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もう一本の吉野川、北岸用水が創造した、藍より碧い穀倉平野。 徳島県 -吉野川北岸農業水利事業-
中四国エリア
戦後の国営事業









「月夜にひばりが足を焼く」



 「阿波の北方、月夜にひばりが足を焼く」とは、少しの照りでもカラカラになる、という自嘲的な表現ですが、笑い事ではない水不足の深刻さを言い伝えています。
 徳島藩初代藩主である蜂須賀至鎮(よししげ)は、淡路を加増され養う人口が増えたため、未墾地であった吉野川、勝浦川の下流の三角州の開拓を行い、たばこの栽培や西瓜、南瓜の栽培を奨励しています。その後、度重なる飢饉のため新田を開発し、溜池や用水事業を盛んに行いました。正保4年(1647年)、美馬町に坊僧の池を堀り、寛政5年(1793年) には、名東郡下町の上溜池を築造しました。また、文政元年(1804年)、脇町の佐野溜池、慶応3年(1867年)名東郡上八万の星河内池などを築造し、かんがい用水の水源としています。河川や小渓谷を利用した農業用水としては、文化3年(1806年)に着工、文化5年に完成した入田用水、文政10年(1827年)に再建した三村用水、文化7年(1810年)には芝用水、天保10年(1839年)の名東用水と、各地に小規模ながら農民達は命がけで水路を築いています。
 しかし、これらの用水も度重なる洪水の被害を被っています。また、吉野川から離れた北の高地は、十分に潤すだけの用水は整備されず、殆ど手つかずの状態でした。池の築造や小水路の整備では解決しない恒常的な用水不足が続いていました。


徳島県 ―吉野川北岸農業水利事業