信濃川の流れに沿い長岡方向から県都新潟方向に拡がる蒲原平野は阿賀野川を越え新発田、村上方向まで続いている。かってこの地は多くの潟湖、沼が散在し3年1作と揶揄された超低湿地帯だった。この平野の北東に位置し加治川と阿賀野川に育まれた北蒲原は今日、我が国屈指の食料生産基地となった。特に加治川流域は古くから「加治川米」と称される良質米産地として名高い。
加治川はその源を新潟、山形県境の大日岳(2,128m)に発する。深いV字峡谷をなして西方に流下し北股川、内の倉川を合し平野部に入ると緩い扇状地を形成し二王子岳(1,420m)を源とする姫田川と合流し日本海に注ぐ流路延長58km、流域面積が346km2の2級河川である。
この川はかつて何本にも分かれ本川は阿賀野川に注ぎ派川は低平な紫雲寺潟(塩津潟)、福島潟などの潟湖に流入する。また、阿賀野川は現在の河口上流1km手前で西に向きを変え信濃川河口に合流していた。
正に「降れば洪水、晴れたら干ばつ」のこの地の発展は加賀大聖寺から入封した溝口秀勝以降、歴代藩主が取り組んだ治水や新田開発等、土地改良の効果が大きい。
しかし、美田が拡がる光 景は一朝一夕に整えられた のでなく、我々は自然の猛 威に敢然と立ち向かった先 人の苦労と受難の歴史を忘 れてはならない。
特に八代将軍吉宗の「享 保の改革」における新田開 発を受け6代藩主、直治が 進めた紫雲寺潟干拓に伴う 落堀川開削と加治川の余水 吐となる阿賀野川松ヶ崎掘 割の築造が低湿地が蘇る画 期的な出来事となる。掘割 完成の翌年、大量の雪解け 水が流れ込み掘割を一気に 破壊し本流となり、阿賀野 川は信濃川と分離した。
これで内水位が下がり紫雲寺雲寺潟だけでなく、福島潟、島見潟の干拓も進んだ。このことが後年、西蒲原の悪水抜きとなる新川開削、大河津分水路の建設等、直接海へ切り落とす十数本の放水路の開削要因となり、低湿な蒲原平野の排水改良が劇的に進み、多くの農地が誕生した。
慶長3年(1598年)5月、加賀、大聖寺の領主、溝口 秀勝は、幾多の武勲で豊臣秀吉から1万6千石を加増 され6万石の格式で越後、新発田に移封となる。家臣、 領民と喜び勇んで入封した領地は福島潟や紫雲寺潟な ど多くの潟湖、沼があちこちに散らばる大湿地帯であ った。
領地は加治川以西の北蒲原から南蒲原の中之島まで 拡がるが「光秀に騙された!」と悔しがった逸話から 葦が茂る大湿原だったのが偲ばれる。
また、この地は信濃川の他、中之口川、刈谷田川、五十嵐川、阿賀野川、加治川などの大河が流下し、豪雨となればたちまち氾濫、一面湖水をなし額面6万石の領地は実質2万石程だった。秀勝移封後、歴代藩主は干拓、開田、治水等、土地改良を藩是とし、「農業土木」に長けた奉行と陣頭に立ち、ひたすらに土地づくり、農地づくりに励んだ。
新田開発は信濃川流域から進む。特に6代直治は享保13年に前述の紫雲寺潟干拓(開発面積1,696町歩)という大事業に取り組む。
当時、加治川本流は阿賀野川に注ぎ阿賀野川は信濃川と合流していた。紫雲寺潟干拓には潟に注ぐ加治川分流の境川を締め切らねばならないが、紫雲寺潟の遊水池機能が失われ新発田城下の湛水と阿賀野川の増水で新潟湊に支障が出る懸念が生じた。このため阿賀野川の松ヶ崎地点に増水分だけ直接海に流す放水路(松ヶ崎掘割)を築造、享保15年11月に完成する。
しかし翌年、雪解け水が一気に掘割に流れ込 み阿賀野川本流となった。
このことで内水位が4尺(1.2m)も下がり紫雲寺 潟、島見潟、福島潟の干拓が進んだ。(なお、新発 田市天王の市島家は加賀大聖寺から秀勝に随従した 百姓で福島潟の干拓や農地開発に努め、越後一の巨 大地主となった。また、いわゆる県内の千町歩地主は圧 倒的に新発田藩領内に多い)。
新発田藩が進めた事業はこの他に信濃川、阿賀 野川築堤、新江用水の取り入れ、小阿賀野川の開削、通船川の開削(阿賀野川旧河道の整備)、加治川及び加治川支派線の背替え、信濃川、天野背替え、白根郷、白蓮潟の干拓、大通川の改修等数多い。これにより幕末には実質20万石を誇ったという。
また、270年間、国替え改易が無く12代も続いた。そして明治元年の信濃川大洪水を契機に被害を最も多く受ける新発田藩が率先し他の6藩と大河津分水計画を越後府知事に建白した。
江戸時代の北蒲原では加治川等の中小河川はいずれも断面不整形で屈曲し、紫雲寺潟や福島潟に流入していた。また、山地から運ばれる土砂で河床が上がり、その一部は潟に流入、堆積し湖底が上昇、洪水調節機能を減じた。周辺一帯が低平で無堤地のため、ひとたび豪雨となれば各河川はたちまち氾濫し、濁流は四囲に溢れ泥沼化した。
その後、溝口侯が進めた治水事業と大正2年に完成した加治川分水路(海へ切落とし)の効果で近代まで大きな被害がなかったが、昭和41年、42年と未曾有の大水害が連続して発生する。
・昭和41年7.17(下越水害)水害について
新潟県北部に停滞した梅雨前線による集中豪雨は加治川流域にも及び二王子岳で263mmの最大日雨量を記録した。
これにより加治川はJR羽越線から海側 の加治川村、向中条地先で11時頃右岸が 決壊、さらに16時頃、左岸の新発田市西 名柄地先も決壊した。
左岸から溢れた濁流は新発田市、豊栄 町、豊浦村、聖籠村、笹神村、新潟市 (当時の市町村名)の2市4ヶ町村に流 れ込み9,000haが湛水した。特に阿賀野 川に近い低平な豊栄町では福島潟の溢水 と重なって多くの住宅が浸水し左右岸併 せて11,700haが長期間にわたり湛水する 甚大な被害となった。
加治川左岸から阿賀野川右岸一帯は機 械排水に頼るが、農林省が新潟市名目所 に設けた新井郷川排水機場(初代機場: 最大排水量99m3/s)のフル稼動でも処理 できず、このため決壊した 西名柄の西方20kmの阿賀野川右岸、高 森地先の堤防を自主決壊(開削)させ排」除しなければならなかった。この行為は 当時、一級河川堤防を開削した超法規的な措置と話題になった。また、開削地点には昭和57年に洪水時専用の胡桃山排水機場(Q=30m3/s・国交省:現在は増強されQ=50m3/s)が建設された。
・昭和42年8.28(羽越水害)について
8.26~8.29にかけてこの地を襲った大水害で、被害が山形県、福島県を含む広範囲に拡がり羽越災害ともいわれる。加治川流域の二王子岳は最大日雨量337mmを記録し、前年の下越水害を上回る甚大な被害をもたらした。 県下の被害は村上市、新発田市、岩船郡、北蒲原郡に集中し加治川はまたもや左岸の西名柄、右岸の向中条地先で決壊した。
連年の大水害を契機に加治川本川に治水ダム計画が浮上し、我が国最大の加治川治水ダムが生まれ、当事業の内の倉ダムも洪水調節機能を持つ多目的ダムに生まれ変り昭和47年に完成、加治川治水ダムは昭和49年に完成した。
また、地区内最低位部の福島潟には十数本の河川が流れ込み、その排水を下流の新井郷川排水機場が受け持つが、排除しきれない洪水時に直接日本海へ放出する福島潟放水路が計画され昭和44年に着工する。この水路は平成10年8月水害で建設が促進され平成15年に完成した。
加治川流域と福島潟を含む広大な地域の洪水・排水対策は新井郷川排水機場(現機場は二代目)、胡桃山排水機場、福島潟放水路、新発田川放水路、安野川、 内の倉ダム、加治川治水ダム等の効果により 平成16年7月と同23年7月に県下各地で未 曾有の被害をもたらした「新潟福島豪雨」でも湛水被害を最小限に留めている。
ダム型式はダムサイトの地形や地質に応じアーチ、重力、ロックフィル、アース等が計画されるが内の倉ダムは農林水産省初の中空重力式のダムである。
この形式はコンクリートが高価だった頃、あるいは交通手段から輸送量を減ずる等から考案された。基本は重力式だが内部に中空部を設けコンクリート量を減じコスト縮減を図っている。
しかしコンクリートが安価となったこと、型枠が複雑で人件費が嵩むことから、昭和47年の内の倉ダム完成を最後に新規の建設はなく我が国で現存するのは13基である。
また、コンクリート打設は柱状工法で施工されたが、これも現在では、超硬練コンクリートをブルドーザーで敷均し振動ローラーで締め固めるRCD工法等の面状工法が主流となっている。
さて、41年、42年の未曾有の大水害で加治川が破堤し11,700haが湛水し、この大災害を機に加治川に新たな治水計画が浮上した事は前述した。
その結果、加治川本川に日本一の規模(堤高106.5m総貯水量22,500千m3)の加治川治水ダムが昭和49年に完成、ダム地点で毎秒1,600m3の洪水を、1,250m3カットして下流に350m3放流する。昭和47年に完成した内の倉ダムもダム地点で毎秒710m3の洪水を460m3カットして毎秒250m3に抑え下流に放流することとした。
現在、新潟県土木部が内の倉ダムの管理所から6,000haの農地へ用水補給とともに近傍の加治川治水ダム、胎内川ダムも含めた治水の一元管理を行っている。
また、農業用施設利用の小水力発電は国内に26箇所建設されたが、中でも内の倉ダムは2,900kwという我が国最大の発電規模を誇っている。
加治川農業水利事業が計画され始めたのは昭和25年頃である。
当時は阿賀野川排水事業で北蒲原一帯の排水改良を担う東洋一の新井郷川大排水機場計画が具体化していた。排水が改善されると必然的に用水不足が起こる。 近代的機械化農業推進には用水の安定確保が急務だが加治川流域は夏期の用水不足から上下流間の水争いや稲作の減収に悩まされていた。
このため北蒲原の各市町村長は、岡田正平新潟県知事を会長に据え昭和25年12月、阿賀野川右岸大規模用水期成同盟会を結成し、阿賀野川右岸地区の約1万haと加治川流域の8千550ヘクタールをかんがいする大規模用水事業を国営で実施するよう農林省に陳情した。
一方、農民側も経費の負担と水利権喪失の懸念から、反対運動が起こり時には促進、反対の両代表が農林省で鉢合わせたが事業実現にこのような好機は二度とないと精力的に運動が続けられた。
これを受け金沢農地局計画部は昭和26年から昭和33年の8ヶ年、加治川の左右岸や内の倉ダム建設予定地の調査を実施した。計画の骨子は水源施設として加治川支流の内の倉川に農業、上水道の多目的ダムを建設し加治川から取水する45箇所の井堰を第一、第二頭首工に統合する。さらに現況用水路が全線非効率な土水路であるため、これを舗装し合理的な水配分を行い維持管理費の節減を図ることとした。
加治川は昔から下越の名川として県下に名をなす。特に十里の桜堤は海外にも知られるほどだった。また、8月から9月にかけて清流に遊ぶ若鮎が沈床を上る様や鱒の群れを追い立網で捕獲する壮観さは加治川ならではのものだった。
しかし悪夢は電撃的に襲い41年7.17、42年8.28の大災害は加治川沿岸の取水施設を根こそぎ濁流が呑み込んだ。このことで基幹施設の内の倉ダムは農水、上水に治水も加わり共同事業で実施された。さらに後年、小水力発電も取り込まれ農家負担軽減にも寄与している。
1.地区の営農
用水改良により、ほ場整備等の基盤整備が飛躍的に進む。また、コシヒカリに代表される水稲を主に、水田の畑利用による大豆、アスパラガス等を組み合わせた農業生産が展開され我が国有数の食料供給基地としての役割を担っている。
2.内の倉ダムで堤体内コンサート
「地域に開かれたダム等の施策推進」からダムを積極的に開放し、内の倉ダムでは中空部分を活用した「堤体内コンサート」が毎年10月に開催されている。堤体内では音がとても良く響き大好評である。
また、春から秋にかけて多くのハイカーやサイクリスト、釣り客が訪れ、風光明媚なこのダムに親しんでいる。
3.国営「加治川用水」事業が平成24年度に発足
加治川地区は完成後40年が経過し内の倉ダムや加治川第一、第二頭首工及び用水路の老朽化が進行した。また、事業完成後、営農形態の変化に伴う用水需要の変化から用水不足も顕在化している。
このため環境との調和に配慮しつつH24~H35に老朽化した一期事業の施設の再整備と用水不足解消に向け、ため池の新設を行う「加治川用水」事業に着手する。
追記
新発田藩の領地は北蒲原郡の加治川流域から豊栄、新潟、亀田、新津、白根、加茂、三条、見附、中之島など中蒲原、南蒲原郡まで及ぶ広大な地域である。
この地では加治川用水、阿賀野川排水、阿賀野川用水、阿賀野川右岸、亀田郷、新津郷、信濃川下流、白根郷農地防災、新川、西蒲原、刈谷田川右岸と実に多くの国営土地改良事業が実施されている。
藩侯、溝口秀勝が入封後、歴代藩主がこの地で様々な治水、土地改良事業を推進し今日の蒲原平野発展の礎を築いたが、その最終的な仕上げを我々土地改良技術者が担ったといえよう。(地名、郡名は事業実施時の名称を用いた)
1.事業年度
昭和39年度から昭和49年度
2.受益地(2市2町2村)及び面積
新発田市 |
3,822ha |
豊栄市 |
43ha |
紫雲寺町 |
834ha |
豊浦町 |
1,214ha |
聖籠村 |
1,080ha |
加治川村 |
452ha |
計 |
7,455ha |
3.主要工事
参考文献
・加治川事業誌 |
北陸農政局 |
・内の倉ダム技術誌 |
北陸農政局 |
・新潟県の土地改良 |
新潟県農地部 |
・新発田市史 |
新発田市 |
・新発田郷土誌 |
新発田郷土研究会 |
・ふるさとしばた |
新発田市立学校教育研究会 |
・水害の記録 |
新発田市 |
・新潟市史資料編 |
新潟市 |
・堤防の自主決壊による氾濫水の河道還元に関する研究 |
大熊孝 |
・新潟平野の治水技術の変遷にかかる研究 |
大熊孝 |
・ダム便覧 |
有)日本ダム協会 |
・ダムマニア |
http://dammania.net |
・新潟県HP加治川治水ダムのご案内 |
新潟県 |
・新潟県HP内の倉ダムのご案内 |
新潟県 |
・砂防事業の再評価説明資料 |
北陸地方整備局 |
・国絵図の世界 |
国絵図研究会 |
・湛水防除事業安野川地区概要図 |
新発田地域振興局 |