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1.大河、阿賀野川
2.蒲原平野
3.大開発事業(大規模土地改良事業)
4.阿賀野川支流早出川の灌漑用水路
5.阿国営阿賀野川用水農業水利事業発足までの経緯
6.国営阿賀野川用水農業水利事業の概要
7.事業完了後における国営造成土地改良施設整備事業の展開
8.その後の阿賀野川用水地区

icon 1.大河、阿賀野川



 阿賀野川は、福島県・群馬県に源流を持ち、新潟県を流れ日本海に注ぐ日本有数の川である。福島県の荒海川を源流とし、会津地方では阿賀川(又は大川)新潟県に入ると阿賀野川と幾度も名前を変え、全長は210kmで日本第10位、その水系の流域面積は7,710km3で日本第8位、下流部の河川水流量は日本最大級の河川である。
 本川はその源を吾妻山に発して桧原湖を過ぎ、磐梯山の東麓に接して南流し猪苗代高原に出て、ここで多くの渓流とともに猪苗代湖を形成し、更に、湖の西北方戸の口から出て渓谷の間に下る。ここで五つの支川を併せ山間部に入り、最大の支川只見川を左に入れる。
 支川、只見川は、群馬、福島両県境の尾瀬沼から発し只見地点で北又川を併せ、東北に流下して 本川に合流しているが、この流路は両岸峻しく、深い渓谷を形成し平坦地はほとんど無い。

 数多いこれらの支川を加えた阿賀野川は水量を増加して山岳丘陵の間を西方へ迂曲還流して新潟県に入り、津川町で左支川常浪川の合流を経てさらに下流23kmで現在の阿賀野川頭首工がある馬下に至り、ここで漸く山地を離れて平野地帯に入る。
 本川の流末は、海岸線に近づき新潟県松ヶ崎付近から折れて海岸砂丘に沿い西流し信濃川に合流して海に注いでいたが、享保年間新発田藩が新田開発を進めるため潟湖開発の条件として現在の通船川分水口から松ヶ浜に至る海岸砂丘を開削し分水路を設けた。
 しかし、この分水路開削口には制水門があって効果は上がらなかった。そして翌享保16年春、融雪洪水のためこの悪水吐の制水門は破壊され、川幅が80m余に決壊し完全な河口を形づくり現在に至っている。


icon 2.蒲原平野



1.平野の生成

 蒲原平野は地質学上ごく新しい土地で昔は「水沼の蒲原」といわれ広々とした沼地であった。
 康平3年(1060)に作成したといわれている康平図によると現在の平野部は海湾状をなし、わずかに島が点在している程度であった。
 貞観5年(863)に大地震があり、この地域の地形は大きく変化を来たし更に229年後の寛治6年(1092)に大津波があって海岸線が大きく変わり、現在に近い海岸線に変化をしたといわれている。
 その後、阿賀野川、信濃川等の搬入土砂と西北西の季節風及び沿岸流により不連続な砂堤が角田弥彦山塊より岩船の葡萄山塊に至る延長65kmの間に形成され、それが次第に成長し幅員1.5~2.0kmの細長い砂州が生じ、さらに発達して新しい地形を形成していった。
 この沿岸洲は越後平野の成立に大きな役割を果たしたが、角田から岩舟までの65kmの間に信濃川の河口があるばかりで非常に排水の悪い平坦低湿な平野を形成した。
 この低湿な沼沢地に開発の手が加えられたのは藩政時代以後で、特に慶長3年(1598)加賀大聖寺より移封された新発田藩溝口秀勝以降の歴代藩主が治水開田等開発事業に大いに力を注ぎ落掘川、加治川、阿賀野川の治水や用排水路開削事業を起こし莫大な経費と労力を費やしてその治績を高めた。
 しかし、藩政時代は直轄領・村上領・新発田領等と分割政策がとられたため、総合的な国普請とはなり得なかった。

2.平野の歴史的過程

 会津盆地を通り、山間地を抜けて蒲原平野に出る阿賀野川が豊かな水をもちながら、蒲原平野でこの水を利用する点での歴史はそんなに古くない。農林省農地局の農業水利実態調査によれば、昭和30年当時、阿賀野川本川から取水する農業用水の大半はポンプ揚水で、自然取り入れは新江用水、南耕用水の2箇所のみで、明治以前の開削は新江用水ただ1箇所である。
 この平野に人間が定着して以来続けられてきたのが湛水排除の努力で、もっとも有名なもの が新発田藩に移封された溝口秀 勝の治水開田である。当時秀勝が領した封地は加治川以西の北蒲原と中蒲原、南蒲原に亘る広大な領地で、その中には信濃川、阿賀野川の2大河川を始めとして加治川、刈谷田川、五十嵐川等が自由奔放に流れていた。
 以来、歴代藩主自ら陣頭に立って治水開田が続けられ、その後、明治40年~大正2年の加治川分水路工事、大正4年~昭和8年の阿賀野川河身改修工事により初めて一応の完結を見るのであった。
 この治水事業は、いずれも洪水防御を目的としたが、低地の湛水排除と密接な関係を持つ点では土地改良事業そのもので、阿賀野川河身改修工事の中で実施された新井郷川の改修は、文字通り湛水排除とその軽減が目的だったのである。
 この地域に大規模な土地改良事業が導入されたのは昭和16年であり、後に国営阿賀排水事業となった「阿賀野川沿岸農業水利事業」が農地開発営団の手で開始された。


icon 3.大開発事業(大規模土地改良事業)



1.松ヶ崎の開削
 阿賀野川下流域で長い歴史を持つ新江用水も、遡れば溝口公の治水開田につながるのである。新発田藩は、松ヶ崎の砂丘を真っすぐ切り開き、阿賀野川の水を海に落とせば一帯の低地の開発が可能になると享保の中頃から考えていて、幕府に対して松ヶ崎の切り落としの請願をひそかに行った。
 一方、阿賀野川が流れ込む新潟湊方は北陸唯一の幕府御用湊で阿賀水を止められては大船の入港に差し支える等の反対もあったが、新発田藩が常時阿賀水を七割以上湊へ流入させること などを条件にして、享保15年(1730)に歴史的偉業である開削工事は一応完成を見た。
 ところが、翌16年、阿賀上流の会津地方が大雪でしかも春の暖気が急に来たため雪解け水が阿賀野川へ一気に流れ込み、そのため下流は洪水となり開削の川幅は押し広げられ一夜にして阿賀野川本流となってしまった。
 これが原因で阿賀野川の水位は2m以上も低下し、それまで阿賀野川上流からそれぞれ原始的な取り入れ口を設けていたものが全く取水不能となり、また周辺の低湿地は短い間に干上がり稲作の枯死が頻発するなど、領民の苦悩は勿論のこと藩財政もその極みに達し、これを契機に新発田藩の大開発事業が計画された。

2.新江用水路
 阿賀野川の水位低下に伴い取水不能となった右岸沿いの新発田藩岡方組(53ヵ村)が、灌漑用水の補給と併せて新田開発を求めて起こした運動が新江用水路開削の発端である。
 しかし、上流地域では下流に比べ用水の心配が少ない沢水やため池灌漑が主であったことから、新設水路には反対の立場であった。
 また、この地域は幕府領、他藩領が入り組んでいて相互の排他性が強く、利害の対立から取りまとめに苦労した。
 岡方組は直接幕府に嘆願するなど積極的行動を行い、他領諸村の農業経営に支障の無いよう一切の責任を持つという約束の下で、享保19年3月に幕府の許可を得 て起工し、同年12月に完成している。
 この水路は、往時の幕政時代には国内最大級の規模と最高の技術陣を動員したといっても過言ではない。

3.南耕用水
 もう一つの自然取入、南耕用水は新江開削よりはるかに遅れ、昭和年代に入ってからである。
 新江用水は往昔、阿賀野川の蛇行とそれに伴って堆積の発達した高位地域の用水として開削されたものであるが、南耕用水はこの恩恵を受けられなかった低地と後背山地からの渓流水を水源としていた山麓地域で、新江用水の南部に位置している。
 旧幕時代の地図を見ると入江や沼沢の状態にあり、阿賀野川の氾濫のたびごとに土砂が流れ込み堆積されて現在の耕地となり、散在している集落の周囲に田畑が開拓されていったものと推察できる。したがって地形的に砂・土・砂礫土等あり、また一定しない中に泥灰の埋もれている沼沢の跡地もあった。耕地はおもに水田が多かった。
 旧新発田藩主溝口氏の 開発した新江用水開削後 も、大部分は近くの山地から流れ出るいわゆる山 水を灌漑にしてきたので旱魃等に年々苦しみ、米の収量も僅かであった。
 また、福島潟より新井郷川によって松ヶ崎浜に排水する悪水が停滞し、湛水による被害も少なくなかった。  このような状況は、明治、大正を過ぎても放任されていたが、地方有識者には不毛の沼沢の開拓や低位の畑地の開田化も重要であるが現在の用水不足を緩和して農家の生活の向上と経済的な安定を得ることも重大な問題であると、常に懸案視されていた。
 大正8年、開墾助成法の制定を受けて、同12年に北蒲原郡南部郷耕地整理組合が発足し、その後は色々と紆余曲折はあったものの、昭和2年に南耕用水路の着工に至っている。
 記念誌には、「以来実に五星霜その間掘削水路の延長は一万八千余間でその深度も八十尺に及ぶ難工事の隧道であり、地盤の軟弱のところから暗渠があり、この工事のため犠牲者を出す不祥事もあったが、皆さんの奮闘努力、組合員の協力の下至難の難関をとどこおりなく突破して、竣工を見たのである」と記している。着工以来12年の年月を費やし、当時はまれに見る大工事として昭和14年に竣工している。


icon 4.阿賀野川支流早出川の灌漑用水路



 早出川は、旧村松町と旧下田村境の矢筈岳を源に、旧新津市郷屋付近で阿賀野川に合流している。
 流域である旧村松町と五泉市にかけての広い平坦地の水田耕作を可能にしたのは早出川の各地に湧出する清水を水源とする用水路の整備であった。
 本地域の新田開発は、江戸前期から中期 にかけて盛んに行われているが、これらの 地域を支えてきていた二本の基幹用水路が庄之江と下条江である。近世において一万 数千石の用水路でありながら、この両江に ついては、いつ、誰が開削したかという記録がまったく見当たらない。近世中期以降の両江をめぐる上流と下流の水争い資料にも誰が開削したかの記述は見当たらない。現存の関係文書で最も古い元和5年(1619)「菅名下条せき普請仕るべき村々の覚」にしてからが、藩からの「普請」の指示であって、下条江の存在自体は既定の事実となっている。
 このような事情を考え合わせればこの両江は中世にさかのぼる用水路とみて間違いないと思われる。

1.庄之江
 庄之江は川内村・矢津村付近で早出川・仙見川から取水し、早出川・能代川の間の一万石余を潤す用水路である。
 庄之江の流域は近世の初めは村上藩の一円支配であったため、問題が起きても比較的簡単に解決できたが、寛永19年(1642)に村上堀家が断絶して以後、遺領が村松藩領や幕領に分割されると対立が表立つようになった。江組の上流の村と下流の村と取り入れ口の村、さらに早出川・仙見川筋の村、これらの互いに相反する利害に幕領・諸藩領の支配が絡んで、延々と紛争が続くことになる。
 この庄之江筋は明治に入って庄之江用水普通水利組合に組織化され、昭和27年には庄之江土地改良区の発足を見ることとなった。

2.下条江

 下条江は、矢津・門後の清水と早出川からの取水を水源とし、五泉町を通ってその北に展開する諸村を灌 漑する用水路である。
 下条江組も上・中流域と下流域の争いは絶えなかった。用水不足の根本原因は、この江のさらに上流一帯の開発が進むにつれて清水の水量が年を追って減少し、その上、早出川からの取水も洪水のたびごとに瀬が変化して取水が簡単にいかないことなどであった。
 江戸時代の下条江組は明治に入ってやや範囲を拡大し、同14年に下条江用水組合、同26年下条江普通水利組合となった。


icon 5.阿国営阿賀野川用水農業水利事業発足までの経緯



 大正13年から始まった県営用排水改良事業による大規模土地改良事業は、戦争による労力、資材が極度に不足するなかで昭和16年からは農地開発営団事業を加えて大規模化するが、実を結ぶことなく終戦を迎える。
 昭和21年に農地開発営団閉鎖、同22年国営移管となったが新潟県では、国営事業の事業費の増額と大規模農業水利事業への要望が高まり、昭和22年12月の国営農業水利事業促進北陸協議会の発足となる。そしてこれは更に全国協議会の発足へと発展していく。
 このような、全県的、全国的な展開のなかで、「阿賀野川に頭首工を」の運動が具体化する。先ず昭和25年7月には、阿賀野川左岸に大規模用水取入事業促進協議会が、次いで右岸大規模用水既成同盟会と両岸大規模農業水利事業促進協議会が発足した。
 また、左岸に比して右岸では農地開発営団時代からの阿賀排水、新江用水の国営大規模事業があってそれなりの体制は確立し、それぞれの独自性-を持っていた。
 他方、大規模用水事業の促進は必然的にその受け入れ団体を必要とするが、これを巡って対立があり、左・右岸土地改良区連合の設立までに相当の期間を要することになる。

1.左岸地区

 左岸では、昭和7年以降、主として新津郷を中心に県営大規模用排水改良事業が行われた。この場合もこの地区における用水不足が問題となっているが、戦後、村松郷耕地整理事業実施の際、安定した用水源の確保に苦慮し、新規水源の必要性が叫ばれていた。
 このような実情を背景として昭和25年に、中蒲原南部郷地域の土地改良事業を完成させるためには「水源を阿賀野川に求め一大用水改良事業計画による他ない」ということで意見が一致し、阿賀野川左岸大規模取入事業促進協議会の発足を見た。昭和26年からは基本調査が開始されるとともに、促進協議会が中心となって事業化に向かって準備が進められていった。そして昭和35年の総会で、土地改良区連合を設立することと、両岸の連携と事業の開始を促進すること等が諮られた。
 一方、事業の実施が具体化するに従って、それに対する反対運動も激しくなる。昭和33年にこの事業が全体実施設計着手地区として国に認められると、「事業によるつぶれ地減反に反対」「経費負担が必要」等の陳情書が提出されたのを始めとして、他の関係地区からも「異議申立書」や「絶対反対の請願書」が提出された。
 このように激しくなる反対運動に対して地元関係者の努力が続けられ、昭和36年に入ると左岸連合設立準備委員会は、反対運動との協議、懇談会を行う一方で、同意書と事業施行申請書の提出を急ぐことになる。そして、昭和37年に事業が着工された。
 他方、事業着工されたものの地区除外や左岸土地改良区連合設立の問題解決が残されていたことから、関係者の努力がさらに続けられ、昭和44年に漸く大規模用水取入事業推進の組織が確立した。

2.右岸地区

 昭和2年~15年、開田事業と同時に実施された南耕用水事業によって北蒲原郡南部郷における用水の改良が進められた。さらに、昭和16年農地開発営団(後に国営移管)阿賀野川農業水利事業が発足、画期的な排水改良が実現することになる。
 他方、昭和10年代の後半から阿賀野川の流心変動、水位低下、さらに鹿瀬発電所などの影響で、阿賀野川からの取水が困難となり、昭和21年に国営移管の新江農業水利事業の発足を見ている。また、南耕用水でも戦後の耕地整理事業による用水不足が阿賀野川の水位低下と絡み、中間補水ポンプや取入りのためのポンプを設置している。
 このような事情を背景に昭和25年に阿賀野川右岸大規模用水期成同盟会が発足した。この期成同盟会は、左岸関係者と連携して用水の取水量や陳情の方式などの基本方針の策定を行い、事業計画のための調査費獲得に動き出すなど事業化に向けた活動を行っていく。また、昭和28年頃から、「両岸促進協議会」を中心とする共同的運動も強化されていく。
 一方、事業が具体化していくに伴って、左岸と同じくそれに対する反対運動も起きる。反対は「将来における水利権の確保や多額の経費負担をしても生産効果は無い」「用水は足りている」などによる地区除外の陳情等である。これらに対しては関係者が精力的に整理するとともに協議会や説明会を開催して理解を求め、昭和33年に入ると受入協議会を開催して受け入れ態勢の整備を図った。また同年3月、国に全体実施設計着手地区として認められたことを受け阿賀野川用水土地改良区連合右岸準備委員会を発足させ、地元負担金や事業計画に対する諸問題、改良区連合の組織についてなど多岐に亘る審議を行った。
 国営事業の実施方向がより具体化してくると、この事業に対する更なる陳情書や要望事項が提出され、幾多の調整を行っている。
 そして、その後同意書の取り纏めが進められ、昭和35年8月に「国営土地改良事業施行申請書」が提出された。
 他方、阿賀野川大規模用水の受入団体が最終確定しないままであったことから、喫緊の課題として精力的な調整を行い昭和36年8月に「阿賀野川用水右岸受入協議会」を結成し事業への参加を決めた。ここに漸く着工態勢が整備充実され、昭和38年に阿賀野川右岸16土地改良区による阿賀野川用水土地改良区連合が設立した。

icon 6.国営阿賀野川用水農業水利事業の概要



 本地域は、新潟県の北部、阿賀野川の両岸に展開する穀倉地帯として名高い、新潟平野の中核的地域である。阿賀野川を主要水源とする本地区は、新津市外2市7カ町村(市町村合併以前)におよぶ水田15,083ha、畑77haを受益地とする。
 地勢は阿賀野川、早出川、能代川によって形成された肥沃な沖積平野で、北側に緩い勾配(1/3,000)の低平(標高2m~40m)な水田地帯である。これまでは、阿賀野川とその支川、渓流及び地下水を水源としていたが、主要水源となっている阿賀野川は、河川改修並びに上流のダムの築造に伴って河床低下が著しく、支川は豊渇水の差が大きく、また近年地下水位が低下する傾向にあり、必要水量が確保できず、毎年用水不足に悩まされていた。
 一方低平地では度々の水害に対処して排水改良事業を実施してきたが、用水不足のため乾田化することができず、機械化など農業経営の合理化が困難であった。
 このため本事業は、かんがい用水改良事業を目的として阿賀野川と早出川に頭首工を新設し、水路の新設、改良により用水の確保と合理的な配水を行うべく、昭和26年より調査計画を開始、昭和33年~36年度に全体実施設計を行い、昭和37年度より事業に着手、昭和39年度からは特別会計に振り替えて事業の推進を図った。
 しかし、その後の社会情勢の著しい変化への対応と本事業の効率化を図るため、阿賀野川頭首工並びに右岸幹線水路を新潟臨海工業用水道(第2期)事業(5.142m3/s)新潟東港地域水道用水供給企業団水道用水供給事業(0.888m3/s)および水原町外3カ町村水道企業団水道事業(0.28m3/s)との共同工事とする等、2回に及ぶ計画変更を行い昭和58年度に完了している。

1.主要工事

(1)関係市町村(合併前で標記()内は現在)
 右岸:豊栄市(新潟市)、豊浦町(新発田市)、笹神村(阿賀野市)、水原町(阿賀野市)、安田町(阿賀野市)、京ヶ瀬村(阿賀野市)、横越村(新潟市)
 左岸:新津市(新潟市)、五泉市、村松町(五泉市)
(2)受益面積
 右岸:9,119ha
 左岸:6,041ha
 全体:15,160ha
(3)主要工事
1)阿賀野川頭首工
 フローティング可動堰、
 取水量:
 48.46m3/s
 堰長:
 206.4m
2)早出川頭首工
 可動堰、
 取水量:5.68m3/s
 堰長:70.0m
3)用水路
 右岸:60.1km
 左岸:41.9km
4)揚水機場
 7機場
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icon 7.事業完了後における国営造成土地改良施設整備事業の展開



 昭和38年~昭和42年度に掛けて築造された施設について、その後3回にわたり国営造成土地改良施設整備事業が導入され、阿賀野川頭首工を主にして施設の機能維持が図られている。

1.平成元年~平成5年度の施設整備事業 頭首工の護床・護岸工・予備ゲートの設置及び頭首工管理橋の改築等
2.平成12年~平成15年度の施設整備事業 頭首工・幹線用水路の土木構造物施設機器類及び用水管理施設の改修等


icon 8.その後の阿賀野川用水地区



 阿賀野川によって形成された肥沃な沖積平野も用水に対する心配が無くなり、基盤の整備が進み、大区画化・乾田化、複合的な農業経営も行われ、一段と豊かな穀倉地帯に生まれ変わっている。



《参考》
関係市町村全体の水田整備率・汎用化率
(新潟県農地計画課調べ)
・30a区画以上を基本とした水田整備率 48.7%(平成24年)
・畑作利用可能な汎用化水田率 27.7%(平成19年)

(参考文献)
・国営阿賀野川用水農業水利事業誌 :北陸農政局阿賀野川用水農業水利事業所
・同上完工記念写真集 :同上
・阿賀野川流域図 :北陸地方整備局阿賀野川河川事務所
・新潟県土地改良史 :新潟県農地部
・北蒲原地域をめぐる歴史ガイド「蒲原」 :新潟県新発田地域振興局
・私たちの阿賀野市 :阿賀野市小学校長会
・五泉市史通史編 :五泉市
・村松町史(上) :村松町
・北蒲原郡南部耕地整理組合記念誌 :北蒲原郡南部耕地整理組合
・新江用水沿革誌 :北蒲原郡南部耕地整理組合
・新江用水沿革誌 :北蒲原郡新江土地改良区
・五泉土地改良区変遷誌 :五泉土地改良区
・にいがた歴史散歩「豊栄・北蒲原1」 :新潟日報事業社出版部