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第1章 流域のなりたち
第2章 小矢部川上流域の歴史
第3章 国営事業化のあゆみ
第4章 国営事業後

icon 第1章 流域のなりたち



1.小矢部川のすがた
 小矢部川は、富山県の南西端に位置し、流域では緑豊かな田園風景が広がる散居村が形成されている。富山県南砺市の南部と石川県との県境にある大門山(標高1,572m)に源を発して渓谷を流れ下る。南砺市において打尾川、山田川と合流したのち、小矢部市において渋江川、子撫川、さらに高岡市において祖父川、千保川などを受け入れ日本海に注いでいる。
 小矢部川の流域は、ほぼ全域が富山県内であるが、上流域の刀利ダム付近でわずかに石川県の流域を有している。硬い岩石で構成された上流部の山地は急峻な地形で、長瀞峡や刀利ダムの下流で深い峡谷を成している。一方、刀利ダムから小矢部大堰までの区間と大堰から河口までの区間は、河床勾配がそれぞれ1/400~1/800、1/800~水平に区分される。全流路の70%程度は平野部を貫流しており、急流河川が多い富山県内の中では珍しい緩流河川である。
 小矢部川の名前は、現在の小矢部市石動の近くに「小矢部」という村があったことに由来しているようだ。

2.流域の特徴
 気候は、県内では比較的穏やかで、これはこの地域に高い山がなく丘陵性低山と平野によるものである。山地の谷あいではそれぞれ特有の風向が見られるが、小矢部市あたりは概ね県内では最も風が弱い地域である。その一方、雨量が多く、特に1~2月は降雪に見舞われるため、年間降水量は2,400~2,700mmにもなり、上流域の刀利ダム周辺は雨の多い所で有名である。
 小矢部川の支流は極めて数が多く、大小合わせて64本にもなる。また、庄川扇状地の扇端部を流れているため、砺波平野の雨や農地の排水は、農業排水路や中小河川を通じて小矢部川に排水される。河川流路延長が68kmで、流れが穏やかなため舟運に適しており、古代から越中の大動脈として上流の砺波平野の米をはじめ多くの物産が小矢部川を下って河口にある伏木港に運ばれていた。

icon 第2章 小矢部川上流域の歴史



1.農業の起こり
 考古学に見る遺跡・遺物から、小矢部川の上流域では西部の山麓地域が最も早く開けたところであると見られている。次いで、小矢部川・打尾川、明神川などの流域が開発されたようだ。これらの地域には、「立野ケ原遺跡群」、「才川七的場遺跡」など、旧石器時代の遺跡(約3万年前~1万3千年前)や、縄文時代初め頃の遺跡が集中しており、早くから人が住み、一定の生活領域内を移動しながら狩猟採集生活をしていたことが伺われる。
 弥生期に入って大陸から農耕文化が伝来し、食糧は採集から生産へと転換され、水田の開発が始まった。奈良時代には、国家の収入を増やすために墾田永年私財法(743)を発布して墾田の永年私有を認めるなど、積極的な新田開発が奨励された。
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前田利常像
(出典:小矢部川上流用水)
 こうした中で、現在の砺波市・南砺市における水田開発の歴史は古く、8世紀半ばから10世紀にかけて、土着の有力豪族である利波臣(となみのおみ)の一族が砺波郡司職を独占し、土地の開拓に励んだ。「続日本紀」には、天平19年(747)、利波臣志留志(しるし)が東大寺の大仏を造営する資金として米3千碩(約1千2百石)を寄進したことが記されており、その20年後にも墾田100町を寄進し、従五位上という高い位を授けられている。
 100町とは、約116haにも上る広い土地で、この頃既に相当な土地を開拓し、勢力を広げていたことが伺われる。
 その後、資本をもつ中央貴族や大寺社などが大規模に開墾した土地を私有化して荘園とするなどの経過を経て、戦国時代末までに数多くの村々が形成されて水田農業が営まれた。
 こうした過程の中で、それぞれの村ごとに用水を引き水田の開発に取り組まれたが、洪水による河川の氾濫や水不足などにより新田開発は遅々として進まなかった。

(出典:小矢部川上流用水)

2.加賀藩の農業政策
 天正13年(1585)より、小矢部川流域一帯は加賀藩の所領となった。百万石を有する強大な外様大名であった加賀藩は、江戸幕府から度重なる普請や軍役を命ぜられ、また、家格を維持するための交際費などにより出費が嵩んでいった。加賀藩は藩財政の基盤を農業に求め、再検地や新田開発を奨励し耕地の拡大によって年貢高の増収、ひいては藩財政の安定化を図った。
 中でも3代藩主前田利常は積極的な農業政策に取り組み、慶安4年(1651)から明暦2年(1656)にかけて「改作法」と呼ばれる農政改革を実施した。改作法の施行を徹底させるために農政に専念する「改作奉行」を設けるとともに、10ケ村程度を一組とした「十村制度」をつくり、年貢は村全体の連帯責任のもとに納めさせることにした。そして、年貢の納付を徹底するために「肝煎り(きもいり)」という取り立て役人を設けるなどした。
 一方で、農業生産力の増強を図るために、年貢の減免を条件として荒地の新田開発を行うよう各郡の十村に命じ、新田開発の促進に努めた。
 このようにして藩政時代に開拓された新田として、南砺市旧城端町から旧福光町にかけて広がる山田新田地区があり、5代藩主綱紀の時代に藩の御仕立新開として全て藩費をもって完成させた延長14kmの山田新田用水路がある。

3.近代における土地改良
 藩政時代に用水の維持管理、補修を行ったのは農民による組織であったが、明治時代になってもそれは変わらず、水不足に悩み水争いを繰り返しながら多大な労力と費用をかけて用水を管理した。
 小矢部川上流域は、集水流域が小さく山が浅いことから、水不足が顕著で干ばつが頻発した。この対応として、用水の改修や大小のため池造成、井戸からの揚水などに多大な費用と労力が投入されてきた。
 ため池の多くは、新田開発が進んだ藩政時代に造られたが、小矢部川上流域で明治以降に造られたため池として「吉見(よしみ)ため池」がある。用水不足に対処するために、小矢部川筋用水関係者と山田新田用水組合が共同で、小矢部川支流の蛇谷川上流に吉見ため池を新設する事業計画を県に申請し、昭和5年(1930)に県営事業として着工された。
 しかしながら、ため池周辺の地質の悪さから貯水池の安全性が懸念され、堤高96.3m、貯水容量90万m3のため池計画は、1/3程度の容量に変更された。工事は、第2次大戦の影響により一時中断され、昭和24年(1949)に再開されるも昭和28年(1953)の台風13号により堤防の半分が流失したが、災害復旧工事を活用して昭和32年(1957)に完成した。しかしながら、抜本的な用水改良までには至らず、その後も干ばつと水害に悩まされる日々が続いた。
 一方、小矢部川支流の山田川流域においても、上記と同様の理由により昭和11年(1936)、「砺波山田川水利補給期成同盟会」が組織され、立野ケ原の陸軍演習場地内に「桜ゲ池」と称される総貯水量145万mの一大貯水池を築造することと、延長1.4kmの幹線用水路を建設する県営事業計画が立てられ、昭和16年(1941)に着工、その後、幾多の困難を経つつも昭和27年(1932)に工事が完成した。

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吉見ため池の堤体盛土の様子
(出典:小矢部川上流用水)


4.戦後の取り組み
1)度重なる小矢部川の氾濫と被災
 小矢部川は、山間部で1/50、中間部で1/250、平野部で1/1,500の流路勾配を成しており、山間部、中間部で急勾配となっている。また、本川は未改修のため流路の屈曲が多く堤防も脆弱で、洪水の度ごとに破堤、越水を繰返していた。特に上流部山地は乱伐により無立木地が多く、立木があっても雑木のみで林相が貧弱なうえ、上流部山地の崩壊と相まって流亡土砂が多く、その量は年平均で65万m3にもなると推定された。このために河床が上昇・偏流し、一旦豪雨になるとたちまち大洪水に見舞われるような状況であった。
 こうした中で、上中流部には70箇所にも及ぶかんがい用の取水堰があり、洪水時には堰自体の破壊、取付部堤防の決壊等に起因して毎年のように多大な災害が小矢部川沿いに発生し、治水上の難点となっていた。
 特に、昭和28年9月に襲来した豪雨を伴う台風13号で、小矢部川の水位が上昇し改修計画を上回る大洪水となった。この結果、堤防が各地で決壊し、死者6名、流失家屋12戸、床上浸水281戸、床下浸水342戸、橋梁流失12箇所、田畑の流失1,367haなど、未曽有の被害に見舞われた。
 ちなみに、昭和21年(1946)から昭和30年(1955)までの年間平均被害額は307百万円(昭和39年度換算額)にも及んでいるが、流域の大半が水田地帯のため、被害の70%程度は農用地、農業用施設等の農業被害で、地域農業発展の著しい阻害要因となっていた。

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2)小矢部川上流総合開発計画
 南砺市の旧福光町を中心とした小矢部川上流地域の農業は、古くから小矢部川とその支流をかんがい水源としてきた。この地域では、連年のように洪水被害に見舞われる一方で、夏期の渇水が著しく、更に小矢部川の河床が不安定なことや取水施設が数多くあることから、用水不足による紛争と取水施設の維持管理が深刻な課題で、夏期の渇水期には地下水に頼らざるを得ないような状況下にあった。
 また、特に昭和28年9月の台風13号等による豪雨は、前述のとおり福光市街地を中心に小矢部川上流区域に洪水による未曽有の被害をもたらした。
 こうした中で、昭和25年(1950)、国が制定した国土総合開発法に基づき特定地域として「飛越総合開発計画」が打ち出されたことを背景に、県はこれらの対策として昭和30年、用水補給、洪水調節、発電などを目的として水資源の総合的な開発を行う「小矢部川上流総合開発計画」を策定した。
 計画の骨子は、①上流山地部における治山と林業の開発、②刀利堰堤、打尾堰堤築造を中心とする治水及び利水の開発であった。そして、この開発計画の主要部分は、以下に述べる国営小矢部川農業水利事業等で具体化されていくこととなった。

icon 第3章 国営事業化のあゆみ



1.概説
 南砺市旧福光町を中心とした小矢部川上流地域は、従来、小矢部川本流及びその支流を中心として開発されてきた。これら諸川の上流部山地は、地勢が極めて急峻である上に、林相も貧弱で河川流量の変動が大きく、そのため年々洪水時には甚大な被害を受ける反面、融雪による豊水期を過ぎた6月下旬以降のかんがい期には急激に流量が減少するため、しばしば干ばつの被害を受けてきた。その上、用水不足のためやむを得ず地下水をかんがいに利用していたものの冷水温障害を受ける地域が多く、また、高台にあるために用水源に恵まれず、低生産地帯となっている地域も多かった。
 このため、古来この地域では、農業用水を確保することと洪水を調節することによって被害を絶減することが強く望まれてきた。一方、小矢部川は急流河川でかなりの落差があるにも関わらず、出力がわずか800kwの小院瀬見発電所があるだけで、隣接する庄川水系と比較して電力面において未開発に等しかった。

2.地域の営農状況
 刀利ダムの築造を中心とした国営農業水利事業が計画されていた昭和30年頃、この地域の区画整備の進捗率は26%で、県平均の44%に比べて著しく立ち遅れていた。配水系統が整備されておらず、この頃は田越かんがいが一般的で、湿田、半湿田の面積は891haで地区の27%を占めていた。
 この地域では、用水不足対策として古くから水田の一部を犠牲田とする慣行が見られたが、戦時中からは田畑輪換による煙草の導入や、畑輪換による柿栽培などが行われてきた。また、個人所有の小規模揚水機が多く設置されてきたが、揚水機の乱設によって地下水干渉が生じ、水源の安定性を欠いていた。
 このような用水事情から、この地域では干害とともに冷水温障害を受けており、水稲の生産力停滞の要因となっていた。
 当時、経営規模別農家戸数は、0.5ha未満:14.9%、0.5ha~1.0ha:28.7%、1.0ha~1.5ha:33.4%で、農家1戸当たり平均耕地面積は1.19haとなっており、県平均:0.96haをわずかに上回っているものの、1ha未満の零細農業群が半数近くを占めていた。
 水田率は、富山県平均が92%で全国第1位である。国営小矢部川地区に関係する区域の水田率は、旧西砺波郡94.3%、旧東砺波郡90.4%といずれも高い割合となっており、水田単作経営が行われている。
 こうした中で、地域の特産物として干し柿が生産されている。柿の栽培は、用水不足による犠牲田の有効な利用方法として畑転換により導入されたもので、揚水機による補給水に頼る地域に集中しており、昭和25年度において総農家数の14%を占めている。なお、本地域の産業別就業人口における農業人口の割合は50.8%と過半数を占めている。

3.事業の経過
 地域の主要水源は小矢部川の本・支流などであるが、地勢的要因などからしばしば干害に見舞われるとともに連年に亘って洪水被害に遭遇してきた。こうした中で小矢部川の発電利用状況は、前述のとおりわずかに800kwの小院瀬見発電所があるのみで、電力面においては多分に開発の余地があった。
 こうした背景のもと、県がその対策として用水補給、洪水調節、発電などを目的とした水資源の総合的な開発を行う「小矢部川上流総合開発計画」を立案することと並行して、昭和28年の台風13号による大水害を契機に、農林省は昭和29年(1954)から国営の地区調査費を計上し、ダムサイトの地形、かんがい計画、防災計画、発電計画など広範な基礎調査を開始した。
 その後、昭和33年(1958)から全体実施設計に着手し、輸送道路の調査設計やダムサイトの詳細調査などを行う一方、アーチダムの設計計算に着手した。そして、昭和34年(1959)12月、「国営小矢部川農業水利事業計画」が決定し、これを受けて昭和35年3月、旧福光町に事業所を開設した。
 昭和35年度(1960)には水没者27戸の買収補償調査と交渉を本格的に開始し、同年度末迄に円満解決・調印が図られた。
 以降、昭和36年度からは工事用道路に着手、次年度にダム工事を本格化させ、昭和40年(1965)9月末にはダムコンクリートの打設を完了、追加工事、試験湛水を行いつつ昭和42年(1967)4月迄に満水位状態(EL:354.5m)にこぎつけた。
 一方、下流のかんがい施設は、昭和41年度末迄に第1・第2頭首工、国営幹線用水路を完成させた。

4.刀利ダムの形式検討
 ダム建設場所は、小矢部川上流の刀利付近、通称「ノゾキ」と呼ばれる地点である。
 水没する刀利集落は、小矢部川に沿って一列に並び、中心部が膨らんだ瓢箪上の地形で、「ノゾキ」は強固な岩盤からできていた。また、東西からは山が迫っており、水を塞ぎ止めるには格好の地であった。
 刀利ダムは堤高101m、堤長229m、総貯水量3,140万m3のアーチ式ドーム型コンクリートダムで、東京ドーム19杯分の水を蓄えることができる。
 計画当時、堤高100m級のダムとしては重力式ダムしか考えられない時代であり、刀利ダムも当初は重力式ダムとしてスタートした。その理由として、設計施工の煩雑さと耐震性に対する不安からアーチダム建設には消極的であり、建設技術も欧米に比較して遅れをとっていた。
 しかしながら、我が国最初のアーチダムである上椎葉ダム(九州電力、昭和30年完成、堤高110m)の建設が開始されており、日本のアーチダム建設の技術も急速に進歩し始めていた。また、隣接する庄川上流に計画中だった御母衣ダム(電源開発、昭和35年完成、堤高130m)は、当初のコンクリートダム案をロックフイルダムに変更してその設計を検討中であった。更に、日本最初の中空重力ダムとして、井川ダム(中部電力、昭和32年完成、堤高103m)が着工されるなど、重力ダム一辺倒の時代からそのダムサイトに適した最も安全で経済的なダムを建設する時代へと変わりつつあった。
 こうした背景を踏まえ、刀利ダムも形式を再検討し、より合理的な設計をめざした。
 そして、地区調査の終了時点(昭和32年)では一応アーチダムとしていたが、全体実施設計の着手と同時にロックフイルダムも考慮してより詳細に形式の比較検討が行われた。
 ダム形式の比較検討は、重力ダム、アーチダム、ロックフイルダムの3種類について総合的な比較検討を行い、アーチダム形式に決定された。
 設計・施工にあたっては、模型実験を取り入れるなどして当時の最高水準の技術を結集し、農林省で建設したダムでは最も堤高が高く、最初に建設されたアーチダムとなった。

5.ダムに消えた村々
 刀利ダムの建設のために、下刀利、上刀利、滝谷の3集落がダムの底に沈んだ。そして、ダム上流の中河内、下小屋の住民も移住を余儀なくされた。
 当時、広大な山林を抱えた刀利の産業は植林と製炭であった。山峡の地ではあったが集落の中は耕地も広く、住民は自然の恵みにあずかって比較的裕福な生活を営んでいた。この地は、人里離れた「秘境」、「桃源郷」、そんな言葉がふさわしい村でもあった。
 全集落が浄土真宗の教えを受け継ぐ刀利には「土徳(とどく)の精神」と言われるものがあったという。刀利の住民は、何百年にもわたり洪水や干ばつの被害に苦しむ下流域の人々のためにとの思いでダム建設のための移住を決断したのである。
 ダム建設の話が持ち上がって2年という年月を経て村が一つにまとまり、昭和36年(1961)9月20日に離村式が行われた。刀利分校の山崎兵蔵校長が離村式で語った、「村人とともに親子のように、あるいは兄弟のようにして住み着いたこの地、飲み慣れた谷内ケ谷の水は、“八功徳水(*はっくどくすい)”の水。刀利は極楽であった。」との挨拶に、参列者全員が涙したという。
 青く、穏やかに水を湛える刀利ダム、その50m下の湖底には、住居や学校跡、棚田などが今も静かに眠っている。
 平成23年(2011)6月、住民離村50周年式典が行われた。この式典は、刀利を生涯の地として明治年代から太美山小学校刀利分校に奉職し、刀利住民を物心共に支えてきた山崎校長の五十回忌法要と合せて執り行われた。式典に合わせて元住民による刀利会と太美山自治振興会によってメッセージ委員会が設立され、当時の思い出を語ったビデオメッセージを紹介するホームページが開設されている。

 *八功徳水(はっくどくすい)
   仏の浄土もあると言われる水。八種のすぐれた功徳をそなえているとされる。

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湖底に沈む刀利集落
(出典:小矢部川上流用水)

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6.清廉政治家「松村謙三」
 明治16年(1883)、旧福光町の薬種商の長男として生まれた松村は、早稲田大学政治経済学部を卒業後新聞社に入社したが、父が死亡したため故郷に帰り家業を継いだ。
 その後、町議、県議を経て昭和3年(1928)、衆議院議員に当選した。長い政治活動の中で厚相、農相、文相を歴任し、今も語り継がれる清廉な政治家として知られている。
 松村は、大学の卒業論文に「日本農業恐慌論」を書き、早くから農業行政に関心を示していた。県議時代には福光町耕地整理組合の組合長に就任し、地区の取りまとめに奔走した。戦後、農相時代には小作解放と自作農創設を目指して第1次農地改革を推進した。戦後日本の経済危機の中、殆どの経済政策は占領軍の命令によって進められたが、日本が自ら手を付けた唯一の例外が農地改革であり、それを主導したのが松村であった。
 昭和30年(1955)、刀利ダム建設を根幹とする小矢部川上流総合開発計画が策定されると、計画推進のための期成同盟会の会長に就任した。
 干ばつと水不足により小矢部川筋で繰り返されてきた水争いに心を痛めていた松村は、大正7年(1918)の町議時代、小矢部川源流の大門山頂上を踏査するなどして早くからダム建設の志を抱いていた。
 ダムの建設計画が決定すると、湖底に沈む刀利集落の人々から猛烈な反対運動が起こった。当時、刀利集落では主に木炭の生産で生計を立てており、ダム建設は集落にとっての死活問題であった。
 松村は、期成同盟会の会長として当局に陳情に赴くとともに、水没を余儀なくされる刀利の集落に何度も足を運び、懇々とダムの必要性を説いた。松村のこの熱意に対して、刀利の人々はついにダムの建設に同意し、離村を決意したという。
 ダムは昭和42年(1967)春に完成した。松村にとっては50年に近い歳月をかけての構想の実現であった。ダムの完成式典において、松村は自らの功を決して語らなかった。そんな松村の人柄を偲び、毎年、お盆の週末に水源の安定祈願と松村をはじめとする先人への感謝の意を込めて、ダム湖畔の松村記念公園において水神祭が開催されている。


7.国営事業概要
1)受益面積
 かんがい:3,780ha(水田:3,346ha、畑:350ha、その他:84ha)
 【旧福光町:2,537ha、旧城端町:205ha、旧福野町:541ha、小矢部市:497ha】農業防災:1,122ha(水田)
 【旧福光町:625ha、旧福野町:411ha、小矢部市:86ha】
2)主要工事計画
 ①刀利ダム(共同工事)
  ドーム型アーチダム 高さ:101.0m、堤長:230.0m、ダム体積:148千m3
  総貯水量:31,400千m3、有効貯水量:23,400千m3、流域面積:45.9km2
  (かんがい:16,400千m3、洪水調節:9,000千m3【うち2,000千m3はかんがいの内数】、発電:5,400千m3、堆砂:2,600千m3
  洪水吐(ダム越流式):405m3 ローラーゲート:6門
 ②取水設備(共同工事)
   傾斜型表面取水方式 ローラーゲート:4門
   取水量 発電:16.0m3/s、かんがい:8.33m3/s
 ③嫁兼発電水路(共同工事)
   太美ダム(逆調整池):1式  導水路:3.6km
 ④頭首工(農業専用)
   第1頭首工(固定堰) 堤長:22.0m、堤高:3.7m、取水量:4.9m3/s
   第2頭首工(可動堰) 堤長:52.6m、堤高:1.4m、取水量:3.3m3/s
 ⑤幹線用水路(農業専用)
   延長:3.85km
3)工 期
  着 手:昭和34年度(1959)
  完 了:昭和42年度(1967)
4)費用負担割合
 ①刀利ダム
   農業:83.2%
 かんがい:31.0%
 農業防災:52.2%
   発電:16.8%
 ②取水設備
   農業:38.8%
   発電:61.2%
 ③嫁兼発電水路
   農業: 9.9%
   発電:90.1%

icon 第4章 国営事業後



1.営農形態の変化への対応
 小矢部川上流域のかんがい用水は、昭和42年に完成した刀利ダムの建設を軸とした国営小矢部川農業水利事業により抜本的に改善された。また、それに伴う県営事業によって幹線用水路などが整備されたことにより水不足が解消されるものと見込まれた。
 しかし、ダム完成の翌年から地域内では営農の合理化、省力化を目的としたほ場整備が急速に実施され、農業機械の大型化が進められた。このことにより、代掻き期間の集中や田植え時期が早くなったことなどにより用水の利用形態が変化した。また、ほ場整備による乾田化により使用水量の増量が必要となった。
 そして、昭和46年(1971)から食料の需給実態を踏まえた水稲の生産調整のための畑作物の導入が始まり、これまで以上にほ場の乾田化が要請され、このことが用水不足を助長し、この地域は再び慢性的な用水不足に見舞われるようになった。
一方、上流部において小矢部川に流入する打尾川は、急流の上に河川断面が小さいことから度々洪水が発生し、下流の農地、農作物に甚大な被害を及ぼしていた。
 こうした状況の中で、流域の農家の間では、新たなダムを建設して農業用水の安定を図って欲しいとの要望が高まっていった。そして、昭和48年(1973)、旧福光町、旧福野町、旧城端町、小矢部市の土地改良区を中心とした打尾川地区農業水利事業期成同盟会が結成され、ダムの建設に向けた動きが本格化していった。

2.県営臼中ダム建設
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臼中ダム
(出典:小矢部川上流用水)

 地元からの新しいダム建設の要望を受けて、翌49年、富山県は農林省に対して、農業用水の補給を目的とした県営かんがい用水事業と打尾川沿いの防災を目的とする防災ダム事業を申請し、刀利ダムを補完する新たなダム事業に取り組んだ。
 臼中ダムと称する新しいダム建設事業は、昭和50年(1975)に事業採択され、2年間の調査を経て昭和52年(1977)4月に着工された。
 臼中ダムは、堤高68.9m、堤長238m、総貯水量695万m3のロックフイルダムで、平成5年(1993)に完成した。
 このダムの建設にあたっても刀利ダム同様水没集落が発生し、水没する臼中集落では、ダム建設起工式の前日に20世帯、76人の閉村式が行われ、全世帯が移転した。
 臼中ダムの完成により、国営小矢部川農業水利事業の区域のほか、営農形態の変化による用水不足に悩んでいた旧福光町南蟹谷地区及び旧城端町大鋸屋地区を含む4,354haの地域で水不足が解消された。
 更に、同事業において臼中ダムの放流水を利用した最大出力910kwのダム従属式小水力発電所が平成10年(1998)に追加建設され、土地改良施設の維持管理費軽減に貢献してきている。



(参考文献)
① 小矢部川上流用水(平成24年3月) 小矢部川上流用水歴史冊子編纂委員会
② 刀利ダム工事誌(昭和43年2月) 北陸農政局
③ 国営小矢部川農業水利事業と富山県営発電事業に関する共同工事精算調書(昭和43年3月) 北陸農政局・富山県電気局
④ 富山県土地改良史(平成16年10月) 富山県土地改良史編纂委員会
⑤ 刀利紹介 太美山・刀利未来メッセージプロジェクト
⑥ フリー百科事典 ウイキペデイア