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1.雪解け水に腰まで浸かりながらの重労働
2.「朝床に聞けばはるけし射水川朝漕ぎしつつうたう舟人」
3.洪水と戦いながら新田の開発を行った江戸時代
4.明治から昭和初期における改修
5.射水平野の美田を守り続ける排水ポンプ
6.射水平野農業水利事業の概要

icon 1.雪解け水に腰まで浸かりながらの重労働



 射水平野は、新湊市、富山市、高岡市、小杉町、大門町、大島町、下村の2市3町村にまたがる5,800haの平野です。後背には3,000m級の山々が連なり、西は庄川、東は神通川の急流が日本海に注ぎ込み、扇状地である射水平野を形づくりました。この射水平野一帯は、昔から「馬入らず」(農耕馬が入れないほどの水郷地帯のこと)と呼ばれた一大湿田地帯で、放生津潟(現富山港)の地名が示すとおり、この地域の約98.8%が湿田や沼地で覆われており、乾田はわずかに1.2%でした。特に水田表面の高さは海抜0.13mと、夏の平均潮位である0.48mよりも低く、用水と排水を兼用していたため排水が機能しないばかりか、地下水の水位も下がらず、湿田化は避けられない状況でした。さらに収穫時に襲う台風で洪水になるとあたり一面湖水と化し、農地の大部分が湛水し収穫は困難を極めました。
 農家の人々は、雪解け水に腰まで浸かりながら、先祖から受け継いだこの地方独自の知恵と工夫で苦闘を重ね、少しずつ農地に改良を加えてきました。「たずる」といわれる木製の舟や、刈り取った稲を乾燥させるための「タゴの木」や「ハンの木」、稲を運ぶ「イクリ」など、また、写真に見られるこのような水路は、農民の手堀りによるもので、河川の縁にタゴの木を植えて土手が崩れるのを防ぐとともに、刈り入れ時には稲を干すはざ掛けとして利用していました。
 今では資料館でしかその面影を知ることはできませんが、つい最近までこの地方の農家の人々が営々と営んでいた農の風景でした。


icon 2.「朝床に聞けばはるけし射水川朝漕ぎしつつうたう舟人」



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松川除
 この歌は、奈良時代に越中の国主として赴任した万葉集で有名な大伴家持が詠んだ歌です。射水川とは今の小矢部川のことで、当時から舟で往来できるほど水量が豊かであったことが伺えます。この小矢部川は、明治末期まで河口付近で庄川と合流していました。幾筋もの庄川の分流、支流が河口付近で合流し、小矢部川に流れこんでいたため、庄川の洪水の影響をまともに受け、射水平野に大きな被害をもたらしていました。そこで、寛永10年(1670年)当時の加賀藩領主、前田綱紀が堤防を築き最初の分流工事を行いました。この工事は大変な難工事で、40年後に完成し、近世に行われた治水工事の代表例として全国の注目を集めました。この時造った堤防のことを松川除(川除とは堤防の事)と呼んでいます。
 その後幾度となる洪水により、堤防を破られてはまた築き直すという努力が営々と続けられてきました。堤防は霞堤と呼ばれる独特の構造で、一番堤の後に二番堤、二番堤の後に三番堤を築くもので、一番堤が切れた場合、二番堤が流れを受けて下流で本流へ戻すという仕組みでした。
 歌に詠まれたのどかな射水川も、ひとたび牙を剥けばあたり一帯を洪水で飲み込むという厳しい側面も持った暴れ川でもありました。


icon 3.洪水と戦いながら新田の開発を行った江戸時代



 越中の国の守護所が置かれたのは、放生津潟(現富山港入り江)とされています。放生津潟は自然の環壕である奈呉の浦(富山湾)と、背後の水郷地帯に挟まれた水運の便利な要塞のような地でもありました。
 この地域の人々は、近世初期から個人による干拓(泥を積み「うね田」とよばれる)を造って新田開発を行ってきました。潟付近の新田開発には潟の底にたまった泥を舟(タズル)に積み埋め立てる方法(客土)がとられていました。この泥は肥料にもなり客土の土としては有効でしたが、海底深くもぐっての泥取りは、過労から死ぬ人が相次いだというほどの過酷なものでした。しかし、ここは洪水常習地帯、度々の洪水で田畑は流出、また一から「うね田」にしては、潮除け堤防をつくり新田を開発する。造っては流され、造っては流されながらの新田開発の歴史でした。
 こうして努力の結果造られた農地に排水のため川を掘ることも続けられました。宝暦8年(1753年)に片口村から久々湊まで5間巾の川を、また片口から野村津幡江にかけて3間巾の川が掘られたとあります。 [片岡文書]
 さらに、新田開発は土木技術の進歩から、潟中に大きな囲いの堤防(締切堤防)を造りそれをいくつにも仕切り、それぞれに水門をつけて開拓していったことが文政12年(1829年)の古地図に印されています。[図-2]


icon 4.明治から昭和初期における改修



 この地域の農民や住民の最大の願いは、排水を抜本的に改良することにありました。しかし、膨大な事業費が必要なことは明白で、当時国の補助制度の整備もない時代、その負担に耐えられず実現を見なかったのでした。新田の開発後、幾たびかの洪水、湛水に耐えながら、部分的ではありましたが、排水の改良を実現していきます。
 大正14年に、放生津潟に流れる下条川沿岸排水、新堀川沿岸排水、大石川、放生津沿岸排水の改良に着手します。昭和26年に完成を見ますが、いずれも地表表面の排水を目的とした改修、護岸が主な事業内容で、しかもエリアも部分的なため、完全排水の改良までには至っていませんでした。これらの事業により稲作の全滅や風土病などはある程度軽減しましたが、農民達は依然、湿田と苦闘する農業を続けざるを得ませんでした。
 しかし、このような土地改良の成果が農民達を刺激したのは言うまでもありません。昭和29年射水郷総合開発促進同盟会が結成され、その後関係7市町村が一丸となって国へ働きかけます。そして遂に昭和38年に国営事業として採択されることになりました。


icon 5.射水平野の美田を守り続ける排水ポンプ



 東部排水機場、西部排水機場、ダム、頭首工。さらに、緻密に配された用排水路。そして、365日、24時間絶え間なく働き続けている巨大排水ポンプ。これらを監視し、制御する水管理システム。この近代の土木技術の粋を集めて完成したのが、この射水平野土地改良事業です。
 着工は、昭和38年、完成までに14年の歳月を要しました。折しも戦後の高度成長期、国民生活の向上を目指した時代でもあり、近代的農業機械の導入など、この事業を契機として営農形態も生活様式も近代化の道を歩むことになり、今では、富山県有数の穀倉地帯に変貌を遂げ、さらに県内有数の工業地帯、住宅地ともなっています。


icon 6.射水平野農業水利事業の概要



受益地
富山県、新湊市、富山市、高岡市、小杉町、大門町、大島町、下村

地域面積
13,116ha

受益面積
排水受益面積 5,765ha
用水受益面積 3,009ha(排水面積の内数)

主要工事
頭首工 1カ所(十一ヶ堰)
貯水池 和田川ダム 有効貯水量1,900,000m3(農業650,000m3)
配水施設 排水水門(東部排水機場、西部排水機場)
排水機 (東部排水機場、西部排水機場)
排水路 東部主幹線排水路 (総延長1,870,0m)
東部1号幹線排水路 (総延長843,0m)
東部2号幹線排水路 (総延長1,647,0m)
西部主幹線排水路 (総延長4,000,0m)
新堀川改修 (総延長4,913,0m)
新堀川承水路 (総延長4,222,0m)
鍛冶川改修 (総延長1,200,0m)