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明日を拓く大地と水 愛媛県 -国営笠岡湾干拓事業-
中四国エリア
戦後の国営事業









交通・商業の要衝 笠岡



港町としての風情を残す笠岡市金浦地区
「郷愁小路」サイトより転載
 中世に港の整備が進められた笠岡は、江戸時代初頭にはかなりの賑わいをみせていたといわれています。江戸時代の笠岡は、元和5年(1619年)から備後の福山藩水野氏の支配下におかれますが、初代福山藩主水野勝成は、笠岡を領地としたとき、その港町について「ことのほか、繁栄していた」と話したといわれています。
 水野氏の支配は元禄11年(1689年)まで70年間続きますが、その間、笠岡は藩領東部に位置する拠点として重要視され、積極的に町造りが行われています。この時代、米、鉄、木材、大豆など、備中西北部、備後東北部からの産物や笠岡諸島の海産物などが笠岡に集められ、畿内への輸送が頻繁に行われていました。また、当時、瀬戸内海沿岸ではタバコや綿、イグサなどの商品作物の栽培が盛んであり、これらの商品作物を流通させる笠岡商人の活動も賑わっていたといわれます。中世から交通・軍事の要衝だった笠岡は、江戸時代に入り商業的な性格を持つ港町としてさらなる発展を遂げたのです。


瀬戸内海に独特の潮流



「鞆の浦(とものうら)仙酔島(せんすいじま)」サイトより転載
 笠岡が古くから、港町として発展することができたのは何故でしょうか。その背景には、瀬戸内海にみられる独特の潮流があります。古代から江戸時代後期まで、動力を持たない船による航行は、潮流、風向きに左右されるものでした。とりわけ、航行における潮流は重要なものです。
 瀬戸内海は、中央から東西に向けて二つの潮流が生じる世界でもめずらしい海域です。潮の流れは、瀬戸内海の中央部を境目に逆向きとなるため、潮流に乗って航行するには潮流の境目で“潮待ち”をしなくては
なりません。広島県の鞆の浦沖から笠岡沖は、その潮流の境目にあたります。潮の流れが変わるまで、船が停泊する港として笠岡には多くの船が入港するようになったのです。



岡山県 ―笠岡湾干拓事業