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1.山をも流した河 「常願寺川」
2.最下流が支配権を握る用水開発
3.くり返される災害
4.ヨハネス・デ・レーケ
5.東西用水路の統合
6.東西用水路の統合
7.より安全な施設をめざして
8.豊かな地域農業へ
9.自然との共生

icon 1.山をも流した河 「常願寺川」



1.常願寺川のすがた

 立山連邦南西部に位置する北ノ俣岳(標高2,662m)を源流に、富山平野の中央部を通り富山湾に流れ込む常願寺川。流路延長わずか56kmしかない短い川であるが、約3千mもの標高差を時には土石流となって一気に流れ下り、その姿はまるで「滝のごとし」と言われてきている。日本でも超一級の暴れ川である常願寺川は、いにしえより度重なる氾濫を繰り返し、この流域で暮らしてきた人々にとっては「洪水とのたたかいの歴史」が生活の歴史そのものであった。

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常願寺川の位置
(出典:国営防災事業完工記念冊子)

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日本の主な川の長さと傾き
(出典:河川の歴史読本「常願寺川」)


2.安政の大地震

 安政5年(1858)4月9日、越中・飛騨両国を襲った推定マグニチュード7前後の大地震で、常願寺川の源流である立山カルデラの鳶山(とんびやま)が大崩壊した。崩れ落ちた土砂の量はおよそ4億トン。このうち半分の2億トンが怒涛のごとく急流を一気に流れ下って富山平野を襲い巨大な扇状地を形成した。さらに、谷間に残った半分は大雨のたびに膨大な量が流れ出し、このために常願寺川の川底が昭和8年までに毎年平均0.8mずつ上昇し、周辺の田畑よりもはるかに高い(最大約7m)天井川と化してしまった。
 安政の大地震と常願寺川の流下力で、立山連邦の一峰をなしていた鳶山が山ごとずるりと抜け落ちる「山抜け」の状態を現出し、いわば、山そのものを流してしまったのである。

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安政5年の洪水氾濫図
(出典:越の国は川の道冊子)



icon 2.最下流が支配権を握る用水開発



1.農民の支配は農民に

 北陸といえば、室町後期から戦国時代にかけて「百姓の持ちたる国」として1世紀もの間、国人や農民門徒が地域を支配したという日本史上稀有の歴史がある。いわゆる一向一揆である。一揆とは農民の反乱や暴動を意味するようになったが、本来は一致協力して目的を達成することを意味し、盟約を結んで政治的共同体を結成し行動することである。
 こうした背景のもと、江戸時代初期、常願寺川の水を引いていた農地で約8万石の石高があり、その内加賀藩の領地で6.7万石、加賀藩から分家した富山藩で1.2万石とされていた。そして、両藩には「十村(とむら)」というこの地域独特の自治制度があった。
 十村とは、加賀3代藩主・前田利常が設けたとされており、文字どおり十程度の村を束ねる役どころ。農民の身分ながら藩から扶持(ふち)も与えられ、年貢の徴収から農作業の年間予定の決定など、農政一般を任された農民代官ともいえる役職が設けられていた。
 このような制度は、北陸地方で広まっていた一向一揆とも関係していたようだ。十村となったのは大庄屋であり、門徒の指導者として各地域を取り仕切ってきた経験があった。つまり、「百姓の持ちたる国」の自治組織をそのまま活かし、農民の支配を農民自身に任せたのである。江胆煎(えきもいり)という、用水の取り入れや分水を取りさばく役職も設けられており、こうした役職も農民たちに任せられていた。
 その上で藩では、用水路の構造、堰の竹かごや土俵の調査項目、各用水の取水比率など、用水や堤防の修理、管理に関して事細かな規則を定めていた。
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明治以前の用水網
(出典:常願寺川農人の記憶冊子)
 右の図を見て頂きたい。常願寺川における藩政期の用水とその開削年を記した図である。この地域では、川の右岸側を常東(じょうとう)といい、左岸側を常西(じょうさい)と呼んでいる。
 この図を見ると奇妙なことに気付く。常東下流域にある利田(りた)用水の開削が南北朝時代と最も早く、続いて江戸時代初期に三千俵用水、仁右衛門用水、秋ケ島用水と段々上流側が開発されていく。通常の扇状地では上流側の水路から開削されていくの対して、この地域では逆である。
 これは、当時の常願寺川の中流部はまだ川底が低く、岩峅寺(いわくらじ)あたりでは谷のようになっていたせいであろうか。さらに常東の扇状地は台地のように高くなっており水田としての開発は遅れていた。
 常西は総じて開発が早い。江戸期以前の16世紀にはすでに太田、清水又、筏川などの用水網が出来上がっている。この扇状地は全体的に常西が低くなっており、洪水に襲われやすい分だけ逆に水は引きやすかった。
 さらに奇妙なことがあった。この川から取水している各用水では、不思議なことに最も下流に位置する広田針原用水が常東、常西を問わず各用水の取水量を細かく規定した上で、残りの用水は全て針原用水に流すようにとの分水の指揮権を持っていた。
 そして渇水時になると、広田針原用水の申し出と指揮によって分水、皆落とし水、内輪番水、大番水といった節水体制が敷かれていた。こうしたことは、広田針原用水の受益地が富山藩の親藩である加賀藩の領地であったことが背景にあるのかも知れない。

3.稀有の平等精神

 広田針原用水に藩から分水の指揮権が与えられたのは延宝3年(1675)である。それにしても、最も取水条件の悪い最下流の用水に分水や番水の指揮権を与えるのは極めてまれである。これは、地域の用水が下流から開発されてきたことと関係があるのかも知れないが、当時、徳川光圀、池田光政とともに江戸3大名君の一人にも数えられていた第5代藩主前田綱紀の威光のもとに、博愛平等の精神でとられた措置かも知れない。
 いずれにせよ、他藩ではこうした措置がとれなかったために悲惨な水争いが繰り返されてきた中で、この地域の用水に関する平等精神は江戸後半期に至るまで一貫して継承されており、日本の農政史上極めて珍しい事例と言えるのではないだろうか。


icon 3.くり返される災害



 常願寺川の歴史は、洪水との闘いの歴史でもあった。中でも、明治24年(1891)7月19日、20日に発生した大洪水は、最大水位が5.6m(7月19日午後1時、岩峅寺村)にも達し、安政5年の惨劇に劣らないものとなった。
 その被害は、堤防の決壊が左右岸合せて6.4kmにも達し、現在の富山市藤木にあたる地域は21日間もの間水が引くことはなかった。この被害により、生まれ故郷である富山を離れて右岸側の立山町や遠く北海道に移住する者まで現れ、その数は155戸にもなったという。
 この惨状に対し、時の第3代県知事森山茂は、陣頭に立って応急措置を指揮するとともに直ちに上京し、抜本的な改修計画を指導する人物の派遣を強く政府に要請した。そして、70日間の長きに亘って在京し、災害復旧に対する国庫補助の内諾を得ることに尽力した。

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 (一口メモ)
 明治初期、富山県は石川県に編入されていましたが、加賀・能登の議員が道路整備を主張するのに対し、越中の議員は治水対策を優先すべきだとして県議会が度々紛糾したことから、明治16年(1883)に石川県から分県しました。
 分県後、富山県の治水予算が県予算の8割を占める年もあったそうです。
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第3代富山県知事 森山茂
(出典:越の国は川の道冊子)



icon 4.ヨハネス・デ・レーケ 「治水のための合口化」の提案



 天下のあばれ川常願寺川の改修という大事業に対し、県知事森山茂の要請を受けて明治政府が派遣したのは、「ヨハネス・デ・レーケ」というオランダ人技師であった。
 当時、明治政府は日本の近代化にあたって教育、医学、法律、土木など各分野の専門家約2,300人を欧米から招へいし雇用していた。この中で、干拓の国オランダは土木分野で治水技術に長けており、デ・レーケもその一人であった。
 明治24年(1891)8月6日に来県したデ・レーケは、「治山なくして治水なし」という哲学を持ち、水源地である立山に足を踏み入れた。そして、息を飲むほどに巨大なカルデラの崩壊現場を見て、「全ての山を銅版で覆わねばどうにもならない」と呟いたと伝えられている。しかし、彼は常願寺川との闘いを諦めた訳ではなく、常願寺川河口より水源に至るまでくまなく踏査し、以下のような具体的な改修計画を提案した。

  ①堤防の弱点となる従来の左岸側12用水の取入口を廃止し、常西合口用水として一本化を図ること。
  ②堤防改修計画に基づき、数ケ所に亘る築堤、堤防の復旧・改築、護岸工事を行うこと。
  ③河口近くで大きく東に屈折し白岩川へ合流していた川筋を直線化し、白岩川と切り離した広い河口を造ること。

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旧横江頭首工を流下する土石流
(出典:立山町史下巻)

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完成した常西合口用水路
(提供:常西用水土地改良区)
 この事業を行うには、巨額の費用負担が必要なことなどから多くの反対を受けたが、郡長らの必死の説得により明治25年(1892)2月、常願寺川治水史及び利水史上特筆すべき常西合口用水開削事業が着手されるに至った。そして、総延長約12kmの常西合口用水路は、突貫工事により翌年6月には一応の完成をみた。
 しかしながら、合口用水路の完成後も、常願寺川の出水で取水口が土石で埋没することが度々であった。また、新設の幹線水路と各支線用水路の水路底面に相当の高低差があって円滑な分水ができなかったり、常願寺川の上流域で進められていた砂防工事の実施により河床が低下するなどして、その効果は予期に反するものであった。このため、根本的には昭和17年(1942)からの農地開発営団による大規模な左右岸一体の合口化事業を待たねばならなかった。


icon 5.東西用水路の統合



 右岸側の常東用水では、明治期後半には秋ケ島、釜ケ渕、仁右衛門、三千俵、三郷・利田など10用水があったが、大部分が台地上にあり洪水被害も少なかったことから、下流平地の三郷・利田用水を除き合口化は進まなかった。しかしながら、天井川と化した常願寺川の流路が安定せず、また両岸耕地の増加による取水量の増加と用水間の競合によって取水の安定は望むべくもなかった。
 大正年代に入り、常願寺川上流域での県営発電事業が具体化したことにより取水事情が一層悪化した。また、砂防ダム工事の進展により河床低下が更に進んだことから、それまで対立関係にあった上・下流、左・右岸が一体となってこれらの課題に対応していく必要に迫られた。
 こうした動きは、昭和17年(1942)2月からの農地開発営団による大規模な左右岸一体の合口化事業、さらには昭和22年(1947)10月からの農林省による国営常願寺川農業水利事業に引き継がれていき、昭和27年(1952)に至り、常東・常西用水の取水を横江頭首工に一本化した念願の合口化事業の完成をみることとなった。
 また、常願寺川横断サイホンを通じて上流発電所から用水補給を受ける常東側下流の用水路については、建設省が実施する常願寺川改修付帯工事の一環として用水敷地とサイホン用ヒューム管を除き全額建設省負担とされた。そして、昭和24年(1949)5月に着工し、昭和31年(1956)に常東合口用水路として完成の運びとなった。


<国営常願寺川農業水利事業の概要>  工期:昭和16~27年度

①横江頭首工(直線重力式砂防ダム) 1ヶ所
堰長:149.00m、堰高:14.1m
②共通幹線水路 3,141m
隧道(3ヶ所):馬蹄形 1,047m
開渠:野面石練積 1,994m
落差工:瀑式 7ヶ所
分水工: 2ヶ所
左右岸分水槽:扇形多割式比例分水槽 100m
③左岸連絡水路 220.7m
水路橋:3連アーチ 115.4m
開渠:野面石練積 105.3m
④右岸連絡水路 172.7m
開渠:野面石練積 172.7m
落差工:瀑式 3ヶ所


icon 6.東西用水路の統合



 日本でも超一級の暴れ川、常願寺川は、洪水時には石と石とが衝突して水中で火を噴くとも言われ、他の川では見られない異常な土石流が発生する。
 昭和27年(1952)に完成した横江頭首工は、その後の度々の出水による土石流によって随所に大穴、空洞、亀裂が生じた。特に、洪水吐直下部(エプロン部)は、2mの厚さのコンクリートが摩耗し、その下に深さ7~8mの大穴ができてしまった。常願寺川の年間土石流出量は今なお23万~28万m3とも言われており、時には重さ10トン以上もの大転石が流下する。
 このため、昭和51年度(1976)から4年間をかけて、洪水吐直下に2段スクリーンからなる落石緩衝工や、洪水が直接落下する部分にレールを埋め込んで耐摩耗性を高めるなど、国営造成土地改良施設整備事業による応急対策工事が行われた。


(一口メモ)
 常願寺川流域では、田んぼなどのあちこちに巨石が見られますが、これらは安政5年(1858)などの洪水で上流の山から流れてきた大転石だと伝えられています。現在、常願寺川流域には直径4~7mの大転石が40数個も見つかっています。

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土石流によって破壊された洪水吐直下部
(提供:常西用水土地改良区)
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耐摩耗レールを設置する等の応急対策を実施
(提供:常西用水土地改良区)


icon 7.より安全な施設をめざして(国営総合農地防災事業の導入)



 国営農業水利事業が昭和27年(1952)に完了して50年以上が経過、この間に流域内の崩壊地の増大や観光開発の進展などによって、洪水時における流出量の増大や流出時間が早まるなど常願寺川の流出形態に大きな変化が生じた。特に、昭和44年(1969)の大洪水を契機に、常願寺川の計画洪水流量が毎秒3,100m3から4,600m3に改められたことにより、横江頭首工や左岸連絡水路橋地点の洪水流下能力や施設の構造に大きな不安を抱えることとなった。
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 このため、国営総合農地防災事業を導入して平成11年度(1999)から、施設の共同利用者である北陸電力㈱、立山町上水道と連携しつつ、より安全な施設を目指して頭首工、水路橋の再整備が実施された。そして、平成21年度(2009)に再整備が完了した。


<国営常願寺川沿岸総合農地防災事業の概要>
工期:平成11~20年度

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icon 8.豊かな地域農業へ



 かつて、毎年のように洪水が起き、その度に豊かな農地が一瞬のうちに泥海や転石だらけの河原と化したり、水路が土砂で埋まるなどの災害に見舞われてきた常願寺川流域。
 こうした自然の猛威に屈することなくこの地域の人々は、溜まった土砂を黙々と取り除くとともに、農業用水の取水口を一つにまとめて取水の安定を図ったり、川幅を広げて洪水の流れを穏やかなものにするなど、復旧や改良にたゆまぬ努力を積み重ねてきた。また、常願寺川右岸の未開の台地に対しては、「野方」といわれる帰農した野武士たちや被災で常願寺川左岸から移り住んできた村人たちが中心となり、日夜を分かたず開拓に励んできた。
 そして、明治28年(1895)には県下で最初の水田区画整理(三郷村:現富山市)に取り組むなど常に時代の先駆けとなり、今では富山を代表する穀倉地帯にまで発展してきた。
 春には、満開の桜と残雪豊かな立山連邦を背に大型農業機械が田んぼを動き回り、夏には蛍が小川や用水路の川面を照らし、そして秋には一面黄金色の稲穂が農家の人たちの表情を和らげてくれる。そんな日本人の原風景に巡り会える常願寺川流域の田園地帯は、私たちの心のふるさとでもある。



icon 9.自然との共生(先人の英知を継承)



 旧横江頭首工は、砂礫の上に建設された重力式砂防型堰堤で、堰を越えて流れ落ちる砂礫や転石の落下による衝撃と摩耗から堰本体を守るため、表面には白色系の御影石が張られていた。御影石の石張は、大きな脱落もなく建設から半世紀以上も堰本体を守り続け、この間、表面には茂類が繁茂して黒褐色となり重厚さを漂わせていた。そして、平時に固定堰を越流する水の流れは白い糸を引くように美しく、優れた景観を醸し出していた。
 こうした先人の知恵と技術を活かし、整備後の頭首工においてもこの英知を引き継ぐとともに、生態系にも配慮して新たに魚道が設置されている。

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水の流れが白い糸をひくように美しい横江頭首工

 横江頭首工で取水された農業用水は、常願寺川右岸に沿って設けられた共通幹線水路を流れていく。ここでは、常願寺川流域の急流地形に対応して多くの落差工が設けられている。その中で最も大きな落差(約12m)を有するものを「大落差工」と呼んでいる。
 丸みを帯びた大落差工からの落水は、水の屏風を立てたようにも見え、まるで見られることを意識したかのような工夫がなされている。

 共通幹線水路から左岸側の常西合口用水路に導水するために、常願寺川を横断して設けられて いたのが左岸連絡水路橋である。この水路橋は、ダブルデッキ構造(下部に水路、上部に管理用道路)の水路・道路併用橋で、三連式コンクリートアーチ橋となっていた。そして、コンクリート製の壁高欄には菱形の開口窓が設けられ、天端は球形とするなど優れたデザインを有していた。
 晴天時には欄干に陰影ができ、なお一層立体感のある情景を醸し出していた。
 整備後の水路橋においてもその思想を尊重し、これらの形態をそのまま引き継いで整備された。

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管理用道路

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水路

(事業の経緯)

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(参考文献)
①国営総合農地防災事業完工記念誌「常願寺川沿岸地区」(H20年10月):常願寺川沿岸農地防災事業所
②河川の歴史読本 常願寺川(2001年3月):国土交通省富山工事事務所
③越の国は川の道(H18年3月):常願寺川沿岸農地防災事業所
④常願寺川 農人の記憶(H19年3月):常願寺川沿岸農地防災事業所
⑤立山町史 下巻(S59年2月15日):立山町
⑥常西合口百年史(H4年6月1日):常西用水土地改良区
⑦常願寺川工事誌 施設整備事業(S55年3月):氷見農業水利事業所
⑧国営総合農地防災事業概要パンフレット(H16年3月):常願寺川沿岸農地防災事業所