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1.幾世代にも亘る“農民と水との戦い”
2.「芦と菅」の沼地
3.治水事業の取り組み
4.乾田化(内水排除)への挑戦
5.農業環境の変化に沿った変革
6.新たな挑戦
7.歩みを停めない土地改良

icon 1.幾世代にも亘る“農民と水との戦い”



1.現在の農作業
 政令指定都市・新潟市の中心街より、国道8号線を南下することおよそ30分で白根郷に入ります。白根郷の北部は近年大規模な住宅団地や、工業団地が開発されたがこれを過ぎると、広大な田園地帯が目に飛び込んで来ます。
 更に郷内を南北に縦断する広域農道を走ると、遠く県境の山並みを背景に規則正しく配置された水田、農道が真っ直ぐに続き、地平線まで見える、そんな錯覚さえ覚える光景が南部まで約20km続きます。
 春は水が張られた田んぼに田植え機がリズミカルに苗を植え、秋には、重く頭(こうべ)が垂れた稲穂を、コンバインが小気味良く刈り取り、収穫した稲籾を積んだトラックが重そうに農道を走ります。
 この様な農作業を見るまでに、ここ白根郷ではおよそ400年間に亘る「農民と水との戦い」がありました。
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(出典)「水土里ネット白根郷」提供
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2.気の遠くなる過酷な農作業
 農民と水との戦いを記録した蒲原平野・亀田郷の映画『芦沼』と同様、ここ白根郷でも、「田下駄(たげた)」や「カンジキ」を履き、腰まで水につかる深田での田植えや、「田ソリ」や「田舟」を使っての稲刈り、そして収穫後の冬期には流れ出た耕土を、溝からすくって田んぼに戻す客土等々低湿地農業の宿命とは言え、気の遠くなる農作業が毎年繰り返され、親から子へ、子から孫へと幾世代にも亘って続けられて来ました。しかし、この様な過酷な農作業の光景はつい最近までのことでした。

(出典)何れも冊子「芦沼略紀」:北陸農政局
3.水害の常襲地
 信濃川の下流域に位置する白根郷は、信濃川本流とその支流・中ノ口川に囲まれた完全輪中地です。この地域は江戸時代から大正末期までの約320年間に107回に上る水害が発生したと記録され、「3年に1回の平年作」とまで言われるほど、信濃川下流域・白根郷は水害の常襲地でした。
 このため、ひとたび洪水ともなれば、河川、潟や沼から水が溢れ、激流が稲も、土も、田畑や、家さえも流し去り、日々築き上げて来た努力が全て水泡に帰すものでした。
 また、洪水は多くの人命と生活を奪った後も、ツツガムシなどの伝染病をはやらせ、再び多くの潟や沼地を造りました。この様な悲惨な繰り返しは輪中地が形成された以降、大河津分水が完成する迄のおよそ300年間も続いたのです。
 この結果、農村では年貢を納めた後は少量の「屑米」と「もみ殻」しか残らず、子供は奉公や身売りされ、夜逃げはまだしも遠く北海道まで、昼逃げする者もあったと言い、明治の中頃には農家戸数が減少したと記録にあるほど、農村は悲惨な状態にありました。
 「芦(あし)」と「菅(すげ)」の沼地と言われた時代から、今日の乾田化するまでの白根郷における、農民と水との戦いの歴史を見ることにします。
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(出典)「白根郷農地防災事業パンフ」(北陸農政局)

【ひと口メモ:水倉(みずくら)】
 (出典)「白根郷農地防災事業広報資料」(北陸農政局) 堤防に囲まれた輪中地では標高の低い所に水田を、少し高い所に畑を作りました。
 そして、比較的高い堤防沿に集落を構え、敷地内には盛土して水倉を建て、家財や食糧を保管すると共に洪水時の避難場所としても活用されました。
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4.白根郷を救った米俵
 昭和36年(1961)8月5日台風10号による集中豪雨は午前3時頃より降り始め、午後1時頃には1時間に40mmの豪雨となりました。白根市街の中ノ口川に架かる富月橋付近では河川水位が1時間に50cmづつ上昇しだし、午後6時40分頃には河川水がついに堤防を超え始めました。これに対し自衛隊、消防団、地元住民約2千5百人が木杭を打ち込み、「土のう」や「石詰め俵」を積んで必至の防御作業を行いましたが、無常にも濁流はこれを押し流しました。
 その時、群衆の中から「もう米俵しかない」との声が上がり、新潟県や食糧事務所(当時)の許可・了承を得ることなく、政府米を保管する近傍の倉庫より米俵439俵が運びだされ、激流に投下されました。
 米俵は水を吸うと米粒が膨らんで重量を増すため、押し寄せる激流を防いだのです。
 古人が洪水から命を掛け守ってきた大切な米(俵)によって、白根郷が洪水より救われた瞬間でした。
 今では堤防改修により当時の富月橋はないものの、米俵が積まれた食堂”六太郎”では、当時の写真が展示されおり、「先人の水との戦い」を今に伝えると共に、輪中地に暮らす人たちに警鐘を鳴らしています。
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水害後富月橋より食堂を望む
(左側に高く積まれた米俵が確認される)
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食堂裏に高く積まれる米俵
(出典)何れも六太郎食堂提供


icon 2.「芦と菅」の沼地



1.白根郷の位置
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白根郷位置図
「水土里ネット白根郷」提供
 信濃川下流域の白根郷は新潟平野のほぼ中央に位置し、隣接する西蒲原、亀田郷・新津郷などの地域とともに蒲原平野(「蒲(がま)の原」)と言われて来ました。
 白根郷は東の信濃川と、その支流である中ノ口川を西に、ふたつの河川に囲まれた南北およそ20km、東西およそ5kmの完全輪中地であり、郷内の標高は南北方向に6mから-1m北に傾斜する低湿地帯です。
 農業は水稲を中心に果樹、花卉、野菜の生産が盛んな地域であり、特に標高の高い南部地域は信濃川が洪水の度に運んで来た肥沃な堆積土壌により梨、桃、葡萄等の果樹栽培が盛んで、高級洋梨”ル・レクチェ”の原産地でもあります。

2.地名の由来
 現存する越後古図の寛治図(寛治3年1089年)によると、白根郷を含む蒲原平野は湾で形成され、この湾に信濃川と阿賀野川が流入しているさまが描かれています。同じく正保図(正保2年1645年)には、蒲原平野の大部分は陸化し、多くの潟や、沼の姿が描かれています。
 これら二つの古図から、およそ500年の間にかつての湾は、周辺の河川よりの土砂の流入によって陸化され、白根郷は芦(あし)と菅(すげ)の「白蓮潟(しろはすがた)」が図示されています。このことから白根郷の生成は比較的新しいことが判ります。
 なお、「白根郷」はこの白蓮潟の根っこに中心があったことが、地名の由来とされています。また、遺跡調査によると、郷内には13世紀頃より、河川の氾濫・蛇行により形成された自然堤防など比較的高位部の地域で居住・農耕が行われていたことが確認されており、沼地帯に自給自足的な農民が生活していたことが伺われます。

(出典)何れも冊子「芦沼略紀」:北陸農政局

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明治38年に描かれた「白蓮潟」は芦と菅の沼地
(出典)「白根郷治水誌」(S20年):白根郷普通水利組合


icon 3.治水事業の取り組み



1.輪中地の形成
 白根郷の開拓は戦国末期からと言われ、信濃川の洪水が大きく影響して来ました。
 信濃川は洪水の度にその流れを変え、農業の生産活動に大きな打撃を与えたばかりでなく、人々の生活や命をも奪ってきました。
 このため、戦国武将・上杉謙信などの支配者は、自らの経済力・軍事力を強化しなければならず、競って治水事業に取り組みました。
 特に直江兼続が行った「直江工事」(1584-1597年)は約32kmにも及ぶ直江川(現在の中ノ口川)を開削し、河道の安定化を図った最初の治水工事と言われており、これにより現在の輪中地が形成されました。
 その後、江戸時代には新発田藩が治水事業を行い、郷内の新田開発を商人や、豪農が行うようになり、多くの沼地・潟の干拓、開墾が進みました。この結果、郷内には耕地と地主が増加して、新発田藩の財政も潤うようなり、農村では小作人と地主の構造が確立されました。

2.水争いと、水利秩序の調整
 信濃川の洪水に対しては共通する被害認識から、全郷的に取り組まれましたが、郷内の用排水対策は集落・地域別に相互の利害が相反していました。
 これは郷内を流下する水路が用排水の機能を併せ持っている為、用水と排水の対策が表裏一体の宿命にあったことに起因していました。
 つまり、用水源を確保する場合に、水路に井堰を設置して、灌漑用水を貯留しようとすると、高位部では湛水の箇所が生じて排水不良に悩むことになり、逆に低位部では用水不足に悩むと言う矛盾が生じました。
 郷内の僅か数mの高低差が、上流・下流や、集落・地域別に利害を発生させ、各種の紛争の要因となったのでした。
 このため、下流集落への悪水の流下を禁じるために定標(流下目標を表示した水位標)が設置されたり、水路に段差を設ける場合には共同管理にし、独断で開閉出来なくすることや、改良工事は放流先や水源先及び水路の路線等関係集落の同意が義務化されるなど、郷内の集落・地域間で各種の慣行・同意・協定による複雑な水利秩序の調整が図られて来ました。
 これら水争いや複雑な水利秩序は、大河津分水が完成し、郷内の内水排除とそれに伴う用水対策の完了を待つまで続くことになります。

3.大河津分水の完成と新たな課題

北陸地方整備局HP

 信濃川の水を直接日本海に放流することにより洪水をなくそうとする大河津分水の工事は、幕末期から検討されて来ましたが、ようやく1930年(昭和5年)に完成し、下流域の白根郷は信濃川の洪水から開放されることになりました。
 これにより郷内の内水排除対策は進展するはずでしたが、信濃川・中ノ口川の河川水位の低下は、既設の取水樋管では、郷内に用水を引水出来ないと言う新たな課題 を発生させました。
 つまり、これらの課題を解決する為には、従来の水利秩序を改め、全郷で運命共同体としての意識・認識を醸成しつつ、①用水源である河川からの取り入れは樋管を設置し、安定的な用水源を確保するとともに、②内水を排除するために郷内下流部に排水機場を設置すると言う「用排水分離」が不可欠な状況にありました。

icon 4.乾田化(内水排除)への挑戦



1.変革前の状況
 大河津分水が完成し、郷内の内水排除の条件は整いましたが、前述のとおり「用排水分離」が進まないため、多くの水田は常に湛水状態にありました。
 このため、田植え前に育苗する苗代田は郷外に借用し、苗も湛水に耐えられる様、十分な丈になるまで育苗した後に田植えをしなければならない状況にありました。また、前述(第1章2)のとおり、田植えや稲刈りなどの農作業は過酷を極める重作業にありました。
 このように多くの水田が湛水していた白根郷が、乾田化するまでには、先人による水利秩序の大きな5つの変革がありました。

2.乾田化への足取り
1)第1次変革:機械排水の導入(1906(M39)~)
 まず、最初の取り組みは農業の生産活動に直接影響する排水対策として、蒸気機関による排水機場の導入です。
 従来は悪水が溢れない様に堤防を築き、河川外水が郷内に流入しない様に逆流水門を造る程度の言わば自然事象に対して消極的な対策しか採り得なかった訳ですが、この蒸気機関の導入により湛水を外部に排除すると言う積極的な対策に転じることになり、白根郷にとっては挑戦の第一歩となった大きな出来事でした。
 この蒸気機関による排水機場は能力的には劣っていましたが、他村に依存していた苗代田の解消や、田植え等の農作業期間の短縮、そして肥料投入が可能となったことによる農作物の品質向上と収量増を可能にしました。これにより湛水状態にあった郷内の水田は湿田に変わることになったのです。
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白根排水機場の蒸気機関排水ポンプ
(出典)「白根郷農地防災事業誌」(H21.3北陸農政局)

2)第2次変革:水利秩序の安定化(「用排水分離」)(1925(T14)~)
 日露戦争後、小作料引き下げなど農民運動の激化により収入が減った地主層は、生産性を上げて収入増を図るために、用水源である信濃川・中ノ口川からの取水施設の新設や、幹線用水路の整備、更に排水機場の動力源を蒸気機関から電気に変えるなどに取り組みました。これにより「用排水分離」と言う新たな水利秩序が確立されて来ました。
 また、排水機場の電化は通年運転を可能とし、排水体系が大きく変化・増強されることになりました。

3)第3次変革:耕地整理 (1931 (S6)~)
 前項により用排水の基本的な施設は整備されましたが、末端部の用排水路は未だ不十分なため、その効果を末端部まで発揮するために耕地整理が取り組まれました。
 しかし、この耕地整備は交換分合等を伴わないことから農地が集約されず、圃場末端部も用排水兼用の水路でしたが、不整形な従前の区画が10a(10間*20間)に整理され、末端の用排水秩序は不十分ながらも一応安定化したことから、郷内は湿田から半湿田状態となり、効率的な農作業が可能な状態になりました。

4)第4次変革:地下水排除(暗渠排水)(1942(S17)~)
 郷内の耕作土は信濃川が運んで来た肥沃な土壌ですが、重粘土質で含水率が高く、常時湿潤状態にありました。このため、水稲いもち病の大発生を契機に地下水排除を目的とした暗渠排水事業が取り組まれました。
 土壌内の過剰な悪水の排除は、従前の人畜力主体の農作業から、耕耘機等の機械化体系に大きく変化させ、栽培期間や労働時間を飛躍的に短縮する結果となり、郷内の大部分は半湿水田から半乾田状態に変わり、裏作導入も可能になって来ました。
 なお、白根郷の暗渠排水は試行錯誤の結果、現在でも素焼きの土管と、籾殻の被覆材で実施されています。

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導入が可能となった動力耕耘機作業
(出典)「白根郷治水史続編」:白根郷土地改良区

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暗渠排水施工写真
(出典)「新潟県土地改良史」:S61.10新潟県農地部

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暗渠施工(トレンチャ-掘削)図
:「水土里ネット白根郷」提供


5)第5次変革:二段排水の導入 (1945 (S20)~)
 乾田化への最後の取り組みは機場や排水路より遠い低湿地域の排水を、一旦幹線排水路に排水した後、更に排水機場により信濃川、中ノ口川に排水すると言う二段階の排水方式に取り組みました。これは地域毎に用排水を賄うとする従前の水利秩序を改め、高位部・低位部間の格差紛争を払拭する画期的なことでした。これにより全郷等しく乾田化状態へと変貌させました。
 この様に白根郷では各種土地改良事業を契機に、従来の水利秩序を改めながら、自然の猛威・事象に対して、①順応から、②消極的な対応へ、そして③次第に積極的な行動を取り、更には④挑戦へと進化して来ました。その結果、かつての「芦」や「菅」が繁茂する沼地を見事に乾田化し、日本有数の米産地と、高品質な果樹栽培をも可能な地に変えるに至ったのです。

icon 5.農業環境の変化に沿った変革



 先人の弛まぬ努力により、ようやく乾田化し、営農基盤が整った白根郷ではありましたが、昭和30年代の後半より地域農業を取り巻く環境に大きな変化があり、新たな試練に遭遇することになります。

1)地盤沈下対策事業(1961 (S36)~)

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(出典)「白根郷農地防災事業誌」:北陸農政局
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 最初の試練は戦後の高度成長期の活発な経済活動によって、昭和30年中頃から生じて来た地盤沈下です。
 この地盤沈下は白根市街を中心に、中ノ口川沿に楕円状に発生し、昭和45年時点では20年前に比べ約2mに達するほど顕著な沈下状況にありました。
 このため低平地に配置された用排水路に不等沈下が発生し、用排水の停滞や溢水を引き起こしました。また、完全輪中地の命と言える揚排水機場の能力が低下するなど、営農活動に大きな影響を与えました。
 更に昭和39年6月の新潟地震の影響も加わり、蒸気機関による機械排水導入以来、先人が営々として、築き上げて来た乾田化の水利秩序体系が破壊的な被害を蒙ることになりました。
 それでも、白根郷はこのような試練にめげることなく、地盤 沈下対策事業等を活用して、用排水体系の復旧・強化に取り組んで来ました。

2)圃場整備 (1974 (S49)~)
 昭和20年代の後半には、県内に先駆け中型機械化体系を実現した白根郷ですが、昭和40年代後半には施設の老朽化に加え、農業の生産性向上と言う新たな社会・政策要請もあって、農地の集団化・受委託の促進による経営規模の拡大、区画の大型化と大型機械化体系の導入などを可能とする圃場整備事業が全郷的に取り組まれました。
 この結果、従来の小区画10aは標準区画40aに拡大され、用水もパイプライン化されるなど近代的な営農条件が整うことになりました。
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3)乾田化の総仕上げ(国営事業の取り組み)
(1)国営灌漑排水事業「信濃川下流地区」(1982(S57)~)
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 白根郷は農業用水を信濃川・中ノ口川より自然樋管により取水されていましたが、河川の上流・下流域における大規模な堰の建設や、発電取水の増量など外的な要因もあって、昭和35年頃より信濃川の河床低下が顕著となって来ました。このため渇水時には河川水位の低下が著しく、度々取水障害が発生する状況にありました。
 これに対して、揚水機場の新設や、応急ポンプの設置などの対応が取られましたが、生産形態の多様化による水需要の増加や、取水樋管の老朽化等もあり、これら対応では不十分な状況になりました。
 このため、抜本的な対策として、信濃川荻島地先に頭首工を新設し、安定的に用水を確保する目的で平成元年に「国営信濃川下流農業水利事業」が取り組まれました。なお、事業は用水不足が慢性的な状況にあった右岸側の加茂郷、田上郷の既存の取水施設も統廃合され広域的に事業が取り組まれました。

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大島頭首工
(出典)何れも「信濃川下流農業水利事業事業誌」(H8.3 北陸農政局)

(2)国営総合農地防災事業「白根郷地区」(1994 (H6)~)

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湛水被害状況(S53.6.25~27)
(出典):白根郷農地防災事業パンフ

 郷内の基幹排水施設は昭和36年度からの県営地盤沈下対策事業により整備されて来ましたが、その後の地域開発による降雨流出量の増大や、地盤沈下の進行等によって農業用排水施設の機能が低下し、農地及び農業用施設に多大な湛水被害が発生して来ました。
 このため、農作物、農地及び農業用施設の降雨に よる湛水被害を未然に防止するとともに、農業生産の 維持及び農業経営の安定を図り、併せて国土の保全に 資することを目的とし、平成6年に「国営総合農地防災事業白根郷地区」が実施されました。なお、本事業は「農業基盤の復旧(排水機能の回復)」(土地改良法施行令第49条第1項1号)と「農用地の災害防止」(同令第49条第1項第2号)を、併せて一つの事業で行われました。
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 この様に白根郷では2つの国営事業を実施することにより、農業用水の安定的な確保と、排水機能の回復・強化を図り、先人たちが汗した乾田化を完結することに至ったのでした。

(3)地域用排水システムの確立
 かくして、白根郷は各種の土地改良事業に取り組むことにより、「芦」と「菅」が繁茂する沼地より、完全に乾田化した標準区画40aの優良農地を手に入れた訳です。しかし、先人が築いたこれら営農基盤が有効に活用され、その効果が最大限に発現されるためには、用排水の適切な管理が不可欠な観点から、両国営事業で管理システムが整備されました。
 郷内の用水は、信濃川に設置された大島頭首工より取水され後、幹線用水路、加圧揚水機場、そしてパイプラインを経て、各圃場に配水されており、その管理は気象情報や、施設情報を把握して大島頭首工において、一元的に操作・管理が行われています。
 一方、郷内の排水は、水田の地表水を排水する「田区枡」及び地中の余剰水を排除するために田面下約1mに埋設された「暗渠排水」を通じ、支線排水路、幹線排水路を経由した後、白根排水機場より常時中ノ口川に排除されています。
 なお、洪水等で幹線排水路の水位が上昇する場合には、郷内の上流部に設置した中部排水機場、萱場排水機場の両機場より直接河川に排水し、郷内下流域の湛水を回避・軽減しています。
 このため、各所に設置した水位計・雨量計や、各施設の情報並びに降雨予測情報や、河川情報を踏まえ、白根排水機場において一元的に操作・管理が行われています。
 この様に、頭首工より郷内に取り入れた水は、降雨水を加えて地域用水となり、郷内全域で多面的な機能を発現しながら流下し、農作物の生育に利用されています。他方、各圃場からの排水は、地域の余剰水と共に流下して、排水機場により河川に排除されています。
 輪中地の宿命とは言い郷内の上流部より取水し、最下流部から排水するまでの全ての過程において多大な経費を伴い処理・管理されています。

icon 6.新たな挑戦(排水:「田んぼダム」の実施、用水:高温障害対策)



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 国営総合農地防災事業白根郷地区の実施により郷内は、排水能力1/30年確率雨量を基準に整備されました。しかし、その後の農地転用等開発行為の増加や、転作作物の増強、更には近年の異常気象による集中豪雨によって、郷内では湛水被害が多発する状況にあります。
 このため、水田の貯水機能を活用して、排水路への流出を抑え、低平地の滞留時間を短縮することに着目し、地域では土地改良区を中心に「田んぼダム」に取り組んでいます。
 現在では農家が自主的に約60%の水田で取り組まれ、異常な集中豪雨時に湛水域の軽減・回避するほか、排水機場等施設機能の負荷が軽減されるなど大きな成果を上げています。これは従来の完全な「防災」思想から、現有施設の機能を適正に評価・活用した「減災」思想を取り入れたものであり、水と戦って来た白根郷の“農民魂・智恵”によるものでしょう。

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(出典)何れも「水土里ネット白根郷」提供

田んぼダム実施概要

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大島頭首工水利権量概念図
(出典)「水土里ネット白根郷」提供

 また、近年の地球温暖化による水稲 の高温障害(品質低下)対策として、 白根郷では灌漑期間の延伸や用水量 の増量など、営農支援に取り組んでいます。


icon 7.歩みを停めない土地改良



 高い堤防に囲まれ、河川の水位より低い輪中地で生活している白根郷は、ひとたび雨が降れば、河川の水は上昇し、堤防が破堤する心配や、郷内で行き場のない悪水の恐怖など日々、洪水(外水)と湛水(内水)との背中合わせの中で生活しています。
 郷内における農業をはじめとする産業の営みや、快適な日々の生活は、決して自然の営みにより創造されたものではなく、各種の土地改良事業など人間の手(力)と合意(智恵)によって成し得た結果であることを忘れてはなりません。
 先人たちにより造成されたこれら施設の機能は、残念ながら永久的なものではありません。農業や、地域を取り巻く社会状況の変化、自然事象の発生などにより、再び白根郷に試練が襲い掛かるかも知れません。
 しかし、先人たちがそうであった様に、白根郷は決して歩みを停めることなく、土地改良を中心に、これからも果敢に挑戦し続けることでしょう!
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白根郷地盤断面図(萱場排水機場~小須戸橋)
(出典)「白根郷農地防災事業誌」(H21.3 北陸 農政局)

参考文献
1.「白根郷治水史」(s20、s28、s47:白根郷土地改良区)
2.「芦沼略紀」(H20.11 北陸農政局)
3.「新潟県白根郷における水利および耕地の整備過程」(1960) :大和英成
4.「新潟県土地改良史」(1986) :新潟県農地部
5.「広報しろね」(s49.9 旧白根市)
6.「白根郷農地防災事業誌」(H21.3 北陸農政局)
7.「輪中の郷」(H8.3 北陸農政局)
8.「白根郷農地防災事業パンフ」(H20.9 北陸農政局)
9.「白根郷農地防災事業パンフ(学童用)」(北陸農政局)