主が目をつけ、地域の特産品として周到な保護政策のもと作付けを奨励しています。
三好家、蜂須賀家共、領地の経済振興に力をいれた武将であったことから、藍の畑が吉野川下流の一面に広がっていくことになりました。
戦国時代には、武士の間で藍染めの衣装をまとうことが流行し、瞬く間に全国の武将に広まります。江戸中期の寛政2年(1790年)には6,500町歩になり、
全国一の品質と生産高を誇るようになります。
この時代、全国どこの藩でも治水対策として堤防を積極的に築造していますが、阿波藩はむしろ消極的でした。それは藩の財政を支えていた藍を保護するため、
洪水がもたらす沃土を重視したからにほかなりません。明治中期になると耕地面積15,000haに作付けされ、その出荷量は全国の8割を占めたとされています。
藍の生産には沢山の肥料が必要とされ、収入の約3割が肥料代に消えます。その上、藩から税金を取られ、農民の手もとに残るのはわずか1割5分から2割程度、
また藍農民は畑にしばりつけられて、藍の加工に手を出すことは禁じられていました。このため、藍という金の成る草を育てながら金には遠かったとされています。
(阿波紀行、司馬遼太郎)しかし、一方で商人は阿波大尽などと呼ばれ、大きな財をなし「阿波の藍か、藍の阿波か」と繁栄ぶりを謳われました。その名残は今でも藍豪商の屋敷跡に見ることができます。
阿波徳島藩は表高25万石と言われていますが、藍の生産で実質45万石といわれるほどになっていました。
しかし、明治後半に入ってインド藍が市場を奪い、ドイツから化学染料が入ってからは、年を追って衰退の一途をたどり、昭和41年にはわずか4haまで減少しました。
歴史的に見ればほとんど一瞬にして壊滅した産業であったと言えます。藍の単作に頼りすぎたため、阿波の国徳島県の経済はほぼ壊滅的な打撃を被ることになりました。
藍の生産は衰退するばかり、そこで、農民達は叶わぬ夢と諦めていた米作りへの挑戦を始めます。この地域の農民や住民の最大の願いは、かんがい用水を吉野川から引くことです。
明治初期の農業用水としては、明治4年(1871年)十八女用水、明治5年の東西名東組合用水、岩滝用水の改修など、手のつけられるところは隅々にわたり整備していきます。
その結果、土成町の間谷地31町歩、日吉町40町歩から始まり、明治中期の22年(1889年)には、田24,550町歩、畑地40,446町歩と田畑を開墾しています。
さらに、明治39年には国庫補助金の交付制度も行われることになり、板名用水、麻名用水などの用水事業が進められました。
大正時代に入ると、藍作の衰退にともなう稲作への転換がいたる所で図られました。しかし、「土佐水」「阿呆水」と呼ばれた洪水には、
小手先だけの対策では手の打ちようがありせん。吉野川流域全体で調整する必要性が叫ばれるようになりました。
四国の中央付近で降った雨は、沢という沢、大小の川という川、その大半の水を集めて一挙に吉野川へ注ぎます。
慶応2年(1868年)8月には、死者37,000人をだす大洪水が襲い、狭長な平野すべてが泥海と化し、農民達が粒々辛苦の末、築いた農地や家財すべてが海へ流されました。阿波では2年に1回という割合で洪水を記録しています。
昭和36年の第二室戸台風、昭和51年の17号台風は、今なお記憶に新しい大きな災害です。吉野川は渇水の歴史ばかりでなく、また悲惨な洪水の歴史でもありました。
昭和23年、荒れ狂う大蛇を治め、なおかつその豊かな恵みを分ちあうという、吉野川水系の総合開発計画案が浮上します。時は戦後の復興、
そして高度成長期、治水はもちろん、農業用水、都市用水(工業、上水道)、電源開発の必要性も叫ばれています。徳島には洪水を起こす暴れ川の吉野川ですが、
ひと度渇水ともなると、日頃の用水にも支障をきたします。水を分け合うにはその分の水源を確保すると同時に、治水も図らねば成りません。
きわめて政治的な駆け引きが続きましたが、遂に、昭和41年に決着、高知の早明浦などに巨大なダムを建設することで解決します。早明浦ダム近くで高知県に、
愛媛県には支流銅山川から分水、香川県には池田ダムから長さ8kmに及ぶトンネルを掘り導水、香川用水が完成します。
そして、徳島県にはこの吉野川北岸事業が決定することになりました。
こうして吉野川の水を四国四県で分け合うことが可能となり、四国発展の礎が築かれることになりました。
昭和46年、国営吉野川北岸農業水利業は、吉野川総合開発事業の一環として着工され、18年の歳月をかけて完成することになりました。
その受益面積6,860ha、幹線水路70km、三好郡池田町ほか11町村の用地に安定した水を引くものでした。昭和4年、藍の生産が壊滅してから60年が経過していました。
この事業により、ようやく農業経営の近代化と生産性の向上が図られ、徳島経済の発展を支える礎となりました。
受益地
三好郡池田町、三好町、三野町、美馬郡美馬町、脇町、阿波郡阿波町、市場町、板野郡土成町、吉野町、上板町、板野町、麻植郡川島町
地域面積
6,860ha
受益面積
水田用水改良 5,110ha
畑地かんがい 1,780ha
農地造成 110ha
主要工事
頭首工1カ所(小川谷頭首工)
取水工 池田取水工
幹線水路 |
新設区間 (総延長41,500m)
阿波用水区間 (総延長15,300m)
末端区間 (総延長12,400m) |
支線水路 |
揚水機15地区、機場46カ所
用水路 支線17路線 (総延長82,700m) |
農地開発 |
農地造成 13団地50ha、普通畑30ha、樹園地20ha |
支線道路 |
13団地(13,100m) |
※掲載の写真は、国土交通省、徳島県のホームページより転載させて頂きました。
徳島県 ―吉野川北岸農業水利事業