1.変革前の状況
大河津分水が完成し、郷内の内水排除の条件は整いましたが、前述のとおり「用排水分離」が進まないため、多くの水田は常に湛水状態にありました。
このため、田植え前に育苗する苗代田は郷外に借用し、苗も湛水に耐えられる様、十分な丈になるまで育苗した後に田植えをしなければならない状況にありました。また、前述(第1章2)のとおり、田植えや稲刈りなどの農作業は過酷を極める重作業にありました。
このように多くの水田が湛水していた白根郷が、乾田化するまでには、先人による水利秩序の大きな5つの変革がありました。
2.乾田化への足取り
1)第1次変革:機械排水の導入(1906(M39)〜)
まず、最初の取り組みは農業の生産活動に直接影響する排水対策として、蒸気機関による排水機場の導入です。
従来は悪水が溢れない様に堤防を築き、河川外水が郷内に流入しない様に逆流水門を造る程度の言わば自然事象に対して消極的な対策しか採り得なかった訳ですが、この蒸気機関の導入により湛水を外部に排除すると言う積極的な対策に転じることになり、白根郷にとっては挑戦の第一歩となった大きな出来事でした。
この蒸気機関による排水機場は能力的には劣っていましたが、他村に依存していた苗代田の解消や、田植え等の農作業期間の短縮、そして肥料投入が可能となったことによる農作物の品質向上と収量増を可能にしました。これにより湛水状態にあった郷内の水田は湿田に変わることになったのです。
白根排水機場の蒸気機関排水ポンプ
(出典)
「白根郷農地防災事業誌」(H21.3北陸農政局)
2)第2次変革:水利秩序の安定化(「用排水分離」)(1925(T14)〜)
日露戦争後、小作料引き下げなど農民運動の激化により収入が減った地主層は、生産性を上げて収入増を図るために、用水源である信濃川・中ノ口川からの取水施設の新設や、幹線用水路の整備、更に排水機場の動力源を蒸気機関から電気に変えるなどに取り組みました。これにより「用排水分離」と言う新たな水利秩序が確立されて来ました。
また、排水機場の電化は通年運転を可能とし、排水体系が大きく変化・増強されることになりました。
3)第3次変革:耕地整理 (1931 (S6)〜)
前項により用排水の基本的な施設は整備されましたが、末端部の用排水路は未だ不十分なため、その効果を末端部まで発揮するために耕地整理が取り組まれました。
しかし、この耕地整備は交換分合等を伴わないことから農地が集約されず、圃場末端部も用排水兼用の水路でしたが、不整形な従前の区画が10a(10間*20間)に整理され、末端の用排水秩序は不十分ながらも一応安定化したことから、郷内は湿田から半湿田状態となり、効率的な農作業が可能な状態になりました。
4)第4次変革:地下水排除(暗渠排水)(1942(S17)〜)
郷内の耕作土は信濃川が運んで来た肥沃な土壌ですが、重粘土質で含水率が高く、常時湿潤状態にありました。このため、水稲いもち病の大発生を契機に地下水排除を目的とした暗渠排水事業が取り組まれました。
土壌内の過剰な悪水の排除は、従前の人畜力主体の農作業から、耕耘機等の機械化体系に大きく変化させ、栽培期間や労働時間を飛躍的に短縮する結果となり、郷内の大部分は半湿水田から半乾田状態に変わり、裏作導入も可能になって来ました。
なお、白根郷の暗渠排水は試行錯誤の結果、現在でも素焼きの土管と、籾殻の被覆材で実施されています。