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1.別海町の概況
2.別海町の開拓歴史
3.地域農業のあゆみ
4.地域の農業基盤整備の歴史
5.別海町における国営環境保全型かんがい排水事業の展開へ
6.自然と調和した日本一の酪農郷を目指して
7.今後への期待(漁業と酪農の共存)

1.別海町の概況



図-1 位置図(別海町㏋)
(1)位置
 本町は、北海道東部の根室振興局管内のほぼ中央部に位置する。町域は東西約61.4km、南北約44.3kmに広がり、面積は約1,317km2(町としては国内有数)と広大である。東はオホーツク海(野付水道)に面し、野付半島や風蓮湖など、海域・湖沼・湿原を含む多様な自然景観を有している。また、根室海峡を挟んで北方領土の国後島が遠望できる。隣接自治体は、根室市、標津町、中標津町、標茶町、厚岸町、浜中町の6市町である。

写真-1 基盤整備された近年の農地と格子状 防風林(釧路開発建設部㏋)
(2)地形
 本町は起伏のゆるやかな丘陵~波状台地(根釧台地)で構成され、広大な原野を切り開いて造成された牧場が町全域に広がっている。集落は別海、中西別、中春別、西春別、上春別、上風連、本別海、尾岱沼など町内各地に点在し、町役場は別海市街に置かれている。東部には日本最大の砂嘴である野付半島が伸び、南部には風蓮湖が広がるなど、陸域と海域が近接した地勢を持っている。

図-2 釧根地域の耕地土壌図
(釧路開発建設部㏋)
(3)地質・土壌
 本町の地表は、約280年前の火山活動に由来する火山灰土壌に覆われ、地力が弱いとされている。また、内陸部は標高20~80mの緩やかな波状台地で、営農上きわめて厳しい立地条件下にある。こうした条件は、畑作よりも牧草を基盤とした草地型酪農の適地性を高め、本町の土地利用を規定してきた。

図-3 気象状況
(気象庁㏋)
(4)気候
 本町は沿岸から内陸にかけて海洋性~大陸性の性格を併せ持つ、冷涼な気候である。別海町の年間平均気温は約5.3℃となっており、盛夏でも平均気温は18℃程度とされ、寒地特有の気候となっている。降水量は年間約1,138mm程度で、冬季は雪が少ない一方、夏季は海霧の侵入等により気温低下・日照不足が生じやすい。11月~4月まで半年にわたり氷点下を記録し、無霜期間が短いので、栽培可能な作物は限定されている。

写真-2 放牧風景
(別海町㏋)
(5)土地利用状況
 別海町の耕地面積は約63,200haで、ほぼ全てが畑地である(田はほぼない)。この耕地は牧草地としての利用が中心であり、広大な草地資源を活用した大規模酪農が展開している。乳用牛の飼養頭数は、10万頭規模に達し、農業産出額の大部分を畜産(特に乳用牛・生乳)が占める。併せて沿岸ではサケ・マス漁や貝類(ホタテ等)を中心とした水産業も盛んである。

 

2.別海町の開拓歴史



(1)開拓前史―沿岸利用と定住の制約
 別海町の開拓の歴史は古く、17世紀初頭(1618年頃)にはすでにアイヌの人々が居住し、主として漁業に従事していた。江戸後期に野付半島及びその周辺に漁場が開設された事に始まり、ニシン漁、鮭漁で栄えた。野付半島は、知床方面、根室方面、国後・択捉島方面を結ぶ重要な港として、さらに日本の最東端を守る北方警備の拠点として、重要な役割を果たした。このように豊富な漁業資源を背景に、北海道内でも比較的早い時期から和人の往来があったとされる。
 しかし、本町は冷涼な気候、濃霧、湿原といった厳しい自然条件により、農耕を基盤とした長期定住は困難であり、内陸部には広大な未開原野が残されていた。

写真-3 別海缶詰工場(別海町㏋)
(2)明治期―北海道開拓と別海村の形成
 明治2年(1869年)、新政府は開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改称した。北海道は11国86郡に区分され、別海町は根室国野付郡および根室郡の一部に属した。
 明治4~5年頃から、漁労の拠点として和人20~30人が定住し始め、別海地方定住の草分けとなった。
 明治11年(1878年)には開拓使が本別海に缶詰工場を設置し、缶詰の輸出による外貨獲得と漁村住民の定住化を図った。翌年明治12年(1879年)には別海外四カ村戸長役場が設置され、本別海に役場が置かれた。
 その後、明治15年(1882年)に開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の三県一局体制を経て、明治19年(1886年)には北海道庁が発足し、士族移民や屯田兵移民を中心とした移民政策が展開された。

(3)入植の本格化と内陸開拓
 明治30年(1897年)、北海道国有未開地処分法により、土地の無償貸与・無償付与が進められ、別海地域でも別海村内陸部への入植が本格化した。
 明治31年(1898年)の西別殖民地区開放を契機に、漁業中心であった地域構造は次第に農業へと広がりを見せた。
 明治39年(1906年)には、厚別村が編入されて別海外五カ村戸長役場となり、大正12年(1923年)に戸長役場が廃止されて別海村が誕生した。

写真-4 昭和初期のおがみ小屋⇒住宅が間に合わない時に作られた(別海町㏋)
(4)拓殖計画と農業の試行錯誤(大正~昭和初期)
 大正期には、北海道第一期拓殖計画のもと、一般農業・混合農業や放牧入植が進められ、西別、上風連、春別などで原野開拓が行われた。
 昭和2年(1927年)からの第二期拓殖計画では、根室原野30万町歩に及ぶ大規模開発が試みられたが、厳しい自然条件により離農者が相次ぎ、定着率は低迷した。
 一方、昭和2年には移民政策が間接保護から直接保護へと転換され、許可移民制度のもとで移住補助金(1戸あたり350円)が支給され、移住世話所や駅逓所が設置された。
 この時期、内陸部への入植が進み、昭和8年(1933年)には国鉄標津線(厚床―奥行臼―西別)が開通し、別海村役場も本別海から西別へ移転した。人口は約1万2千人に達し、昭和元年(1926年)の約4倍となった。

3.地域農業のあゆみ



 本地域の農業は、寒冷・霧・火山灰土壌といった自然条件と、戦後開拓および酪農政策の展開という社会条件のもとで、畑作中心から草地型酪農へと大きく転換してきた。

(1)冷害による畑作中心期から主畜化への転換
 明治30年代から内陸部への入植が始まり、入植当初の営農は、豆類や雑穀を中心とした畑作が主体であった。しかし、大正、昭和4~7年(1929~1932年)にかけて、冷害による凶作が続き、農作物は甚大な被害を受け、村は壊滅的な打撃を受け、畑作中心の経営は大きな困難に直面した。その生活は困窮を極め、この地を去って行くものも少なくなかった。
 この冷害からの脱却を図るため、別海村各地で農民大会が開催され、北海道庁による調査と視察を経て、昭和8年(1933年)に主畜農業を基盤とする地域開発構想である「主畜農業五カ年計画」が打ち出され、畜産を軸とした農業への転換が模索されるようになった。
 これにより、豆類・雑穀中心の畑作農業から、デンマーク式酪農を参考とした、てん菜の輪作導入と乳牛飼育が進められ、冷害に強い酪農を主体とする有畜農業へと大きく転換が図られた。

(2)戦後の酪農に特化した農業に転換
 第二次世界大戦勃発により、農業計画は大幅に縮小された。
 戦後の昭和21年(1946年)以降、千島列島(現北方領土)がソ連(現ロシア)に占領されたことにより、居住地を追われた人々が開拓民として別海村に移住し、農業・漁業に従事し、さらに、外地引揚者や復員者の増加、深刻な食料不足への対応として、引揚者や戦災者の救済、食糧増産が叫ばれ、緊急開拓事業が本格化し、別海地域は、新天地として注目され入植が進められた。国有未開地の開墾は、国営開墾事業として機械化を活用しながら進められ、将来の機械化農業の先駆けとなった。しかし、農業未経験者も多く、過酷な労働と生活条件から離農者が続出した。
 昭和28年(1953年)までの入植受入戸数は1,672戸であったが、定着戸数は1,105戸(約66%)にとどまった。さらに、昭和28年頃から再び冷害が続き、営農・生活は一層厳しさを増した。
 このため、寒冷地に適した農業形態として酪農への転換が求められ、昭和29年(1954年)の酪農振興法制定を背景に、乳牛導入資金の融資、トラクター導入、飼料自給経営地の設定、畜舎・サイロの整備、さらに農業基盤整備も多面的に進められ、酪農に特化した農業に転換した。

4.地域の農業基盤整備の歴史



 本町の農地基盤は、①戦後緊急開拓事業等の実施(昭和21~)、②根釧パイロットファーム建設事業(昭和31~)、③農用地開発事業等の展開(昭和36~)、④新酪農村建設事業の実施(昭和42~)等の事業展開を経て、現在の農地面積規模へと拡大が図られてきた。
 当初は開墾・農地造成による農地面積の拡大を主な目的として事業が行われたが、次第に経営面積の拡大に適応する既耕地整備に移行した。

(1)酪農の規模拡大と近代化を目指して
1)開墾、農地・草地造成による外延的拡大(戦後緊急開拓事業)
 入植を主体とした戦後緊急開拓事業として、開墾面積が1,000ha以上の大規模な区域を、国営開墾建設事業(昭和21年~)として実施され、大規模な開墾が行われ、別海地域に本格的な農業地帯が創出された。

2)酪農王国への道(根釧パイロットファーム事業)
 これまでの人畜力による開墾作業が、入植者の労賃収入として生活を支えた反面、開墾が点在的に進み営農の安定が図れない状況がみられた。この課題に対応するため「根釧パイロットファーム事業」が開始された。この事業は、世界銀行の融資資金を一部投入して昭和31年(1956年)から開始された別海地域の発展の礎を築いた象徴的な事業である。
写真-5 根釧パイロットファームの住宅と牛舎(別海町㏋)
 別海町では床丹第二地区及び床丹第一地区の両地区が、根釧パイロットファーム建設事業として実施された。
 この根釧パイロットファーム建設事業では、国(北海道開発局)・農地開発機械公団・北海道の三者一体となって事業が実施された。国は道路・排水路・防災林、公団は機械開墾・乳牛導入、北海道は経営基本施設・営農資材・営農指導を担当した。
 これにより本格的な大規模な酪農がスタートしたといえる。
 事業の概要は、入植者:361戸、開畑6,650haで、農業用道路、農業用排水路の整備を行い、昭和41年(1966年)に完了し、本地域における大規模草地酪農の基盤が築かれた。

3)農用地開発事業の展開(国営開拓パイロット事業、国営農地開発事業、国営草地開発事業)
①国営開拓パイロット事業
 昭和36年(1961年)の農業基本法制定を受け、国営開拓パイロット事業が創設され、本地域の開墾事業が入植主体から既存農家の構造改善と自立を目的とした農地造成主体に大きく転換した。
 入植者自らが耕地化を行っていた開墾事業と異なり、道路・排水路等の基盤整備から開墾・土壌改良に至るまで一貫した農地造成を行う総合事業として創設。同様の内容で昭和45年(1970年)から国営農地開発事業に引き継がれた。
②農用地開発事業の展開(国営草地開発事業)
 酪農や肉牛生産の振興を図るため、公共育成牧場の設置を目的に、昭和41年(1966年)から国営草地開発事業が実施され多くの草地造成を実施している。

4)新酪農村建設事業
 昭和48年(1973年)からは、「新酪農村建設事業」が開始され、大規模酪農経営を前提とした生産団地の整備が進められた。農地造成をはじめ、用水施設、農業用道路、排水路、畜舎、サイロ、農業用機械の整備が総合的に行われた。

写真-6 新酪農村景観(釧路開発建設部㏋)
(事業経緯)
 昭和43年(1968年)の開道百年、昭和46年(1971年)の第3期北海道総合開発計画開始など、北海道開拓の節目を迎えるにあたり、北海道開発局は広大な根室原野を舞台に、総合的な酪農基盤の整備を目指した壮大な計画を進めることを決定した。  
・昭和42~43年、根室原野地域35万haを対象に、広域図解調査(農用地開発改良地域調査)を実施。
・昭和44~47年、図解調査を基に、具体的な整備構想を策定するための広域農業総合開発基本調査を実施し、根室中部地区(別海町・根室市)と中標津地区(中標津町)の整備計画を樹立。
・昭和48年(1973年)、国営根室中部地区の着工。昭和49年(1974年)、国営中標津地区の着工など基盤整備に着手。
・短期的・集中的な事業の実施、基盤整備と併せた農業用施設・機械導入、交換分合による農地の集団化などを総合的に実施するため、昭和49年に創設された農用地開発公団に事業を継承し、昭和58年(1983年)に完了した。
 また、この事業の一環として建設された施設の一部は、現在も地域の歴史的建造物として残されている。
 代表的なものとして、北海道酪農の象徴ともいえる気密スチールサイロや、ふん尿を貯留・還元するスラリータンクが挙げられる。
 さらに、新酪事業の記念施設として「新酪農村展望台」が整備され、現在では別海十景の一つとして親しまれている。

写真-7 建設されたサイロ・牛舎(別海町㏋)
写真-8 新酪農村展望台(別海町㏋)

【新酪農村建設事業の事業概要】
 工期:昭和49~昭和58年
 関係市町:根室市、別海町、中標津町
(事業内容)
 経営規模:農地面積50ha、乳牛70頭(成牛50頭)
 農地造成:14,699ha
 農業用用水(家畜・肥培):管路905km
 道路:91条373km
 農業用排水:明渠排水4条11km
 交換分合:移動10,400ha(団地2,385→756団地)
 農業用施設・機械導入:272戸(うち入植94戸)
 共同利用施設:9ヶ所(食肉加工1、共同機械用8)

 これらの事業の取り組みを通じて、別海町は、日本有数の酪農地帯(酪農王国)としての基盤を確立し、現在の人口形成と地域構造が形づくられた。


5.別海町における国営環境保全型かんがい排水事業の展開へ



写真-9 別海町 乳製品(別海町㏋)
(1)事業の背景(農業生産と環境問題)
 現在、別海町では乳牛飼養戸数756戸、飼養頭数約10万4千頭、生乳生産量約49万トンを誇り、全国生乳生産量の約6.4%を占め、生乳生産量全国一を誇る日本有数の酪農地帯となっている。町内で生産される生乳は、大手乳業メーカーのほか、べつかい乳業興社において飲用乳や乳製品として加工され、地域内外に供給されている。
 このような発展をもたらし、広大な根室原野を現在の緑豊かな農用地へと転換できたのは、前述の戦後の農地開発事業や根釧パイロットファーム建設事業、新酪農村建設事業などの大規模プロジェクトを中心とした農業農村整備事業の貢献が大きい。
 農地が形成され、地域は大規模な酪農地帯に変遷した一方で、農地の生産性向上や経営コスト削減が課題となってきた。
 さらに、開拓期以降、道路、草地造成、用排水施設、営農施設などの農業基盤整備が多面的に進められてきたが、昭和49年度から昭和58年度にかけ農用地開発事業等により整備された用排水施設は、造成後約30年が経過し、特に施設の老朽化や機能低下が顕在化し、以下の多くの課題が生じていた。

(2)本町の課題
① 営農基盤の制約(用水不足・施設老朽化)
 既存の地域の基幹的用水路は造成後約30年を経過し老朽化が進行している。
 加えて、酪農経営の規模拡大や飼養形態の変化により、搾乳や飼養管理に要する労働時間が増加し、かんがい用水の需要が短時間に集中することで通水能力不足が問題となり、かんがい用水の利用に支障を来している。
② 排水不良による湛水・過湿被害
 排水施設の未整備、断面不足、老朽化により、降雨時には農地で湛水・過湿被害が発生し、生産性の低下や農作業の効率化を阻害している。
③ 環境負荷の軽減(水質浄化・資源循環)
 乳牛頭数の増加に伴いふん尿量も増えた一方で、農地還元が十分に出来なかったため、農地から流出する土砂や肥料成分が河川や海域の水質に影響を与えることが懸念された。
 さらに、家畜排せつ物の適正管理と農地還元による有効利用の高度化が求められた。

(3)新たな国営事業の計画樹立
 「肥培かんがいシステム」と「浄化型排水システム」の技術導入

1)国営環境保全型かんがい排水事業の創設
 これらの課題に対応した事業として、家畜ふん尿の有効利用と農地還元、水質の浄化機能を備えた排水路整備などの多面的な機能を有する農業用用排水施設の整備を行い、農業生産性の向上を図り併せて環境保全型農業の推進に資する事を目的とした事業が、国営かんがい排水事業の制度拡充により、新たに平成9年度(1997年)に「国営環境保全型かんがい排水事業」として制定された。
 そして、用水施設の整備による効率的なかんがい利用の確保と、水質浄化機能を有する排水施設の整備を一体的に行う「国営環境保全型かんがい排水事業」の全国で初めての地区として、別海地区(平成11~19年度)が実施された。

2)主な事業の内容
①用水施設の整備
 営農実態を踏まえたかんがい用水の確保。(「ファームポンド」「用水管路」の整備)
②末端かんがい施設の整備(肥培かんがい施設)
 家畜ふん尿を資源として有効に活用するための、家畜ふん尿に水と空気を加え、良質な有機質肥料(スラリー)として利用するための「肥培かんがい施設」の整備。

図-4 末端かんがい施設(肥培かんがい施設)の概要
(釧路開発建設部㏋)
③排水施設~浄化型排水施設の整備
 農地の排水不良を改善するための「排水路」の整備。
 併せて、河川や湖沼の水質を保全するために必要な浄化機能を有する「土砂かん止林」の整備。
 下流河川への土砂や水質負荷物質を抑制する「遊水池」「排水調整池」の整備。

(4)国営環境保全型かんがい排水事業計画の展開
■ 地区設定
 別海町では、別海、別海南部・別海北部・別海西部などの地区ごとに事業計画を策定し、段階的に用排水施設整備を進めてきている。

表-1 別海地域の国営環境保全型かんがい排水事業 地区一覧
(釧路開発建設部㏋)

図-5 別海町内で実施の国営環境保全型かんがい排水事業位置図
(釧路開発建設部㏋)

図-6 完成のイメージ
(釧路開発建設部㏋)

(5)事業実施の効果
 事業創設以来、別海町では、令和7年度現在で3地区約31,000haの整備が完了し、1地区29,411haの整備が進められている。
 本事業により、湛水・過湿被害の解消、牧草の収量および品質の向上、農作業の効率化が図られている。また、家畜ふん尿の有効利用による資源循環と、水質負荷物質の流出抑制を通じて、河川・海域の水質保全や地域環境の改善に寄与している。

図-7 環境保全型農業の確立
(釧路開発建設部㏋)



図-8 肥培かんがい施設の導入による様々な効果発現
(釧路開発建設部㏋)

(6)その他の効果(環境教育への活用)
 ~別海高校酪農経営科による河川環境改善の取り組み~
 別海高校酪農経営科では、農地等からの土砂の流入を防止し、河川環境を保全するため、地域の樹木から取った種を苗まで育て、事業で整備された排水路沿いに植樹を行うまでの一連の活動を、高校生活3年間をかけて取り組んでいる(平成18年~継続中)。その実践的な環境保全活動は、第27回日本水大賞農林水産大臣賞を受賞している。

写真-10 植樹会(別海町㏋)
写真-11 第27回日本水大賞表彰式出席(別海高校提供)

6.自然と調和した日本一の酪農郷を目指して



写真-12 曽根町長(著者撮影)
(別海町 曽根町長へのインタビュー)
 別海町は、内陸部に広がる大規模な酪農地帯と沿岸部に根を張る漁業という、二つの一次産業に支えられ、発展してきた町である。酪農と漁業は、一見すると異なる産業のように見えるが、河川や湖を介して、互いに深く結びついている。

 酪農地帯では、家畜ふん尿を単なる廃棄物ではなく、地域の有機資源として捉え、有効に活用する取り組みが進められている。こうした取り組みは、化学肥料のコスト低減、牧草地の生産性の向上を支えると同時に、周辺環境への負荷を抑える役割も果たしている。一方で、河川を通じて海へとつながる水質は、漁業の持続性に直結する要素であるため、流域全体での環境配慮と酪農振興との調和が不可欠である。
 こうした背景を踏まえ、本町では、国営環境保全型かんがい排水事業を「酪農と漁業が、共存共栄するための基盤づくり」と位置付けている。本事業によって、酪農から排出される家畜ふん尿を適切に管理し、地域の有機資源として活用する仕組みが町全体に整備されつつある。これにより、環境に配慮しながら、資源循環型農業の推進が図られている。

 環境への配慮と産業である酪農との両立は、これから、ますます重要性を増してくる。本事業は、こうした時代の要請に応えるものであり、本町の酪農を将来につなげていくうえで、非常に重要な役割を担っている。

 また、河川や湖については、排水調整池や土砂かん止林などの排水路整備が進められ、水質の改善が見られるようになってきた。家畜ふん尿の資源化といった取り組みは効果が見えやすい一方、こうした水質の改善には、時間がかかる。そのことを踏まえると、本事業を計画どおりに進め、町内全域において必要な整備を着実に進めることは非常に重要である。そうした取り組みの先に、「自然と調和した日本一の酪農郷」があると思う。

7.今後への期待(漁業と酪農の共存)



 別海町は、生乳生産量日本一を誇る酪農地域であり、広大な草地が広がる酪農景観や、「新酪農村展望台」に代表される施設は、この地が歩んできた酪農の歴史と誇りを今に伝えている。

 今後、本町が持続的に発展していくためには、古くから地域の暮らしを支えてきた漁業と、戦後の開拓を経て一大酪農地帯を築き上げてきた酪農とが、互いの存在を意識しながら共存することが欠かせない。そのためには、環境への配慮が「どちらか一方のためのもの」ではなく、町全体の将来を支える共通の基盤として捉える、そうした視点が求められている。すでに国営事業が完了している3地区では、肥培かんがいによる家畜排せつ物の有効活用や、排水路の整備といった取り組みが進み、漁協と酪農が共存するための基盤づくりとして一定の効果が現れてきた。

 こうした取り組みの効果が町全体に根付くことで、自然環境と調和した資源循環型酪農の基盤がより確かなものとなり、漁業と酪農の共存につながっていくと考える。そして、別海町で育つ子供たちが誇れるふるさと、遠く離れていても、自分のふるさとを懐かしく思える、そのような町づくりにもつながっていくことが期待される。


引用文献
1.釧路開発建設部ホームページ
2.別海町ホームページ
3.北海道開発局ホームページ
4.歴史探訪 別海町の大規模酪農への歩み 中瀬洋志
   農村振興 第767号(平成25年11月)全国農村振興技術連盟
5.提言  大規模酪農地域の課題と展開方向 芳賀義博
   農村振興 第813号(平成29年9月)全国農村振興技術連盟
6.この人に聞く 別海町長
   第105号(令和3年3月)北海道土地改良設計技術協会

参考文献
1.根釧パイロットファーム開拓史 昭和50年発行 根釧パイロットファーム開拓農業協同組合
2.別海南部地区事業誌 平成28年3月発行 根室農業事務所

2026年10月23日公開