top01

1.宇和海の風物詩
2.崖の農地
3.移りゆく農業
4.次なる選択
5.先見の明
6.宇和みかんの父
7.悲願の水
8.農民一揆の成功
9.事業概要

icon 1.宇和海の風物詩



 全国の人々に愛媛県のイメージを尋ねると、「みかん」「道後温泉」「坊ちゃん」「瀬戸内海」の順という資料があります ※1 。その愛媛において、宇和海に面した温暖な気候に恵まれた南予地方は、愛媛の果樹栽培の主産地として発展してきました。宇和海から見た一帯の段々畑は、 山の斜面に沿って、麓から頂上まで続く壮大な景観をなしており、「耕して天に至る」と称される大果樹園が拡がります。その眺望は、宇和海沿岸のみで見られる貴重な風物詩となっています。

 しかし、この一見のどかな景観を創り出した南予地方の農業の歴史は、決してのどかなものではなかったのです。

※1・・・日本地域経済研究所の調査による。

icon 2.崖の農地



 愛媛県は、分水嶺が海岸線近くを走り、県土面積の2/3を山地が占めています。西日本第一の石鎚山(1,982m)をはじめとする1,700mを越す四国山地が東西に走り、 先端は佐田岬半島となって豊後水道に細長く突き出しています。さらに、宇和海に面する南予地方一帯は、分水嶺が海岸付近を南北に走り、崖が海岸まで迫る典型的なリアス式海岸。 降った雨は内陸に流れ、宇和海に注ぐ川はほとんどありません。宇和町に源流を持つ一級河川の肱川も、山々に阻まれて宇和海には注がず、内陸の複雑な地形に沿って流れ、遙か北の長浜町から伊予灘に至ります。

 このように、山が海岸にまで迫っているため、大きな河川は形成されず、小河川や渓流も急峻で流路も短く、数えるほどです。 そこに開かれた農地の、実に71%が傾斜15°以上という急斜面地帯であり、例えるなら「農地は崖、川は滝」と言えるでしょう。つまり、水田に適したところは皆無に近いのです。
 その昔、沿岸漁業を営む人々が、農業にはほど遠かった海岸付近の土地を開墾し、自分たちの食料の足しにとわずかに耕作したのが、現在のこの地域一帯に拡がる段々畑の始まりでした。

icon 3.移りゆく農業



 南予の段々畑と言えば、昔を知る人には甘藷と麦が連想されるそうです。元来、水源に乏しい急斜面地帯で、 天水というわずかな水が頼りの農業を強いられたこの地域において、甘藷や麦の生産は必然であったと言えます。
 甘藷の栽培は、安永4年(1775)、当時この地域を治めた宇和島藩が導入し、徐々に常食となっていきました。急斜面の開畑は、 土壌侵食を受け表土が流失するため、石で畦を築くと同時に、甘藷のつるやわらなどを敷き並べて(アゴ敷き)、浸食の防止に努めました。 甘藷や麦という作物の生産は、食糧の確保と農地の保全を兼ねた知恵であったのだろうと推測されます。
 しかし少ない農地の甘藷と麦だけで、家計を支えるのは困難であり、これを補完する作物、副業が必要でした。先人たちは知恵を絞り、 広さも条件も限られた農地で櫨(はぜ)、生姜、藍などの作物をつくり始めます。当時、木の実や動物・魚の油脂を原料とする和ろうそくが普及し始め、 櫨の実の油を原料にしたろうそくは、「木ろう」と呼ばれ重宝されたのでした。櫨の生産は、宇和島藩の奨励もあり、南予地方の特産として大いに発展します。 しかしその後、ランプの普及と化学工業の発達により、原料としての価値が急速に失われ、次第に衰退していきます。次いで、生姜と藍の価格も下落し始め、 これらに代わる新しい商品作物の導入に切実なものがありました。

icon 4.次なる選択



 このような時代的役割を担って導入されたのが養蚕でした。日本の養蚕は、江戸幕府の開港によって海外にまで流通し、欧米の貿易商にその優秀な品質が認められ、有利な商品となっていました。
  宇和島藩と後の愛媛県もこの新しい産業を積極的に取り入れ、養蚕、製糸、機織を教育しています。大正時代には、第1次世界大戦による軍需拡大に伴い、 黄金期を迎えました。大正8(1919)年には、繭がそれまでの最高値を記録し、愛媛県全域の桑園面積は、大正5年(1916)の3,031haから、 昭和5年(1930)には14,728ha(約4.8倍)に増加しています。
 しかし、またも時代の波が押し寄せます。昭和に入ってからの世界恐慌は、日本経済を根底から揺るがし、養蚕農家に大きな打撃を与えました。 繭の価格も最高値の1/4に急速に下落。南予地方も養蚕農家、生産量ともに減少しました。その後、「崖の農地」が大半である南予地方で、 先人たちが切り開いた道は、今日の愛媛県のイメージとなった「みかん」。温暖な気候を利用した果樹栽培でした。


icon 5.先見の明



 愛媛において、果樹が農業経営の一環として拡がったのは、明治に入ってからです。温州みかんの発祥は、慶応元年、俵津村の苗木商熊吉が、 温州みかんの苗、五十五本を持ち帰り、白井谷(吉田町)で加賀山千代吉が栽植し、やがて大産地となる礎を築いたとされています。夏みかんは、明治12年頃、 宇和島の士族中臣次郎が、西宇和郡では明治16年頃、神松名村(現在の三崎町)の宇都宮誠集が、大阪の近在から150本の苗木を求めて植栽し始めるなど、 愛媛の各地で次々とこの新しい農業を積極的に取り入れていきました。当時、苗木1本1円50銭。米が1升10銭の時代に、非常に思い切った選択であったと思われます。 これは南予地方の崖の農地の悪条件を逆手に取った、逆転の発想とも言うべきものでした。山の斜面に降り注ぐ太陽光、そして海からの太陽の反射光、 段々畑からの放射光という「3つの太陽」は、果樹の栽培にまたとない好条件だったのです。
 しかし、みかんという果樹は、他の果樹に比べ、地表に浅く根が張る干ばつには弱い作物です。ただ一点、水不足の問題は重くのしかかりました。初期におけるみかんの導入は、 比較的上層の農家によってなされました。彼らは自らが山野を開墾、水不足という逃れられない条件をわずかなため池で凌ぎながら、山の斜面を上へ上へと農地を拡げていきます。 そして有利な商品作物である果樹栽培の骨組みを作ったのです。


icon 6.宇和みかんの父



 宇和みかんの育ての親と言われる人物がいます。
愛媛県成果試験場南予分場 初代場長、村松春太郎。大正4年(1915)、農商務省農事試験場に在勤中のところを宇和蜜柑同業組合より懇願され着任。2年在職の後、鹿児島に移りますが、大正13年(1924)に再びこの地に迎えられました。
 村松氏は、みかんの裁植肥培、生徒の指導、品種改良など柑橘栽培技術の確立を図り、組合活動の必要性を説いて農家を啓発し、 販売方法と市場開拓に力を傾けるなど、多方面に渡る活躍とその功績には顕著なものがありました。その遺徳を偲び胸像が立てられ、 新品種として開発した「南柑20号」「南柑4号」は、現在も広く栽培されています。
 明治維新後の各農村で、急速に商品経済が進展していく中、明治中期には吉田町にみかん買い付けのための「みかん船」が入港するようになっていました。 これを契機に徐々に都市にも販路を広げ、村松氏と生産者の努力が実り、昭和43年、「崖の農地」で始まった愛媛のみかん生産は、ついに日本一となりました。


icon 7.悲願の水



 南予地方の農業は、常に水不足との闘いでした。中でも昭和42年(1967)は、7月上旬より90日も雨がなく、 80年に一度と言われる大干ばつで、農作物に甚大な被害を与えました。それ以降も3年に1回の割合で干ばつが起こり、昭和53年(1978)、 平成6年(1994)は被害も大きく、生活用水にも事欠くほどでした。宇和島市の記録によると、昭和34年から43年までの10年間で、 断水のなかった年は3ヶ年しかなく、延べ248日間の断水を余儀なくされています。
 南予地方一帯の2市8町に渡る果樹園に水を供給する南予用水。国営南予用水農業水利事業は、 この7,200haにおよぶ果樹園を潤す大規模な畑地灌漑[かんがい]事業としてスタートしました。宇和町を源に流れる肱川を野村町で堰き止め、 そこから吉田町の下を通し、宇和島市まで引き、佐田半島の先端まで送水するという、全国でも例を見ない大胆な取水方法。さらに上水道も兼ねることとなりました。
  この事業は、水源地に住む人々をはじめ、多くの人々の理解と協力がなければなし得なかった事業でした。なぜなら肱川の源である宇和町、 貯水池としてダムを建設した野村町は、受益地に含まれていないのです。南予地方の過酷な水事情に対する地域の理解が、かつてない規模、取水において類い希な灌漑[かんがい]事業を成功させたのでした。
  昭和49(1974)年から平成8(1996)年、着工から23年間の歳月を掛け、この大事業は完成しました。毎年恒例のようになっていた干ばつへの恐怖、 そして見上げるほどの段々畑での生産という、想像を絶する重労働。天水が頼みであった農地に、悲願であった水が供給されたのでした。

010


icon 8.農民一揆の成功



 江戸時代、この地域を治めた宇和島藩と吉田藩は、農民に対する圧政をしなかったと言われています。宇和島藩の山家瀬兵衛は、行政の人でありながら、 神として和霊神社に祀られています。農民に対する税率は安く、払えない者には免除もしたといいます。吉田藩でも、大規模な一揆、「武左衛門一揆 ※2 」が起こりますが、 現職の家老、安藤儀太夫継明が切腹して農民一揆に詫び、藩は農民の要求をことごとく受け容れました。この一揆は、歴史上めずらしい農民一揆の成功例であると言えます。 その後、安藤儀太夫継明は現在の安藤神社に祀られています。こうした藩と農民の協力体制、農民をこれほど大切にした藩政というのは全国でもめずらしく、 限られた農地での厳しい農業生産の実情というものがうかがえるのではないでしょうか。

 伊予には温厚な人が多く、また南に行くほど陽気であると言います。しかし、水も土地もないという状況にも前向きに取り組み、時代の流れの中で自ら活路を切り開いてきた人々に、 温厚の内に秘めた逞しさを感じずにはいられません。本来、農業生産が不可能と思われる土地で、諦めることなく努力し、工夫を重ね、驚くべき先見の明と覚悟をもって耕し続けた先人たち。 「耕して天に至る」と称された風景は、こうした先人たちの努力によって出来上がったのです。

※2・・・ 吉田藩の紙の専売制度に苦しめられ、藩に対するかねてからの願書に回答を得られず、大野村の武左衛門を中心に、周辺諸村の農民が一斉蜂起します。吉田藩のみならず、専売制により私腹を肥やした豪商法華津屋、翌年には吉田藩を分けた宇和島藩も標的となりました。吉田藩家老、安藤義太夫継明が、一揆の代表者数人の前で、願書の再度提出と帰村を頼み切腹。安藤切腹の翌日、各村の意見をまとめた十一ヶ条の願書を提出されその翌日、吉田藩から十一ヶ条の願書の全てを受け容れる回答が出されました。翌年、首謀者である武左衛門は山奥の隠れ家で捕らえられ、斬罪に処せられましたが、吉田藩はこの後善政に努めました。

icon 9.事業概要



(1)受益地
宇和島市、八幡浜市、保内町、伊方町、瀬戸町、三崎町、
三瓶町(現 西予市)、明浜町(現 西予市)、吉田町

(2)受益面積
7,200ha(受益地は全て果樹園)

(3)主要工事
・野村ダム(共同事業、建設省施行 多目的ダム)・・・有効貯水量12,700,000m3
・東蓮寺ダム(補助水源)・・・有効貯水量954,000m3
・調整池2ヶ所・・・布喜川調整池・伊方調整池
・吉田導水路(6.4km)・・・通水量4.00m3/s(農業用水3.51m3/s 上水0.49m3/s)
・北幹線水路(70.5km)
・南幹線水路(27km)
・支線水路(20路線 延長70km)
・揚水機場(21ヶ所)
・調整水槽(37ヶ所)
・用水管理施設
・南予水道用水供給事業

愛媛県 ―南予用水農業水利事業