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1.はじめに
2.阿賀野川、小阿賀野川改修と新井郷川放水路の開削
3.国営事業実施に至る背景と沿革
4.阿賀野川左岸、亀田郷地域の取り組み
5.阿賀野川右岸の根幹を成す新井郷川排水機場の建設
6.農地開発営団事業後のこの地の土地改良事業の変遷
7.北蒲原郡土地改良区解散問題
8.阿賀野川地区の今
9.阿賀野川排水事業の概要

icon 1.はじめに



 福島、栃木県境にそびえる荒海山(標高1,581m)に源を発する阿賀野川は会津盆地を潤した後、新潟県に向かって流れ新潟市松浜で日本海に注ぐ流路延長210km、我が国有数の大河である。
 阿賀野川地区はこの大河の下流に広がり左岸は新潟市、亀田町、横越村。右岸は新潟市、新発田市、豊栄市、安田町、豊浦町、紫雲寺町、聖籠町、京ヶ瀬村、笹神村の併せて3市4町3ヶ村、2万5千haにも及ぶ広大な地域でかって多くの潟湖、沼が散在し3年1作と揶揄された大湿地帯であった。
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国絵図の世界
(原図は新発田市図書館所蔵)
 左岸の鳥屋野潟、右岸の福島潟に代表される潟湖(ラグーン)を中心に広がる低湿なこの地の発展は慶長3年(1598年)に加賀大聖寺から入封した、溝口秀勝以降、歴代の新発田藩主が取り組んだ数々の治水、新田開発等の土地改良事業が礎となっている。
 特にこの地では八代将軍吉宗の「享保の改革」による新田開発を受け六代藩主直治が進めた紫雲寺潟干拓に伴う阿賀野川松ヶ崎の掘割が嚆矢となる。掘割は亨保15年秋に完成するが翌年、大量の雪解水が流れ込み破壊し本流となり阿賀野川と信濃川が分離する。これにより内水位が4尺(1.2m)も下がり紫雲寺潟、福島潟、 島見潟等の干拓で新田開発が一気に進んだ。

 この出来事が後年、西蒲原の悪水抜となる内野町、新川金蔵坂の開削。広大な信濃川中下流域の洪水回避のため分水町大河津から寺泊町野積までの10kmを掘り進んだ世紀の大事業、大河津分水路の建設へ続く。
 大河津分水は豪雨時の洪水を全量、日本海へ放出することを可能とし低湿で水との苦闘を重ねた信濃川中、下流域が飛躍的な発展を遂げる基となった。以降、阿賀野川左岸の亀田郷では阿賀野川の改修工事が進み満願寺水門の建設で小阿賀野川からの洪水制御が可能となった。
 阿賀野川右岸では排水改良を目途に阿賀野川に注いだ新井郷川を松ヶ崎で直接日本海へ放出する新井郷川放水路の開削へと続く。
 これらの治水事業の成功で土地改良事業促進への機運が高まり、大型排水機場による強制排水の効果で農地の乾田化が進んだ。
 これを担ったのが阿賀野川事業であり、左岸の亀田郷では昭和23年に鳥屋野潟に集まる排水を栗の木川経由で信濃川河口(現新潟西港)へ排除する栗の木川排水機場(Qmax=40m3/s)が完成した。これにより秋口から一面湖となり「地図にない湖(芦沼)」と表された亀田郷が浮かび上がった。
 また、右岸では福島潟周辺に広がる1.5万haの排水を受け持つ新井郷川排水機場(Qmax=99.0m3/s)に着手し昭和31年に完成した。
 これら排水改良に伴う用水需要増の安定確保を図るため農林省は昭和36年に阿賀野川用水事業、続いて昭和39年に加治川事業(用水)に着手した。


icon 2.阿賀野川、小阿賀野川改修と新井郷川放水路の開削



木津切れと阿賀野川からの洪水カット
 亀田郷を襲った洪水では大正6年に信濃川右岸の曽川地点が破堤し亀田郷全域が湛水した曽川切れが知られるが著名な横田切れとともに数多く紹介されているので、ここでは新津市満願寺で阿賀野川から分流し新潟市酒屋地点で信濃川に注ぐ小阿賀野川の木津切れとその後の対応を述べる。
 大正2年の8月27日から28日にかけて豪雨は止まず小阿賀野川が増水し下木津の賀茂神社下手の右岸堤が下流に向け240mに渡り一気に決壊する。これにより浸水戸数 1,440戸、死者2名の大惨事となった。
 この対策として内務省は昭和4年に阿賀野川改修工事に着手し昭和8年に完成させた。
 この工事で阿賀野川から小阿賀野川への流水を制御する満願寺水門が建設され豪雨時の洪水制御が可能となった。また、船運のため閘門が設けられた。

桟俵神楽
 木津切れ付近の賀茂神社には桟俵を二つ合わせ口とし、ナスの目にカボチャの鼻、頭髪は熊桿(クマビエ)歯は唐竹を割り組み合わせ、金紙を貼った珍しい桟俵神楽が奉納される。
 明治30年頃、水害常襲地帯のこの地区だけ神楽を持たず若者が悔しがっていた。氏子役員に神楽を 買ってほしいとのアピールから祭 礼時に桟俵二枚と蚊帳で急ごしらいの神楽を作り滑稽に舞ったこと が嚆矢で今日まで続いている。
 小阿賀野川は記録に残るだけでも15回も決壊しこの地に大きな被害をもたらした。ユニークな神楽は 水害に苦しむ農民の生活の中から生まれた。金さえあれば何でも手に入る物質万能な現代に警鐘をならし、創意工夫で知恵を出しあえば手近なもので楽しめる精神的豊かさがあることを現代に伝える貴重な文化遺産である。

新井郷川放水路の開削(阿賀野川の逆流防止)とその後

 江戸時代の中期頃、新井郷川は新崎付近で阿賀野川に合流していた。さらに後期になると二度ほど合流点が引き下げられ、明治の頃は阿賀野川と加治川の合流点付近にまで下っていた。しかし相変わらず上流の福島潟周辺は標高が0~2mと低いため農地は阿賀野川からの逆流に悩まされていた。
 その後、加治川は大正3年に加治川分水路で海への切り落としが成功し阿賀野川から分離した。大正9年、 内務省は阿賀野川改修工事の一 貫として新井郷川も同川から切 り離し日本海に放出する松ヶ崎 開削に着手し昭和8年に完成さ せたた。
 これにより阿賀野川からの逆流問題は解消したものの福島潟 周辺は新潟平野の中で最も低窪 地であることと五頭山系からの 十数本の小河川が潟に流入する ため豪雨時の湛水は解消できなかった。
 このため戦前から排水改良のための「農地開発営団事業」が実施され、その後国営阿賀野川事業に移管した。この事業で左岸の亀田郷では域内の排水を日本海へ排除する栗の木川排水機場が昭和23年に、右岸では阿賀北低平地の排水を受け持つ新井郷川排水機場が昭和36年に完成した。そして域内の遊水池の役割も果たしていた福島潟も約半分の168haが昭和50年に干拓された。

阿賀野川右岸地区放水路の歴史
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icon 3.国営事業実施に至る背景と沿革



 本地域は古来「水沼の芦原」といわれ藩政時代から新発田藩主溝口侯の指導で土地改良が行われていた。さらに明治初頭から昭和にかけて実施した大河津分水の成功に端を発し、阿賀野川、小阿賀野川改修、加治川分水路開削、新井郷川放水路開削の治水事業が相次いで実施される。
 これら事業は大河からの外水(洪水)排除が主だが、地域の大半を占める低湿地帯の排水改良(内水排除)と不可分で土地改良事業そのものと捉えられる。
 この外水排除の成功が本地域で大規模土地改良事業促進のきっかけとなる。大正12年に阿賀野川下流左右岸で「県営用排水改良事業」が実施される。さらに昭和16年に農地開発営団が設立され「阿賀野川沿岸大規模農業水利事業」として進められた。
 その後、営団閉鎖に伴い昭和22年10月に農林省が「国営阿賀野川農業水利事業」として引き継いだ。

1.農地開発営団時代(昭和16年~22年)

 左岸の亀田郷では用排水改良が進められ栗ノ木川排水機場の建設と、排水改良に伴う用水需要増のため阿賀幹線用水路、大江山用水路の改修を行った。
 右岸では排水改良が主で新井郷川流域から阿賀野川への流域変更を担う駒林放水路(安野川)新設で新井郷川への負担減と新発田川下流部改修。長浦岡方、須戸、大沼、柳曲等の排水機場建設に取り組んだ。
 また、右岸の用水改良は別途、新江農業水利事業(昭和21~31年)により実施された。

2.国営による農地開発営団事業継承時代(昭和22年~26年)

 営団事業を農林省が引継ぎ右岸地区排水改良計画の再検討を行い新井郷川排水機場建設も含めた計画を樹立し、昭和24年施行の土地改良法による事業切替 えの手続を進めた。
 また、新発田川下流部約1kmの改修工事を完成させ、新井郷川沿岸低湿地帯の排水を担う長浦岡方、須戸、大沼、柳曲、両村等の排水機場と付帯排水路を完成させた。
 左岸では亀田郷の排水基幹施設である栗ノ木川排水機場を昭和23年度に完成させ、これに付帯する横越、清五郎、 山崎、亀田の4排水路も完成 した。
 このことで長年湛水に苦しんだ農地が乾田化し農業基盤を一変させた。同時に両川用水機場、沢海用水機場も完成 し用排水両面に亘り事業効果が 発現された。

3.国営土地改良時代前期(昭和27年~38年)

 右岸の根本的排水計画を取り込む事業計画が昭和27年4月25日確定し、新発田川が新井郷川に注ぐ直上流に新井郷川排水機場の建設が始まり昭和29年には一部運転を開始、昭和36年に完成した。
 これと平行し新井郷川幹線 排水路や付帯排水路の改修が 始まり新発田川、安野川の自 然排水区域でも幹線排水路改 修工事が始まった。
 特に新井郷川排水機場の完 成は永年、湛水被害に苦しん だ福島潟、新井郷川周辺農地 の乾田化を実現し左岸の亀田 郷同様、革命的な効果をもたらした。
 排水改良が進み用水需要増に 対応するため、昭和36年に国営阿賀野川用水事業が着工し国営加治川事業も発足準備が進められた。
 また、左岸では栗ノ木川排水路等の残事業を完成させた。

3.国営土地改良時代後期(昭和38年~48年)

 前期に続き右岸の残工事である新井郷川排水路、新発田川・安野川自然排水路の完成に努め、法手続を昭和42年11月29日に確定させ事業の早期完成を期したが、昭和39年6月に発生したマグニチュード7.5の新潟地震、昭和41年42年の連続して発生した大水害(加治川地区で詳述)、本地区推進母体である北蒲原郡土地改良区の解散問題等が発生し事業は遅延し昭和48年の完成に至った。

※農地開発営団事業
 1941年(昭和16年)主要食糧等自給強化10ヶ年計画が樹立され、この食糧需給強化のため農地の造成を担当する国家代行機関として設立され1947年(昭和22年)に閉鎖された。
 なお、閉鎖後は事業が農林省に引き継がれ「国営事業」として実施された。

※佐野籐三郎氏(大正12年~平成6年)の歩みと功績

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 昭和26年に亀田郷土地改良区総代に選出され昭和30年、32歳の 若さで亀田郷土地改良区理事長となる。人を引きつける魅力と類い希なる行動力で明快な指針を示し、阿賀野川事業の歩みに併せ数々の土地改良事業を導入し芦沼と言われた亀田郷の乾田化に尽くした。
 また土地改良の枠に留まらず都市計画や農村計画にも積極的に取り組み、将来を見据え亀田郷を市街区域、田園区域、オープンスペースに ゾーン分けし今日の都市と農業が調和・共存する日本海側初の田園型政令指定都市、新潟誕生の基礎を造る。
 さらに地域住民の医療福祉向上のため新潟医療生協を設立、木戸病院の建設・開設に尽力した。加えて国際問題にも顕著な功績を残す。特に中国黒竜江省、三江平原の開発に尽力したことでも知られ作家、司馬遼太郎は越後の傑物と称している。

栄誉歴
  昭和36年 1月 新潟県知事賞
  昭和51年 5月 全国土地改良事業団体連合会長賞
  昭和54年 6月 農林大臣表彰
  昭和59年 4月 黄綬褒章
  平成 4年11月 第10回アジアアフリカ賞
  平成 5年 1月 第1回環日本海新潟賞制定記念特別賞
  平成 6年 3月 正6位勲4等瑞宝章

icon 4.阿賀野川左岸、亀田郷地域の取り組み



(栗の木川排水機場の建設・新潟地震・親松排水機場の建設へ)

 前述のように食料増産、農業経営の合理化を目的に昭和16年から農地開発営団による「阿賀野川沿岸大規模農業水利事業」が実施され、栗の木川排水機場や横越排水路、阿賀幹線用水路、大江山用水路等の工事が行われた。
 その後、昭和22年に農地開発営団が閉鎖、営団事業は農林省に引き継がれ昭和23年(1948年)6月に鳥屋野潟に集まる亀田郷一帯の排水を栗の木川経由で信濃川河口(現新潟西港)へ導く東洋一の栗の木川排水機場(Q=40m3/s)が完成した。
 これにより阿賀野川、小阿賀野川、信濃川、新潟砂丘に囲まれた低湿な亀田郷は従来の小輪中、小規模分散排水体系から脱却し、統一機械排水体系での乾田化が実現した。
 しかし昭和30年代から天然ガス採取による地盤沈下 に加え昭和39年6月に発生 した新潟地震で同機場は著 しく機能低下する。この代 替えとして新潟県農地部は 排水口を信濃川に求め排水 能力60m3/sを持つ親松排水 機場を建設し昭和43年に完 成した。
 この結果、鳥屋野潟から信濃川河口(現新潟西港)に排水していた栗の木川は役割を終え昭和43年から埋立て工事が始まり、水原、新津方向から県都新潟に進入する6車線の幹線道路(栗の木バイパス)となり昭和50年に完成した。また、栗の木バイパスの主要道路交差点の名称はかっての橋梁名が残されており東港線に架かった万国橋交差点には当時の欄干も残っている。


 また、平成10年8月の新潟市を襲った集中豪雨の被害から国交省は親松排水機場の脇に洪水時専門の鳥屋野潟排水機場(Q=40m3/s)を計画し平成15年に完成させた。
 そして初代親松排水機場も老朽化したため北陸農政局は亀田郷事業(H14~H20)で旧機場を稼働させながら隣に2代目となる親松排水機場の建設した。

icon 5.阿賀野川右岸の根幹を成す新井郷川排水機場の建設



 左岸の亀田郷同様、右岸でも農地開発営団による「阿賀野川沿岸大規模農業水利事業」が展開され、昭和22年の営団閉鎖後、農林省に引き継がれた。
 前述の新井郷川放水路の建設で新井郷川は阿賀野川と分離し逆流は解消したものの依然として福島潟周辺や新井郷川近辺は新潟平野の最窪地で福島潟には五頭山系から10数本の河川が流入し豪雨時の内水湛水は解消できなかった。これを担うのが新井郷川排水機場である 山地を含む流域から福島潟への最大流入量は115.0m3/sであるが福島潟を洪水調整池に利用し新潟市名目所に99m3/sの排水機場を建設した。このことで統一機械排水体系を可能とし長年湛水被害に苦しんだ福島潟、新井郷川周辺の低位部農地の乾田化が進んだ。
 また、後年農林省で福島潟干拓事業(S41~S51)が実施され168haの農地が生まれた。
 また、新井郷川排水機場(99.0m3/s)も併設機場(11m3/s)も左岸の親松機場同様、老朽化したため阿賀野川右岸事業(S63~H18)で二代目の新井郷排水機場(Qmax=110m3/s)に統合して建替えられた。


icon 6.農地開発営団事業後のこの地の土地改良事業の変遷



 大正12年に発足した「県営用排水改良事業」が昭和16年度から農地開発営団による「阿賀野川沿岸大規模農業水利事業」に変わり、昭和22年に「国営阿賀野川事業」に引き継がれた。そして左岸亀田郷の栗の木川排水機場の建設、右岸の福島潟、新井郷川周辺の低平地の排水を担う新井郷川排水機場の建設へと進んだ。
 また、昭和21年には右岸の長浦、岡方地域へ用水改良を図る新江用水事業にも着手した。
 また、本事業による排水改良による新たな用水需要に対し昭和36年に「阿賀野川用水事業」昭和39年に「加治川事業」が着工した。
 また、北蒲原一帯の洪水調節機能も果たした福島潟は新井郷川排水機場の効果で遊水池の必要性が薄れ昭和41年からの干拓工事で潟の半分168haが農地に生まれ変わった。遊水池減の代償として11m3/sの排水能力を持つ機場が新井郷川排水機場に併設された。
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 その後老朽化した新井郷川機場と排水幹線である新井郷川支線の駒林川の改修を行う「阿賀野川右岸事業」が昭和63年から、同じく亀田郷でも老朽化した親松排水機場の改修する「亀田郷事業」が平成14年から始まり、それぞれ平成18年、20年に完成した。

icon 7.北蒲原郡土地改良区解散問題



 阿賀野川右岸から加治川左岸一帯の土地改良事業は戦前から関係市町村や水利組合、耕地整理組合主導で進められたが昭和24年の土地改良法制定後、国・県の方針で一郡一改良区制が推進され、土地改良区へ一括編成替の指導がなされた。
 これにより昭和27年に阿賀 野川、加治川、その北の胎内川 等の各水系に属する新発田・北 蒲原郡全域3万ha、組合員 22,500人、24事業所を擁する巨 大な北蒲原郡土地改良区(以下 郡土改)が誕生し国・県営事業 の推進母体となった。
 しかし加治川右岸以北は扇状 形の地形毎に個々の水利組織が 管轄し低平な福島潟・新井郷川 流域とは利害関係がない。統合 で別水系の負担も強いる重複賦 課が随所に生まれ、未整理のまま受益農家へ賦課が及んだ。
 郡土改は昭和31年、一部事業所の経理内容不備をきっかけに画一的矛盾を解消に向け、各事業所を32の単位土改に組織改変、賦課も受益の度合いに応ずるとし、自らは傘下土地改良区を総括し二重的な阿賀野川事業の負担団体の陣容を保とうとした。
 その後、排水事業の進展で新たな用水需要から阿賀野川用水(昭36着手)加治川(昭39着手)等、大規模連合組織の必要が生じ、これら団体も広域的促進の視点で郡土改に加わり負担に応ずることとされた。
 この二重、三重負担の不満から郡土改不用論と経費滞納問題が発生する。また、昭和37年8月以降、新井郷川排水機場は県管理となり郡土改はこの機場の賦課金徴収団体化し積極的な改良事業を持たなくなった。続いて昭和38年に阿賀野川用水右岸連合土地改良区が郡土改の名で設立され独立する。
 さらに昭和45年以降は各単位土地改良区が定款を変更し直接阿賀野川事業と阿賀野川用水事業の経費徴収に当たった。このため形骸化した郡土改は役割を終え昭和46年に新潟県知事の解散命令を受ける。
 以上が解散に至るあらましである。巷間、表面上の事象が歪曲して伝わる面に危惧し土地改良の視点で整理した。また、解散直前の昭和44年10月7日新潟日報紙に「仮死状態北蒲原土改区」との特集が組まれている。ここに問題の本質を突いた伊藤胎内川沿岸土地改良区理事長と石井紫雲寺町長の弁が載っているので紹介する。

伊藤理事長と石井町長のコメント要約
 「単に管轄区域を広げれば良いという当初の国の方針に問題があり利害の異なる地域が一緒になっている以上、破綻を来すことは目に見えていた。しかし北蒲全域の乾田化、全農民の夢を結集して設立された北蒲原土改。いろいろな批判もあるだろうがその果たしてきた功績は欠点を差し引いても余りがあると思う...etc」


icon 8.阿賀野川地区の今



(阿賀野川地区は阿賀野川右岸地区、亀田郷地区も包含しているので両地区の記述も参照のこと)

1.地域の農業

 受益の大宗を占める新潟市の農業生産高は平成15年統計で760億円、市町村別では全国1位である。基幹作物は米で全体の6割を占めている。また広大な水田と土地改良水利施設は良質な水稲の生産基盤のみならず現存する福島潟、鳥屋野潟等の現存する潟湖とともに貯水、遊水、地域防災等での公益的機能が高く評価されている。
 米以外にも野菜、果物、花卉、畜産等多種多様な農産物も生産され、国内外に自信を持ってアピール出来る産物を「新潟市食と花の名産品」に指定し新潟ブランドの確立と消費拡大を図る取り組みを行っている。
 事業区域では豊栄地区のやきなす、トマト、梨、横越地区のながいも、亀田地区の藤五郎梅、鳥屋野地区の女池菜、市内全域で栽培される十全ナス等が指定されている。

2.新潟市は日本海側初の政令指定都市となる

 信濃川大河津分水の完成以降、芦沼といわれ水との苦闘を繰り返したこの地は先人が互助と共助で立ち向かい、土地改良事業の後押しで低湿地は蘇り飛躍的な発展を遂げた。
 今日、JR信越線、越後線、白新線、国道7号線、8号線、49号線が通りさらに近年では上越新幹線、北陸、磐越、日本海東北と高速道路が3本も貫き交通の要衝となった。事業区域の大半を占める新潟市は平成17年に周辺13市町村を合し、さらに平成19年には人口80万人8つの行政区を持つ日本海側初の令指定都市となった。

3.亀田郷の鳥屋野潟南部は市民憩いの場に

 平成13年に鳥屋野潟南部に東北電力ビッグスワンスタジアムが誕生し平成14年にサッカーワールドカップが開催された。
 平成21年にはハードオフエコスタジアムも誕生し平成22年にはプロ野球オールスターゲームが開催された。  これら施設が建ち並ぶ鳥屋野潟南部の発展は阿賀野川事業による乾田化と新潟市のスプロール化を防ぐため佐野氏等が提唱した市街区域と農 業地帯を分離する緩衝帯としてゾーンニングしたことが基になっており、良好な環境の中で、スポーツ施設や文化教育施設、医療施設、行政施設が設けられている。


icon 9.阿賀野川排水事業の概要



1.事業年度・事業費
 昭和16年度から昭和48年度
 事業費 8,460,000千円

2.受益地及び面積
 右岸
  安田町    200.2ha
  京ヶ瀬村   1,254.9ha
  水原町    1,621.2ha
  笹神村    2,177.9ha
  新発田市   3,672.1ha
  紫雲寺町   5.0ha
  聖籠村    1,411.8ha
  豊浦町    2,063.5ha
  豊栄市    4,569.2ha
  新潟市    1,121.0ha
 左岸
  亀田町    1,121.0ha
  横越村    1,140.7ha
  新潟市    4,338.2ha
      計  24,596.3ha
  メモ  豊栄市、亀田町、横越村は平成17年に新潟市に合併し新潟市は同19年に8つの行政区を持つ政令指定都市となった。

3.施設
3-1用水施設
(1)揚水機
  沢海揚水機   Q=8.48m3/s φ1,500×2台
  両川揚水機   Q=1.49m3/s φ1,000×1台
  〃       Q=1.89m3/s φ1,000×1台
(2)用水路
  阿賀幹線用水路  Q=8.48m3/s L=1.05km
  阿賀用水路    Q=7.46m3/s L=9.68km
  鳥屋野潟用水路  Q=3.25m3/s L=1.42km

3-2排水施設
(1)排水機
栗ノ木川排水機
栗ノ木川排水機 Q=40m3/s φ1,500×10台
新井郷川排水機 Q=99m3/s φ2,200× 9台
大沼排水機 Q=2.11m3/ φ1,000× 2台
  〃 Q=0.6m3/s φ700× 1台
柳曲排水機 Q=1.22m3/s φ800× 1台
両村排水機 Q=1.23m3/s φ800× 2台
笹山排水機 Q=0.872m3/s φ600× 1台
  〃 Q=0.742m3/s φ500× 1台
笠柳排水機 Q=1.53m3/s φ1,000× 1台
二本松排水機 Q=1.34m3/s φ900× 2台
曽根排水機 Q=0.683m3/s φ600× 1台
法柳排水機 Q=0.66m3/s φ500× 1台
  〃 Q=1.25m3/s φ800× 1台

(2)排水路
栗ノ木川排水路 Q=48.08m3/s L=3.39km
亀田排水路 Q= 5.35m3/s L=3.23km
山崎排水路 Q= 3.57m3/s L=2.50km
横越排水路 Q= 8.25m3/s L=2.96km
清五郎排水路 Q= 6.26m3/s L=3.26km
新井郷川排水路 Q= 158.95m3/s L=11.08km
新発田川機械排水路 Q= 5.09m3/s L=2.73km
加治川承水路 Q= 6.87m3/s L=3.72km
長浦岡方排水路 Q= 11.48m3/s L=3.45km
内沼排水路 Q= 4.20m3/s L=2.22km
銅屋川排水路 Q= 1.22m3/s L=1.93km
両村排水路 Q= 2.45m3/s L=0.83km
山倉川排水路 Q= 43.00m3/s L=5.36km
駒林川排水路 Q= 11.46m3/s L=1.05km
万十郎川排水路 Q= 2.99m3/s L=2.65km
旧小里川排水路 Q= 5.95m3/s L=1.2km
旧小里川支線排水路 Q= 4.21m3/s L=1.38km
吹切川排水路 Q= 3.45m3/s L=2.07km
奥右エ門川排水路 Q= 8.53m3/s L=0.98km
新発田川自然排水幹線 Q=58.48m3/s L=20.16km
新発田川自然排水支線 Q=24.49m3/s L=1.40km
新発田川自然排水分線 Q=7.05m3/s L=1.40km
金清水承水路 Q=4.75m3/sL=3.20km
笹山排水路 Q=1.61m3/s L=0.95km
二藤排水路 Q=1.53m3/s L=1.63km
曽根排水路 Q=0.68m3/s L=1.32km
赤沼川排水路 Q=1.65m3/s L=1.79km
鳥塚支線排水路 Q=4.98m3/s L=1.68km
太田川排水路 Q=5.65m3/s L=2.03km
安野川自然排水幹線 Q=83.18m3/s L=12.09km
小里川排水路 Q=7.14m3/s L=2.58km
小里川支線 Q=5.08m3/s L=2.15km
安野川排水支線 Q=41.81m3/s L=3.26km
大室川排水路 Q=13.12m3/s L=1.07km
法柳排水路 Q=1.91m3/s L=2.33km

参考文献
・阿賀野川事業誌 北陸農政局
・阿賀用水事業誌 北陸農政局
・阿賀野川右岸事業誌 北陸農政局
・新潟県の土地改良 新潟県農地部
・水と土と農民(亀田郷土地改良史) 亀田郷土地改良区
・佐野藤三郎さんをしのぶ 佐野藤三郎記念誌編纂委員会
・国絵図の世界 国絵図研究会
・新潟日報朝刊(昭和44年10月7日) 新潟日報社
・新潟市農業構想(平成18年4月) 新潟市