(1)地域の位置
本地域は、北海道のほぼ中央に位置し、南北に長く、士別市、名寄市、剣淵町(けんぶちちょう)、和寒町(わっさむちょう)の4市町にまたがる地域である。地域の中心の士別市は、札幌から190余km、旭川から50km北上した地点にある。
(2)地域の地形
北見山地、天塩山地に囲まれた士別盆地、名寄盆地に位置し、その中央には、道内3大河川のひとつで第二の大河「天塩川」が貫流し、その天塩川によって形成された扇状地が肥沃な平野部を形成している。
地区の主水源となる天塩川は、地域の東端にそびえる天塩岳(標高1,557.58m)に源を発し、流域面積5,594.3km2、流路長256.3kmをもち、士別、名寄盆地の農業用水はもちろん、上水道、工業用水、更に発電用水に供給しつつ、天塩山地北端を経て北流し、日本海に注ぐ。
(3)地質・土壌
地質構成は、平坦地の大部分が埴壌土で、その半分以上が泥炭地であり、天塩川に沿っては沖積土、砂壌土で構成されている。
(4)気候
気候は、四方を山々に囲まれた盆地特有の四季の変化がはっきりした内陸性気候で、冬季と夏季の寒暖差がきわめて大きく60℃にもなり、特に冬は北海道でも寒さが厳しい地域である。さらにその上、特別豪雪地帯*に指定されている地域である。
*特別豪雪地帯:指定された地域には除雪や交通・通信の確保、地域の振興などのための豪雪地帯対策基本計画が定められ、行財政上の特別の配慮が行われている。
(5)地域の土地利用状況
この地域の土地利用は、農耕適地の大部分が耕地化されており、農業としては、高度利用が進んでいる。
(1)開拓前史(アイヌの人々)
いまから8千年ほど前の縄文早期の土器石器が発掘されたことから、天塩川上流の多寄地域や士別地域にアイヌの祖先にあたる人々が住んでいたと考えられている。
しかし、歴史の上にこの地域の名が出てくるのは、天塩川で数名の探検家(測量調査等)がこれを交通路として日本海から遡っているなかで、地域のことが記され始めている。
1800~1808年にかけては、間宮林蔵、近藤重蔵等が当地を数回にわたって測量調査を行っている。
特に、この地方のアイヌの様子が紹介されたのは、安政4(1857)年の箱館奉行松浦武四郎による天塩川を遡って探検を行った際の「天塩川日誌」と、その15年後の明治5年(1872)の佐藤正克(宗谷支庁中主典)が調査を行い、記録を綴った「闢幽(へきゆう)日誌」であり、その「天塩川日誌」、「闢幽日誌」のどちらにもシベツの酋長ニシパコロのことが書かれており、現在の士別橋下流付近に3戸(男7人:女5人)が漁猟によって生活していたといわれている。
(2)開拓後(士別地域)
この地域に開拓の斧が打ち込まれたのは、そんなに古くはない。
この地域の開拓の始まりは屯田兵の入植による。
いまから130年前、北海道の開拓の初めより遅れること約30年、明治32年(1899)7月に北海道最後の屯田兵の移住地として、100戸(総数622名)が士別に入植したことに始まる。
当時の鉄道は、和寒まで開通していたが、当地、士別に行くには、大木や熊笹が生い茂る薄暗い森の中を細い狩り分け道を歩き、体力のない女性や子供たちは丸太舟で川を下り、士別に上陸したそうだ。
明治32年(1899)にこの地に屯田兵が入植してから、これを追いかけるようにして民間人による入植が相次いだ。これらにより、天塩川上流域の開発は急速に促進されていった。
特に、このような、急速な開発の要となったのは鉄道の開通が比較的早かったことによるものであり、明治32年(1899)に和寒まで、明治33年に士別まで、明治36年(1903)に名寄まで開通し、これを契機として入植者が急増、広大な原野は次々と開拓が進められた。
*屯田兵制度は、当時ロシアの南下政策で、北海道を脅かし侵略の手を伸ばしてきたことに対する対抗策であり、また明治維新で廃藩置県の結果、職を失った20万人の士族の救済策と授産方策として明治8年(1875)に琴似村(現在は札幌市の一部)に入植させたのが始まりで、その後北海道内要所に配置されることとなった。
屯田兵は給地として一戸当たり5町歩(約50,000㎡・100m×100m×5区画というイメージ)を農具及び家具と共に与えられ 午前は訓練(軍事)、午後は家族と共に農耕に従事していた。
これら開墾された地で入植当時の作物は、蕎麦(そば)、麦、唐黍(とうきび)、南瓜(カボチャ)、馬鈴薯など季節のものを自家食料として育てていた。
(1)馬鈴薯
特に耕種農業では、馬鈴薯が開拓当初から寒冷地の土地・気候に適した作物として栽培されていた。
開拓当初は、主要食料の一つであったが、馬鈴薯を原料としてでんぷん製造がはじめられた明治36年(1903)に下士別で島慶五郎氏が澱粉工場を操業して以来、各地に工場ができ作付面積も次第に増加、第1次世界大戦勃発(1914)の2年後には澱粉価格は高騰し、当地域は澱粉王国となった。
特に大正8年(1919)には全道生産量の4割を占めるほどに増大した。
しかし大戦の終結により、それまで好況だった畑作作物は価格が暴落し、澱粉工場は軒並み閉鎖を余儀なくされたため、これより以降は水田への移行が始まった。
(2)ハッカ、除虫菊
明治40年(1907)から大正2年(1913)頃まで、特産物として「ハッカ」、殺虫剤の原料となる「除虫菊」の栽培も盛んに行われ、価格の暴騰もあったことから作付が急増して北海道屈指の生産地が増大した。特にハッカは、ハッカ成金が続出して一時は北海道でも屈指の生産地として注目を浴び、ハッカ油は海外にも輸出していた。しかし、次第に地力が減衰し 疫病がまん延して作付は減少していき、大豆や小豆も自家用と販売作物として広く栽培されるようになった。
(3)米
開拓初期には、畑作を中心に地域の農業が取り組まれていったが、本州からの移住者は米に対する思い入れが強く、開拓の翌年の明治33年(1900)に始めて栽培され、明治39年(1906)から本格的な試作が始められ、明治42年(1909)には、水田耕作は、50ha(畑3,600ha)になっていたが、日露戦争、第1次世界大戦と畑作景気が暫く続いていたため、増田は進まなかった。
その後、大正時代の畑作景気が過ぎると、単位収益の優る水田経営に移行し、その後に、品種改良、客土、かんがい排水整備等によって増田が進み、農業技術の進歩もあって、米の生産も順調に伸びていった。
しかし、第2次世界大戦が激しくなり、供出割当制度、労力不足、肥料・農機具等の不足などが災い、減反しはじめたが、昭和29年産米を最後に供出制度が廃止され、新たに昭和30年産米からは供出割当てにかわって予約売渡制度が実施されるに至り、安定した米価と品質改良、化学肥料・農薬の進歩、耕作技術向上、機械化などによって水田耕作面積が再び増加しはじめた。
昭和34年には、水田と畑地面積は同程度になり、更に、昭和35年には、士別市が一市町村の生産出荷数において全国一位を記録し、米どころとして全国に米産地「士別」の名を轟かせた。
この地域の組織的な水利施設の整備は、明治34年の剣淵屯田兵給水溝の建設に始まる。
当地域では、屯田兵が開墾を始めたが、土壌は泥炭で作物の生育は極めて悪く、飲料水も不良で、夏季の干ばつ、冬季の厳寒には水が欠乏し、村の開拓上、これらの解決が緊急を要する課題であった。このため、明治34年(1901)に河川を水源とした本給水溝の掘削を開始し、給水溝は明治36年 (1903)に一応の完成を見た。しかし、通水前に日露戦争が勃発したことにより、屯田兵員は兵村の死活問題である給水溝を顧みるまもなく出兵する事となった。その後、明治39年(1906)に日露戦争が終結し、本地域に復員してから放置し損傷していた給水溝の修理工事を行い、明治42年(1909)にようやく完成することができた。従って、本地区の造田が行われるようになったのはこれ以降である。
民間開拓の導入が開始されると同時に開拓の手が広げられ、急速な勢いで開発が進められた。しかし、この頃から、増加をたどる人口と開拓以来ほとんど肥培管理のされていない畑地は生産が停滞、低下しはじめ、水田化へ急速に移行していった(大正以降)。
一方、水田は、明治後期から小渓流、小沼などを水源として水田の試作に成功したことにより、次々と小規模に開田されていった。特に、明治36年(1903)、北海道の農業開発に一大転機をもたらした北海道土功組合法の制定により、国の大規模な水利開発への補助体系が整えられ、極めて有利に水田開発が行われることとなり、明治42年(1909)、当地の名寄土功組合の発足を機に次々と土功組合が設置され、地域内で新たな開拓期に入り、多くの水利施設の建設が進んだ。
大正末期には、自然流下による水利による貯水池の建設まで加わり、昭和15年にはすでに現状の水利形態がほぼ完成している。この間、わずか約35年間において、水田約9,500余haを数え、天塩川本流の取水施設6ヵ所、主要用水路延約100km、貯水池13ヵ所、延べ貯水量1,000万m3、これらを管理する土功組合10組合となっている。
しかし、この間、多くの水利施設の整備が進み、寒冷地農業の基礎固めに入り、ようやく軌道に乗るとみられたころの昭和6~10年と毎年連続する冷害に遭遇し、一部に水田経営(水田廃止)を断念する動きが生じ、更に、昭和12年から打ち続く戦争により資材、労働力不足から基盤整備は頓挫、休止状態に入り、水田面積の減少が進んだまま敗戦を迎え、極度の食料不足に陥った。
昭和20年、敗戦とともに海外引場者の急増、食糧※の不足から「緊急開拓実施要領」が制定され、新たな開拓期を迎えて、整備が始まり、この地域では、泥炭地で水源に恵まれず放置されてきた和寒、剣渕原野で国営開拓事業によって開畑化されるなど、未聖地が次々と開発されていった。(※「緊急開拓実施要領」では、「食糧」となっている。)
しかし、 このように、再び水田再開が活発化し、水源対策のないまま無計画な開田が急展開し、かつ、戦時中放置され機能低下の著しい水利施設が各地域で増大し、用水不足に拍車がかかった。
(1)計画樹立への経緯
① 農業基盤の脆弱性(終戦後)
地域の農業水利は、昭和の初期までのわずか30数年で、1万数千haにもおよぶ大規模水利施設が建設され、当地域の用水系統は確立された。
しかし、天塩川本流を始め、支川流から自然掛かりで取水する用水系統は、限界をきたしており、貯水池の建設や排水の反復利用などによって水源を確保していた。更に、和寒、剣淵地域では、流域の貧しさから、貯水池に頼らざるを得ないため、多くの貯水池が建設されるなど、水源開発が急展開されるなど水源の不足が著しかった。
施設の老朽化及び用水の不足を中心とする様々な情勢の変化は、地域農業の発展に大きな障害になっており、次の新たな開発への早急の対応が求められる時期を迎えていた。
1)用水の不足
・支流域の流域が狭く、天塩川本流も上流域への開発に伴い下流域は順次水量が低下、造田の増加により水利権許可の無い自己開田も混在し、水源が大きく不足する事態となっていった。
・天塩川上流域の急速な農地開発に伴い水源林の減少、水利施設の老朽化が著しく渇水時の取水が困難になり、くわえて、上流部の水利権が5月中旬から6月中旬までの約1か月間以上必要であったため、下流域では水量不足による遅れが生じて減収となることが多かった。
・異常低温への対策として深水かんがいを行わなければならないが、異常低温の多くは7月に発生し、この時期は本地域でも乾季に当たり源流の水量が枯渇するため、上流域の水利位置の有利な所は取水を増加させるため、下流部では、用水不足に陥ることとなり低温被害を一層大きく受けていた。
・特に、水源となっていた天塩川本支流は、昭和23、24、25年と3年連続とする渇水による用水不足が至る所で現れていた。
2)施設の老朽化
・取水施設としては、本格的機能を持つ天塩川本流に建設されている取水施設、小規模な固定堰と取水口のみのものもあるが、これらの施設は大部分老朽化と機能不足がみられ、将来とも継続使用できる状態のものは少なかった。
・特に、戦時中の不十分な維持管理、資材の不足により、水利施設も老朽化を著しく進行させていった。
② 新規水源開発の動き
一方で、戦後の電力開発を中心にした総合開発計画が北海道内の主要河川で進められ、天塩川もその一つに入り、電力開発関係機関で検討されたのを機会に地元有志が水田の踏査に加わり、本流に大貯水池(ダム)を建設し、すでに限界に来ていた農業用水の確保を計る機運が出てきた。
③ 新たな農業基盤整備の機運
この当時は、復員、引揚者などによる労働力の増加と食料不足から未曽有の農業好況期に当たり、農業経済は好転したが、畑作物の価格が昭和25年頃を境として下落の一途をたどったため、畑作農家は極度に零落を余儀なくされていた。反面、水田農家は米価の安定と稲作技術の進歩により反収も上昇し、機械化の普及とともに生産性が急速に高まりつつあった。
さらに、昭和26年、北海道庁の電源開発推進本部で電力開発のため本格的に天塩川に取り組んだことから、一層具体化し、土地改良事業への事業申請に向けた取り組みが加速していくこととなる。
(2)事業計画の経緯
■ 事業申請の経過
① 昭和27年7月:「国営士別地区土地改良事業」の申請
国営かんがい排水事業 「天塩川上流地区」の端緒となった直轄かんがい事業「土別地区」の国営土地改良事業申請が、上土別、土別、土別川、天塩川の4土地改良区2,531戸の農家により提出される。これは天塩川本流沿いの水田6,700haの用水補給を目的としていた。
② 昭和27年~28年
踏査検討が進められた結果、隣接する剣淵、和寒原野一帯の水源に乏しい低生産性の広大な畑や放置されている泥炭原野などについて、本流沿岸と合わせ総合的な大地域の農業水利開発を図るべく、12,331haを対象に地区名を「国営天塩川上流土地改良事業」と称して、再申請を準備する。
③ 直轄調査及び事業の認可
昭和28年8月 士別地区国営土地改良事業申請予備審査合格
*「天塩川上流地区」としての申請は、昭和29年地元において作成再申請すべく準備したが、昭和27年の通達により、国営事業にあっては事業の認可前に国の直轄調査により、その必要性、技術的可能性、妥当性などを総合的に確認されることが必要となったため、調査計画が完了するまで、これを保留することにしている。
④ 直轄調査の経緯
1)調査期間 昭和29年度~昭和38年度
土別地区に天塩川支流剣渕川沿岸に広がる和寒、剣渕原野を加えた総面積12,331haの用水補給、開田を目的とする国営土地改良事業天塩川上流地区として、国の直轄調査が開始された。
2)全計期間 昭和39年度~昭和41年度
⑤ 昭和42年7月31日 天塩川土地改良事業計画確定
10余年に及ぶ調査計画、全体実施設計調査を経て計画を確定させ、ようやく国営かんがい排水事業として基幹施設の工事に着手する。
■ 事業計画の展開(計画の見直し)
長期の直轄調査期間を要しているが、本地区の事業対象面積は大量の開田を抱えていることから、昭和35年農業基本法の制定以降に具体的に問題化し、幾度となく受益面積の変動を繰り返して来たものであり、その時代の渦中にあったためである。
なお、昭和42年の地区着工直後から再び開田問題が発生している。
特に、昭和44年7月農林省通達(44農地A第156号)による開田削減措置がとられ、昭和47年、開田削減を機に計画変更作業着手し、受益面積、目的別面積の見直し(当初計上されていた開田面積3,976.4haの内、896haを削減)を中心に、代掻き期及び期間の変更、深水配水期間の延長、落水期の増量、苗代用水の導入する計画変更が昭和55年に確定している。
昭和27年の構想の開始から着手の昭和42年までに15年を要し、天塩川上流域の農業の姿を、激動の時代に、さまざまな歴史的な出来事を重ねながら完成させ、計画を樹立させていったことを思うと、今、この時代にここに生きている自分たちは、この壮大な計画を樹立した先人の苦労、困難に多くの恩恵を受け取っていることを忘れてはならない。
(1)事業の目的
この事業は、北海道の中央上川盆地の北部に位置する天塩川上流流域一帯に広がる農地15,800haの基盤整備を図るもので、戦後間もなく国策として推進された北海道総合開発の一環である天塩川上流部総合開発計画の内、農業水利開発としても位置付けられている。
この地域は、士別市を中心に北は風連町、名寄市、南は剣渕町、和寒町、東は朝日町の6ヵ市町(当時の合併前の市町)にまたがり、極めて平担な地形と夏季高温を呈する大陸性気候をもち、天塩川本支流を水源とする水田約12,000haと約20,000haの畑が経営され、上川北部の穀倉地帯となっていた。
しかし、地域の水利施設は、明治末から大正初期にかけて土功組合により開発されたものであるが、第2次大戦以後、稲作技術、土地改良などの進展と食糧不足から水田復活が急速に進み、周辺の畑、原野から次々と水田化したため、用水不足に一層の拍車をかけていた。
さらに、各水利施設は第2次大戦時代を含め建設以来数10年を経て、老朽化基しく十分な水管理もできず、維持補修費も年々増加をたどり維持管理に苦慮していた。
また、水田の大部分が天塩川本流沿いにあるが、一大支流である剣淵川沿いは広大な平坦な低平野が開けているにもかかわらず、水源に恵まれないため、わずかの小支流などを利用して、小沢沿いに水田が散在する程度で、大部分畑として利用されているが、泥炭土、重粘土という土地条件と経営面積も平均7.0ha前後と小さいため、本流沿いの水田地帯に比べ所得格差が極めて大きく、自立出来る農家が少ない状況にあった。また、水田農家も水利的不安定の上に3.0~4.0ha程度の零細な農家が多かったことから、用水の安定的な供給の他、経営面積の増加が切望された。
このような地域農業の現状から、本計画では、水不足と施設の老朽化に悩む天塩川上流の本支流沿岸に分布する既水田11,623に加え、この周囲にあり低生産性の畑地や、放置されている原野から新たに3,473haを水田化することとし、合わせて15,096haの水源増強と一部の低位地帯1,960haの排水機能の改良を行い、大規模な基盤整備を進めるものである。
新水源は、洪水調節、発電開発事業などとともに、天塩川上流岩尾内地点に建設される多目的ダム「岩尾内ダム」に確保し(昭和46年度供用開始)、地区内の主要農業水利施設については、国営かんがい排水事業「天塩川上流地区」として国営土地改良事業をおこし、本流の既設頭首工5ヵ所、これに続く基幹用水路42.3kmについてその機能の増強と施設の改良を行うとともに、大規模な水田開発を望む剣淵、和寒方面に天塩川本流より導水するため、頭首工1ヵ所、基幹用水路49.0kmを新設した。また排水対策としては、未整備のまま残されている流路(排水路)5条12.8kmの改修を行い、1,960haの排水改良を行った。
(2)受益地域 : 士別市を中心に北は風連町、名寄市、南は剣渕町、和寒町、東は朝日町の6市町(市町合併前)
(3)受益面積 : 15,806ha(用水補給田11,623ha、開田3,473ha)
(4)受益戸数 : 3,300戸
(5)事業期間 : 昭和42年度~昭和62年度(30年間)
(6)事業費 : 332億円(国費)
(7)主要工事計画
① 岩尾内ダム取水塔 1ヵ所
② 貯水池(調整池) 1ヵ所:中和ダム(当既設ダムを改修し調整機能を持たせる)
③ 頭首工 6か所 (新設1か所、改修5か所)
④ 用水路 6条 L=98.2km(新設1条、改修5条)
⑤ 排水路 3条 L=12.8km
現在、地区が完了して40年近く経過している。
事業計画策定から事業実施中においては、大激動の時代の真っ只中(農政大変革(農業基本法制定:昭和36年、減反政策開始:昭和45年)、オイルショックなど)にあって事業が進められた。オイルショック影響によって、事業費抑制などで予定の2倍以上の歳月がかかっている。
しかし、およそ16,000haに恵みの水の手当てができたことで流域の新たな発展への大きなステップ台が生まれた。だが、事業中の20年間の歳月でも農業情勢を大きく変えた。
昭和45年から始まる減反政策によって、完成した美田に、皮肉にも米が作れない時代が到来した。当時は、「今後は畑作振興など農地の汎用化で世紀の大事業を有効に活用することが努めであると決意した。事業実施期間の20年間の農業情勢の変化は大きく、事業が完工した時には、減反政策で米が作れない時代になっていたことも事実である。稲作だけにとらわれない多角的に農業経営に取り組まなければならない」と当時の新聞記事等で地元の声として取り上げられていた。
しかし、その後、幾多の努力により、現在も地域の基幹産業である農業は、確保された水資源を最大限に活用し、稲作を中心に、畑作や野菜、酪農などが幅広く営まれている。
現在、主な農産物は主要作物の米の他、麦、馬鈴薯、豆類、甜菜で、その他にも、タマネギ、カボチャ、ブロッコリーなど、夏の温暖な気候と昼夜の寒暖差を生かした、安全で安心な食味の良い多様な農産物が数多く生産され、市内はもとより、道内外各地の食卓へと運ばれている。
更に、地域内では、平成18年度に事業着手した国営農地再編整備事業「上士別地区(令和3年度地区完了)」による国営道内一の大型ほ場の整備など、ほ場の大区画化による整備が進められたことをはじめとする、先進的なICT農業の導入など、「農業未来都市」の創造に向けた取り組みが展開されている。
(1)天塩川上流地区 関係市町の北海道内農業生産額ランキング(2016年)
当地域に該当する市町においては、現在も米が基幹作物となっている。特に士別市と名寄市の耕種農業において、農業産出額の全道トップクラスとなっている。
また、当地域で、野菜の順位が高い傾向にあるが、野菜の中でも、カボチャの生産量は、全国でもトップクラスとなっている(カボチャの生産額全国ランキング:和寒町1位、名寄市2位、士別市7位)。
(2)主な特産品
① もち米
当地域は、北海道の中でも米所であるが、上川地方特有の大きな寒暖差が、甘みが強くもちもちしたお米を生み出すことから、当地域は全道一のもち米生産量となっている。
特に有名なのは、伊勢名物「赤福」のお餅のもち米は、名寄産等を使用している。このもち米は、時間が経っても硬くなりにくいことを重視している。また、うるち米(ご飯として食べるお米)の混入がないことも大切で、そのために全面積もち米作付などでうるち米混入を防止し、もち米だけしか作らない「もち米専作団地」で栽培されている。
さらに、この名寄のもち米生産団地では、種子の全量更新、適期刈り取りの実施、色彩選別機導入で品質向上に取り組み、実需者から高い評価を受け産地指定へとつながっていった。
② 越冬キャベツ
秋に収穫されたキャベツを雪の中で貯蔵し、冬から春の間に雪の中から掘り出して出荷されるキャベツを「雪の下キャベツ」といい、「越冬キャベツ」とは、当地域の和寒町で生産される雪の下キャベツのブランド名である。普通に収穫されそのまま出荷される一般的な冬キャベツにくらべ各段に甘くて美味しいと大人気である。
国営事業も竣工まであと数年の時期に、早い機会に地域一体となった用水施設の運営の気運を高めるため、昭和57年度に和寒町内三笠山の頭上に記念碑を建てる運びとなった。
建立場所としては岩尾内ダムを水源とした農業用水がとうとうと流れる様と地域の営農が一望できる場所であること、事業によって恩恵を受ける組合員全てが感謝の意を表すことができる場所として考えられた。
記念碑は、当時の土地改良区連合(現在は、水土里ネットてしおがわ)の許可面積の約15,000haの大面積に相応しい雄大である原石を求めたが、北海道内では調達できず、福島県いわき市に製作を依頼したもので、高さ8.5m、幅3.4mと巨大であり、近くに立ってみるとその大きさに圧倒される。記念碑には当時の参議院議員(元北海道知事)の町村金吾氏の揮毫で水の恵みを受けることに感謝の気持ちを表す「恵水碑」と刻みこまれており、建立当時は東京以北随一の大きさだったという。また、事業による恩恵を受ける組合員が感謝の意を表せるようにと高さ7mの大観音像も併設された。
また、当地には、記念碑、観音像ともう一つ事業沿革を説明した高さ1.8m、幅7.3mの大きな沿革史碑がある。黒御影石でできており、一般的に記念碑に当時の改良区の役員、議員、国の幹部等の名前を記すのは良く見られるが、この記念碑には事業実施期間中に事業を担当した北海道開発局の担当事業所に在籍して工事の監督を行った職員全ての名前までもが刻まれている。
建立から約50年近く経ち、現在でも毎年9月に先人達の苦労と地域の農業経営基盤の礎を築いた大事業、水の恵みへの感謝の念を込めて水土里ネットてしおがわにより恵水祈願祭が執り行われている。
引用文献
1.天塩川上流灌排事業誌 北海道開発局旭川開発建設部監修 平成2年3月発行
2.水土里ネットてしおがわ ホームページ(広報てしおがわ、概要2024、合併の経緯・旧土地改良区の沿革)
3.(株)赤福ホームページ
4.士別市ホームページ
5.和寒町ホームページ
6.北海道開発局ホームページ
参考文献
1.歴史探訪 天塩川上流地区「恵水碑」を見上げながら 木村 聡
農村振興第885号(令和5年9月) 全国農村振興技術連盟
2.士別市農業・農村活性化計画 士別市 令和4年3月
3.ジャパンクロップスホームページ(市町村別一覧)
2025年11月20日公開