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1.地域のあらまし
2.西蒲原地域に影響を与えた出来事
3.西蒲原地域の位置
4.戦後西蒲原で実施された国営土地改良事業
5.西蒲原農業水利事業(詳述)
6.西蒲原のトピックス
7.西蒲原の土地改良基盤形成に尽くされた人
8.上郷地区の治水沿革を述べた記念碑
9.今、西蒲原地域(新川流域)で進めていること。
10.西蒲原地区(新川流域)の排水事業効果


 低湿地からの開放(新川一期地区)
 (低湿地、西蒲原は新川開削、大河津分水、新樋曽山隧道、御新田隧道、新々樋曽山隧道の建設等、正に「台地の刻印」で魅力的な田園地帯に変貌した)

icon 1.地域のあらまし



 下図は平安時代後期、寛治三年(1089年)に描かれた越後の古地図で俗称「寛治図」と言われ新潟平野の殆どが海中に没している。


 しかし、旧黒埼町黒鳥の緒立遺跡では葺石で覆われた直径30mの円墳、的場遺跡でも官衙的(かんがてき)な遺物や漁具が発見された。このほか西蒲原の多くの地から縄文、弥生土器が出土するので平安期に描かれた「寛治図」は後世の想像図とされる。
 しかし※1芦沼略記に※2縄文海進や平安末期の※3ダンケルク海進が記され新潟平野が広範囲で水没した時期があったと想定される。
 また200万年ほど遡れば新潟平野は弥彦、角田山を含む半島が突き出た巨大な湾に沈んでいた。後に日本海を北東に流れる沿岸流で角田山の北端に砂がつき、徐々に発達して砂州となり県北の村上方面まで長い砂丘が連なった。
 そこに信濃川、阿賀野川で運ばれた土砂が堆積し湾が縮小。あちこちに潟(ラグーン)が残り沼沢地となって平野が形成された。

※1 芦沼略記
 亀田郷農業水利建設所が作成した新潟平野や亀田郷土地改良事業の履歴を示した小冊子。
※2縄文海進 ※3ダンケルク海進
 気温上昇で地表の氷が溶け海面が上昇する現象、芦沼略記では縄文末期と平安末期から鎌倉時代にかけて新潟平野の海岸線はかなり内陸部に進入したと記されている。
 また、次は桃山時代の1592年から1595年に描かれた西蒲原郡の古地図で文禄絵図(日本海が上に描かれている)である。


 ここでは鎧潟、田潟、大潟、楊枝潟等の潟湖が点在し弥彦山、角田山まで広大な平野が拡がる。しかし江戸時代に開削の新川や明治になり起工した大河津分水も無い時代なので一面、葦やガマの茂る大湿地帯だったことが想像される。
 この地に人々が住むのは約1万年前の縄文時代からで標高の高い砂州や自然堤防上が生活の場となった。また平野部に農耕民族が定住するのは縄文後期からとされている。

 低平な新潟平野の開拓が本格化するのは江戸時代前期からで当時信濃川と阿賀野川は河口で合流し阿賀野川には加治川が注いでいた。


icon 2.西蒲原地域の地域に影響を与えた出来事



2-1.紫雲寺潟干拓と松ヶ崎の掘割
 (掘割が決壊し阿賀野川本流となる。そして阿賀野川は信濃川と分離し内水位が下がり北蒲原で多くの新田開発が可能となった)

 加治川支流の坂井川は紫雲寺潟に流入し潟北端の築地川から胎内川、荒川を経て日本海へ注いでいた。また潟はこの地域で洪水調節の役割を果たしている。 潟の干拓は亨保12年(1727年)から18年にかけて行われ干拓に先立ち潟に注ぐ坂井川を締切り加治川に付け替える。しかし加治川左岸の村々は、このことで加治川の流量が増えて洪水時に氾濫することを恐れ干拓の異議を申し出た。
 この対策に幕府は加治川が阿賀野川と合流する松ヶ崎から直接日本海へ流す掘割の開削を提示した。(当時信濃川と阿賀野川は河口を一つにし加治川は阿賀野川の支線だった)
 新潟湊を所領する長岡藩は掘割が阿賀野川本流となり直接日本海に流れると新潟湊の水深が維持出来ないと猛反対。
 この対策に幕府と新発田藩は掘割の幅を30間(約54m)とし落口河床に定杭を打ち常時は全流量が新潟湊へ流れ、洪水時のみ余水が掘割経由で日本海へ流れる構造とした。
 しかし翌年(亨保16年)大量の雪解け水が流れ込み掘割は幅150間(約270m)まで広がり阿賀野川の本流となった。このことで信濃川と阿賀野川は分離し内水位が下がる。そして北蒲原の福島潟、島見潟付近は干上がり一気に新田開拓が進んだ。


 掘割から下流の旧阿賀野川は現在、通船川と名を変え新潟市沼垂で新栗の木川を合し山の下閘門排水機場から新潟西港(信濃川河口)へ流れている。

2-2.新川放水路の開削
(江戸期の新川は西川を底樋、大正から暗閘で潜った。戦後の国営新川農業水利事業で西川を水路橋で新川を横断させ暗閘を撤去した)

 江戸時代、西蒲原で特に排水不良なのが鎧潟、大潟、田潟など「三潟」と云われた地域である。また、西蒲原の領地は新発田、長岡、村上、会津、桑名、三根山藩等9つの藩に加え幕府直轄領もあった。遠隔の領主は因習や施策の違いから排水に小策を弄するのみで地域一丸の抜本的排水対策が講じられなかった。
 また大洪水では利害が上下流に及ぶ他、川を挟んだ騒動で流血の惨事も生じている。
 元文元年(1736年)紫雲寺潟干拓に関わる松ヶ崎の掘割の成果を知る賢人(筆者推測)がこの惨状を防ぎ水腐田沼地の開拓を進めるため、用排水河川の西川に底樋を設け、その先下流の内野、金蔵坂を開削し悪水を直接日本海へ排出する新川放水路案を策定した。


 しかし、各藩の取り組み不統一、巨額な工事費負担、放水路が完成すると信濃川への西川流量が減じ新潟湊に悪影響を与えると実現に至らなかった。(松ヶ崎掘割の反対理由と同じ)
 その後長岡藩18人、村上藩5人の割元及び庄屋が緊密な連絡をとって各村を説き文化11年(1814年)長岡藩37ヶ村、村上藩15ヶ村が集い底樋の構造、経費の負担方法を協議し、同12年計画案を長岡藩経由で幕府に提出した。
 新川底樋は数次に渡る工事が実施され慶応2~3年の第4次工事で高さ6尺、幅3間、長さ36間を4門、高さ4尺、幅3間、長さ38間を1門の5樋門を改築し海水の逆流を防止する逆水扉も設置した。

 また、底樋の敷高は海面より3m程低い。このため水替に踏車を5台ずつ10段に配置して揚水したことが大熊孝氏により紹介されている。
 その後、明治29年7月の信濃川横田切れ洪水の押水と明治38年8月の洪水の押水が新川に集まり堤防を崩し、金蔵坂の砂丘を削り、慶応年間に布設した底樋は老朽化と土砂の堆積で通水能力が減じた。
 大正2年新潟県は底樋を撤去し高さ10尺、幅3間、長さ70尺で9門のアーチ型煉瓦造閘門(新川暗閘)を完成させた。
 この暗閘は新川農業水利事業(一期)で昭和29年に撤去し西川はトラス構造の水路橋で新川の左岸から右岸に横断し今日に至っている。

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金蔵坂開削工事
(※3みなとぴあ展示物)

※3 みなとぴあ
 信濃川河口左岸にある新潟市歴史博物館のこと。博物館本館は2代目新潟市庁舎を模して建設され、新潟市の歴史や民族資料を分かり易く展示、他に旧新潟税関庁舎、旧第四銀行住吉町店が併設されている。


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新川底樋の水替
(みなとぴあ展示物)

2-3大河津分水の完成
 松ヶ崎の掘割が阿賀野川本流となり内水位が4尺も下り北蒲原で新田開発が飛躍的に進むドラステックな出来事が港町の寺泊に伝わる。
 ほどなく寺泊の本間数衛門が幕府に大河津分水の建設を願い出た。上流長岡方向からの信濃川が日本海に最も近づく燕市大河津から寺泊町野積まで10kmの放水路開削である。
 この分水路は本間数衛門が幕府に請願してから実に200年後の大正11年に通水し信濃川中下流域の外水排除(大河川からの洪水)が成功した。

碑の表に「人類ノ為國ノ為」後ろに「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」と刻まれ万国共通のエスペラント語も添えられている。碑文は建設に尽力した内務省新潟土木出張所長(今の北陸地方整備局長にあたる)青山士(あきら)氏による。
 その後、蒲原平野は排水改良を主とした土地改良事業(内水排除)が進み我が国有数の穀倉地帯となった。
 また、越後の石高は溝口秀勝が加賀大聖寺から転封した1598年は約39万石だった。歴代藩主が低湿地の新田開発に努めたことで明治元年にはその2.9倍の119万石まで増えた。


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横田切れ浸水図
耕地被害田畑荒蕉地3,156町歩、耕地被害田畑冠水地58,742町歩、死者48名、家屋流出180棟、流出建物556棟、破壊建物1,648棟、建物床上浸水43,985戸被害総額1,230万9,184円
(新潟県史通史編7,新潟新聞記述から)

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横田切れの痕跡(笠木地区)
(西蒲原土地改良史写真編)



 上が可動堰、下が洗堰、両堰とも更新されたが洗堰は存置され国の登録有形文化財に指定された。


堀上げ田  昭和41年(1966年)入省した筆者の初仕事が西蒲原地区上郷の吉田排水路の設計であった。先輩と佐渡山地域に測量に行き堀上げ田に出会った。これは低湿な地面を掻き取って嵩上げし、また同時に出来る溝渠により排水路を確保する開田技術である。
 残された水田と溝渠は櫛状の特異な景観を構成する。(国土地理院発行1947年米軍空撮の写真で見ることが出来る)

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空から見た堀上げ田
(岐阜県:水辺の開拓史から)

その後の排水改良事業の展開と農業の近代化により耕地整備が進み西蒲原から「はざ木」と「掘り上田」は消えた。

icon 3.西蒲原地区の位置



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 この地域は旧新潟市の西南に位置し合併前の旧町村では新潟市他12町村が含まれる。
 また、西蒲原平野の大部分を占め、鎧潟を中心とし西方は標高500m内外の弥彦、角田の小山脈が並び、北方は標高40m前後の帯状に発達した砂丘地。東南方は信濃川、中之口川で界され、信濃川を中心とする諸河川により生成された沖積平野で東西約15km、南北約35km、面積は28,300haにも及ぶ。
 かっての低湿地は数次に渡る土地改良事業の実施で隣接の亀田郷、白根郷と共に我が国有数の穀倉地帯となった。     


 南部から地域中心の鎧潟へ1/2,000勾配で傾斜しており、鎧潟以北の新川右岸側は標高1.0m内外、左岸側は新潟~弥彦県道まで1.5m内外の平坦地である。鎧潟、新川、広通江沿線は特に低湿で標高0m以下の田も見られる。

icon 4.戦後西蒲原で実施された土地改良事業



4-1.農地開発営団事業(概要)

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 この地域の土地改良事業の嚆矢は昭和20年からの農地開発営団事業である。それまでは小輪中中心としたブロック排水で上郷(鎧潟から上流の大通川流域)の用水改良は下郷(鎧潟下流の新川流域)の排水不良地域を拡大した。
 また下郷では大正2年に完成した新川暗閘建設前に戻ったかのような湛水地域が多くなった。このため※4囲い土堤を強化してブロック排水意識を強めるなど更に上下流の対立が深まっていった。
 こうした中、昭和20年6月に湛水被害が発生し、この解消に営団は小規模排水機を統合し20年11月から田潟、升潟、曽根の基幹排水機場の建設に着手した。
 その後営団は連合司令部による戦後処理に関連し閉鎖機関となり昭和22年10月に機場未完成のまま国営事業として農林水産省に引き継がれた。


主要工事(営団事業実績)
 ・田潟排水機場 昭和20年着工
   800m/m軸流3台 支配面積900ha
 ・升潟排水機場 昭和21年着工
   800m/m軸流2台 支配面積480ha
 ・曽根排水機場 昭和21年着工
   800m/m軸流1台 支配面積240ha

※4囲い土堤
 集落を洪水から守るために集落全体を囲うように土手が築かれた。囲い土手は下郷に多く設けられ高さを巡って上下流で争いが起きた。現存する囲い土手では黒鳥地区鷲尾政直生家近くの土手が有名である。

4-2新川農業水利事業(一期・概要)
 昭和22年に営団から田潟、升潟、曽根の3機場建設を引継ぎ、新川水系全体の排水構想を樹立した。
 ①自然排水区域は極力自然流下とする。
 ②排水時間短縮のため排水路を改修し洪水時の通水能力を向上させる。
 ③機械排水区域は既存機場を統廃合し排水効率の向上を図る。

 その後昭和24年に土地改良法が制定され26年4月に基本構想に基づく事業計画が確定。新川本線と12条の排水路改修、営団から引き継いだ3排水機場と新川右岸排水機場他を建設し昭和49年に完成した。

主要工事
 ・新川改修
 ・排水路改修
  大通川改修 
   (支線の吉田、荒井、深通、小池、西大通等排水路改修)
 ・排水機場建設
   (旧木山、田潟、升潟、曽根、新川右岸、旧広通、飛落川等)

4-3.鎧潟干拓建設事業(概要)
 昭和33年に着手し潟に流入する大通川を右岸、飛落川を左岸に迂回させた。また大通川には真木下江、飛落川には巻下江を流入させた。
 そして大通川の改修は新川一期事業、飛落川の改修は鎧潟干拓事業で行った。
 干拓面積は234haである。この内30haは新潟県有地で農業教育センターと興農館高校が設立(現新潟県農業大学校)され将来の県農業を担う若者の育成と技術研修にあて個人配分は204haで周辺農家の規模拡大に寄与した。

4-4.新川第二期農業水利事業(概要)
 昭和30年頃から発生した新潟平野の地盤沈下で新川の水位が相対的に上昇し、降雨時の溢水で新川堤防が危険な状態となった。加えて排水機の揚程不足から機械排水区で湛水被害を生じ自然排水区でも排水不良に陥った。
 この為、新川の河口に当時世界一と言われた大排水機場を建設し排水管理制御システムも整備した。

主要工事
 ①新川河口に大排水機場建設 
  Qmax240m3/s 6台(横軸軸流ポンプφ4200mm)
 (新川河床の不陸整正と断面の拡大)
 ②排水制御システムの導入
  新川河口排水機場と34箇所の既設用排水機場を結ぶ制御システムを構築した。
 ③老朽化で排水能力が低下した排水機場の増改築を行った。
  旧広通江排水機場(改築φ1000mm×2台、φ1350mm×2台)
  升潟排水機場(改築、曽根機場を統合φ700mm×3台)
  田潟排水鬼女機場(増設φ1200mm×1台)
  旧木山川排水機場(増設φ1500mm×1台)

4-5.西蒲原農業水利事業(概要)
 低湿で降雨の度に湛水被害が生じ3年1作と揶揄された西蒲原も戦後、体系的な排水改良を目的とした国営新川農業水利事業(一期、二期)で排水施設が整備され稲作を中心とした広大な穀倉地帯に生まれ変わった。
 しかし排水系統が新川に集中し機械排水に頼ることから規準雨量を僅かな超えても多大な湛水被害を被った。また農地の宅地化等、地域開発に伴う土地利用の変化から水田の汎用利用にも対応できない状況にあった。
 このような中、平成53年6月に発生した集中豪雨は西蒲原全域に甚大な湛水被害をもたらした。
 このため昭和55年度から国営農業用用排水事業と併せ行う国営農地防災事業に着手した。

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大通川放水路新々樋曽山隧道呑口
(西蒲原百景 山田慶二画)

事業計画の概要
 ①本事業で地区内の排水機能強化を図る。
 ②既設の排水路及び排水機場を有効に利用しながら新川に集中している排水系統を分散させる。
 ・御新田放水路、大通川放水路を新設し高位部の洪水を日本海へ自然流下
 ・七穂排水機場を新設し中ノ口川に排水。
 ・排水機能強化のため排水路を改修する。

主要工事計画
 ①排水機場
  旧広通江排水機場他7機場
 ②排水路
  大通川放水路他14路線

4-6.新川流域農業水利事業(概要)
 地区の基幹排水施設、新川右岸排水機場は新川(一期)農業水利事業で建設され昭和28年度から供用している。また、新川河口排水機場は国営新川二期事業で建設され昭和45年から供用された。
 これら施設は老朽化や維持管理費の増加で機能維持が困難、特に新川河口排水機場のポンプ等は海水による腐食が進行している。また新川右岸排水機場はポンプや弁グランド部からの漏水、主軸のすり減り等で運転不安が増している。
 このため両排水機場を改修し農業生産及び農業経営の持続的発展、農地等の保全に役立てるものである。

主要工事計画
 ①新川河口排水機場
  ポンプ設備の全面改修と既設構造物躯体補修補強
Qmax=240m 3/s φ4200mm×6台

 ②新川右岸排水機場
  ポンプ設備、及び既設構造物を全面改修
  Qmax=31.5m3/s φ1650mm×5台

 平成31年3月現在、新川一期地区、二期地区で造成した新川河口の自然排水樋門や旧木山排水機場、鎧潟排水機場等の施設改修を行う新川流域二期事業が進められている。

icon 5.西蒲原農業水利事業(詳述)



5-1.西蒲原地区事業概要図
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5-2.事業実施の背景と事業概要
 西蒲原平野が我が国有数の穀倉地帯に作り上げられるには、特筆される三つの大事業があった。
 一つは「三潟(鎧潟、田潟、大潟)水抜き」に掛かる新川開削と西川への底樋伏込み、二つは大河津分水路の開削、三つは国営新川一期及び二期事業の実施である。
 しかし地域の大半を機械排水に頼るこの地では汎用耕地化等土地利用形態の変化に加え地域開発等の進展に起因し昭和53年6月の集中豪雨で湛水被害が西蒲原の全域に及び湛水深30cm以上の面積は6,000haを越えた。
 地域の排水幹線である新川の排水能力の増強は下流部の都市開発のより期待できない。このため単なる排水強化にとどまらず排水系統の変更(分散排水)を行うこととした。

 このため一般の農業用用排水事業と降雨確率1/50に対応した3日連続雨量を採用した農地防災排水事業の二本立てでの一体施工することとした。
 具体的な排水の基本方針は次のとおりである。

1)御新田流域と上流と大通川最上流部は排水トンネルを新設し日本海へ放流する。
 (国上隧道、新々樋曽山隧道)
2)新川右岸東部の排水停滞区域は独自に排水機場新設して中ノ口川へ放流する。
(七穂排水機場)
3)これで新川及び新川河口排水機場の負担を軽減しつつ緊急時に備える力を残す。
4)宅地化、地盤沈下等で影響の大きい地域の既設排水機上場を増設すると共に この排水機能を完全にするため関連する中小排水路を改修する。
5)これらを集中制御する管理施設を建設する。

 新設の大通川放水路は大通川上流地区他6,600haの洪水をピークカットし日本海へ自然流下させるものである。
放水路建設で着目点
 平成2年度に着手した大通川放水路は新設河川である。沿線の優良農地を潰れ地域が分断される等の懸念があった。また250m3/mの膨大な掘削残土が発生し、これを経済的、効率的に処理するかが最大の課題となった。
 着工時は砂利採取場跡地埋立て等でまかなえたが以降は不可能であり、放水路沿線のほ場へ処理することが最適なので沿線集落に残土を活用した県営土地改良総合整備事業や県営高生産性大区画ほ場整備事業の実施を要請した。
 その後、関係者と先進地視察を行うなどの啓蒙を行い国と県の合併施工の協定を結び残土処理が可能となった。また、国営事業の施工区分はほ場への残土搬出、基盤整地と均平作業である。
増設機場と新設機場
・新増設した排水機場
 国営西蒲原地区は農地開発営団事業から今日の新川流域地区まで連綿と続いている。
 その証として旧木山排水機場掛かりの排水を述べる。
 一期地区で紹介したように従来、地区の排水は木山川と称した現在の旧木山川で新川へ排水されていた。
   しかし上下流の高低差が大で地区一体の排水に難があることから新川一期地区で上流部は新規に開削した新木山川で大通川に繋ぎ、下流は旧木山川から旧木山排水機場を経て新川に排水することとした。
 正面の丸い屋根構造が特徴の旧木山第1排水機場はS32年、新川一期地区で築造、旧木山排水機場を挟んで向かって右側の旧木山第2排水機場はS50年、新川二期地区で築造、左側の増設機場はH4年に完成している。
 またその左の機場は一期地区で築造した第1機場を全面的に更新しH30年に供用開始した。
 広大な西蒲原で大通川放水路Qmax=105.9m3/s(新々樋曽山隧道から日本海へ)、御新田放水路Qmax=47.2m3/s(国上随道から日本海へ)で自然排水も図ったが、このような新旧併設の排水機場は低平地西蒲原の各所に見られ近代営農と地域保全の重要な基幹施設として機能し続ける。

主要施設配置図
(事業誌西蒲原排水から)
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icon 6.西蒲原のトピックス



6-1.大通川放水路さわやか駅伝大会

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 工事区域を含めれば70m幅で地区を分断する放水路は地元調整も難しく栄、新谷地区の上流は進捗困難な状況に陥った。
 現状打開に向け第三者にも放水路事業の効果と意義を訴えるため事業所は県巻農地事務所、西蒲原土地改良区と連携、地元岩室村の全面協力を仰ぎ新谷地区の放水路左岸堤ほ場整備地区を周回する一周3kmの「大通川放水路さわやか駅伝大会」を企画した。
 なお、同大会は平成7年に始まり西蒲原事務所が閉鎖する平成15年まで開催された。
 当時、出場した中学生から箱根駅伝選手や全日本クラスの選手が輩出している。

6-2.米百俵と三根山藩
 「米百俵」は山本有三の戯曲、2001年の首相所信表明演説で小泉純一郎が引用し全国に知られるようになった。
 幕末戊辰戦争で徳川に殉じ政府軍との戦いに敗れた譜代長岡藩、町は焼失し窮乏を極めた。察した支藩の三根山藩は救援米「米百俵」を届けた。(三根山藩は旧巻町峰岡にあったので峰岡藩とも云われる)
 長岡藩大参事の小林虎三郎は「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の基となる」として米百俵を元手に1870年、国漢学校を長岡の坂之上町に開校した。また「富強の本ただ人民の知識を開く他ない」の思想で農民や町民の子弟の入学も許可した。流れを組む長岡高校からは山本五十六他歴史に名を刻む多くの著名人を排出している。
 旧岩室村新谷地区の大通川放水路の左岸堤には米百俵の故事を記した記念碑が建立されている。
 小泉首相が引用時ホンジュラス大使だった竹本正美が「米百俵」に感動しホンジュラス国大統領にもこの精神を勧め同国でも演劇化され日本の支援金を基に04年から初等教育の「米百俵学校」が建設され16年2月には新、増改築が100校に達したという。


6-3.角兵衛獅子
 西蒲原の旧月潟村は全国的に知られた「角兵衛獅子」発祥の地だ。
 由来は諸説あり月潟に住む常陸国、水戸生まれの角兵衛が何者かに殺されるが、その時、犯人の足指を噛み切った。息子の角内と角助は親の仇を討つため指のない者を見つけるため諸国を旅し逆立ちを演じた説。
 今ひとつは毎年襲う水害に悩む村の窮乏を救おうと農民が獅子踊りを創案し4、5人ずつ組になって諸国を巡業した出稼ぎ説。(これが本筋と筆者は思う)
 現在、旧月潟村は新潟市と合併したが合併目前の平成15年に不世出の大歌手美空ひばりが唄った「越後獅子の歌碑」角兵衛獅子地蔵尊近くに建てられた。 角兵衛獅子は文化的価値が認められ平成25年4月に新潟市無形民族文化財に指定された。

旧月潟村郷土物産資料館

6-4.義人「高橋源助の首塚」他
 西蒲原には用排水で苦しんだ伝承が残っている。
 曽根(旧西川町)の見帯地区に高橋源助の霊を弔う首塚がある。源助は江戸時代旧曽根村の割元庄屋だった。また高橋源助家は甲斐の武田氏滅亡後越後に逃れた子孫とされている。二代源助は干害に悩まされた曽根の水田を潤すため一里半離れた割前地区から用水を引く調査、測量を行った。
 源助をねたむ割前村の庄屋や長岡藩の役人は通水見込み無しと樋管伏設願い取り下げを迫った。しかし「自らの首をかけて責任をとる」という源助の首掛けの請願により許可が下りた。
 工事は1681年(天和元年)に竣工したが役人と大工が樋管の中程に板を仕込んだ為、水が通らず責任を問われ処刑される。
 通水式で落とされた首は水中深く沈み水止め板をくわえ勢いよく流れ出た水とともに浮かび上がった。
 このことで旧曽根村は水不足が解消され豊かな耕地となった。源助の首は樋
管の先から流れ出てそこに首塚が設けられた。

 この他、馬堀地区には西川から馬堀まで水を引き、用水完成と自らの命を引き替えに冤罪を被った名主、田辺小兵衛を奉った「馬堀首塚灯籠押し」の祭典が毎年8月25日開かれ今日まで続いている。

 また佐渡山地区には地域の排水改良に尽くした割元、野上太一左衛門の言い伝えがある。漆山地区での折衝後急死し死因は不明である。毎年催される佐渡山大祭は割元太一左衛門の遺徳を讃えるものである。


6-5はざ木
 夏井のはざ木
 かって新潟平野の至るところにトネリコなどを使ったはざ木があった。これには地上1.5m程から上に向かって約30cm間隔で段状に竹竿を渡し、下から順に稲束をかけて乾燥させるものである。

 門田のはざ並木
 旧白根市の国道8号線から旧巻町の国道116号線に抜ける門田地区の県道には約700mのはざ並木が残っており平成6年には新日本街路樹100景に指定されている。

6-6.横田切れ
 1896年(明治29年)7月22日豪雨により信濃川が増水、各地で堤防が決壊し越後平野の大半が浸水する大災害となる。中でも右岸側、横田地区の堤防は360mに渡って決壊し越後平野の大半が浸水、特にこの水害を「横田切れ」と総称するようになった。
 横田切れによる死者は43人、浸水家屋6万621戸、冠水田畑5万8千254ha、約3ヶ月も浸水したままのところもあり、衛生状態の悪化でチフスや赤痢など伝染病の蔓延も深刻だった。
 横田切れが契機となり大河津分水路が建設された。

 横田地区の諏訪神社境内にはつつが虫神社が祭られている。

6-7.樋曽山隧道、新樋曽山隧道、国上隧道、新々樋曽山隧道


呑口側の新樋曽山隧道と樋曽山隧道の間隔は約120m。そのほぼ中間に新々樋曽山隧道が掘られた。



(西蒲原上流域の排水を直接海に排除する4本の隧道)

1.樋曽山隧道(Qmax=19.69m3/s L=2,300m)
 旧岩室村と旧巻町の境界付近に樋曽山隧道がある。大河津分水開通後この地域の水害は減ったが西川西部弥彦山麓地域の排水は不十分だった。排水を受け持つ矢川が水位の高い用排兼用の西川に排水されていたからである。
 そのため大雨が降れば逆流し湛水被害に苦しんできた。
 明治34年大河津分水洗堰に西川閘門を設け西川の流水を制御したが西川は生活用水にも使っており治水の根本的な解決に至らなかった。
 幾多の曲折の後、昭和8年に県営事業として岩室村樋曽地点から弥彦山系をくりぬき日本海へ放出する樋曽山隧道が着手し昭和14年に矢川と西川は分離され悪水は隧道を通って日本海に流れた。

2.新樋曽山隧道の建設(Qmax=47.51m3/s L=3,075m)
 樋曽山隧道は昭和22年の落盤で機能が低下。雨が降り続くと湛水し住民は舟による生活を強いられた。
 その後機械化による営農の変化等で矢川の改修と新たな隧道建設の必要に迫られた。昭和36年に樋曽山隧道に平行するルートで着手され昭和40年に完成し、洪水の心配や湛水の恐れも無くなった。

3.国上隧道の建設(Qmax=47.2m3/s L=3,659m)
 本施設は御新田排水機場から西川へポンプ排水している西川流域(2,040ha)と新樋曽山隧道から日本海へ排水している矢川流域の上流部(1,330ha)の洪水をカットし寺泊町野積海岸から日本海へ自然排水する水路で国営西蒲原地区で建設し平成2年に完成した。

4.新々樋曽山隧道の建設(Qmax=105.9m3/s L=3,029m)
 大通川放水路末端、樋曽地点から弥彦山系を掘り抜き日本海へ放出する隧道。大通川上流部8,190haと矢川流域5,250haの内、矢川流域の一部西川流域を除いた6,620haの排水を受け持ち国営西蒲原地区で建設し平成11年に完成した。
 前述のように樋曽山隧道と新樋曽山隧道は併設し呑口で約120m、吐口で約150m離れている。
 地質調査結果から両隧道の中間に新々樋曽山隧道を通すことが経済性、安全性、排水効率から有利であり路線選定した。

icon 7.西蒲原の土地改良基盤形成に尽くされた人



7-1.鷲尾政直(1841-1912)
 新潟市黒鳥に生まれる。明治14年新潟新聞に「西蒲原治水起工議」を発表。水を治めるに「人民結合一致」が必要と唱え、如何に策を弄し資材を投じても人の和がなければ効果が期待できないと大河津分水や中ノ口川の工事進捗に尽くした。
 政直の教えは横江普通水利組合を作った次男の精治に受け継がれ精治の長男は我が国の「土地改良」を牽引した前西蒲原土地改良区理事長鷲尾貞一である。
 また、新潟市で唯一の直木賞作家、鷲尾雨工も名門鷲尾一族出身で鷲尾本家が旧内野町の新川の金蔵坂開削や西川底樋建設当初から代々土地改良に貢献して来たことを誇りにしていた。 


7-2.鷲尾貞一(1909-1985) 旧黒埼町(現新潟市)名誉町民
 昭和10年明治大学政経学部卒業後、黒崎村教育委員会副委員長、同村助役等を歴任。昭和28年から西蒲原土地改良区理事となり、以降、同理事長、新潟県土地改良事業団体連合会理事長、全国土地改良団体連合会理事に就く。
 また、土地改良制度研究会委員として制度の創設、改善、及び土地改良法改正に尽力し、業績は西蒲原はもとより全国的にも高く評価され基本理念は以和治水(和を持って水を治める)で土地改良事業の推進にその生涯を捧げ一族で郷土の発展に尽くした。
 西蒲原土地改良区玄関脇に立像が建つが、生家、黒鳥地区の緒立遺跡脇の八幡宮には父、鷲尾清治と貞一の胸像が並んで奉られている。


icon 8.上郷地区の治水沿革を述べた記念碑



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碑文
上郷区治水の沿革

 上郷地域は西蒲原郡の南部高位部にあり 古来よりその流域八二八○ヘクタール余の悪水を大通川、飛落川、木山川により鎧潟及び新川を経て日本海へ注いでいた
 三河川何れも河巾狭小にして屈曲多く 加えて各河川とも排水とともに用水を兼ねるため 大通川の山島堰 木山川の嵐堰の排水調整堰のほか 大通川十ヶ堰 飛落川二ヶ堰 木山川十数ヶ堰の用水堰が設置せられ一たび豪雨ともなれば上流部まで湛水の被害を受けていた ことに明治三十八年の大洪水には本地域は下郷新川低湿地とともに水底に没し収穫皆無の状態となり その被害は甚大なものであった
 そこで 上郷地域の関係市町村は新川疎水普通水利組合と合同して大水利計画を樹て実施すべく協議したが 新川疎水普通水利組合は祖父伝来 長年月労苦の末 漸く設置した新川底樋を上郷地域の悪水排除に利用されるとして絶対反対し この実現をみるに至らなかった よって明治三十九年 まず 大通川 木山川 飛落川の主要三川を 河川法準用河川に指定を得 新川を含むこれらの改修計画が決定された
 大正七年 上郷普通水利組合は解散し これに替わり上郷水害予防組合が設立された この改修計画は大正七年県営事業として着工され新川 大通川 木山川 飛落川四川の総延長五五四○○米に及ぶ大改修と総ての用水堰を撤廃して これに替わる新筒 六ヶ江 八ヶ江 鴻之巣 富永 馬堀用水等十三用水樋管と同用水路総延長八七一○○米に及ぶ新設又は改修を行い昭和十年完了をみたがその効果は顕著なものであった 特に用水堰の撤去は 永年に亘る上流部対下流部の水争いを解消し郷内人心の安息に寄与すること 実に偉大なものであり ここに上郷地域の用排水施設は一応整備をみた
 しかしながらその農業経営の進捗と時代の要求により 西蒲原地区全域に亘る総合的な用排水施設の改良に迫られ 昭和二十年当時の農地開発営団のもとに新川農業水利事業の着工をみたものである 大改修とともに上郷地域にも大通川 新木山川 荒井川等七線総延長四八九○○米に及ぶ改修工事が施行されている
 また 昭和三十三年国営附帯新川地区用排水改良事業が 県営をもって着工せられわが上郷地域においても排水関係で大通川 旧木山川 新木山川 荒井川等実に二十線 総延長四四九○○米 用水関係で新筒 六ヶ江 八ヶ江 児之木 富永  鴻之巣 馬堀用水等二十五線 総延長六七四○○米の新設又は改修が施行されており何れも近く完工をみるものである
 以上の国営並びに県営事業による効果は実に顕著なものであるが 完工の曉には一層の効果と用排水施設の完備をみることとなり わが上郷区農民多年の宿願が達せられるのである その間組合機構も土地改良法の制定により 昭和二十六年全郡一円とした西蒲原土地改良区に結成されて 上郷水害予防組合は解散し 上郷区となり ついで昭和四一年大機構改革による区制の廃止により 六十余年の歴史を有する上郷区も解消するに至った
 ここに上郷区解消を期に農業にたずさわるわれわれは 長年水苦を克服して来た先賢の偉業をしのび更にこれを継承して一層の発展を心に固く誓う

   昭和四三年十一月


      理事長 鷲尾貞一撰文並篆額書
       主事 鈴木筆雄     書
      西蒲原土地改良区  上郷区建

icon 9.今、西蒲原地域(新川流域)で進めていること。



9-1.新川河口排水機場見学会
 新川流域農業水利事業所、西蒲原土地改良区、新潟県農地部は西蒲原地区の最重要施設である新川河口排水機場を小学生、一般市民、新潟大学学生等に積極的に公開し排水機場の役割や西蒲原の土地改良の歴史等、工事概要今後の課題等を説明している。

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9-2.西蒲原地区クリーン作戦
 平成の始め頃から毎年11月3日に広大な受益2万haを擁する広大な新川流域地区でNPO田園21会員他、各企業・団体が集い行われる。
 集合場所はケラ島ゲート公園(吉田排水路、新荒井川)、岩室栄・新谷地区記念碑前(大通川放水路)、七穂排水機場(七穂排水路)、黒鳥保育園(横江排水路)、小新排水機場(小新排水路)曲通排水路(月形排水路)の主要六ヶ所、毎年400人前後が参加する一大イベントである。


9-3.農業特区を活用し農家レストラン開設
 新潟市の農業は亀田郷地区で記述しているのでここでは特に国家戦略特区(農業特区)を活用し好評の農家レストランについて述べる。
 西蒲区下山の「トネリコ」は取れたての野菜の小鉢や漬物が味わえる定食や米粉ピザが定番で、休日には計画の3倍強の約180人が訪れ隣接の農産物直売所の「そら野マルシエ」との相乗効果で賑わっている。
 また、背後に多宝山と弥彦山を望む同区橋本の「ラ・ビステッカ」は牧場やジェラート店を含む会社が経営、県産牛ステーキなどを目当てに計画の1.5倍の一日約90人が訪れ賑わっている。利用客から「田んぼが近くて気持ちが良い」と好評である。

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 尚、平成12年に合併した新潟市は行政区毎にイメージカラーを持ち西蒲区は「ハーベスト(収穫)イエロー」

icon 10.西蒲原地区(新川流域)の排水事業効果



 前述の農地開発営団、新川一期、二期事業で用排水施設は整備され当地域は日本有数の穀倉地帯に生まれ変わった。
 しかし昭和53年6月26日から28日にかけての豪雨で域内の農地、農作物、農業用水利施設に甚大な被害を与えた。
 これを契機に排水施設の一層の機能強化を図る目的で国営農業用用排水事業と併せ行う国営農地防災事業で昭和55年から実施され平成15年度に事業完了した。
 平成16年7月の新潟福島豪雨では三条、長岡地域を中心に甚大な被害をもたらしたが、新設・改修された排水路、排水機場等が機能したことにより西蒲原地域で湛水被害は殆ど発生しなかった。


参考文献
・事業誌「新川」 北陸農政局
・事業誌「西蒲原排水」 北陸農政局
・新潟県土地改良史 新潟県農地部
・国絵図の世界 国絵図研究会
・「水辺の開拓史」 菅豊
・信濃川治水の歴史 大熊孝
・内野新川(新潟歴史双書4) 新潟市
・西蒲原百景 山田慶二
・燕市ホームページ 燕市
・2017.2/23新潟日報紙 新潟日報社
・江戸時代中期に登場した人力揚水機「踏車」に関する研究 竹内智志、大熊孝、小野桂、知野泰朗
・新潟歴史散歩西蒲原 新潟日報事業社
・西蒲原土地改良史(写真編) 西蒲原土地改良区
・北陸農政局ホームページ 北陸農政局
・URBAN KUBOTA NO.17