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1.大野地区の概況
2.稲作が根付くまでの歩み
3.水利を巡る歴史
4.動き始めた大沼からの導水構想
5.大野地区の調査(地区調査~全体実施設計)
6.農家要望との調整(地区調査~全体実施設計)
7.農民の反対運動と用水計画の工夫(第1回計画変更)
8.大沼の湖水が大野平野へ
9.水源・用水路線の見直し(第2回計画変更)
10.機械化農業・米の生産調整への対応(第3回計画変更)
11.事業概要
12.事業実施後の営農の状況
13.その後
14.総合かんがい排水事業大野地区の意義

1.大野地区の概況



 北海道西南端の渡島半島、函館湾に面して、大野川、久根別川、戸切地(へきりち)川沿いに大野平野(函館平野又は渡島平野とも呼ばれる)が広がっている。大野地区は、この大野平野の中に位置し、着工当時、大野町及び上磯町(後に合併し現在は北斗市)、七飯町、亀田村(亀田町、亀田市を経て昭和48年(1973年)12月に函館市に編入)から成る。
 札幌と比べると、日最高気温は5~8月は1℃程度低めで、逆に10~3月は0.5℃程度高めであり、日最低気温は1年を通じて1~2℃程度低めである。気候は冷温帯に属し、平野部には夏緑広葉樹(落葉広葉樹)のサワシバ、ヤチダモの林が、また山間部では夏緑広葉樹であるブナの林が多く見られ、ブナ林の林床は日本海側の豪雪地帯に多いチシマザサが優先的に覆っている。北海道の中にあっては温暖な気候で、早くから稲作が行われてきた。
 
図-1 月平均気温(1991~2020年の平均)
(「札幌」は札幌管区気象台、「北斗」はアメダス(北斗)のデータ)
大野平野は、現在は、道南で開発された高品質米“ふっくりんこ”(平成26年(2014年)、27年(2015年)産の米食味ランキングで「特A」獲得)の産地である。人口30万3千人(令和7年10月末現在)の函館都市圏(函館市、北斗市、七飯町)を抱え、軟白ネギや北海ウド、トマト、キャベツ、ほうれん草、キュウリをはじめとした多種多彩な野菜の栽培も盛んである。しかし、かつては水不足に悩まされて水争いが絶えず、大沼から大野平野への導水が地域農民の悲願であった。いざ大野地区の事業が動き始めると、発電が既得で先行することから導水には制約があり、また狭い所有農地の中に水路を通さなければならないことなどがあり、地域農民には不満が募っていった。何度も話合いや交渉の場が設けられ、検討が重ねられた。3回もの計画変更を経つつ工事が実施され、大沼の温かい水が大野平野に広がっていった。高品質米と高収益野菜の産地に至る基礎は、本事業によって形作られたのである。

2.稲作が根付くまでの歩み



 この地域に和人が住み始めたのは12世紀末(奥羽藤原氏滅亡(文治5年(1189年))の際の移住者)と考えられている。住民はもっぱら漁場への出稼ぎで生計を立てており、畑作が行われるようになったのは慶長年間(1596~1614年)の頃(亀田地域)からと推測されている。村に残った老人や婦人が焼畑で少々の野菜や稗(ひえ)、粟(あわ)、黍(きび)などを作る程度のものであった。初めて水稲の試作が行われたのは寛文年間(1661~1672年)のことで、松前藩主の命によってである。貞享(じょうきょう)2年(1685年)からは開田する者が現れるようになり、元禄5年(1692年)には農民作右衛門が450坪(約15a)を開田、水稲を収穫し米10俵を得た。所得(もうけ)が得られており、これをもって大野町字文月(ふみづき) 押上(現北斗市字村内)は北海道水田発祥の地とされる。しかし、水田は2~3年で廃れてしまう。以降、元文4年(1739年)、安永8年(1779年)にも開田はされたが、どちらも数年で廃れてしまう。天候に恵まれ相当の収穫になる年もあったが、天候不順で冷害により凶作になる年の方が圧倒的に多かったのである。
 寛政12年(1800年)になると、幕府の手で水稲の試作が行われた。試作は5年間続けられたが、この間は天候が良く結果は良好であった。試作の結果を受け、文化2年(1805年)に箱館奉行直轄で140haもの開田が行われた。この年、個々の農家によっても約60haの開田があり、合わせると約200haにもなった。開田と合わせて、大野川に用水堰(大野大堰)とその堰からの用水路も造られた。しかし、そのわずか3年後、文化5年(1808年)に幕府は手を引くことになる。文化3年(1806年)から翌年にかけて樺太・千島周辺でロシアから度重なる襲撃があったが、この取締りが不十分であるとして箱館の両奉行が罷免され、奉行所は箱館から福山(現在の松前)に移されたのである。それまでに要した経費も相当な額に上っていたことから、奉行直轄の開田、稲作は取りやめとなり、既墾地が維持されるのみとなった。開田はその後も個々の農家により続けられたが、天保4年(1833年)から9年(1838年)にかけて天候不順で冷害による凶作が続き廃れていった。稲作は途絶え、水田はほとんどが稗だけを作付けする稗田(ひえだ)になった。
 その後、嘉永元年(1848年)になり再び稲作を試みる農家が現れるようになった。依然として水田の多くには稗が栽培されていたが稲作は続き、特に安政2年(1855年)からの3年間が天候に恵まれたこともあり、何とか安定して稲が収穫できるようになって明治に至る。明治の時代に入ると、長期にわたって天候に恵まれ(明治3年(1870年)~明治15年(1882年))、明治6年(1873年)には早熟耐冷性品種である「赤毛」が発見され(それまで作付けされていた水稲は奥羽(現在の東北)や北陸地方などから移入された晩熟種)、稲作技術も向上し、さらに明治11年(1878年)頃から米価が上昇したこともあって、稲作経営はすっかり軌道に乗っていった。

3.水利を巡る歴史



 水田は山裾から平野部へと広がり、明治10年代には1,000haを超えるまでになった。水田が広がるにつれ、用水路は徐々に延長され、大小の河川のほか、渓流や古川、湧水、還元水など、手近で利用できる水源はすべて利用されていった。平野部は起伏が多いため、水源からの用水系統は錯綜し用水路は用排水兼用になって、毎年のように用水不足や排水不良に悩まされるようになった。用水が十分に来る所もあるが、川のそばでも水の全く来ない所もあり、下流に至っては水がまわってきたときにはすでに田植えの適期が過ぎているといった状態であった。用水利用の権利や慣行は複雑で、自分の水田にだけ水を導こうとする者がいる一方、そうはさせまいと夜通し不寝で見張る者もおり、水争いが絶えなくなった。やがて、用水路は平野の中央部にまで達し、近場にはもはや追加で水源となるようなところはなくなった。水源として考えられるのは大沼(大沼湖、小沼湖)からの導水のみであった。
 明治25年(1892年)、大野村の理事者6名が北海道庁の技師に大沼からの導水の見積りを依頼した。見積りの結果、工事に要する費用は高額(31,895円47銭、明治30年頃の小学校教員の初任給が8~9円程度)で、総戸数が512(明治24年(1891年)当時)に過ぎない村一つで負担できるものではなかった。その枠を超えて対処しようと、明治35年(1902年)、大野、上磯、七飯、亀田の各村から5名ずつの村議会議員を選出して、大沼の水を引くことを目的とした「大沼疎水組合」が結成された。しかし、当時は電源開発優先の風潮が強く大沼の水利権を巡る折衝は難航し、4ヶ村内においても事業の負担などでまとまらず、明治38年(1905年)に組合は解散となった。同年、函館電燈所(明治29年(1896年)創設、明治40年(1907年)に渡島水電株式会社(明治39年(1906年)設立)に吸収される)が大沼と折戸川の水利権を獲得(七飯村に導水し発電する計画もあったが村民の反対に遭い断念)し、明治41年(1908年)、渡島水電株式会社が大沼の銚子口を取水口にして折戸川に大沼第1発電所を建設(以降、大正3年(1914年)に大沼第2、大正8年(1919年)に大沼第3発電所を建設)し電力供給を開始した。同年、同社は社名を函館水電株式会社に改めた。大沼からの導水については、その後も大野村が単独でこの函館水電株式会社と交渉を続けたが折り合いがつかず、断念せざるを得なかった。

4.動き始めた大沼からの導水構想



 戦後、水不足はますます深刻になり、用水を巡る争いが絶えることはなかった。地域は、多くの帰農者を抱えて、新規開田はもとより旧田の復元すらままならぬ状況に陥っていた。一方、当時の国情として食糧※の増産が何よりも急を要しており、国営事業の負担は、水源施設が全額国費、それ以外の施設が国85%、道10%となり地元(町村、農家)は5%で済むことになった(※「緊急開拓実施要領」では、「食糧」となっている)。
 大沼はといえば、その頃は、北海道配電株式会社(昭和26年(1951年)に日本発送電株式会社札幌支店と統合して北海道電力株式会社になる)が大沼の水利権及び折戸川の3発電所を所有していた。3発電所は建設後年数を経て、いずれも修理補強の時期に差し掛かっていた。最大発生電力量は3発電所合わせても4,820kWであったが、大野平野の方へ流域変更するなら10,000kWが見込めた。
 折角のこの機を是非とも捉えたいという地元側、発電側双方の思惑が重なり、大沼からの導水構想は一気に動き始めた。問題は放水位をどうするかであった。発電側は極力落差を確保するため標高19mで考えていて、不利な条件であれば従来どおり折戸川を利用することで構わないとの考えであった。地元側は極力高い位置にして大野平野の隅々まで大沼の温かい水を行き渡らせたいとの考えであった。ただ、この機会を逃してしまえば、大沼の水を大野平野に引いてくることは永遠にかなわないとの危機感も強かった。交渉の結果、放水位は発電側が譲ることのできる限界線であった標高25mとすることで決着した。
 これを受けて、昭和25年(1950年)、大野村、上磯町(大正7年(1918年)に町制施行)、七飯村、亀田村の4ヶ町村長連名で、大沼からの導水に関する陳情書が計画書添付で北海道(渡島支庁長経由)に提出された(当時は国の土地改良事業の所管は北海道土木部にあった)。陳情書による事業計画は有意性が認められ、昭和26年(1951年)、発足したばかりの北海道開発局の函館開発建設部によって国営のかんがい排水事業「大野地区」として現地の調査が開始されることになった。昭和27年(1952年)には土地改良法に則って事業申請の手続きが行われた。同意者数は3条資格者2,479名に対し2,195名(同意率88.5%)であった。昭和27年(1952年)から翌年にかけて、各町村に土地改良区が設立されて、大野地区水利施設の維持管理体制が整った。昭和28年(1953年)には各町村の町村長、議長、農業委員会長、農業協同組合長からなる大野平野地域開発期成会が結成されて、事業推進及び土地改良区支援の体制も整った。


5.大野地区の調査(地区調査~全体実施設計)



図-2 概要(当初計画)
(出典:大野かんぱい事業誌)
 昭和26年から開始された現地の調査は、開発建設部職員直轄で行われた。あるのは、地図は旧陸軍陸地測量部の1/50,000地形図、調査基準は測量と流量測定くらいで、後は各自の工夫によって調査が進められた。移動の手段も開発建設部の調査員8人に対し自転車3台(2台は村役場からの提供)といったところで、自ずと徒歩で移動しながら調査することが多く、その距離は日平均40~50㎞に達した。調査は昭和28年の半ばをもって一旦終了し、10月に計画書が取りまとめられ農林省に提出された。
 計画の骨子は、折戸川を経て噴火湾に流れ下っていた大沼の水を函館湾に注ぐ久根別川へと流域変更して、用水が不足する大野平野の水田地帯への補水と開田用水に充てるとともに、折戸川の老朽3発電所を廃止し七飯村峠下に新発電所を設けるというものであった。なお、3発電所では雨鱒川を経て折戸川に流入している大七川(現大七沢川)などの水も利用していたことから、その振り替えとして姫川(現尾白内川)に頭首工を新設し姫川切替線(トンネル・蓋渠・函渠から成る導水路及び精進川・赤井川の河川改修)により姫川の水を大沼湖へ流域変更する(姫川下流の森町(もりまち)との協議の結果、取水は非かんがい期(8月16日~5月10日)のみに限る)こととした。姫川頭首工から堰により全量取水した後に下流責任放流量(森町の上水道用水分)0.028㎥/sを分水放流し、その先の導水路トンネル入口の取付部分には側溝式余水吐を設けて流域変更量が2.4㎥/sを上回らないようにした。
 当時の国の財政は厳しかったことから最小限の事業投資で最大限の効果を上げる方針とせざるを得ず、使用可能と認められる施設は極力そのまま使用し、新設の用水路はすべて土水路とした。また、内水面漁業(ワカサギ、フナ、コイなど)との調整に伴う大沼の利用水深の制限、及び既設水利権を持つ発電側のピーク発電増の意向から、大沼の水の利用は極力抑えて他の水源を有効に利用する計画とした。
 本計画書提出とともに着工の要求がされたが、国の財政は極めて厳しく、昭和29年度(1954年度)は北海道では新規採択の地区はなかった。翌年度も国の財政状況に変わりはなく、篠津地域泥炭地開発事業や根釧機械開墾事業などの大規模開発事業の地区は世界銀行からの借款という資金措置が講じられたが、それ以外は大蔵省提案の全体実施設計の制度を受け入れることになった。かくして、本地区も昭和30年度(1955年度)から3ヶ年にわたって全体実施設計が進められることになった。

6.農家要望との調整(地区調査~全体実施設計)



 こうして進められてきた事業であるが、地区調査に基づく事業計画の内容は、地元農家にとって満足のいくものではなかった。中央幹線用水路の路線標高が25mと低いため、起伏によって高い所に位置し冷たい湧水(地下水)を利用している水田は大沼の温かい水(7月上旬の実測で小流の水より6~7℃高い)の恩恵が受けられない。その様な大野川掛りの地域(稲里、白川、細入など)では農民の不満が募り、昭和31年(1956年)になると、測量中の杭が抜かれたり、調査員が追い払われたりといった事態が頻繁に起きた。また、大野川直接掛りの水田の多くも大沼の温かい水(7月上旬の実測で大野川の水より5~6℃高い)の恩恵が受けられず、事業に反対する者が相次いだ。
 事業反対のこうした動きに対して、函館開発建設部は、地元農家を対象に事業内容の説明会を再三にわたり開催し、また、地元農家が主張していた中央幹線の山沿案(中央幹線を山側(標高40m以上)に通し大野川幹線に合流させる案)について農家と一緒に現地踏査を行って論議するなど、説得の努力を重ねた。大野村と土地改良区も反対者と協議を重ね、代案の検討を進めた。作成されたのが、大野川掛りの水田のうち末端80haについて中央幹線から揚水機(補助ポンプ)により給水する案である。この案により大野村の方は事業反対の動きが一旦は落ち着いた(昭和32年(1957年))。
 しかし、七飯町の上流区域(峠下、藤城)では、事業に反対し土地改良区への賦課金の納入を拒み続ける農家が依然として多かった。こうした上流区域の農家は、下流区域の農家とは違ってもともと水には困っていなかった上、発電所や水路に必要な用地を提供しなければならないことへの不満、所有する土地を失うことへの不安があった。土地改良区により昼夜を問わず対話が続けられた。しかし、単独の改良区では説得が難しかったため、昭和32年(1957年)、4ヶ町村(大野町、上磯町、七飯町、亀田村(大野と七飯は昭和32年(1957年)から町制施行))の土地改良区を一つに統合し、大野平野土地改良区連合が結成された。
 全体実施設計においては、発電側とも調整が進められた。事業計画では最大発生電力量を6,500kW(最大使用水量8.5㎥/s)としていたが、発電側(北海道電力株式会社)はピーク発電の増強を強く望んでいた。協議の結果、導水路、放水路及び放流河川の規模を大きくして10,000kW(13.0㎥/s)を確保することでまとまった。
 全体実施設計書は昭和32年(1957年)12月に農林省に提出され、翌33年(1958年)に総合かんがい排水事業大野地区として着工になった。旧発電所の補償費や共同事業費の費用振り分けは発電側と依然調整中であったため、これらが決定するのを待って全体実施設計書を再提出、事業計画が決定された(昭和34年(1959年)12月22日)。事業申請時(昭和27年(1952年))から時を経ていたことから、事業計画決定の前に同意の再確認が行われた。同意者数は資格者2,323名に対し1,902名(同意率81.8%)であった。

7.農民の反対運動と用水計画の工夫(第1回計画変更)



図-3 概要(第1回計画変更)
(出典:大野かんぱい事業誌)
 地元調整の方は、昭和34年(1959年)に入っても七飯幹線の山沿いへの路線位置変更などを求める請願書が新たに出されるなど動きがあり、事業反対の農家を説得できる目途は立っていなかった。こうした中で事業計画が決定、公告された(12月25日)のであるが、公告されると、用水路線の山沿いへの変更と事業費の全額国庫負担を求める多数の異議申立てが大野町と七飯町の地域から出された(1,069件(1,069名))。折しも、九州では蜂の巣城紛争が起きていたときで、南北に分かれての農民の一大反対運動として報道された。結局、申立ては、「既得水利権保持のため、発電の落差は折戸川での落差と同程度(年間発生電力量はほぼ同じ)としなければならず、申立てどおり幹線水路を山沿い(標高40m以上)に付け替えるならば、発電落差の減による発生電力量の減に対し相当額の補償をする必要がある一方、新規開田面積の増により期待される利益の増はごくわずかである。事業申請(昭和27年(1952年))に添付の事業計画に山沿路線の構想はない。5%に過ぎない地元負担の拒否は現行制度を無視するものである」との理由ですべて棄却され、翌35年(1960年)3月22日、当初計画は確定した。ただ、計画の細部については検討の余地があり、地元農民の要望に応えられるよう努力する旨付された。
 検討の結果、①大七川を大沼湖の方へ流域変更することと、非かんがい期に用水を蓴菜(じゅんさい)沼でダム貯留(有効利用水深3m、有効貯水量3,222千㎥)しておきかんがい期に姫川切替線を経て放出することで、大沼導水路(水圧管路)途中から発電とは無関係に分水することを可能にし、この分水を新設する大野、七飯それぞれの山沿線により高台の水田へ供給する、②当初計画の揚水分と合わせて発電の常時放流量分を中央幹線の長橋付近から大野山沿線に揚水し、これを大野川幹線に合流させて大野川幹線掛りに補給する(普通期:大野川1.0㎥/sに対し大沼から0.6㎥/s注水)、③反対者の多い七飯幹線の上流区間(峠下、藤城)(3,255m)は潰れ地の発生を抑えるため取りやめにして、この区間の水田は七飯山沿線掛りとし、当初の七飯幹線への分水分は久根別川に放流し、途中から頭首工にて取水後、揚水して七飯幹線の下流区間へと給水する、④小渓流冷水掛りの旧田(大川及び蒜沢(にんにくざわ)の一部)に対しては七飯幹線から揚水してかんがいするなどの変更が加えられた。開田可能面積は32ha、また大沼からの補水面積は539ha増することになった。
 昭和35年(1960年)の5月から7月にかけて町村の理事者、受益者への説明会が開催され、以上の変更(第1回変更)が提案された。この提案により、湧水(地下水)利用であったところを含め大野町で反対していた農家の大半は賛成に変わった。一方、七飯町峠下付近の農家は強硬に反対する姿勢を崩さず、説得は困難を極めた。同意徴集の結果、同意者数は資格者2,329名に対し2,107名(同意率90.5%)であった。昭和36年(1961年)7月26日に計画が決定し、8月21日に公告された。事業の手続き、有効性、必要性、農民の負担能力などを不服として事業の全面中止を求める異議申立てが8件(329名)あった。すべて棄却又は却下となり、昭和36年(1961年)11月12日、計画(第1回変更)は確定した。

8.大沼の湖水が大野平野へ



表-1 経営耕地面積別農家割合
(農業センサス)
 昭和36年12月、工事が開始され、まず、久根別川(3.6㎞)の拡幅改修が行われた。事業が本格着工したのを受けて、昭和38年(1963年)には大野平野土地改良区連合を構成する4土地改良区は解散し、事業の一層の推進を目指し4町(亀田も昭和37年(1962年)から町制施行)の土地改良区の集合体として渡島平野土地改良区が設立された。
 一方、工事開始と同時に用水路の調査測量、用地交渉も開始されたが、こちらは難航した。用水路を新設しようとする地域は、所有面積の少ない農家が多くて、水路らしいものがなく田越しかんがい(掛け流し)がほとんどで、排水路にはかんがいのための堰が多数設けられていた。新たに水路を通すと、耕地を分断し、もともと少なかった所有面積をさらに減少させてしまうことになる。大沼の水が本当に来るのだろうかと疑念を抱く者も多かった。事業や路線測量に反対があって再三話合いの場が持たれたが、なかなか交渉はまとまらなかった。ようやく用水路に着工できたのは昭和39年(1964年)になってからである。
表-2 戸当り経営耕地面積
(農業センサス)
 翌年2月、大沼導水路(工事は北海道電力株式会社が担当)が完成し、大沼の水が大野平野に流下、一部の地域で利用できるようになった。従来利用していた沢水などと比べ水温が高く水量も豊富で、大沼の水が行き渡るにつれ事業反対の動きは鎮まっていった。

9.水源・用水路線の見直し(第2回計画変更)



図-4 概要(第2回計画変更)
(出典:大野かんぱい事業誌)
 昭和40年(1965年)、森町に道営開拓パイロット事業駒ケ岳東部地区が計画されることになった。この地区のかんがいに必要な水を姫川切替線の一部を利用して導水したい旨の協議が北海道からあった。姫川頭首工は、構造上、下流責任放流量0.028㎥/sを除いた最大2.4㎥/s以内での全量取水のみしかできず、駒ケ岳東部地区の必要量(代掻期0.648㎥/s、普通期0.278㎥/s)だけ取水するというのは無理があった。協議の結果、北海道、森町とも了解の上、年間を通じて頭首工から取水することにして、その一部を駒ケ岳東部地区に振り向けることになった。結果、姫川からの流域変更量は、駒ケ岳東部地区分を差し引いても平均年で約4,000千㎥となり、蓴菜沼のダム貯水量3,222千㎥を大きく上回る。このため、北海道電力株式会社の了解を得て蓴菜沼のダム貯留及び大七川の流域変更は取りやめとした。
 一方、用水路も大きく変更せざるを得ない状況が生じた。まず、中央幹線用水路であるが、中流部は予定の経路では用地や家屋移転などに多くの補償が必要なことが判明した。工事遅延を避けようとすると補償の少ない経路に変更せざるを得ないが、そうすると自然流下で下流へ送水するのは不可能であった。そこで、変更した経路の途中に稲里揚水機場を新設してポンプアップすることにした。この揚水によってかなりの区域が中央幹線から新たに給水できるようになった。
 また、大野、七飯の両山沿線は、経路上の地形が建設には険し過ぎることが判明した。路線位置を変更して、全区間管水路にすることにした。なお、大野山沿線の末端区間は、地形が険しい上に途中に水田がなく、かつ非受益者所有で用地取得も困難であったため、取りやめとした。これに伴い、大野川幹線には大沼の温水は供給できなくなった。代わりに大野川幹線には取水位置から約1.2㎞の区間に河川敷地を最大限利用することで温水路(敷地幅10~40m(平均22.9m)、水面面積2.38haの広幅水路で、落差工を18ヶ所設けることにより落差工間の水路勾配を1/3,000と緩やかにしたもの)を設けることにした。その大野川幹線の取水施設である大野大堰は老朽化が著しく、また土砂堆積により取水が不安定な状態に陥っていたことから、直下流に大野川頭首工を新設することにした。大野川幹線を除く他の用水路はすべて新設で、当初計画では土水路としていたが、泥炭または火山灰の土質の区間が多く崩れたり洗掘されたりしやすいことから、全線ライニングに変更することにした。
 以上の内容で計画変更の手続きが行われた。前回同様、事業に対する反対運動は起こった。主に事業費増に伴う受益者負担増を理由とするものであった。昭和43年(1968年)の3月から5月にかけて受益者を対象に地区内各所で説明会が開催され、事業の負担金などについて議論された。同意徴集の結果、同意者数は資格者2,248名に対し2,061名(同意率91.6%)で、今回は異議申立てがなかった。昭和43年10月13日に計画(第2回変更)は確定した。
 昭和45年(1970年)、幹線用水路はほぼ全線が工事完了し、地区のほぼ全域に計画水量を補水できるようになった。最後に残った山沿線も昭和47年度(1972年度)に工事が完了し、昭和48年(1973年)5月に通水した。

10.機械化農業・米の生産調整への対応(第3回計画変更)



図-5 概要(第3回計画変更)
(出典:大野かんぱい事業誌)
 昭和40年代半ばには、耕運機や田植え機など、農作業機械の普及が進んだ。一方で、米の生産調整が昭和44年(1969年)からの試行を経て昭和46年(1971年)から本格的に実施されるようになった。
 こうした動きに合わせて計画の最終見直しが行われた。農作業機械の普及に対しては全区域でほ場整備を計画し、用排を分離することにした。これにより消費水量が増加するため、用水配分を見直す必要があった。幹線用水路はすでに完成していたことから、不足が生じる中央幹線掛りの末端区域については、久根別川から取水していた一本木頭首工並びに一本木用水路(明治30年(1897年)完成)を事業に取り込んで改良し、一本木幹線掛りにすることにした。米の生産調整に対しては、開田が済んでいない区域810haを地区から除外した。また、函館市周辺では都市化が進み、都市計画との調整により地区除外区域が拡大し、大川と蒜沢の両頭首工、大川幹線用水路を廃止とした。
 昭和51年(1976年)3月に地元説明会が16会場で開催された。同意者数は資格者2,305名に対し2,214名で、同意率は過去最高の96.1%となった。昭和53年(1978年)12月、一本木幹線用水路の改良が終了し、すべての工事が完了した。






11.事業概要



図-6 大沼の有効貯水量
(発電が従来有していた水利権内の量)
 事業概要(最終)は以下のとおりである。

(1)受益面積 2,991ha
・水田かんがい(補水2,639ha、開田301ha)、排水1,932ha
 (うち1,881haは水田かんがい区域と重複で、
 残りの51haは開田除外に伴う畑受益)

(2)水源施設(発電との共同事業)
・姫川頭首工、姫川切替線(切替水路3,252m、河川改修6,821m)
・大沼(大沼湖、小沼湖)(かんがい面積2,345ha):有効貯水量
 夏期(3~10月)14,100千㎥、冬期17,257千㎥
・大沼浚渫線(低水位時の流路確保のための小沼湖浚渫)1,490m
・大沼導水路(導水トンネル2,576m、水圧管路353m)
・七飯発電所放水路(蓋渠・開渠)、峠下取水工(中央幹線への分水工)
・久根別川切替工(久根別川への注水工)、久根別川改修3,614m
図-7 用水系統
(出典:大野かんぱい事業誌)

(3)用水施設
・かんがい期間117日間:苗代期(5/1~5/10)、代掻期(5/11~5/31)、
 普通期(6/1~7/31)、落水期(8/1~8/25)
・用水系統(4系統)
 ◦大野川水系 大野川頭首工~大野川幹線用水路3,919m
  (1① 221ha、中央幹線に注水し供給1④ 133ha(中央幹線と重複))
  (ほかに既設利用で大野川第2堰(1② 66ha)、千代田堰(1③ 42ha))
 ◦大沼放水路直接掛り 中央幹線用水路7,223m(1④ 1,090ha)、
  山沿線8,093m(1⑤ 172ha)、放水路直分(1⑥ 16ha)
 ◦久根別川水系 七飯頭首工~七飯幹線用水路7,872m(2① 399ha)、
  一本木頭首工~一本木幹線用水路3,218m(2② 553ha)、
  追分頭首工~追分幹線用水路1,206m(2③ 115ha)
 ◦新川排水路掛り 堰(新川第1堰、新川第2堰)を設け取水
  (2④ 266ha)

(4)排水施設(排水路) 久根別川に流下:新川8,850m(1,342ha)、8号3,100m(357ha)、
 函館湾に流下:1号2,788m(233ha)

(5)関連事業 道営ほ場整備事業など

12.事業実施後の営農の状況



 以前はちょっとした干ばつでも水不足に陥って干害や病虫害が頻繁に発生していた。本事業実施後は、昭和48年(1973年)が異常渇水年であったが大沼からの供給により事なきを得ており、水不足は完全に解消された。農作業に合わせて水田に導水でき、田植えが適期にできるようになった。欠かすことのできなかった夜を徹しての水番、水争いの仲裁などの労力も不要になった。大沼掛りの水田では青立稲が見られなくなった。排水条件が改善されたことにより、普及し始めた農作業機械も順調に稼働でき、また、米の生産調整による水田での畑作にも対応できるようになった。
 なお、函館の大消費地を抱え、また、その函館は安政6年(1859年)開港の地であり異国の人々が大勢訪れていたことから、大野平野では明治30年代から西洋野菜を中心に様々な種類の野菜が栽培され、以来、米と野菜を主とした農業が営まれてきた。昭和26年(1951年)に農業用ビニールフィルムが生産開始され翌年から出回り始めると、野菜の作型も促成、半促成、抑制などと多様化し、昭和32年(1957年)からトンネル栽培が、昭和36年(1961年)からはハウス栽培が行われるようになっていた。昭和45年(1970年)頃には強度の増したハウスが開発され、大型のハウスが普及するようになった。事業で排水条件も改善されたことから、米の生産調整が本格的に実施される中、水田でも収益性の高い野菜への転作が進んだ。

表-3 耕地に占める水田の比率
(農林業センサス・農業センサス)
表-4 作物作付状況
(農林統計、農林業センサス)

13.その後



 平成2~6年度(1990~1994年度)に、国営造成土地改良施設整備事業大野地区により、老朽化で緊急を要する箇所(頭首工1ヶ所、用水路4条)の改修が応急的に行われた。
 平成18~28年度(2006~2016年度)には、国営農業用水再編対策事業(地域用水機能増進型)大野平野地区(大野平野農業水利事業)により、地域の用水利用・管理の実態に合わせた用水再編とともに抜本的な改修が行われ、今日に至っている。受益面積は2,454ha(地目はすべて田)で、水稲の作付けは1,400ha程度である(平成18年(2006年))。利水については、①水稲の早生品種への変化に対応し代掻期を5/11~5/31から5/11~5/25に短縮、②冷害防止のための深水期を7/6~7/15に新設、③落水期を廃し普通期を9/5まで延長して、水田かんがい期間を128日間とした。また、④計画転作率を37%として転作畑への湿潤かんがい(5/1~8/31)を盛り込んだ。用水系統については、七飯発電所の放水路に分水工(第1分水工)を設置、そこから久根別幹線用水路(管水路3.4㎞)を新設し自然流下させて、第2分水工で七飯幹線用水路と新川排水路に直結するようにした。これに伴い不要になる七飯頭首工及び七飯揚水機場は廃止した。反復水利用区域である新川排水路掛りは、転作の進行によって利用できる還元水の水量が減少していたが、これが久根別幹線用水路経由の給水で補えるようになった。水源施設、用水施設については、建設後相当年数を経て、冬期間の凍結・融解によるL字ブロック水路の傾倒、コンクリートの亀裂・摩耗、それに伴う骨材や鉄筋の露出、目地損傷、沈下など、劣化が顕著なため、抜本的に改修を行った。関連事業は道営経営体育成基盤整備事業が4地区実施され、平成25年度(2013年度)までにすべて完了した。

写真-1 代掻き後の水田
写真-2 苗移植後の水田
写真-3 苗移植後の水田
(いずれも北斗市(旧大野町)にて令和7年5月撮影、函館開発建設部提供)

14.総合かんがい排水事業大野地区の意義



表-5 専兼別農家戸数の推移
(農林統計、農林業センサス)
 本地区は、地域農民の悲願の事業でありながら、受益者からの反対運動や多数の異議申し立てがあり、用地取得の困難さなどもあって紆余曲折の歩みをたどり、3回もの計画変更を経てようやく竣工に至ったという点で、北海道の国営土地改良事業の中では特異な地区である。水利では発電が既得のため制約がかかり地域の要望を満たすのが極めて難しい中で、何度も受益者や地権者と話合いや交渉を持ち、検討を重ねて計画の練り直しを経つつ、工事が実施された。結果、水不足、排水不良で悩まされてきた地区が、現在は、高品質米の産地に、また都市近郊型の高収益野菜の産地に変貌したのである。3割台であった専業農家比率も大きくなり6割を超えるまでになっている。受益者の思いに応え、優良な農業地帯への発展の基礎を築いたところに、本地区の意義がある。


引用文献 (図、写真の転載)
1.「大野かんぱい事業誌」函館開発建設部函館農業事務所監修・(財)北海道開発協会1979年3月発行
2.写真 函館開発建設部 令和7年5月撮影

参考文献
1.「大野町史」亀田郡大野町刊・吉川清之助(大野町長)1970年11月3日発行
2.「新大野町史」大野町史編さん委員会編集・北斗市2006年6月30日発行
3.「大野かんぱい事業誌」函館開発建設部函館農業事務所監修・(財)北海道開発協会1979年3月発行
4.「国営農業用水再編対策事業大野平野地区技術誌」函館開発建設部函館農業事務所2017年3月発行
5.「石狩川水系農業水利誌」㈳農業土木学会1995年4月発行
6.気象庁:過去の気象データ
7.北斗市HP
8.七飯町HP
9.函館市HP
10.「七飯町歴史館だより ピチャリ第116号」七飯町歴史館2017年8月20日発行
11.「函館市史 別巻 亀田市編」函館市1978年11月10日発行
12.「農業土木学会誌55(11)pp.41~45 北海道大野地区における広幅水路について」㈳農業土木学会 1987年11月発行

2026年10月23日公開