top01

1.地域のあらまし
2.新津郷の発展に尽くした人
3.国営事業発足に至る経緯
4.新津郷地区の概要
5.地元負担金軽減対策
6.新津郷地区の今
7.新津郷農業水利事業の概要

icon 1.地域のあらまし



 我が国有数の穀倉地帯で10万ha余りの農地を擁する「蒲原平野」はかって潟湖充填平野特有の低平な湿地帯であった。
 ここに紹介する新津郷地区は蒲原平野の北東部で大河信濃川、阿賀野川の下流部に位置しこの2大河川が運ぶ土砂で形作られた。
 地区の東側は能代川と新津丘陵、西側は信濃川、南側は五社川、北側は小阿賀野川で囲まれ南から北へ標高5.0m~1.0mの緩やかな傾斜をなしている。
 慶長3年(1598年)秀吉の命で上杉景勝が会津移封後この地は加賀大聖寺から入封した溝口秀勝(新発田藩)の領地となる。秀勝以降歴代藩主は土地改良を通じ興農、経済の振興に務め信濃川等の治水や新田開発が進んだ。
 とはいえ新潟市中央区の蒲原神社(通称六郎様)は鎌倉時代から7月1日の大祭でその年の作況を占うものの洪水が頻発する低湿なこの地だけは見放したとも伝えられている。
002
中央部鎌倉潟付近が新津郷である
(原図は新発田図書館所蔵)

 また、鉱毒水被害も特筆される。かって新津丘陵では産出量日本一を誇る油田(新津油田、金津油田)があった。明治に入ると益々採掘が盛んとなり我が国の産業発展に大きく寄与した。
 しかし丘陵に滞留する油混じりの泥水が降雨に伴い流出、洪水時には排水路から溢れた鉱毒水が耕地に流入して作物が枯れ、農民は湛水被害に加え二重の苦しみを味わっていた。

003
現存する油井(金津油田)
(平成8年で採掘が終了し遺構は平成19年に近代化産業遺産に認定された)


icon 2.新津郷の発展に尽くした人



①番場甚三郎(1861~不明)
 市之瀬村の番場甚三郎は天竜川治水で高名な金原明善に学び明治18年に帰郷、同年8月8日に低湿で洪水被害に苦しむこの地を救うには排水機(ポンプ)による湛水排除が必要と小戸村、高陰寺に同志を集め次のように訴えた。

005
※画像クリックで拡大
「今日の惨状を救うには何としても※1大河津分水が必要だが出来そうもなく、このままでは村が滅びるので蒸気ポンプで排水しなければならない。現在、市之瀬、覚路津、大秋は見渡す限り湖か海のようだが皆さんが賛成するなら来秋には千里も連なる稲田を見ることが出来る」甚三郎の熱心な働きかけも経費が嵩むと反対され実現しなかった。

②松岡酒巳三郎(1866~不明)
 洪水からこの地を守るに大河津分水が必要と東奔西走する一方、甚三郎が唱えた蒸気ポンプで郷内を排水する素案を練った。
 この実現に人々の和が大切と水利組合を作り、郷内全体の排水を担う排水機場計画の取りまとめを当時農業土木学の権威で東京帝大助教授の上野英三郎(後に博士)に依頼した。

※1大河津分水
 信濃川は度重なる水害で蒲原平野中下流域に壊滅的な被害を与えてきた。この解消に向け分水町大河津に建設されたのが大河津分水である。
 この施設は豪雨時の洪水を全量分水路で日本海に放出する可動堰と本流の新潟市方向に流す洗堰で水量調節され大正11年に通水した。
 現在は両堰とも改修済(二代目)だが旧の洗堰は原型保存され登録有形文化財に認定されている。

③上野英三郎(1871~1925)
006
※画像クリックで拡大
 上野は明治36年と明治37年に学生30名を引き連れ新津郷 の上流五社川から下流覚路津に至る調査測量を実施し次の計 画を策定した。
1. 新津丘陵や郷内の高い土地の水は自然排水で信濃川へ排水する。
2. 地盤が低い平野部の水は最下流の覚路津に設ける排水機で信濃川に排水する。
3. 郷内で水のたまり具合を平等にする江丸という小さな堤を 土地が三尺(90㎝)低くなる毎に作る。
 この計画を達成するに新津市と小須戸町の農家が一体で取り 組む必要があるが、この頃は新津郷土地改良区のような地区を 包含する組織が無く日の目を見なかった。
 その後、松岡酒巳三郎と荻川村、小合村の人々は覚路津排水機場の建設に成功する。

 そして明治43年春から排水が始まり田んぼが水に浸かる日が少なくなった。
 この覚路津排水機場の成功が他の地域にも波及し排水機場の建設が進み郷内の村々は整備されて行った。
 (上野英三郎氏は隣接する白根郷の耕地整理指針も示されています)

icon 3.国営事業発足に至る経緯



1.大水害の発生  昭和41年7.17水害、42年8.18水害と下越地方を襲った未曾有の大水害は「加治川地区」で詳述したが新津郷でも甚大な被害が生じ災害救助法が適用されている。
008
※画像クリックで拡大

 特に昭和42年の豪雨は想像を絶し、史上最高の豊作が見込まれた美田が一面湖水となり農作物は泥水に沈んだ。また被害総額は戦後最大の水害と言われた41年を上回り20億円を超えた。
 全排水機はフル稼働で運転を続け、各所に臨時ポンプを設けたものの湛水が5日間も続き農民は我慢の極に達した。
 上流の小須戸郷と下流の小合・覚路津郷の農民が梅ノ木水門の開閉をめぐって対立し険悪な様相を呈し警察官が出動する事態の中、緊急理事会が現地で開かれた。
2.水害原因の究明と対策
 その後の役員会で被害原因の究明が議論され2年連続の大水害は開発が進む周辺の環境変化に対応出来ない基幹排水施設の貧弱さが露呈した結果とされた。
 ただちに理事会、総代会を招集し排水対策を検討するが未曾有の大水害を目の当た りにし、抜本的な排水対策の樹立には土地改良区の力だけでは不可能であるとの結論に達した。
 そして新津郷100年の大計から国、県の力を借り全面的な排水対策を取り組むこと。
 さらに老朽化し不安定な用水対策も加えた恒久的な事業実施が全会一致で承認された。

3.直轄調査と事業発足
 昭和43年から地区調査が始まり排水6,980ha、用水3,055haについて事業計画が立案された。また全体実施設計は昭和46年度の単年度で仕上げる異例のスピードで終え翌47年度に事業所が開設された。

icon 4.新津郷地区の概要



1.地区の特徴と事業目的
 新津郷内で実施された国営以前の事業は当時の整備水準を十分満たす画期的な計画だが、利害が一致する用排兼用ポンプによる各ブロックの水利慣行がそのまま残り上下流間水争いの要因となっていた。
 さらに信濃川の水位低下等からここに位置する老朽化で機能低下した施設は対応出来ず抜本的解消に向け用排水施設の合理的な統廃合を計る必要があった。
 また、用水、排水ともポンプに頼る当地区は無駄な取水は無駄な排水となる。この ため用排水の適切な管理が必要で合理的な事業計画の基に効率よい施設の設置に努める必要があった。
011
事業計画一般平面図

2.用水計画
 地区中央の高位部「国営阿賀野川用水地区」の能代川用水掛かりを除外し地 区を南北に分け南部は信濃川を水源とする水田揚水機場、北部は小阿賀野川を水源とする車場揚水機場からかんがいする。
 また、ほ場への給水はパイプラインで行い水田揚水機場掛かりには小向、梅ノ木、車場揚水機場掛かりには市之瀬と北潟の加圧機場を設ける。
3.排水計画
 一級河川大通川を整備し郷内最大の排水不安を払拭する。そして東大通川で地区を二分し東大通川下流の大秋と、郷内で最も低い覚路津地点に排水機場を設置し信濃川に排除する。この2機場により各所に点在する排水機場を統合す るもので概要は下記のとおりである。

 3-1.東大通川(大秋排水機場)
 鉱毒水を含む新津丘陵と高位部農地の一部を東大通川に集め常時は信濃川に自然排水。洪水時、信濃川への排水が困難になった場合ポンプ排水に切替信濃川へ強制排除。

 3-2.小須戸幹線排水路(大秋排水機場・覚路津排水機場)
 洪水時、東大通川左岸の排水は小須戸幹線排水路に集め大秋排水機場で信濃川に強制排除、常時は郷内全域を覚路津排水機場に集め信濃川に排除する。

 3-3.大通川幹線用水路(覚路津排水機場)
 東大通川右岸地域の洪水時は荻川幹線排水路、大通川幹線排水路を流下させ覚路津排水機場で信濃川へ強制排水する。

 3-4五社川排水路(水田揚水機場)
 五社川左岸地域の排水は水田揚水機場で信濃川へ排除する。
 (上野英三郎氏が立案した計画を踏襲しています)

icon 5.地元負担金軽減対策



 昭和47年に着手、平成元年に完了した本地区は発足当初からのオイルショックによる物価高等から事業費が嵩み負担金(償還金)の増大をもたらした。
 本地区の事業完了に向けた最大の課題は完了数年前からの負担金対策であった。

いきさつ

1. 昭和60年から計画変更手続きに入る
 昭和47年に着手当初、総事業費は86億円であったが、発足当初からのオイルショックによる物価高等から事業費が嵩み、計変時の総事業費は290億円となった。
 これに付帯県営事業等と経常賦課金を加え10a当たり年償還額は3万円以下とする方針 が出された。
 本地区の事業完了に向けた最大の課題は完了数年前からの負担金対策であった。

2. 昭和62年に「新津郷地区土地改良区事業運営協議会」を設置する
 新潟県農地部長、農地計画課長、新津農地事務所長、新津郷農業水利事業所長、関係市町村、県土連会長、新津郷土地改良区理事長で負担金軽減対策と新津郷事業を見直す協議会が設置された。

3. 昭和62年8月に計画償還制度が創設される。
 従来の2年据え置き15年償還の規定償還制度から2年据え置き23年償 還の計画償還制度が生まれた。ただ年償還額が軽減されるが総償還額が2~3割増額となり新津郷は選択しなかった。
4. 新計画償還制度について
 構造改善局は総償還額を抑えるため特別型について償還方式を元利均等 方式から元金均等半年賦償還とする軽減策を創設した。

5. 土地改良負担金総合償還対策事業他

 さらに国営事業だけでなく補助事業にも適用される総合償還対策制度が生まれ た。また、国営土地改良事業にかかる地方負担について受益市町村の負担を軽減する措置(地財措置)も導入された。
 これら構造改善局による制度拡充と北陸農政局、新潟県、県土連、新津郷土地改 良区、受益市町村の御尽力・御支援をいただき全国に先駆け負担金軽減対策に取組んだ本地区は平成元年に事業完了の運びとなった。

icon 6.新津郷地区の今



1.新たな構想(国営新津郷阿賀野川左岸地区)
 本地区の農業用水は昭和36年~58年に実施した国営阿賀野川用水事業で建設し た阿賀野川頭首工、早出川頭首工、昭和47年~平成元年実施の国営新津郷農業水利事業で建設した水田他の揚水機場で供給されている。しかし事業完了後20~40 年を経過し基幹水利施設の老朽化が進行している。
 特に新津郷地区では水管理施設の度重なる故障、ポンプ設備機器の整備に関する 経費が嵩み土地改良区の財政を圧迫している。
 これら解消に向け平成25年1月31日に「国営新津郷阿賀野川連絡協議会」の設 立総会が開かれ「国営新津郷阿賀野川左岸地区は」平成26年度から地区調査に移行する予定である。

2.花と緑と石油の里。鉄道の街新津
 新津郷には数多くの遺跡が点在する。昭和62年磐越高速道路建設に懸かる新津 丘陵の土取場試掘で発見された弥生時代後期の大規模な高地性環濠集落の遺跡である古津八幡山遺跡が特に有名で平成17年国指定史跡となっている。
 また、出土した遺物からこの地が阿賀野川、日本海を介して北陸地方中西部、東 北、会津地方と繋がりがあったことがわかる。
 新津郷の基幹作物は米であるが野菜、果樹、花卉、花木園芸も盛んで旧新津 市、旧小須戸町のキャッチフレーズは「花とみどりと石油の里・新津」、「花と緑の小須戸」に相応しくさつき、アザレア、ボケ、寒梅等の色鮮やかな花木が町を彩る。かって小合地区の小田喜平太が日本ではじめてチューリップ球根の商業栽培を目指しオランダから種球を取り寄せ試験栽培に成功し同志と共に普及に努めたことも知られ我が国チューリップ発祥の地とされている。
 小合には道の駅「花夢里」がありJAが管轄し生産者が持ち寄る花、花木、盆栽、果樹苗等が販売される。

 また、地区の太宗を占める新津市はJR信越本線、羽越本線、磐越本線が交差する日本海側の鉄道の要衝にあり機関区が設置され、かっては「鉄道のまち」とも称された。
 現在、JR新津車両製作所があり山手線の全車両他の製作を担っている。
 また前述のように新津丘陵には油田が栄え我が国産業発展の一翼を担った。そして平成19年に新津油田は※2日本地質100選に石油の里公園付近の金津油田は※3近代化産業遺産に認定されている。

※2日本地質百選
 日本の地質百選選定委員会による地質学的に見た貴重な自然資源選定する百選、県内では新津油田の他、佐渡金山、糸魚川静岡構造線等5箇所選定されている。

※3近代化産業遺産
 産業遺産の優れた価値の認識を深め普及を図ることが地域活性化にとって有意義であるとの考えに基づいて経済産業省が認定している。


3.満願寺地区の稲架木並木(新潟市指定文化財)
 稲架木は、たもの木やハンノキを使い地上約1.5mほどから上に向かって約 30cm間隔で水平に段状に竹竿を渡して下から順に稲束を架け乾燥させる新潟県特有のものである。
 満願寺地区の稲架木並木は昭和18年から20年にかけて同地区の水田250haを 区画整理したときに関係した26戸の農家が協力して各地の稲架木をこの農道へ移植したものである。
 農業の機械化が進み蒲原平野の稲架木が次々と姿を消したが、この地区は種籾 採取の指定を受ける。良質な種籾採取には自然乾燥が必要なのでこの稲架場が残された。
 指定が解除された後も所有者と農家組合が協力して稲架木の保存に努めてお り新潟市では西蒲区夏井、同門田の稲架木とともに現存する貴重な農業遺産である。

4.小冊子や副読本で蒲原平野や新津郷土地改良事業の紹介
 第4代所長の川尻裕一郎氏は、在職中くまなく郷内を観察し深い洞察力ときめ細 やかな表現でこの地を紹介している。
 エッセー風の「蒲原にて」は氏が新潟日報夕刊の「晴雨計」に執筆したものをま とめたものだ。
 また、市内小学校4年生に向けた副読本「人間が育てた土地」では表現力を駆使 し児童が理解出来る易しい表現で蒲原平野の歴史や新津郷の根幹を伝えている。
 この二冊の書は我々農業土木技術者が事業推進上、常に心すべき足下を見据えた 現場主義に立っており土地改良事業の本質を第三者へ伝える名著と言えよう。


icon 7.新津郷農業水利事業の概要



1.事業年度
 昭和47年度から平成1年度

2.受益地(1市2町)及び面積

   新津市 2,870ha
 小須戸町 750ha
 田上町 180ha
 計 3,800ha
    平成17年に新津市と小須戸町は新潟市と合併した

3.用水施設
 3-1揚水機
 水田揚水機場 かんがい面積1,800ha Qmax=8.26m3/s
 小向揚水機場 かんがい面積(750ha) Qmax=3.45m3/s
           (水田揚水機に重複)
 梅ノ木揚水機場 かんがい面積(740ha) Qmax=3.36m3/s
           (水田揚水機に重複)
 車場揚水機場 かんがい面積1,100ha Qmax=4.94m3/s
 市之瀬揚水機場 かんがい面積(580ha) Qmax=2.61m3/s
            (車場揚水機に重複)
 北潟揚水機場 かんがい面積(520ha) Qmax=2.33m3/s
          (車場揚水機に重複)
 3-2用水路
 水田幹線用水路 コンクリート三面張り水路 Qmax=8.26m3/s
 車場幹線用水路 コンクリート三面張り水路 Qmax=2.33m3/s

4.排水施設
 4-1排水樋門
 大秋自然排水樋門 流域面積9.2km2 受益面積10ha 排水量30.0m3/s
 4-2排水機
大秋排水機 受益面積1,730ha Qmax=69.0m3/s
水田揚水機(用排兼用) 受益面積130ha Qmax= 8.6m3/s
               (大秋排水機に重複)
覚路津排水機 受益面積2,030ha Qmax=49.0m3/s
 4-3排水路
 東大通川りブロック軽量鋼矢板護岸L=5.0km Qmax=30.0m3/s
 小須戸幹線排水路 鋼矢板護岸 L=6.5km Qmax=39.0m3/s
 大通川幹線排水路 鋼矢板護岸 L=4.7km Qmax=49.0m3/s
 荻川幹線排水路 鋼矢板護岸 L=1.3km Qmax=18.0m3/s
   (大通川幹線に重複)

参考文献
・新津郷事業誌 北陸農政局
・新津市史 新津市
・新潟県土地改良史 新潟県農地部
・国絵図の世界 国絵図研究会
・人間が育てた土地 川尻裕一郎