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1.柏崎・刈羽地域の成り立ち
2.柏崎・刈羽地域における土地改良の歴史
3.柏崎・刈羽地域の概況
4.国営柏崎周辺地区の発足経緯
5.国営柏崎周辺農業水利事業計画
6.柏崎・刈羽地域を襲った二つの地震
7.柏崎・刈羽地域農業のめざす方向

1.柏崎・刈羽地域の成り立ち



 地球上に人類が誕生した頃、柏崎・刈羽地域はまだ海の底にあり、米山は海底で噴火を繰り返していた。
 多くの年月が流れ、人類が生活を営み、そして、縄文人といわれる人々は、湖沼近くの高台に住み、ドングリ団子を落葉樹の葉にくるみ食べていた。
 また、多くの年月が流れ、弥生人は、米を作り、湖沼周辺の低地に移り住み、葦の生い茂る湿原をかんがい排水して開田し、この地に定着するようになった。

1.500~250万年ほど前
500~250万年ほど前
(出典:『柏崎刈羽土地改良だより』平成10年3月~平成12年3月)

 柏崎・刈羽地域をはじめ新潟県のほぼ全域がまだ海の中にあり、米山、黒姫山(刈羽)、八石山は海底で活発に噴火して、溶岩や火山礫を噴出していた。

*人類が約400万年前にアフリカ大陸の東南部で誕生したと考えられている。


2.30~5万年ほど前
30~5万年ほど前
(出典:『柏崎刈羽土地改良だより』平成10年3月~平成12年3月)

 この時期は寒冷で、大陸氷河が成長する氷期と、温暖で氷河が溶ける間氷期が繰り返し訪れ、それに伴い海水面が大きく上下に変動していた。
 海水面は現在より20m~30m程度高く、柏崎・刈羽地域は大きな湾(古柏崎湾)になり、赤坂山付近には小島や岬が多数存在し、鵜川筋は山口、鯖石川筋は南鯖石小学校(H24閉校)、長鳥川筋は旧広田、別山川筋は内郷小学校前あたりまでが海であった。

*人類は直立して歩き、道具類を作り使用していた。この頃、人類が日本に住み着いたと考えられている。また、ナウマン象が群れを作って住んでいたのもこの頃である。


3.2~1.5万年ほど前(旧石器時代)
2~1.5万年ほど前
(出典:『柏崎刈羽土地改良だより』平成10年3月~平成12年3月)

 氷河が発達し、海面は現在より120m~140m程度低く、柏崎・刈羽地域は陸地となった。
 大陸棚が海上に現れ、海岸線は現在より15km程度沖合にあり、佐渡と柏崎の間には周囲約30kmの島ができ、海峡の幅は4kmほどであった。

*旧石器人が石斧を使い、オオツノ鹿やナウマン象狩りをし、肉はナイフ型石器を用いて捌いていた。この頃の日本の人口は1万人くらいであった。


4.6000~2000年ほど前(縄文、弥生時代)
6000~5000年ほど前
(出典:『柏崎刈羽土地改良だより』平成10年3月~平成12年3月)

 縄文時代の初期には氷河期が終わり、気温は現在より平均で2℃ほど高く、新潟県のほとんどの平野が浅い海の底であった。
 柏崎・刈羽地域は、段丘と古砂丘(現在の荒浜砂丘)に囲まれた柏崎湾と呼ばれる大きな入り江となっていて、鵜川と鯖石川の間が入り江の口となって日本海に開いていた。 
 周辺地域では、縄文時代の遺跡が多く見つかっており、柏崎湾縁辺部の小高い丘(剣野、横山、半田、土合)や鵜川流域の段丘上で縄文人が生活していたと考えられている。
 約3000年前の縄文時代の晩期になると、気温は現在より平均気温で2℃程度低く寒冷で、海水面は現在よりも2m程度低下していた。
 柏崎・刈羽地域一帯は土砂の堆積が進み、湖沼や葦の生い茂る湿原の柏崎刈羽平野が形成され、海水面とはほぼ同じ高さになっていた。
 日本で稲作が始まり、自然河川や低湿地・湖沼付近で作付けが行われた弥生時代になると、海水面は現在の高さに上昇し、柏崎刈羽平野は再び水深1m程度の海底になった。

*この頃より、中国大陸で稲作が始まっている。縄文人が日本各地で生活をしていて、全国の人口は10万人くらいであったが、弥生時代に入ると40万人くらいと大きく増加している。


5.2000~550年ほど前(弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、室町時代)
600年ほど前
(出典:『柏崎刈羽土地改良だより』平成10年3月~平成12年3月)

 弥生時代(約2000年前)には稲作を基盤とする生活になり、集落は平野部の低湿地近辺の稲作条件に適した位置に立地するようになる。
 柏崎・刈羽地域でも、別山川下流左岸の沖積地に下谷地遺跡、野附遺跡、萱場遺跡など、弥生時代の遺跡が多く発見されている。下谷地遺跡では炭化した米が出土し、稲作が行われていたことを示している。
 古墳時代(約1800年前)には、ため池を造り、かんがい用水を確保して水田開発が盛んに行われていた。また、村の存在が確認できる遺跡も見つかっている。
 柏崎・刈羽地域には、刈羽大平遺跡、行塚遺跡、礼坊・戸口遺跡などが見つかり、古墳時代の中期から後期までは村が存在したことが確認されている。
 平安時代(約1200年前)から鎌倉時代(約800年前)は、荘園制度により水田開発が進められた。現在の平野部分は、湖沼や低湿地であり、河川の運搬土砂によって堆積が進み海水面とほぼ同じ高さまで盛り上がり、水田開発は干潟、低湿地で行われた。また、かんがいなどの土木技術が進んだことで、佐橋庄や鵜河庄など河川流域にも荘園が開発されている。
 室町時代(約550年前)からは、各地の豪族が経済基盤を拡充するために田畑を増やし、治水、利水を行い、新規開田が盛んに進められた。
 この頃の柏崎・刈羽地域には、大きな湖沼が7ヶ所あった。

*日本の人口は弥生時代晩期には約70万人、古墳時代には約250万人、平安時代には約600万人と稲作の発達とともに飛躍的に増加している。


6.550~70年ほど前(戦国、江戸、明治、大正、昭和時代)
70年ほど前
(出典:『柏崎刈羽土地改良だより』平成10年3月~平成12年3月)

 この頃になると、米が社会の土台となり、水田開発が戦国大名、江戸幕府、諸大名、豪商、豪農によって行われた。
 柏崎・刈羽地域の潟湖は、鵜川、鯖石川、別山川の運搬土砂により海水面より2.5m程度高くなり、海水塩の影響を受けなくなって、稲作ができる条件が整い、新規開田とともに、未熟な利水施設の整備が盛んに行われた。
 寛永2年(1625年)に刈羽郡奉行となった青山瀬兵衛は、水利土木に力を注ぎ、柏崎・刈羽地域の藤井堰、藤井堰東江、西江用水路開削、鏡が沖干拓、古町堰、赤田ため池、軽井川ため池、佐藤池ため池など多くの農業水利施設を整備した。

*室町時代の終わりには人口は約1,000万人、江戸時代には約3,000万人、明治後期(1900年)には約5,000万人、昭和25年(1950年)には約9,000万人と爆発的に増えた。



【トピックス:新田地名と谷地(ヤチ)地名の由来】
 本地域に新田地名がついている土地は、今からおよそ300~350年前に開田されて集落が形成されている。大字に新田地名の多い刈羽村は、別山川の氾濫低地・湖沼の「かんがい」によって新田が開発されており、字地名に湖沼開田による地質上の地名(谷地、かつぼ等)が多い。
 柏崎の大字新田地名の約半数は、平野縁辺部で湖沼の「かんがい」による開田(長崎新田、新田畑等)であり、残りは丘陵地の用水路新設・確保によって開田されている(宮川新田、谷川新田等)。西山町に、大字、小字の新田地名がない理由は、大きな河川がなく、平地部のほとんどは、奈良・平安時代の頃までには開田されたためと考えられている。
 この頃、西日本では干潟の干拓で新田を開発し、東日本では湖沼のかんがい排水によって新田を開発している。新田開発は主に、戦国大名によって全国各地で大規模に行われている。開発技術は武士が担当したが、その費用は商人に負担させ、新田の一部をその見返りに与えたといわれている。


2.柏崎・刈羽地域における土地改良の歴史



1. 江戸時代以降の主な水争いの歴史

(1)江戸時代の主な水争い
 江戸時代の柏崎・刈羽地域は、多くの大名領・天領が入り乱れていて、それぞれが石高確保のために、無秩序に開田を進めた結果、流域が狭く、利用可能な用水量が限られる本地域では、あちこちで水争いが頻発するようになっていた。
 主な水争いとしては、藤井堰西江の上下流の訴訟(元文5年:1740年)や藤井堰東江と西江のような受益者同士の訴訟(天明3年:1783年)に加え、比角、半田、岩上の3村が西江に新規加入を訴え認められた訴訟(明和3年:1766年)、同じく新規加入で、土合、長崎新田、佐藤池新田が西江に加入を訴えたが認められなかった訴訟(天明5年:1785年)などがある。
 また、藤井堰と善根堰(明和8年:1771年)及び藤井堰と安田堰(安永2年:1773年)でも、用水の分配比に関する訴訟が行われている。

(2)新潟県による大規模河川改修
 大正7年(1918年)に新潟県によって大規模な鯖石川改修計画が立てられた。その内容は、藤井堰上流の山室橋から南条の信越線鉄まで迄の約9kmの蛇行した区間を改修するとともに、それまで草堰(※2.藤井堰と善根堰の歴史(1)藤井堰を参照)であった安田堰に南条堰を統合した上で、コンクリート堰に改良するものであった。
 これに対し、藤井堰組は「上流の堰が改良されると、河川水の全量が取水されてしまい、下流が多大な干ばつ被害を受ける」と訴え、河川改修を藤井堰まで延長し、藤井堰の改築も行うよう請願した。
 この結果、河川改修は藤井堰まで範囲を広げ、大正10年(1921年)に上流の安田堰(現在の善根堰)が、翌年の大正11年(1922年)に藤井堰がコンクリート造りに改修された。この時に、善根堰には下流への放流施設として7ヶ所の角落しが設けられ、渇水期には角落しをはずして下流に水を流したという。

善根堰の角落し(大正11年)(出典:柏崎周辺地区「事業誌」令和2年3月)

(3)藤井堰・善根堰改修と用水配分の合意
 昭和34年(1959年)の豪雨により善根堰が決壊し、災害復旧工事が行われることとなったが、その際に、藤井堰組との協議なしに全量取水方式に改築されたため、両者による積年の水争いが激化した。
 藤井堰組は、柏崎土木事務所へ安永2年(1773年)の用水配分比率(1:3)を遵守するよう申し入れ、同時に県知事にも水利権の確認を申し入れた。
 昭和48年(1973年)に、県知事が善根堰改修に際し、上下流の分水に公平を期す旨を回答し、昭和51年(1976年)鯖石川土地改良区と刈羽平野土地改良区との間で当時の受益面積から、善根堰1.0に対し、藤井堰2.8とすることで協議が成立し、これを踏まえて設計した後に善根堰の射流分水工と藤井堰が完成した。

善根堰の射流分水工:取水口で全量取水した後に分水(著者撮影)

2.藤井堰と善根堰の歴史

(1)藤井堰
明治期の藤井堰(鎧堰)
(出典:柏崎周辺地区「事業誌」令和2年3月)
藤井堰にある記念碑(著者撮影)

 土地改良の歴史や水争いの歴史に名前の出る藤井堰の創設については、明確な記録は残されていないが、文禄4年(1595年)、上杉景勝の重臣であった直江兼続が藤井堰を築造し、『藤井堰掟書』を下して、新田開発が進められた記録が残されている。この当時の堰は、川底に打ち込んだ松杭にそだ木の束を組み、土俵を積んだ「草堰」と呼ばれる簡易な造りであったため、洪水などにより度々流され、改修のたびに位置が変わっていたようである。
 藤井堰が造られた以降も新田開発が進められ、それに応じて用水量も多くなり、当初の藤井堰の位置では十分な用水の確保ができなくなった。そこで、当時の刈羽郡奉行の青山瀬兵衛により藤井堰の改修が行われている。
 青山瀬兵衛は、もともと堰のあった藤井村から1km上流の平井村に新しい堰と東江・西江用水路の整備を計画した。当時の平井村は天領であったため、建設の許可がなかなか下りず、鯖石川の洪水にも見舞われ、完成には10年の歳月を要したといわれている。
 新たな藤井堰は、川底に打ち込んだ杭に、そだ木の束と土俵を積み、同じものを少しずつ、ずらしながら積み重ねていく工法で造られ、その姿形から「鎧堰」といわれた。その後、大正7年(1918年)に河川改修事業、昭和52年(1977年)に県営かんがい排水事業により改修が行われている。
 近くには、土地改良や水争いの歴史を偲ぶ記念碑が建立されており「用水の一滴が血の一滴」と後世に伝えられてきている。

(2)善根堰
 善根堰は、現在の堰の所在地である柏崎市大字善根の地名に由来するものであるが、古くは安田堰と呼ばれていた。
 明治41年(1908年)に安田堰組合と藤井堰普通水利組合との間に安田堰の位置変更に関する協定が交わされている。当時の施設は杉丸太とそだ木の束、砂利俵を材料とした堰であった。
 新潟県による大規模河川改修により大正11年(1922年)にコンクリート固定堰で改築されたが、昭和34年(1959年)の水害で全壊したため、昭和36年(1961年)に災害復旧事業で自動転倒ゲートに構造変更し全面改築された。

3. 柏崎・刈羽地域におけるかんがい排水事業の歴史

(1)用排水改良事業の実施
 全国各地で区画整理事業が進む中、昭和27年(1952年)刈羽郡町村会による刈羽平野用排水改良事業が計画され、この事業推進のため、藤井堰組合と刈羽平野土地改良区(初代理事長は刈羽郡町村会長 村山沼一郎)が設立された。
 事業では、ダム建設による新規水源開発を行う計画であったが、用地取得、用水配分、費用負担などの多くの難題が解決できず、ダム部門を廃止し、古町堰や用水路の改良のみの事業となった。

(2)県営かんがい排水事業の実施
 昭和51年(1976年)に県営かんがい排水事業として、藤井堰地区(藤井堰の改修)、鯖石川地区(善根堰の改修と用水路整備)が計画されたが、事業実施に際して、藤井堰と善根堰の用水配分をめぐり、積年の水争いが激化するなど一時事業が足踏みしたものの、それぞれ昭和52年(1977年)、昭和57年(1982年)に事業が完了し、本地域における現在の用水供給体制が確立された。

4. 土地改良区の合併の歴史

 平成6年(1994年)に、鯖石川上流の鯖石川土地改良区と下流の刈羽平野土地改良区は、柏崎市内のほかの土地改良区とともに合併し柏崎土地改良区となった。ここに、上下流の土地改良区の組合員が同じ土地改良区の組合員となり、江戸時代から続いてきた水争いが終決することとなった。
 さらに、国営柏崎周辺農業水利事業を契機に、平成21年(2009年)4月に受益地内の柏崎土地改良区、西山町土地改良区、刈羽村土地改良区が合併し、新しい「柏崎土地改良区」が設立され現在に至っている。


3.柏崎・刈羽地域の概況



1.地域の概況

 柏崎・刈羽地域には、二級河川の鯖石川と鵜川が南北方向に流れていて、鯖石川水系には、下流平野部で鯖石川本川と合流する支流の別山川が東西方向に流れている。  
 この地域では、これらの河川水を農業用水として利用してきたが、いずれの河川も流域が狭く、夏場に晴天が続くと河川流量は激減し、番水の実施に加え、飽水管理(田面に水がなくなり、溝や足跡に水が貯まっている状態でかん水する水管理手法)などが行われているが、水不足による上流と下流の水争いも過去幾度となく起きていた。
 このため、本地域では、干天が続くたびに排水路をせき止めて反復利用を行うなど、農業用水の確保に苦労してきた。特に、平成6年や平成11年の大干ばつでは、頭首工の下流に水が流れない瀬切れ状態の発生やため池の水が底をつき、田植えができなかったり、水田がひび割れて漏水したりするなどの被害を生じた。また、本地域内の多くの水田は狭小で湿田が多く、過去より非効率な営農を強いられてきている。

左:用水不足により水田に亀裂が発生(H11) 右:水が流れていない別山川(出典:柏崎周辺地区「事業誌」令和2年3月)

2.社会環境の概況

(1)人口・世帯数
 関係市町村(柏崎市(旧柏崎市、旧西山町、旧高柳町【受益外】)、刈羽村)の平成27年の総人口は91,644人であり、過去20年間に15,485人(14.5%)減少している。
 世帯数は、平成7年の35,092世帯から平成27年の35,243世帯と0.4%増加しているが、一方で、1世帯当たりの人員は3.05人/世帯から2.60人/世帯と減少し、核家族化が進んでいる。

(2)土地利用
 関係市町村の土地利用現況は、水田が約93%を占めており、水稲単作の土地利用状況である。
 耕地の整備状況は、地区全域で一通り完了しているものの10~20a区画という小区画ほ場が大部分を占めている。

(3)産業
 本地区の平成27年の産業分類別就業者数は総計43,980人となっており、このうち第1次産業が1,574人(3.6%)、第2次産業が15,420人(35.1%)、第3次産業が26,537人(60.3%)となっている。

3. 農業の概況

(1)専業・兼業別農家数
 本地区の平成27年の総農家数は2,508戸であり、その構成は、専業農家が16.5%、第1種兼業農家が6.3%、第2種兼業農家が39.0%、自給的農家は38.3%となっている。
 平成7年から平成27年までの推移を見ると、過去20年間で3,715戸減少し、減少率は59.7%となっている。専兼業別農家数の推移では、専業農家が11.9%減少しているのに対し、第1種兼業農家は64.2%、第2種兼業農家は75.1%と大幅に減少している。専業農家、第1種兼業農家、第2種兼業農家の大幅な減少は、後継者不足や高齢化に伴う離農等によるものと思われる。

(2)経営耕地面積
 経営耕地規模別に経営耕地面積の集積割合で見ると、5ha以上は2,303ha(経営体)であり、全経営耕地面積の56.9%が集積されている。
 平成22年と平成27年の推移を見ると、本地区では耕地面積は減少しているものの、5ha以上の割合が45.5%から56.9%と約11ポイント増加している。

(3)農業産出額
 平成26年の本地区の農業産出額は51.7億円である。類別の構成比では、米の構成比が76.0%と高いことが特徴であり(新潟県:52.9%、全国:17.1%)、野菜や果実、畜産等の構成比は新潟県・全国と比べてかなり低い。
 本地区の農業は米が基幹作物となっており、米どころ新潟の中でも本地区の農業は米に大きく依存している。


4.国営柏崎周辺地区の発足経緯



1. 新規水源の渇望
 柏崎・刈羽地域の水争いの歴史の根本は「新規水源開発の適地がない」ことに起因している。これまでの新規水源開発の経緯をたどると、昭和28年に着工した「県営刈羽平野農業水利改良事業」による2,500千m3のダム建設計画が、水源開発の唯一のものであった。
 この計画は、最終的には鯖石川水系の旧東頸城郡大島村足谷にダムサイトを求めたものである。この時点以前にも同じく鯖石川水系の旧高柳町山中に、信濃川水系渋海川の水を導水するダム建設計画を立てていたが、旧中魚沼郡川西町の反対に遭い断念した経緯がある。
さらに、それ以前には、渋海川の水を旧小国町地内で取水し、八石山の下をトンネルで鯖石川へ導水する構想も地区では話題とされていたが、全てが他流域からの導水によるものであった。
 加えて、着手した「県営刈羽平野農業水利改良事業」のダム建設計画は、受益者の理解が不十分であったこと、流路が長く上流に受益外の善根堰があること等の理由により実現せずに、事業は鵜川水系の古町頭首工と用水路建設のみで打ち切り完了されている。
 これらを経て、この地域の水源開発は、県土木部の治水ダムである鯖石川ダム(旧高柳町中の坪、重力式コンクリートダム、堤高37.0m、堤頂長170.0m、総貯水量6,000千m3、有効貯水量5,100千m3、昭和49年完工)に不特定用水として、1,000千m3が確保され、既得水利権量が補償されたにとどまっている。
 なお、現在施工中である、鵜川ダム(柏崎市清水谷、中央コア型ロックフィルダム、堤高55.0m、堤頂長267.0m、総貯水量4,700千m3、有効貯水量3,180千m3)にも、不特定用水として900千m3が確保されている。

2. 事業の経緯
 本地域が渇望した自流域での水源確保は、農林水産省の直轄事業により実現されることとなる。水源確保の国営事業は、平成元年から、北陸農政局信濃川水系土地改良調査管理事務所によって地区調査が開始され、平成7年度から全体実施設計、平成9年度に事業着手し、同年、柏崎周辺農業水利事業所を開設した。
 その後事業を着実に実施し、事業着工以来23年を経て、令和元年度に事業完了を迎えた。

【事業経緯】
平成元年度~平成6年度 地区調査
平成7年度~平成8年度 全体実施設計
平成9年7月国営柏崎周辺農業水利事業所 開所
平成10年1月S事業計画確定
平成16年10月23日新潟県中越地震発生(最大震度7)
平成19年7月16日新潟県中越沖地震発生(最大震度6強)
平成21年4月1日3土地改良区が合併し、柏崎土地改良区設立
令和2年3月柏崎周辺農業水利事業完了

(出典:柏崎周辺地区「事業誌」令和2年3月)


5.国営柏崎周辺農業水利事業計画



1. 事業目的と概要

(1)事業目的
 本地区は、刈羽平野に広がる柏崎市、刈羽村の1市1村にまたがる3,670haの水稲を中心とした農業地帯である。本地区内の河川は、いずれも流量が乏しく、取水が不安定であるため、排水路をせき止めての反復利用等により農業用水の確保を図っている。
 このような状況に対処するため、本事業は3つのダムを新設し、取水施設及び用水路等の新設、改修を行い、用水供給の安定・合理化を図り、併せて関連事業により末端用水路等の整備及び区画整理を行い大型機械の導入を促進し、農業経営の近代化と営農の合理化を目指すものである。

(2)事業概要
  1)受益面積 :3,590ha
  2)関係市町村:柏崎市(旧西山町含む)、刈羽郡刈羽村
  3)事業工期 :平成9年度~令和元年度
  4)主要工事 :貯水池新設3ヶ所
         ・栃ヶ原(とちがはら)ダム(H13.8月着手~H21.3月試験湛水完了)
         ・後谷(うしろだに)ダム(H14.9月着手~H21.2月試験湛水完了)
         ・市野新田(いちのしんでん)ダム(H24.4月着手~R元.6月試験湛水完了)
         頭首工改修2ヶ所(藤井頭首工、善根頭首工)
         幹線導水路新設 L=5.1km
         用水路改修   L=2.6km
         水管理システム N=1式

2. 主要施設計画

(1)栃ヶ原ダム
【栃ヶ原ダムの諸元表】
栃ヶ原ダム(出典:柏崎周辺地区「事業誌」令和2年3月)

(2)後谷ダム
【後谷ダムの諸元表】
後谷ダム(出典:柏崎周辺地区「事業誌」令和2年3月)

(3)市野新田ダム
【市野新田ダムの諸元表】
市野新田ダム(出典:柏崎周辺地区「事業誌」令和2年3月)

(4)ダム以外の改修施設
  1)善根頭首工
  型式:直線型コンクリート重力式
  堤高:3.03m、堰長:51.4m、取水位:23.59m、取水量:1.881m3/s
  工事内容:取水口及び護床工改修

  2)藤井頭首工
  型式:直線型コンクリート重力式
  堤高:5.5m、堰長:60.0m、取水位:11.48m、取水量:3.664m3/s
  工事内容:取水口及び護床工改修

善根頭首工
(著者撮影)
藤井頭首工
(著者撮影)

  3)用水路
  a.幹線導水路(管水路):5.1km、最大取水量:0.815m3/s 新設
  b.右岸幹線用水路(三面張水路):2.6km、最大取水量:1.17m3/s 改修

  4)水管理システムと中央管理所

 本地区の水管理系統は鯖石川水系(栃ヶ原ダム)、別山川水系(後谷ダム)及び鵜川水系(市野新田ダム)の3系統に区分されている。

 これらの各用水系施設の機能を十分に発揮させるためには、管理運用に万全を期する必要がある。本地区の用水の運用管理は、受益者が広範囲にわたる一方、平等な供給を行う必要性から受益者間の調整が不可欠な問題となる。

 よって、本地区では①水資源の有効活用、②効率的な水管理、③公平な水配分、④安全性の確保を目的として、水管理システムを導入している。

 また、水管理システムを集中管理するために、柏崎土地改良区との共同工事により、「柏崎周辺農業用水・ダム中央管理所」を建築し、日々管理が行われている。


柏崎土地改良区と中央管理所
(著者撮影)
中央管理所の水管理システム
(著者撮影)


6.柏崎・刈羽地域を襲った二つの地震


1.新潟県中越地震、新潟県中越沖地震の概況

 平成16年10月23日(土)17時56分頃、新潟県中越地方において最大震度7の地震が発生した。
 一瞬のうちに電気、ガス、電話などのライフラインと道路がことごとく寸断され、被災者は暗闇の中、避難所、自家用車の中などで恐怖の一夜を過ごした。この地震は近年まれに見る大地震であったことから、気象庁はこの地震を「新潟県中越地震」と命名した。また、被害の甚大さから新潟県は「新潟県中越大震災」と称呼することとなった。
 中越地方に未曾有の被害をもたらした、新潟県中越大震災からわずか3年目となる平成19年7月16日(月)10時13分頃、新潟県上中越沖を震源とする大きな地震が発生した。
 この地震により柏崎市、刈羽村、長岡市で震度6強を観測したほか、北陸地方を中心に東北地方から近畿・中国地方の広い範囲で強い揺れを観測している。気象庁は、この地震を「新潟県中越沖地震」と命名している。

【震源情報】
注1)新潟県中越地震のデータは「新潟県中越大震災~激震を乗り越えて~」に記載のH19.8/23日時点の情報を引用
注2)新潟県中越沖地震のデータは「新潟県中越沖地震~二度目の地震と、その対応記録~」に記載のH20.6/5時点の情報を引用

左:脱線した上越新幹線 右:〇〇
(出典:新潟県中越大震災~激震を乗り越えて~平成17年11月)

左:柏崎市東本町 右:農業集落排水マンホールの浮上(柏崎市)
(出典:新潟県中越沖地震~二度目の地震と、その対応記録~平成21年3月)

2.新潟県中越沖地震による国営ダムへの影響

 国営ダム地点に震源が近かった「新潟県中越沖地震」では、近傍地震観測地点から推定すると、後谷ダムは震度6弱、栃ヶ原ダムは震度5強程度であったと考えられる。
 地震発生当時、栃ヶ原ダムは堤体コンクリートの打設が完了し、後谷ダムは堤体盛立の完了直前であった。また、市野新田ダムは工事未着手であった。
 後谷ダムは、震央からの距離が約10kmと最も近く、付近では住宅の倒壊、道路・河川の崩壊が他地域と比べ著しい被災状況であった。栃ヶ原ダムは震央から約42km離れていて、近接住宅被害は少ないが、山間部に位置することから道路法面の崩壊が発生していた。
 各ダムでは、少なからずの変状は確認されたものの、ダム運用そのものに支障を来すような重大な損傷がなかったことから、補修工事を行い、延期した試験湛水を実施し、安全性を確認した上で完成し、現在まで問題なく運用がされている。


7.柏崎・刈羽地域農業のめざす方向



1.新潟県柏崎地域振興局のめざす方向

(1)策定の位置付け
 新潟県柏崎地域振興局では、管内の重点的な施策を示すものとして「柏崎地域振興局のめざす方向」(令和3年4月)を作成し、地域の特色を生かした各種事業に取り組むこととしている。
 新たに策定された内容では、「一人一人が未来への希望を持って自らの幸福を実現できる、住んでよし、訪れてよしの柏崎地域」を目指し、関係部署が一体となって柏崎市、刈羽村をはじめ各関係機関と連携して取り組む重点的な施策の方向が示されている。

(2)基本的な視点
 基本的な視点の一つである「活力ある地域づくり」としては、住民が住み続けたいと思い、多くの人が訪れてみたいと思える魅力と賑わいにあふれる地域の創設に向けて、豊かな自然や景観、地域に根づく歴史や文化など、個性ある地域資源を活用し、地域の活性化へ向けた取組を推進することとしている。
 「安心安全な地域づくり」では、地域住民が安全・安心で全ての世代が健やかに生きがいを持って暮らせる地域であるために、中越沖地震をはじめ過去の災害の教訓を踏まえた防災・減災対策を推進するとともに、必要な医療と介護が受けられる医療体制の整備や、食の安全・安心に向けた取組を推進することとしている。

(3)具体的な取組概要
 活力ある地域づくりの具体的な取組としては、「自立した活力ある農業の振興」として、産業として成り立つ魅力ある農業を実現するため、担い手農家の経営基盤の強化と新規就農者の確保育成に重点的に取り組むこととし、柏崎刈羽産米の高品質良食味生産化によるブランド力強化や、需要に応じた多様な米づくりを推進するとともに、園芸生産の機械化・施設化や、ほ場整備を契機とした園芸作物の導入などによる複合化を推進することとしている。
 また、「農村基盤づくり」では、安定的な農業用水の確保に向け、用水の再編整備や水利施設の機能保全を図り、人・農地プランと連動しながら、遅れているほ場整備の推進、園芸作物導入が可能な汎用化水田の整備により、生産性の高い優良農地を確保し意欲ある経営体への集積を推進することとしている。
(*出典:「柏崎地域振興局のめざす方向」令和3年4月)

2. JA柏崎「地域営農ビジョン」
(1)策定の趣旨
 JA柏崎では、「農業をつなぎ、はぐくみ、共同の精神のもと、地域とともに発展する」を目指し、令和2年度から令和4年度までの3年間の将来見通しについて「JA柏崎地域営農ビジョン」を策定し、関係機関の協力を得ながら取組を進めている。

(2)地域農業の現状
 近年の柏崎地域の農業情勢は、農業者の減少が進み、農業生産の維持・拡大が困難な状況となっている。
 基幹的農業従事者の減少に伴い、担い手の農地集積が促進されており、経営規模の拡大に伴い必要な労働力を確保するため、地域の農業生産構造の集約化に向けた取組が急務になっている。

(3)取組方針
 地域の農業情勢を踏まえ、次の取組を強化することとしている。

【売れる農産物の生産・販売の取組】
 ①水稲では、「米の集荷率向上運動の取組」、「販売戦略に基づく品種構成の構築」及び「安定した生産量の確保」を目指す。
 ②園芸作物では、「園芸重点品目の産地ブランドの確立」、「園芸生産品目の生産力向上」及び「地場産野菜の確保」を目指す。

【地域農業の担い手経営体の経営拡充】
 ①地域農業の維持・発展では、「基盤整備事業による地域生産基盤の改善の促進支援」、「人・農地プランに基づく地域の農地の維持・保全」及び「小規模農家との連携強化」に取り組む。
 ②農業者・担い手経営体等との連携強化では、「担い手経営体への経営診断活動」、「農業経営、農作業の労働力確保」及び「担い手経営体、生産法人間の応援、連携」に取り組む。

(4)具体的な取組事例
【取組事例①】
 〇園芸1億円産地の育成に向けた産地ブランドの確立の取組
 JA柏崎の重点園芸品目としては、カリフラワー、ブロッコリー、たまねぎ、アスパラガス、里芋、えだまめ、いちご(越後姫)、人参などがあげられるが、特にたまねぎとえだまめは大規模栽培が可能であることや機械化体系が確立されていることから、大きく拡大する目標を定めている。

       (令和元年実績)   (令和4年計画)
  えだまめ:   20.6ha  →    32ha
  たまねぎ:    9.8ha  →    22ha

えだまめとたまねぎの収穫作業
(出典:JA柏崎 地域の営農ビジョン)

【取組事例②】
 〇スマート農業による低コスト技術の導入普及に向けた取組
 近年の地域農業生産現場では、後継者不足による労働力不足が今後も進む懸念があることから、作業労働時間の短縮と作業の効率化を図る、スマート農業の実証を行いその効果とコストを検証している。

無人田植え機とドローン実演会
(出典:JA柏崎 地域の営農ビジョン)

ほ場水管理システムと流し込み施肥
(出典:JA柏崎 地域の営農ビジョン)

【トピックス:地域の伝統芸能(綾子舞)】
 綾子舞は、市野新田ダムが建設された柏崎市女谷地方に約500年前から伝承されてきた古典芸能である。かつては、各集落がそれぞれの芸風を守ってきたが、明治になると途絶えた集落もあり、今では高原田と下野の2つの集落が受け継いでいる。
 綾子舞は、初期歌舞伎のおもかげを残す芸能で、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定されており、毎年9月の第2日曜日には綾子舞会館前で現地公開されている。
 また、集落内にある「綾子舞会館」では、館長から綾子舞の由来や、最近の活動状況及び館内の展示物について説明が聞けるとともに、綾子舞のビデオも放映されていて、あでやかな伝統芸能に触れられるひと時を過ごせる。

左:綾子舞会館(著者撮影)
右:綾子舞(出典:新潟県観光協会ホームページ)


引用文献
1.柏崎刈羽土地改良だより 平成10年3月~平成12年3月(北陸農政局柏崎周辺農業水利事業所)
2.柏崎周辺地区『事業誌』 令和2年3月(北陸農政局柏崎周辺農業水利事業所)
3.柏崎周辺地区『栃ヶ原ダム技術誌』 令和2年3月(北陸農政局柏崎周辺農業水利事業所)
4.柏崎周辺地区『後谷ダム技術誌』 令和2年3月(北陸農政局柏崎周辺農業水利事業所)
5.柏崎周辺地区『市野新田ダム技術誌』 令和2年3月(北陸農政局柏崎周辺農業水利事業所)
6.新潟県中越大震災~激震を乗り越えて~ 平成17年11月(新潟県長岡地域振興局)
7.新潟県中越沖地震~二度目の地震と、その対応記録~ 平成21年3月(新潟県農地部)
8.柏崎地域振興局のめざす方向 令和3年4月(新潟県柏崎地域振興局)
9.JA柏崎 地域の営農ビジョン 令和2年度~令和4年度(JA柏崎)