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1.篠津地域の概況
2.篠津地域の開拓(戦前)
3.篠津地域の開拓(戦後)
4.篠津地域泥炭地開発事業
5.新たに開発された土木技術
6.篠津地域泥炭地開発事業の意義(功績)
7.篠津地域のその後


1.篠津地域の概況



図-1 篠津地域の位置
(国土地理院の1/25,000地形図上に表示)
 篠津地域は、石狩平野の南部、石狩川右岸(北岸)に位置し、当別町、新篠津村、江別市、月形町(受益面積順)から成る。札幌市中心部からでは、北東へおよそ20kmから40kmまでのところに広がっている(ちなみに新千歳空港から札幌駅までの距離が約45km)。
 気温は札幌より2℃ほど低く、年間の降水量は札幌と同じ1,150mm程度(東京は1,600mm)、日照時間は1,600時間程度(札幌1,700時間、東京1,900時間)である。冬は強風の吹き荒れる日が多い上に、年間降雪量820cm(札幌は479cm)、最深積雪131cm(札幌は97cm)と雪も比較的多く、厳しい気象条件の土地である(数値はいずれも気象庁1991~2020年の平均値で、本地域は新篠津アメダスのデータに基づく)。
 現在は、広大な水田地帯で、水稲のほか、小麦や大豆、野菜(ブロッコリー、たまねぎ、トマト、レタス、キャベツなど)なども栽培されている。
 しかし、かつては泥炭湿地の草原が一面に広がる原野(篠津原野)であった。高位泥炭地が卓越しその周辺に低位泥炭地が広がっていた(低位から中間、そして高位となるほど泥炭としての特性が強くなる)。
 それが、昭和26年度(1951年度)に着手、昭和45年度(1970年度)に国営、道営事業、昭和46年度(1971年度)に団体営事業が完了した篠津地域泥炭地開発事業により総合的に開発され、ほぼ現在の姿へと変貌した。
 当時としては、軟弱地盤の泥炭地開発は経験が乏しくまったく未知なものであった。この事業の中で、湿地ブルドーザやポンプ送泥客土といった新しい土木技術が生み出され、そうした技術を駆使することで大々的な開発が実現できた。10,000haを超える不毛(未墾)の湿地帯が、短期間のうちに機械化農業が営まれる近代的な水田に変わった。まさしく特筆すべき出来事であった。

図-2 月平均気温(1991~2020年の平均)
(図-2、3:「東京」は東京管区気象台、「札幌」は札幌管区気象台、「新篠津」はアメダス(新篠津)のデータ)

図-3 最大風速10m/s以上を記録した日数(1991~2020年の平均)


2.篠津地域の開拓(戦前)



(1) 初期の開拓

表-1 篠津地域受益市町村の
耕地面積・作付面積(2022年)
(農林水産省作物統計)
 石狩川を挟んで対岸(南岸)の対雁(ついしかり)には、江戸時代からアイヌの人々が暮らす集落(コタン)や和人との交易の場所があった。
 しかし、北岸の篠津地域は、石狩川沿岸から奥に入るとまったくの未開の地で、川筋周辺にはナラなどの広葉樹の巨木が空を覆い、その下には背丈が1丈(3m)を超える熊笹が一面に生い茂っていた。原野の奥に進むにつれハンノキやヤチダモの森林になり、その奥には泥炭湿地の草原が広がっていた。
 時代が明治になると、川筋の周辺で入植が行われるようになった。まずは明治4年(1871年)に当別川沿いの現当別町市街地周辺の地で、次に明治14年(1881年)に篠津川左岸(南岸)河口近くの石狩川右岸(北岸)の地で、そして明治18年(1885年)に篠津川上流左岸(東岸)の地で入植が行われた。こうした初期の入植や開墾はいずれも屯田兵によるもの(屯田兵村)であった。
 明治19年(1886年)になると、内務省直轄の地方行政官庁である“北海道庁”が設置され(明治21年に落成した本庁舎が現在の赤れんが庁舎である)、北海道では殖民地選定事業が始まった。この事業により農耕・牧畜の適地が選定され、戸当り5ha(182m×273m)の殖民区画に区画割された。篠津原野は明治26年(1893年)に区画割が完了した。これに伴い、翌27年(1894年)から明治30年(1897年)までの間に大勢の開拓移民が入植した。明治29年(1896年)には、新篠津村が、篠津村から篠津兵村地域(現在の江別市に属する区域)を残して独立、誕生した。しかし、篠津原野は、集中豪雨や毎年春の融雪出水による水害、特殊な作物以外は収穫が望めない泥炭土壌、湖沼多く排水不良といった悪条件の重なる土地であった。離れる者が多く、なかなか開拓の進まない状況が続いた。
表-2 篠津地域受益市町村の農業産出額(推計)(2022年)
(農林水産省農業産出額(推計)、表示単位未満四捨五入、道内順位は50位以上を表示)

(2) 泥炭地開発の試み

 篠津原野の湿原開拓のために排水が必要であることは、当初から強く認識されていた。明治26年(1893年)に北海道庁の北垣長官が出した北海道開拓意見具申書には、鉄道、港湾に次いで排水運河の掘削が急要であること、その運河で船を運用することが記されている。早速、明治29年(1896年)には囚人を使って掘削が始められた。しかし、水分を多量に含んだ泥炭のため、掘削した翌日には、底が浮き上がって元の地形に戻ってしまい、法面も崩壊が続き、結局、船どころか通水させることもできなかった。
 その後も北海道庁により排水溝掘削の試みは続いた。間に合わせで掘られていた排水溝を、大正4年(1915年)から大正13年(1924年)までかけて、改修、浚渫の上、さらに掘削延伸して、幹線排水溝(19.7km)とした。しかし、数年も経ずして、表土流入、法面滑脱、溝底浮き上がり、雑草繁茂などにより通水が阻害されるようになり、降雨のたびに氾濫する有様であった。その後、昭和7年(1932年)から昭和9年(1934年)にかけて再び浚渫されたが、これも、やがて埋没荒廃していくことになる。
 結局、泥炭の湿原は、薪炭採草の場所としてわずかに利用されるにとどまっていた。


3.篠津地域の開拓(戦後)



(1)緊急開拓、開墾建設

 戦後は、北海道は道外の戦災者と国外からの引揚者の収容地に指定された。食糧※の増産・自給という政府の方針の下、北海道庁により緊急開拓事業(全額国費)が進められた(※「緊急開拓実施要領」では、「食糧」となっている)。篠津地域では6工区が計画樹立された。農地開発営団が開墾事業を代行し、農協が客土工事(冬期に馬そりなどで搬入)を行った(うち1工区(月浜)は、後に着工の開墾建設工事の工区(篠津)の一部に取り込まれた)。昭和21年(1946年)から入植も始まった。
 昭和22年(1947年)末に内務省が廃止されると、事業は農林省に引き継がれた。開拓事業に用いるべき未墾地については、農林大臣が所管することになり、自作農創設特別措置法に基づいて開拓財産への所属替が進められた。そして、所属替が済んだ地区から順に、事業の位置づけが緊急開拓事業実施要領に基づく緊急開拓事業から土地改良法(昭和24年(1949年)施行)に基づく開墾建設工事(50ha以上の集団地は全額国費)へと変更された。さらに、昭和25年(1950年)から昭和27年(1952年)までの間に、開墾建設工事として新たに3工区(篠津、美原、西篠津)が計画樹立され、畑地として整備が進められた。

(2) 排水改良とかんがい

 昭和22年(1947年)、地方自治法の施行に伴い国の機関である北海道庁は廃止され、普通地方公共団体としての“北海道”が発足した。また、設置に係る閣議決定(昭和22年(1947年))から遅れること3年、昭和25年(1950年)に、北海道を総合開発方式により開発すべく、事業実施事務の企画調整を担当する国の機関として北海道開発庁が設置され、翌26年(1951年)にインフラ部門の政府直轄事業を実施する現業機関として北海道開発局が設置された。同年、北海道開発庁は北海道総合開発計画を樹立した。その中の石狩川水域総合開発事業計画に泥炭地である篠津地域の開発も明記された。
 昭和26年(1951年)、この石狩川水域総合開発事業計画に基づき、総合開発の手始めとしてまずは排水路網の整備を急ぐべく、総合かんがい排水事業の篠津地区(総合篠津地区)に着手、篠津運河と幹線排水路2条の工事が開始された。併せて、開拓事業実施要領に基づく直轄明渠排水事業の篠津地区により排水路65条の工事が開始された(これらの総合と直轄明渠の事業は、昭和30年(1955年)に土地改良法適用の事業(国営農業水利事業)に切替えられた)。
 当初、これらの事業は畑地の排水改良を目的としていたが、まもなく北海道開発庁は畑地ではなく水田にする方が経済的であるという結論に至り、土地利用の構想は水田に変更されることになった。水田には用水補給(かんがい)が必要であり、北海道開発局によりすぐに調査が行われた。
 調査の結果に基づき、かんがいを含めた篠津地区全体計画の大要が、昭和28年(1953年)に石狩川水域泥炭地開発計画概要の中に、さらに翌29年(1954年)には石狩川水域開発計画概要の中に取りまとめられた。

(3)泥炭地の総合開発

 石狩川水域には、篠津地域と同様の泥炭地が約14万ha存在した。こうした泥炭地の開発改良(河川改修、排水、客土など)と開田、水田への用水補給などを併せて総合的に実施しようとすると、膨大な資金が必要であった。資金調達のため、北海道開発庁は建設機械購入に要する外貨の借款を国際復興開発銀行(世界銀行)に要望した。昭和29年(1954年)、世界銀行は、調査団による現地視察を行った。結果、全域では多額になりすぎるとして地域が絞られ、投資効率の最も良い篠津地域が融資の対象として決定した。
 この世界銀行の決定を受けて、昭和31年(1956年)、篠津地域泥炭地開発事業へと計画が変更された(第1回変更)。変更内容は、昭和26年(1951年)より行われていた排水事業(総合篠津地区と直轄明渠排水事業篠津地区)の計画を整理し直すとともに、畑地と未墾地の開田、水田への用水補給を行うかんがいの事業を計画に追加するというものであった。開墾建設工事も、併せ行う事業としてこの計画の中に編入された。編入に伴い、代行などで行われていた開拓工区の基幹事業は北海道開発局により実施されることになった。予算は、前年(昭和30年(1955年))に、篠津地域泥炭地開発事業費が立項され、目細として土地改良事業費、開墾建設事業費、補助事業費が設定された。
 なお、北海道における国営のかんがい排水事業については、すでに昭和27年度(1952年度)予算要求の際に大蔵省、農林省などと協議が行われ、事業種は総合かんがい排水事業、直轄かんがい施設事業、直轄明渠排水事業の3つにすることに決まっていた。石狩川水域総合開発事業計画の中に取りまとめられたこの篠津地域泥炭地開発事業は、3,000ha以上の受益面積を抱え開拓なども併せて総合的に実施する事業であり、総合かんがい排水事業に位置付けられるものであった。
 

4.篠津地域泥炭地開発事業



(1)事業の概要

 篠津地域泥炭地開発事業は、前述のとおり、かんがい排水事業と開墾建設事業とを併せ行う総合事業であり、国営で実施する部分と関連の補助事業(道営、団体営)で実施する部分から成る。また、国営、補助の各事業は、それぞれ既耕地を対象とする土地改良事業と未墾地を対象とする開墾建設事業に分けられる。全体の受益面積は11,398.2ha(最終の計画変更(第3回、昭和43年(1968年))時点)である。
 当別川上流(平成24年(2012年)に完成した当別ダムよりさらに上流)に設ける青山ダム(昭和37年度(1962年度)に完成)は、国と道・地元との事業費分担を基本とする土地改良事業により築造されるものであったが、全額国費で整備することになった。これは、受益に広大な未墾地を抱えていることと、昭和26年(1951年)より石狩川水系内で進められているかんがい用の水源ダムと、河川総合開発で建設される多目的ダムとの負担の均衡などが考慮されたことによるものである。
 開墾建設工事は、この泥炭地開発事業に編入されるにあたり、畑地ではなく水田への整備に変更になった。畑地では各戸に7.5~9.0haの配分であったが、水田では戸当り4.5haの配分(1/2減反)ということになっていた。この戸当り配分に基づき水田として整備されたのは3工区(昭和28年(1953年)に計画樹立の高倉、昭和31年(1956年)に計画樹立の中小屋、美原拡張、国営分全額国費)で、すでに着工していた開拓工区(昭和27年(1952年)までに計画樹立の蕨岱、川下、篠津、美原、西篠津の5工区)は、戸当り配分の変更に同意が得られなかったため、かんがいと暗渠排水については土地改良事業の中で対応すること(既耕地扱い、負担あり)になった。また、昭和29年度(1954年度)までにすでに工事が完了していた3工区(武田、東裏、旧高倉)も、既耕地として扱うことになった。

(2)かんがい

 かんがい区域は、石狩川から頭首工(石狩川頭首工(昭和38年(1963年)完成))で取水し用排兼用の篠津運河を経由して導水する区域(篠津中央地区)、石狩川から直接揚水する区域(南美原地区)、当別川上流にダム(青山ダム)を築造して用水供給を受ける区域(当別地区) の3つから成る。
 篠津中央地区は、篠津運河沿いに6ヶ所の揚水機場(上流から順に月形、中小屋、篠津、川南第1、美原、美原支線(道営))を設置し、揚水かんがいを行う。このうち、川南第1で揚水した用水は川南第2と川南第3の機場でそれぞれの区域に更に揚水する。なお、下流の川南第1と美原の両機場は、河床洗掘により水位が低下し揚水に支障をきたすようになったので、これら機場の下流に水位調節水門を設けることにした(昭和37年(1962年)の第2回変更)。石狩川から篠津運河への取水量は、5月15日から6月5日までの代搔期には28.365m³/s、6月6日から8月20日までの普通期には21.819m³/sの計画であった(後述の運河維持用水含む、最終の計画変更(第3回、昭和43年(1968年))時点)。
 南美原地区は、石狩川の右岸築堤内に揚水機場(南美原)を設置して石狩川から取水し、吐水管を通して築堤外の幹線用水路へと導水する。
 当別地区は、青山ダム貯水した用水を当別川に流下させて、右岸(西岸)側は当別頭首工と揚水機場(道営)から、左岸(東岸)側は3ヶ所の揚水機場(国営、道営、団体営各1ヶ所)から取水する。
 3つの開拓工区(中小屋、高倉、美原拡張)に対しては、隣接する周辺の土地改良事業区域も包含して用水供給すべく、2ヶ所の揚水機場(中小屋、南美原)各々から導水する各幹線用水路に接続するように、幹線用水路4路線、支線用水路16路線を新設した。これら路線の水掛りは開拓工区が977.1ha、土地改良事業区域が408.4haになる。
 なお、泥炭地内の還元水は、水温が低め(18℃)でかつ酸性であるため、水稲の栽培には適するものではなかった。これに対して、石狩川から取水する水はかんがい期間中の水温が高め(平均20.3℃)で泥炭の耕土に必要な無機物性の土砂も豊富に含む濁水であり、また、当別川の水は水温が平均19℃ありふだんは清流であるが大雨後には無機物性の土砂を豊富に含む濁水になり、どちらも水稲の栽培環境の改善に役立った。

図-4 篠津地域泥炭地開発事業の土地改良事業と開墾建設事業の区域
(国土地理院の1/25,000地形図上に表示)

表-3 篠津地域泥炭地開発事業の事業概要

表-4 篠津地域泥炭地開発事業の事業費分担


(3)排水

 ① 計画
 篠津原野は、低平な泥炭湿地帯であるため地下水位が高く、かつ戦後の頃のその地域の排水路はほとんど機能を失った状態にあった。幹線の排水路は篠津運河と篠津川であったが、篠津川については支配面積を減じて改修しないようにし、その分の水量は延長23.6kmの篠津運河が担う計画にした。運河の計画洪水量は上流区間(12.6km)で49.125m³/s、最下流区間(3.1km)で142.523m³/sである。敷幅は14.7mとし、法勾配については、運河水位急低下時の滑りに対する法面の安定性も考慮し、地質により1:2.0~1:4.0とした。切深は平均で10mほどになった。
 なお、篠津運河や各排水路は素掘りの土水路である。表層下2~7m程度が泥炭でその下は粘土と粘土交じり細砂であるため、融雪水などが法面に流入すると、下方の粘土層の部位から浸食が始まり、次いでその上方の泥炭層の部位に浸食や崩落が生じる。このため、排水路末端の落差(排水路から運河への流入部では水面差3~6m)への対応のため、落口部には流末工を設けた(篠津運河への流入部35ヶ所(暗渠式33ヶ所、バッフルシュート式2ヶ所)、他の幹線排水路部位13ヶ所)。
 また、篠津運河は、上流18.4kmが1/7,000、下流5.2kmが水平と勾配が緩いことから、水草繁茂や土砂堆積が生じる。それらの抑制のため、運河維持水として下流端で代搔期には4.541m³/s、普通期には3.526m³/sを確保し、8月21日から5月14日までの非かんがい期には常時50m³/sを通水させる計画にした。

 ② 施工
表-5 篠津運河掘削
 篠津地域の開発に当たっては、何よりも早急に排水を進めることが求められており、地域の基幹の排水路である篠津運河の掘削には大々的に機械力が用いられた。
 まずは、底幅、深さ2~3m、側法1~1.5割の小排水を人力などで掘って泥炭層の地下水の排除を試み(19万m³、その後に軌道上を往復走行しながら掘削するラダーエキスカベータにより上部1/3(312万m³)を、ポンプ浚渫船により残りの下部(666万m³)を掘削した。
 ポンプ浚渫船による掘削中には、周辺の高い地下水位(運河内との水位差)、泥炭湿原の軟弱な地盤構造などに起因して、計算通りには法面が安定せず滑動崩落が度々発生した。大きなものでは、昭和32年(1957年)に上流部右岸が150mにわたり、また昭和37年(1962年)には下流部両岸が600mにわたり滑動崩落した。このため、周辺の排水処理強化、法面の大幅な緩勾配化(一部区間8割)、鋼矢板土留工設置などの対策がとられた。篠津運河の掘削は昭和40年(1965年)に完了(流末工設置は昭和43年(1968年)完了)した。
 明渠排水は、土地改良事業での計画分は末端支配面積100haまでを、また開墾建設事業での計画分は末端支配面積30haまでを、国営事業として実施した。3開拓工区(中小屋、高倉、美原拡張)では、地下水位を低下させるため、開墾建設事業により暗渠排水(吸水渠間隔18m、切深1.3~1.6m)を施工した。

 ③ 内水排除
 当別川が石狩川と合流する地点付近は最も標高が低く洪水時に自然排水ができないことから、3ヶ所の排水機場を計画に追加した。うち第3回変更(昭和43年(1968年))で追加の太美排水機場は、別途法手続きを行い石狩川内水排除事業(昭和36年、37年と続いた石狩川氾濫を踏まえて石狩川築堤計画が立てられたが、この計画では河道内洪水位が従前より高くなって洪水時に自然排水が不能となる地域(農地)が生じる。機械排水で対応できるようにすべく、昭和41年(1966年)に創設された国営事業である)の太美地区として計画樹立、昭和43年度から44年度にかけて建設された(あくまで篠津地域泥炭地開発事業の項の下で実施され、事業完了後に篠津地域泥炭地開発事業に統合された)。

(4)客土

 泥炭の土地を耕地にするためには、地下水の排除とともに鉱質土の搬入による土壌改良が必須である。また、水田にする場合には、土壌への過度な浸透を抑えるためにも鉱質土の搬入が必須である。全ての開拓工区で客土が実施されてきたところであるが、この泥炭地開発事業でも開墾建設事業により8開拓工区に対し客土を実施した(昭和30年(1955年)~42年(1967年))。
 なお、高位泥炭の3開拓工区(中小屋、高倉、美原拡張)では、客土、暗渠排水を施工し開田したところ、泥炭特有の浮き上がり、沈下などにより客土が凹部に片寄ってしまう現象が起きたため、復元のための補整客土を追加した(昭和43年の第3回変更、昭和41年(1966年)~43年(1968年)に実施)。

表-6 開拓工区への客土工法と客土量

(5)電気設備

 泥炭の湿原地帯はほぼ未開の状態にあり、工事用電力の確保のためには送配電用の電気設備を建設する必要があった。供給された電力は、工事中は篠津運河浚渫用のポンプ船のほか、送泥客土ポンプや一般工事に、工事が終わった後は揚水機場専用として使用された。送配電は、北電北村変電所からと北電当別変電所からそれぞれ送電線で結ばれる2系統が整備された。前者は、月形変電所を建設し、そこから揚水機場5ヶ所(うち2ヶ所は道営)へと結び、後者は、川南変電所を建設し、そこから揚水機場2ヶ所(川南第1、川南第2)と新設する変電所2ヶ所(美原、南美原)へと結び、さらにこの新設の変電所それぞれに揚水機場1ヶ所ずつ(美原、南美原)を結んだ。

(6)工事用道路、農道

 地域内の道路は、幹線は西部山麓を通る主要道道11号札幌沼田線(現国道275号)と当別町から新篠津村に至る基線道道(現道道81号線)、石狩川右岸築堤に沿って江別市から新篠津村に至る道道(現道道139号線)の3路線だけで、あとは整備の行き届いていない町村道があるのみであった。このため、土地改良用の工事用道路として地域内1路線(現道道1121号線)、青山ダム用1路線を、開墾建設用(開拓道路)として1路線(現道道751号線)を新設した。なお、開墾建設事業により造成される開拓地では、道路がほぼ皆無であったため、殖民区画に合わせて農道を新設した。

(7)防風林

 泥炭湿地の草原であったところには、もともと樹木がなかった。4月、5月の播種の時期には15~16mの強風が吹き荒れることが多く、土壌が乾燥していると蒔いたばかりの種子が表土もろとも吹き飛ばされてしまう。農耕期間は南東~南南東の方角からの風が卓越することから、5開拓工区では東西方向を主(林帯幅54m)として南北方向を副(林帯幅36m)とする防風林帯を設けた。樹種は、湿潤地ではヤチダモ、カラマツ、ポプラ、乾燥地では欧州赤松とした。

(8)簡易上水道

 開拓工区では、飲料水は緊急開拓事業や開墾建設工事によって掘られた深井戸に頼っていた。しかし、深井戸の水は、泥炭からの浸透水であるため鉄分を含有して褐色で人体に有害であり、メタンガスが発生するところまであった。このため、篠津地域泥炭地開発事業では当初の計画を変更し簡易上水道を整備することにした(第1回変更、旧高倉除く10開拓工区)。末端8戸までの施設の75~80%を国営(国費100%)で施工し、残りは受益者が私費で施工した(私費:戸当り配分4.5haの農家は20%、9.0haの農家は25%)。


5.新たに開発された土木技術



(1)湿地ブルドーザ

 昭和26年(1951年)に総合篠津地区に着手した当時は、軟弱地盤の泥炭地で作業可能な機械は、軌条によるものぐらいしかなかった。このため、湿地用機械、なかでも汎用性のある湿地ブルドーザの開発が必要であった。接地圧を小さくするために履帯幅を広くしてみても、土砂を押し始めると、履帯の板面に泥がへばり付いて完全に滑らかな泥ベルトと化し、腹はつかえ亀の子状態になってスリップするだけで前には進まなかった。
 昭和27年(1952年)に研究に着手し、苦心の末、昭和29年(1954年)になって改良に成功した。履帯の板面の突起(シュー)を、下駄の歯のように板状に突き出たものから直角三角形の形状に変更したのである。この変更で、泥が面的に圧着して踏み固められるようになって泥が板面に粘着しにくくなり、また付着した泥も履帯が下方から上方に巻き取られる際に直角三角形の90°の突起に挟まれた空間が鈍角に広がることにより剥がれ落ちるようになった。また、線的ではなく面的に踏み固められることで泥炭の繊維が切断されずに残るため、その繊維に支えられて、車体がヘドロの中に沈み込むようなこともなくなった。さらに、直角三角形のシューで面的に締め固められた泥を押し出すと水平方向の反力が得られ、前方にも容易に進むことができるようになった。シューの側面が広がりを持った形状になったため、横滑りも抑えられるようになった。
 その後、亀裂、曲がり、折損などが生じやすい鉄板製から、生じにくい鋳鋼製への変更がなされ、湿地ブルドーザは全ての作業の補助機械として汎用的に用いられた。

図-5 ブルドーザの履帯の改良

(2)ポンプ送泥客土

 本事業では、客土は短期間で多量に行う必要があるため、機械施工で対応することにした。
 当初は過半をトラック客土で行うことで計画した。これは、中型ブルドーザとパワーショベルの組み合わせで積み込みを行い、シャトルダンパー(シャトルダンプ、折り返し時に車を方向変換させなくてよいように運転席が反転自由になっている、不整地・悪路走行に適した短距離往復運搬用の小型ダンプトラック)でほ場近傍に運搬堆積し、非営農期にクローラダンパー(クローラーダンプ、履帯式運搬車)によりほ場に運搬散布するものである。ところが、いざ試験的に実施してみると、機械の故障が相次いだり、泥炭地の道路でぬかって身動きが取れなくなったりで、結局わずかな区域を客土しただけで取り止めとなった(客土量は7ha、4,080m³)。
 この結果、客土は、篠津運河の近傍を中心に6割以上をポンプ送泥客土により行うことになった。このポンプ送泥客土は、運河の下層土をポンプ船で掘削排泥し、この排泥を濃縮(泥水濃度を見掛容積率30%に調整)してポンプにより管内を圧送しほ場へ散布する。流水による客土の施工事例が少なく、ましてやポンプ船からの排泥水による客土はまったく初めてであるため、多くの未解決の問題を抱えていた。とはいえ、昼夜を問わず施工できて日当り施工量が大きく施工単価も低廉なところが大きな魅力で、事業の早期竣工が求められる中では最も有望なものであった。特に問題であった掘削排泥してから排泥を濃縮して送泥ポンプにより管に乗せるまでの過程・方法については、具体的に比較検討し試験施工にて確認しデータを取る中で決定していった。
 篠津運河から遠距離にあるなどの理由で送泥客土の難しい地域では、土取場から客入地まで専用軌道を敷設して土満載の土運車を機関車でけん引運搬する軌道客土や、冬期の農閑期に馬そりでほ場へ搬入する馬そり客土が行われた。


6.篠津地域泥炭地開発事業の意義(功績)



(1)農業経営の安定

 農業経営の観点からは、以下の3点が挙げられる。
① 未開の原野が拓かれ、農地が確保され、農業者が定着した
 篠津地域は、入植時の農家の経営面積も小さく、融雪出水、度重なる水害、過湿、特殊な作物以外は収穫が望めない地力不足の泥炭土壌と悪条件が重なり開拓が困難な地域であったが、本事業によって大規模・高生産の農業へと転換し、北海道を代表する稲作中核地帯へと変貌することができた。
② 専業農家による大規模農業が可能になり、大農業地帯が形成された
 本事業が実施されていた時期は、高度経済成長(昭和30年(1955年)~昭和47年(1972年)頃)の時期と重なる。この時期には、多くの農業地帯で離農と兼業化が急速に進んだ。しかし、篠津地域は、都市化が進む札幌市に近接しているにもかかわらず、他地域に比べて離農と兼業化の進行が少なく、大型農業専業地帯へと成長することができた。
③ 作物の生産が安定し、生産性が向上した
 篠津地域は、排水不良、地力不足の泥炭地が広がっている上、4~5年おきに冷害に見舞われて大幅に減収となるため、農業経営が不安定であった。本事業によりそうした不安定の要因を一掃でき、作物の生産が安定し、生産性も向上した。

(2)農業土木技術の進展への寄与

 本事業では、当時としては経験が乏しくまったく未知であった軟弱な高位泥炭地の大規模開発を短期間で成し遂げるために、新たな土木技術が開発された。その一つが湿地ブルドーザで、ぬかるんだ軟弱地盤の土木工事には欠かせないものである。現在も幅広く利用されている。もう一つがポンプ送泥客土で、掘削排泥してから排泥を濃縮し送泥ポンプにより管に乗せるまでの過程や方法などの技術については、その後、送泥客土を実施した国営事業の幌向原野地区、ウブシ地区(以上、北海道開発局)、赤川地区(東北農政局)、県営の胎内川地区(新潟県)、手取川地区(石川県)で活かされた。

(3)総合開発事業方式による北海道農業発展への貢献

 本事業が実施されている最中にも、農業を取り巻く情勢は大きく変化していった。昭和30年(1955年)に全国的な大豊作となり、それ以降、我が国の食糧事情は緩和の一途をたどった。こうした中、従来の米や麦などの食糧の増産の方針から脱却し、酪農、養豚、養鶏、野菜、果物なども含めた食料全体を対象にそれぞれの需給に応じた安定供給を目指すべく、農業生産の選択的拡大を基本方針とする農業基本法が昭和36年(1961年)に制定された。
 事業も、整備の重点が、水田地帯では機械化農業に必要なほ場条件の確保と構造改善の方向へ、畜産・畑・果樹については増産の方向へと向かうようになった。水田地帯の事業の国費負担が低減される一方、畑を対象とする補助事業の国費負担が引き上げられた。昭和38年(1963年)には「かんがい排水事業」、「農用地造成事業」と併せて「区画整理事業」をも一体的に行う総合土地改良事業制度が、さらに従来の区画整理と併せて用排水路の整備も行う「ほ場整備事業」が創設された。
 北海道においては、米の需給が緩和する一方、昭和28、29、30、31、33年と冷害が続いたことから、施策の方向は開田抑制、酪農・畑作を中心とした寒地農業の確立へと向かった。国営事業も整備の重点が水田地帯から大規模畑作地帯の農業水利開発へと移行し、昭和38年創設の総合土地改良事業制度に基づき、昭和41年(1966年)には畑地帯総合土地改良パイロット事業が創設された。戦後、先駆的に総合事業方式をもって水田地域の開発に取り組み成果を上げてきた篠津泥炭地開発事業の総合事業としての事業の仕組み方などのノウハウは、畑地帯の総合開発へと引き継がれることになった。以降、水田地帯ばかりでなく畑作地帯においても大々的に農業基盤の整備が行われた。総合土地改良事業は、平成元年7月7日をもって廃止(新規採択取り止め)されたが、昭和の年代を中心に北海道の農業の発展に大きく貢献した。


7.篠津地域のその後



 篠津地域泥炭地開発事業は昭和46年(1971年)に団体営も含め全事業が完了した。しかし、篠津運河は、法面崩壊、水路敷流亡沈下が続いて、再び取水位の確保が難しくなり、また用水路は盛土沈下による変状で著しい漏水が生じるようになったため、応急の措置として、昭和47年度(1972年度)から昭和52年度(1977年度)にかけて国営施設改修事業の篠津地区が実施された。篠津運河では上流端から全延長の1/3ほど下流の地点に床止工を設けて堰上げを行い、取水位を安定させた。また、用水路は、うち7条で、軽量材料であるコルゲートシートによる装工を行った。
 ところが、泥炭土の圧密沈下や浮き上がりは予想を超えて進行し、補修や部分改修の範疇では対応しきれない状況になってきた。新たな技術の開発、試験研究とその実践をもって、泥炭土特有の沈下や浮上に対応することが必要になった。こうして実施されたのが、直轄かんがい排水事業の篠津中央地区(昭和60年度(1985年度)~平成18年度(2006年))である(事業制度としては、効率的な事業実施に向けて昭和42年(1967年)にそれまでの「直轄かんがい施設事業」と「直轄明渠排水事業」が合わさって「直轄かんがい排水事業」(平成元年(1989年)7月7日以降の採択からは「国営かんがい排水事業」)になった。同時に、このときより水田地帯における直轄明渠排水事業は不採択となった)。
 以降、この篠津中央地区の第1回計画変更(平成7年(1995年)8月確定)で石狩川頭首工は全面改修が必要として分離され、篠津中央二期地区(平成8年度(1996年度)~平成29年度(2017年度))の中で新頭首工の建設が行われた。
 続く第2回計画変更(平成16年(2004年)6月確定)では地域用水機能の維持増進も併せ行うことになり、直轄かんがい排水事業から国営農業用水再編対策事業(地域用水機能増進型)(平成10年(1998年)に創設の事業)に移行した。揚水機場5ヶ所、排水機場1ヶ所、幹線用水路5条36.3km、支線用水路78条63.6km(地域用水機能の向上が図れるよう水路の更新改修を行うため末端支配面積5haまで国営一貫施工)、排水路7条18.5kmが改修整備された。
 現在、篠津地域では、国営かんがい排水事業の篠津運河中流地区と篠津運河下流地区により揚水機場、排水機場、幹線用水路、幹線排水路の改修などの整備が、国営施設応急対策事業の篠津青山地区により青山ダムの改修などの整備が進められている。また、道営農地整備事業(経営体育成型、中山間型)により区画整理、支線用水路、支線排水路の整備が進められている。
 現在の篠津地域は、大型機械により営農が効果的、効率的にできるようほ場区画が大きく整備され、用水路も管路化が進んでいる。ここがかつて未開の泥炭湿地の草原であったとは想像もできないほどに、よく整備された農地がどこまでも広がっている。

写真-1 現在の篠津地域(道営農地整備事業西篠津南地区、令和6年8月著者撮影)


参考文献
1.篠津地域泥炭地開発事業誌
  北海道開発局札幌開発建設部篠津地域開発事務所編集、(財)北海道開発協会1971年4月発行
2.新篠津村史 新篠津村史編さん委員会編集、新篠津村長川口谷總1975年9月発行
3.石狩川水系農業水利誌 (社)農業土木学会編集・1995年4月発行
4.国営農業用水再編対策事業[地域用水機能増進型]「篠津中央地区」事業誌、
  北海道開発局札幌開発建設部札幌北農業事務所発行
5.水土の知82(9)、pp.725~728(2014)、流水客土およびポンプ送泥客土の技術的特徴、広瀬慎一
6.札幌開発建設部:令和6年度(2024年)農業農村整備事業概要
7.北海道石狩振興局:農業農村整備事業概要2024
8.気象庁:過去の気象データ
9.農林水産省:作物統計、農業産出額(推計)

2025年11月20日公開