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1.日本一狭い県の広い平野
2.古代の食糧基地
3.川の使えない国
4.ため池王国の形成
5.讃岐三白の盛衰
6.四国一の大河、吉野川
7.吉野川総合開発へ
8.香川用水農業水利事業(香川用水事業)

icon 1.日本一狭い県の広い平野



  四国・香川は、旧国名を「讃岐(さぬき)」といい、現在の和歌山県と四国4県、淡路島の6国(行政区域)から成る「南海道」に属していました( )。讃岐うどんでおなじみの「讃岐」ですが、古い文献には「狭貫(さぬき)」と記されることもあり、これは、東西に細く伸びた地形に由来しているといわれています。 かつての南海道では、淡路(島)に次ぐ小さな国。現在の香川は、四国はもちろん全国で最も面積の小さな県となっています。
 古くから、その小ささ、狭さで特徴付けられてきた香川ですが、平野の割合だけをみると、それほど小さくはありません。右上の地図から明らかなように、 四国はほとんどが山で埋め尽くされ、平野部が極端に少ない。ところが香川県は、瀬戸内海の沿岸に、県域の約半分を占める讃岐平野が広がっています。 山が少なく平野が広い――この地形的な特徴が、香川の「農」を発展させ、後に大きな課題を生み出すことになります。

※・・・古代の律令制以降、日本は畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の大きく8つの地域(五畿七道)に分かれ、それぞれの地域はさらに数国ずつに分かれていました。

icon 2.古代の食糧基地



 瀬戸内海に面した香川県は、一年を通して温暖で雨の少ない気候条件にあります。晴れの日が多く、同じ四国の高知や近くの九州とは違い、 台風の通り道にあたることも少ない地域です。広い平野に加え、作物の生育に適した温暖な気候は、古代の開発に格好の条件でした。
 奈良時代、8世紀に書かれた『古事記』には、現在の四国4県を4人の神様に見立てた記述があり、讃岐は「飯依比古(いいよりひこ)」と記されています( )。「飯」の文字に、お米と関わりの深い神様を表したのでしょうか。当時の讃岐平野が米どころであった様子をうかがわせます。平安時代、 10世紀に書かれた『和妙抄』という史料では、讃岐の農地面積を18,674町としています。これは、南海道の中で最も大きく、 西海道(九州)と合わせても肥後(熊本)に次ぐ2番目の大きさでした。
 瀬戸内海を通じて、畿内(近畿地方)の都と近かったことも影響していたのでしょう。讃岐の開発は、大和朝廷の条里制や中央貴族・天皇家の荘園開発によって盛んに進められました。 しかし、一方でこの平野は、農地が増えれば増えるほど、致命的ともいえる問題点を抱えることになります。

※・・・阿波(徳島)は「大宣都比売(おおげつひめ)」、土佐(高知)は「建依別(たけよりわけ)」、伊予(愛媛)は「愛比売(えひめ)」と記されています。

icon 3.川の使えない国



 「讃岐日照りに日焼けなし」ということわざがあります。香川で雨が降らずに干ばつが起こった年は、他の地域ではちょうど良いくらいの雨が降り干ばつの心配がない、という意味のようです( ※1 )。香川の年間平均降水量は約1,100mm。日本の平均降水量が1,700mmですから、約6割にしかなりません。長い日照時間、天災の少なさなど、 好条件がそろっている香川の気候ですが、雨の少なさは最大の問題でした。平安時代、一時期この地の国守を務めた菅原道真は、雨乞いの神事を行ったといわれ、 現在でも、県内には雨乞い踊りの行事が数多く残っています。

 仮に平野部で雨が少なくても、雨量が多く豊富に水を蓄える山地部と、大きな川があれば問題はないのですが、先述したように香川の山は多くありません。 少ししか水を蓄えられない山々から流れ出る川は、流量も乏しくなります。加えてその川も、海までの距離が短いため、あっという間に流れ出てしまう。 他県の山を水源とする大きな川もありません。
 少ない水を最大限有効に使うことが、古代から一貫したこの平野の課題でした。こうして香川には、後に“ため池王国”と呼ばれるほど、数多くのため池が造られることになります( ※2 )。

※1・・・ほぼ同じ意味で「讃岐日照りに米買うな」(香川が干ばつの時になっても、他地域は豊作だから急いで米を買い集める必要はない)ということわざもあります。 ※2・・・平成11年時点、香川には1万4千か所以上のため池があり、数では全国第3位、密度では1位となっています(香川農地防災事業所HPより)。

icon 4.ため池王国の形成



 ため池は、田植えなど、水需要が増える時期まで川の水を蓄えておく施設です。少ない川の水を効率的に使おうとした知恵の産物といえるのかもしれません。 香川最古のため池は満濃池。8世紀のはじめに造られたこの池は、9世紀に弘法大使・空海が修築したことでも知られています。
 讃岐平野にため池が急増したのは、江戸時代のことでした。戦乱が終わったこの時代、全国同様、讃岐の各藩も新田開発に力を注ぎます。 ため池の増加は、新田開発にともない必要な水が増えた結果でした( ※1 )。江戸時代前期(17世紀前半頃)、当代随一の土木技術者といわれた生駒藩・西島八兵衛は、満濃池の改修を手がけたほか、90あまりのため池を築いたといいます( ※2 )。以後、生駒藩の領地を引き継いだ高松藩松平氏も、積極的な新田開発とため池の築造を進めました。
 江戸時代、香川に造られたため池は、記録に残るものだけで4千以上といわれています。無駄なく水を使うため、個々のため池は水路で結ばれ、 大きな池(親池)から小さな池(子池)へと水が補給される仕組がとられました。昭和まで残る“水ブニ”や“香の水”など、 水の配分をめぐる厳格で複雑な慣行も次第に形成されていきます( ※3 )。香川には、少ない水を平野全体で徹底的に利用するシステムが造り上げられていきました。

※1・・・ため池の増加は、二毛作が盛んになったことも要因の一つと考えられます。二毛作が始まる前は、冬期も田に水を残し、田自体が貯水池のような役割を果たしていました。二毛作は一旦田から水を抜いて畑にするため、冬の間は水が貯められず、翌年の田植期に確保しなければならない水が増えてしまいます。 ※2・・・西島八兵衛は、ため池の他、河川改修や干拓をも手がけ、讃岐平野の利水に大きな功績を残しました。 ※3・・・“水ブニ”は田の面積や石高に応じて水の配分が決められること。“香の水”とは、線香が燃え尽きる時間で、個々の田んぼへの配水を管理したこと(線香の長さは反別で決められていた)。香川では、少ない水を一滴も無駄にしないために、数多くの慣行や節水方法があったようです。

icon 5.讃岐三白の盛衰



 江戸時代にため池が急増した讃岐平野ですが、使える水に余裕ができたわけではありません。 多くのため池は、新田開発で新たに必要となる分の水を確保するものであり、平野全体で使える水の量は、常にギリギリの状態を保っていました。
 このようなため池農業の不安定さも影響したのでしょうか。江戸時代の中期以降、香川では綿やサトウキビといった干ばつに強い作物の栽培が増えていきます( ※1 )。また、同じ頃盛んになった塩の生産も、温暖で雨の少ない気候条件を活かしたものでした。( ※2 )。
 綿、砂糖(サトウキビから生産)、塩は、瀬戸内海を通じて大阪に送られ、売りに出されました。最適な気候条件で作られたこれらの産物は品質が良く、 例えば砂糖などは「雪白の如く、舶来品にいささかおとらず」( ※3 )とも評されています。綿、砂糖、塩は、合わせて“讃岐三白”とよばれる特産品となり、米とならぶ香川の財政基盤となっていきました。
 しかし、明治に入ると、讃岐三白のうち、砂糖と綿が、外国の安い輸入品に押され衰退していきます。サトウキビ畑、綿畑は、次々に水田へと変わっていきました。江戸時代に続き、明治に入っても香川ではため池が増えることになります。

※1・・・綿やサトウキビの栽培が増えたのは、江戸時代に商品経済が発達し、商品価値の高い作物として注目されたことも大きな要因です。香川では、綿が18世紀頃、サトウキビが18世紀末以降、盛んに栽培されるようになりました。 ※2・・・塩は海水を蒸発させて製造していたため、晴れの日が多く、雨の少ない香川の気候は最適でした。他にも干ばつに強い作物として、小麦の生産が盛んになっています。良質の塩と小麦がとれたことが、今日の香川名物“讃岐うどん”を生み出した一つの要因かもしれません。 ※3・・・『塵塚談』小川顕道 文化11年(1814年)による

icon 6.四国一の大河、吉野川



 先述したとおり、ため池は川の水をできる限り効率的に使うための施設です。しかし、川の水も、元々は雨水。降水量以上には使えません。 江戸時代、明治時代とため池を増やし、少ない水を何とか分け合ってきた讃岐平野でしたが、使える水の絶対量は限界を迎えようとしていました。
 新たな水源の確保――全く手が無いわけではありません。隣の徳島県には四国一の大河、吉野川が流れています。年間降水量3,000mmを越える高知山中に発し、 大小無数の支流を集めながら、紀伊水道へと注ぎ込む吉野川。「讃岐山地を越えてあの豊富な水を引くことができれば・・・」。香川の人々が吉野川に期待するのは自然なことでした。

しかし、総延長の半分以上が流れる徳島には、相次ぐ洪水被害に苦闘し、利水もままならなかった長い歴史があります( ※1 )。他県への分水は、複雑な利害関係を生じさせるものでした。
 香川では明治38年に分水ルートの調査が行われますが、地形的な問題もあり実現しません。吉野川の支流が流れる高知や愛媛でも、 江戸時代以降、幾度となく分水計画が立てられますが、局地的な開発に留まっています( ※2 )。吉野川の分水・利水は、四国4県に共通する念願でしたが、そのことが逆に開発を困難なものとしていました。

※1※2・・・吉野川の治水・利水については、詳しくはこちらをご覧下さい。
→水土の礎「国土を創造した人々――藍より青く 吉野川

icon 7.吉野川総合開発へ



 状況が変わったのは、昭和に入ってからです。日本では、河川の治水・利水について、水系全体で洪水処理と水利用の高度化を図る、 いわゆる河川総合開発の考え方が芽生え始めていました。特に戦後は、食料増産と新たなエネルギー開発を行うことが急務となり、全国の主要河川で調査が行われるようになります。
 吉野川は、支流も含め徳島、高知、愛媛の3県を流れ、有効に活用できれば四国全県を飛躍的に発展させる可能性を秘めていました。 昭和23年、国は水系全体の調査に入り、昭和25年には、当時の建設省、農林省、通産省、四国4県、各電力会社によって「吉野川総合開発計画」の原案が作られます。 従来、各県が個々に計画してきた吉野川の開発は、初めて四国4県が協同する形で進められることになりました。
 それから16年後、昭和41年には、基本計画が決定され、吉野川には、新たに早明浦(さめうら)ダム(高知)、新宮ダム(愛媛)、池田ダム(徳島)が建設されることになります( ※1 )。3つのダムは洪水調整・発電を行うとともに、農業、上水道、工業用水の水源にもなり、徳島はもちろん、高知、愛媛、香川の各県に分水されることになりました。

※1・・・池田ダム、新宮ダムの計画は、厳密には、それぞれ昭和43年の第一回計画変更、昭和45年の第二回計画変更で決定されました。

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吉野川総合開発事業で建設された諸施設

icon 8.香川用水農業水利事業(香川用水事業)



 香川への分水は、吉野川総合開発の一環として、昭和43年に正式決定しています。徳島県池田に建設する池田ダムから、 三豊郡財田町(現在の三豊市財田町)まで8kmに及ぶ導水トンネルを通し、そこから県全域を横断するように、西に10km、東に73kmの幹線水路を造る計画でした(※1)( 一般概要図参照 )。

 余談になりますが、讃岐平野には、東西の高低さがほとんどありません。等高線に沿いつつ、わずかな起伏を利用して水を流すのは至難の技です。 仮に、ある一地点で水路を通せないとなると、80km以上にも及ぶ水路の計画は一からやり直しになってしまう――極めて綿密で高度な計算が必要でした。 香川用水の設計には、当時としてはほぼ例のない大規模なコンピュータシミュレーションが導入されています。
 数々の最新技術が駆使されたこの事業は、昭和47年の池田ダム着工、同50年の完成と進み、同54年に幹線水路が完成したことで完了を迎えました。 幹線水路から水を分ける分水工はおよそ170か所。香川用水の水は、既存のため池や水路、小河川へと補給され、平野のすみずみまで行き渡ることになります。 自然の川、先人が造り上げたため池や水路、それぞれ結びつけながら県を東西に貫く香川用水。香川には、ついに安定した水利システムが築かれました。
 先述したように、吉野川総合開発は、原案作成から計画決定まで16年の年月を要しています。実現までに、各県の並々ならぬ努力と苦労があったことは、 想像に難くありません。開発事業の一貫であった香川用水も同様です。長かった水不足の歴史を終わりに導いたこの用水は、行政区画や地方的な利害にとらわれず、 4県が四国全体の将来を見据えた結果といえるのかもしれません。

※1・・・香川用水事業は、農業用水はもちろん、水道、工業用水の確保も目的としています。幹線水路は、農業専用区間と共用区間があり、前者は農林水産省が、後者は水資源公団が事業主体となっています。また、多目的ダムである池田ダムの建設・管理も水資源公団が行っています。

香川県 ―香川用水農業水利事業