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耕して天に至る 愛媛県 -南予用水農業水利事業-
中四国エリア
戦後の国営事業









移りゆく農業



 南予の段々畑と言えば、昔を知る人には甘藷と麦が連想されるそうです。元来、水源に乏しい急斜面地帯で、天水というわずかな水が頼りの農業を強いられたこの地域において、甘藷や麦の生産は必然であったと言えます。
 甘藷の栽培は、安永4年(1775)、当時この地域を治めた宇和島藩が導入し、徐々に常食となっていきました。急斜面の開畑は、土壌侵食を受け表土が流失するため、石で畦を築くと同時に、甘藷のつるやわらなどを敷き並べて(アゴ敷き)、浸食の防止に努めました。甘藷や麦という作物の生産は、食糧の確保と農地の保全を兼ねた知恵であったのだろうと推測されます。
 しかし少ない農地の甘藷と麦だけで、家計を支えるのは困難であり、これを補完する作物、副業が必要でした。先人たちは知恵を絞り、広さも条件も限られた農地で櫨(はぜ)、生姜、藍などの作物をつくり始めます。当時、木の実や動物・魚の油脂を原料とする和ろうそくが普及し始め、櫨の実の油を原料にしたろうそくは、「木ろう」と呼ばれ重宝されたのでした。櫨の生産は、宇和島藩の奨励もあり、南予地方の特産として大いに発展します。しかしその後、ランプの普及と化学工業の発達により、原料としての価値が急速に失われ、次第に衰退していきます。次いで、生姜と藍の価格も下落し始め、これらに代わる新しい商品作物の導入に切実なものがありました。


愛媛県 ―南予用水農業水利事業