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第1章 射水平野のすがた
第2章 水郷農業の歴史
第3章 国営射水平野農業水利事業
第4章 国営射水郷農地防災事業
第5章 国営施設機能保全事業

~ ニューミレニアム“射水郷” ~
【国営農地防災事業の完成で新しい千年紀農業がスタート】

icon 第1章 射水平野のすがた



1.射水平野の地勢
 北陸の海岸線約1,000kmの中で富山県の海岸は92kmで、この短い海岸線に北陸の7大河川の中の4つ迄が流入している。即ち黒部川、常願寺川、神通川、庄川の諸河川がこれである。射水平野はこの神通川と庄川に挟まれ東部は呉羽丘陵、南部は射水丘陵で区切られた東西約12km、南北約8kmの沖積平野である。
 呉羽丘陵は概ね南北の方向で東側が急崖になっているが西側は緩斜面の台地で、最高は145mの城山で県を呉東と呉西に分けている。射水丘陵は青井谷泥岩で構成される台地で高津峯山(117m)がある。南部の丘陵は多くの川できざまれ、その川に河岸段丘が発達している。
 呉羽、射水両丘陵の重なる境野新を頂点とした旧扇状地が見られる外は神通川、庄川の運搬作用で発達したと考えられる砂州や砂嘴に、更に下条川等の小河川の水積土で形成されたと考えられる潟埋積土の沖積平野で、富山新港となった放生津潟で終っている。潟の南の津幡江では海岸から3.5km入った内陸部に海抜0m地帯があり、海岸から7kmの内陸でようやく5m以上となっている。このことは呉羽町の北代や小竹に貝塚が存在することと併せ、放生津潟がかつては広く拡がっていたことを物語っている。


2.射水平野の誕生
1)縄文の海進
 今からおよそ200万年前には、日本列島は現在の形に近づいており、射水丘陵も既に陸地となっていた。その後、寒い氷期と温かい氷期が何度か繰り返しやってくる。そして、今からおよそ1万年前にかつての寒冷な氷期は終わり、気候もだんだん現在に近づいてきて、温暖さの最盛期は今から6千年前頃だったようだ。紀元前の約1万年前から縄文時代が始まり、西暦300年頃に弥生時代を迎える。約1万年も続いた縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、晩期に区分されている。この間、海水面の高さが大きく変動しており、海水面が上昇すると海岸線は陸地側へ浸入し、低下すれば陸地側から後退していく。この浸入を海進、後退を海退といっており、6千年前に起こった海進は、「縄文の海進」と呼ばれている。ちなみに、縄文の海進時には、海水面が現在より数m(一説では3~5m)高く、現在の標高5m近くまで海となっていたようだ。

縄文時代の海岸線(破線は現在の海岸線)



(出典:水郷射水のミレニアム)

2)放生津潟の形成
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(出典:水郷射水のミレニアム)

 縄文の海進が気候の寒冷化で海退が進行していく中で、富山湾に流入する神通川、庄川、小矢部川の堆積物が海底に伸びてある程度の浅海となり、それが富山湾の沿岸流により放生津潟の前面に沿岸洲を形成して富山湾と潟とが分離され、放生津潟が形成された。
 11~12世紀頃、射水平野では放生津潟が東に大きく広がり、周辺に広大な沼沢地が形成されていた。これは、当時の気温が現在よりも高く、海水面が今より2m程高い状態だったことによるものである。
 その後、13世紀にかけた気温の低下に伴い海水面も徐々に低下していった。この海岸線の後退で射水平野にいくつかの入江が残り、やがてその入江の口に海岸線からのより廻り波による砂州ができて入江が潟となり、現在の射水平野の原形が出来上がった。そして、この時にできた古放生津潟もやがて周りから流入する土砂で埋まり縮小されて射水低湿地が形成されていったようだ。

icon 第2章 水郷農業の歴史



1.稲作のはじまり
 我が国における稲作の始まりは縄文時代晩期からとされている。射水平野における遺跡の数と時代の変遷からみると、弥生前期の遺跡は見つからず中期に至って多くの遺跡が現れることから、この頃から射水平野に稲作が根付き始めたものと考えられている。これは、気候の寒冷化に伴い海水面が低下して海岸線が後退し、以前には潟や低湿地であったところが次第に稲作の可能な半湿地や乾地になり、水田として利用可能な土地が急激に増加したためであろう。その後の気温の上昇を経て、13世紀にかけて再び起こった気温の低下に伴って海水面の低下と放生津潟の縮小があり、潟に流入する下条川等によりさらに泥土を堆積させて筋状や島状に砂州を作り出し、それぞれの適地に人が住み、稲作を始めて集落ができていったようだ。この営みの跡は中世期塔墓の分布状態から窺うことができる。

2.初期荘園の頃
 荘園制度は奈良時代から戦国時代まで約800年も続いた貴族・寺社等の私的土地所有制度である。越中国でも中央の貴族や地方豪族などによる開墾が盛んに行われていたが、一般の公民(有力者に限られるであろうが)もわずかながら開墾を行っていた。
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(出典:小杉町史(通史編)【筆者が一部加筆】

 越中国の古代荘園のうち、詳細な資料が残っているのは東大寺領荘園である。これについて、天平宝字3年(759)および神護景雲元年(767)の記録が残されており、これによると、鹿田庄を除いて8年間に着実に開田面積が増えているさまが見てとれる。同時に注意すべきは、荒廃地も少なからず生じていることであり、この荒廃地の多さが古代から中世初期にかけての農業の大きな課題であったようだ。荒廃と開田を繰り返さなければならないことが当時の一般的な姿だったのではないか。なお、記録によれば、神護景雲元年までに東大寺領の荘園10荘(総面積934町余)が越中国内に広がっており、全国の東大寺領荘園のほぼ1/3を占めていたようだ。
 しかし、荘園領主の多くが京都、奈良等の中央に居住していたことから、その後の地方武士の台頭に伴って管理が行き届かずこれを放棄せざるを得ないようになり、荘園制度の崩壊につながっていった。


3.藩政期の新田開発
 近世初期の頃、放生津潟の南から東にかけての一帯は、広々とした低湿地が未開のまま残されていた。口碑の伝えるところによれば、放生津潟は、現在(富山新港建設以前)の2倍近くの大きさがあったようである。天和年間(1681~)から開発に着手し、天保年間に至り湖面の一端を埋め良田とした。
 最初に新湊町木屋藤左衛門が堀江千石といわれる開発に着手するが、故あって倒産し開発は中止、その後、加賀藩の命を受けた堀岡新村の竹脇茂三郎がこれを引き継ぐこととなった。以降2、3、4代目と繋いでいき、享保17年(1732)、旧高680石で堀江新村を村立した。その後も開発に努め、旧高1,000石、反別91町余となり、いわゆる堀江千石を成し、元文元年(1736)改作所より報奨を授かっている。
 6代目も開発に努め文化12年(1815)の検地で草高209石余りの堀岡又新村を村立、以後も開発を続け旧高242石、反別20町余とした。更に7代目も新開に努め天保3年(1832)新開高99石余、明治4年(1871)100石として入江村を村立した。
 これらの開発(干拓)の方法として、沼地の泥土を筋状に掘り上げて隣地に盛り上げ「うね田」としその微高地に植え付ける方法と、河川及び放生津潟等の底部の泥土をタズル(舟)で運び新開地に埋め立てる方法とがあったが、わけても湖底からの泥土の採取は困難を極める作業だったようだ。

4.明治期以降と水郷農業のすがた
1)耕地整理への取り組み
 射水郷地域における土地改良は、内務省が直轄工事として明治33年(1900)に行った庄川河口の新設工事で発生した残土を貰い受けて、牧野村が明治38年(1905)から下牧野耕地整理組合を結成して188町歩の耕地整理を行ったのがその始まりである。
 その後、大正3年(1914)の神通川大洪水のあと3,000町歩の耕地整理が行われ、更に昭和9年(1934)の庄川の大洪水のあとに、浅井村の麻生正蔵が中心となって425町歩の耕地整理が行われている。このように、耕地整理自体は比較的順調に進んだものの地形的制約からその大半が湿田であり、これの乾田化が地域にとっての大きな課題であった。
2)水郷農業のすがた
 射水郷地域の農業の特色は、湿田地帯における水との苦しい闘いの中での農業経営であった。一年中湛水のままの水田が多く、排水が必要な時に水位が高くて排水できない状態だったことから、この地域特有の農村風景が見られた。
 田んぼの中での運搬には、荷車やリヤカーを使えない湿田に最も適した方法として、タズル(田舟)と呼ばれた小舟が使われた。地面をこすりながら移動するさまをこの地方では「ズル」といい、刈り取った稲をタズルに乗せて田んぼの中を押しながら川や排水路まで運び、そこに止めてあるやや大きくて長い平底の舟(イクリ)に積み替え、稲架(はさ)まで運ぶのである。また、イクリで運んだ肥料をダズルに積み替えて田んぼに撒いたりもした。田んぼなどを行き交うタズル、イクリは、射水郷特有の風物であった。
 このタズルやイクリとともにこの水郷地域を特徴づけたのは、排水路や川岸に植えられたトネリコの並木である。強湿田のため畦が軟弱で、稲を干すための稲架を立てても風で倒れてしまうことから、これに代わる稲架け用として植えられたものである。湿地を好むトネリコは、ナガミノトネリコという落葉の喬木でダゴノキと俗称され、ひところは数十万本も植えられていたと言われている。


3)南原繁の排水改良への取り組み
 射水郷地域の排水は、鍛冶川・新堀川・下条川などや大小の水路を通じて放生津潟に集中していた。そして、新湊市街を流れる内川・堀切口を経て富山湾に排出された。しかしながら、これらの河川は川幅が狭いうえに蛇行が甚だしいことから排水が滞り、少しの雨でも泥沼状態に見舞われることが多かった。また、放生津潟と直接海につながる堀切口は波による流砂のために埋まることが多く、満潮になると潟の水位が上がって各河川に逆流し、湛水区域が一層拡大した。
 また、降水の少ない平時においても、内川から富山湾への排水能力が不十分なため放生津潟の水位がいつも高止まりし、加えて、潟周辺の田面との差がわずかであることから、稲の収穫時においても度々湛水被害に見舞われていた。



 こうした劣悪な宿命を抱える地域に、大正6年(1917)3月、弱冠27歳の南原繁(後の東京大学総長)が射水郡長として着任した。彼は当時の回想録の中で
 「郡役所の所在地、高岡市への途中、小杉駅を通過するとき、地図にはない大きな湖水の如き一面の水域が広がっているのに驚いた。出迎えの郡書記の語るところによれば、【この辺一帯土地低く、毎年春秋二回、河川が氾濫し、かように湛水するのであり、そのために米の収穫も減少し、悪い地方病も流行する】ということであった。私は赴任途中のこの瞬間、ここに奉仕すべき一つの大きな任務のあることを直感したのである」と述べている。
 彼は、古来の宿命であるこの地域の湛水問題を、新しい技術を駆使した排水事業を導入して画期的に改善しようとした。まず、大学の専門家による視察を得て大まかな見当をつけた後、県の耕地課長と射水郡書記とによる徹底的な調査を行い、富山湾に直接排水する「下条川沿岸排水事業」として具体的な調査設計案を立案した。そして、この計画を完遂するには地元の世論形成が何よりも必要と考え、160人余からなる「射水郡治水協議会」を組織した。

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南原繁(1889~1974)
(出典:水と生きる)
 着任の翌年である大正7年(1918)3月、彼は郡の民意を結集した形で事業の調査設計案を知事に提出した。この案は、同年7月の臨時県議会に諮られ、県費4割、地元負担6割による調査費1万円の調査事業が決定した。そして、大正7・8年度の2カ年に亘って調査が行われ、同9年3月に事業設計書が完成した。事業を発案した南原は、設計書の完成を待たず8年1月、内務省に転任した。
 ちなみに、事業設計書の完成は成ったものの、その事業費が巨額であったため、実際に国庫補助事業として採択され、工事が開始されたのは、南原の離任後8年を経過した昭和2年(1927)のことであった。


icon 第3章 国営射水平野農業水利事業



1.国営事業化の背景等
 射水郡長として赴任した南原繁が、大正7年に排水に関する調査設計案を県知事に上伸以来、昭和10年(1935)まで続けられた下条川、新堀川、鍛冶川沿岸排水改良事業、昭和23~26年(1948~1951)の堀切水門設置の放生津潟沿岸排水改良事業などにより湛水解消の努力が重ねられていった。しかしながら、乾田化には程遠く、農家にとっては依然として排水不良地帯という宿命を抱えたままの営農を余儀なくされる状態が続いた。
 こうした中で、昭和31年(1956)8月、初の民間出身知事となった吉田実が、県勢総合開発計画の積極的な推進施策の中で、富山空港の開設や富山新港の建設を中核とする臨海工業地帯の造成と並び、射水平野の乾田化事業計画を取り上げた。これを受ける形で、昭和38年(1963)に富山・高岡新産業都市の指定を受け、富山新港の建設とともに射水郷の乾田化を目指した国営射水平野農業水利事業が着工されることとなった。
 こうした動きに先駆けて、昭和28年(1953)に射水郷乾田化土地改良促進同盟会が設立され、県と国に乾田化のための事業の採択を要望した。これを受け、国は直轄調査として昭和30~36年(1955~1961)にかけて計画調査を実施した。この間、昭和33年(1958)には射水郷総合開発促進同盟会が設立され、国営による事業化が強く求められた。
 こうした流れを受けて、昭和39年(1964)2月に国営事業計画が確定し、同年3月に国営射水平野農業水利事業として着工、昭和52年(1977)3月に完了した。
 並行して、県営かんがい排水事業、各種ほ場整備事業、排水対策特別事業、各種団体営事業が積極的に実施された。
 こうした一連の乾田化事業の取り組みにより、水郷射水平野の全貌は一変し、乾田化した水田の大型区画整備も行われ、大型農業機械を導入した近代的な営農が可能となった。
 一方で、この地域特有の風物であったトネリコの並木やタズル・イクリは姿を消すこととなった。

2.国営事業概要
1)受益面積
排水受益:5,765ha(水田:5,434ha、普通畑:298ha、果樹園:33ha)
用水受益:3,009ha(排水受益の内数)
2)関係市町村:7市町村(平成の合併前で表示)
新湊市(1,013ha)、富山市(1,965ha)、高岡市(183ha)、小杉町(1,225ha)、
大門町(408ha)、大島町(501ha)、下村(470ha)
3)主要工事
 ①頭首工(十一ケ堰)
堤高:5.4m、堤長:22.0m、Q:11.73m3/s
 ②貯水池(和田川ダム)【共同事業、富山県施行】
負担割合:発電19.69%、治水19.24%、農業2.04%、工業50.88%、上水道8.15%
重力式コンクリートダム、堤高:21.0m、堤長:137.0m
総貯水量:3,070千m3、有効貯水量:1,900千m3(うち農業:650千m3)
 ③配水施設 
排水水門(東部排水機場、西部排水機場)
排水機 (東部排水機場:Q21.86m3/s、Φ1,600mm×4台)
(西部排水機場:Q20.01m3/s、Φ1,500mm×4台)
 ④排水路
東部主幹線排水路(1,870m、コンクリート矢板)
東部1号幹線排水路(843m、軽量鋼矢板)
東部2号幹線排水路(1,647m、コンクリート矢板)
西部主幹線排水路(4,000m、コンクリート矢板)
新堀川改修(4,913m、軽量鋼矢板)
新堀川承水路(4,222m、コンクリートブロック)
鍛冶川改修(1,200m、コンクリートブロック)

4)工 期
   着 手:昭和38年度(1963) 
   完 了:昭和51年度(1976)


(出典:水郷射水のミレニアム)

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(出典:水郷射水のミレニアム)

icon 第4章 国営射水郷農地防災事業



1.国営射水平野事業完了後の地域状況の変化
 国営射水平野農業水利事業や各種関連事業の完成により、湛水に悩まされ続けてきた射水郷地域の農業は、県内を代表する農業地域の一つとして飛躍的な発展を遂げた。
 一方で、射水平野のほぼ中央を東西に走る国道8号線バイパスの開通とともに地理的条件が向上したことに伴い、住宅や企業団地の造成、道路・公園の整備など、地域開発の進展に伴う農地の転用が郷内の各地で進んだ。この結果、降雨時における流出の形態が大きく変化し、小降雨時においても各地でしばしば湛水被害に見舞われるようになった。
 こうした社会情勢の変化とともに食生活の改善が進み、コメ余り現象がみられるようになった。
 こうした事態を踏まえ昭和45年(1970)、「総合農政の基本方針」が閣議決定され、水田転作による米の生産調整が始まった。転作の主要作物である大豆、麦の栽培を促進するためには、汎用農地としての整備が不可欠・急務であり、地元からは湛水被害の解消と地下水位の低下を促す排水対策事業の早急な実施が望まれるようになった。
 このような現状を打破するために、昭和59年(1984)3月、射水平野広域排水対策促進期成同盟会が発足し、国営による広域排水対策事業導入の機運が高まった。
 これを受け、農林水産省は昭和60~平成元年度(1985~1989)地区調査、平成2年度全体実施設計に取り組んだ。調査等の結果、射水郷地域における湛水被害の増大は、農村地域の都市化による流出量の増加と、地域開発の進展による地下水需要の増大を背景とした地盤沈下による排水不良など、その原因が農業以外の他動的要因によるものであるとして、国営総合農地防災事業制度を適用し、平成4年(1992)2月に事業着工された。
 その後、平成8年(1996)7月の計画変更を経て、平成13年(2001)3月、事業完了のはこびとなった。
 これにより射水郷地域は、「ニューミレニアム“射水郷”」として新しい千年紀(2001)農業がスタートすることとなった。

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(出典:事業誌 甦る射水郷)

2.国営事業概要
1)受益面積
3,320ha(水田:3,270ha、畑:50ha)
2)関係市町村:7市町村(平成の合併前で表示)
富山市(820ha)、高岡市(130ha)、新湊市(940ha)、小杉町(480ha)、
大門町(190ha)、大島町(350ha)、下村(410ha)
3)主要工事
 ①排水機
東部排水機場
 増設:10.5m3/s(Φ1,350mm×2台、Φ1,000mm×1台)
 改修:22.5m3/s(Φ1,600mm×4台)
西部排水機場
 増設:10.5m3/s(Φ1,350mm×2台、Φ1,000mm×1台)
 改修:18.2m3/s(Φ1,500mm×4台)
中央排水機場
 新設:17.0m3/s(Φ1,350mm×3台、Φ1,000mm×1台)
 ②排水路
東部主幹線排水路(1.0km、改修、鋼矢板)
東部1号幹線排水路(1.0km、改修、鋼矢板)
東部2号幹線排水路(0.3km、改修、鋼矢板)
西部主幹線排水路(1.8km、改修、鋼矢板)
中央幹線排水路(1.8km、新設、鋼矢板)
中央放水路(0.6km、新設、暗渠)
4)工 期
着 手:平成 3年度(1991) 
完 了:平成12年度(2000)


(出典:北陸農政局H・P)

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(出典:水郷射水のミレニアム)

icon 第5章 国営施設機能保全事業



1.国営射水郷等事業完了後の状況
 かつては地域のほとんどが湿地や沼地に覆われていた射水郷地域は、国営射水平野、同射水郷等の前歴事業の完成により乾田化が図られ、大区画農業はもとより水田の畑利用による麦・大豆の生産が拡大し、地域の農業経営の多様化と安定に寄与している。


 一方、前歴の国営事業で整備した排水機場は、事業完了後の経年によりポンプ軸受部の摩耗等、施設の性能低下が生じている。今後、更なる性能低下の進行により施設の維持管理に多大な費用と労力を要し、排水機能に支障をきたすことが懸念されている。
 このため、平成25年度(2013)から国営施設機能保全事業を適用して施設の長寿命化を図り、排水機能の維持及び施設の維持管理の費用と労力を軽減し、農業生産の維持及び農業経営の安定に資することとしている。

2.国営施設機能保全事業「射水平野地区」の事業概要
1)受益面積
3,153ha(水田:3,103ha、普通畑:50ha)
2)関係市町村:3市町村(平成の合併後で表示)
富山市(773ha)、高岡市(117ha)、射水市(2,263ha)
3)主要工事計画
 ①東部排水機場・西部排水機場
ポンプ設備改修、耐震対策、除塵設備改修、附帯設備改修
 ②中央排水機場
除塵設備改修、附帯設備改修
 ③排水管理施設
排水理施設の改修
4)予定工期
着 手:平成25年度(2013)
完 了:平成33年度(2021)


(参考文献)
① 水郷射水のミレニアム(2000年10月):北陸農政局富山農地防災事業所
② 事業誌「甦る射水郷」(平成13年3月):北陸農政局富山農地防災事業所
③ 国営射水平野農業水利事業誌(一般編)(昭和52.3.20):北陸農政局射水平野農業水利事業所
④ 国営施設機能保全事業 射水平野地区事業概要:北陸農政局西北陸土地改良調査管理事務所
⑤ 水と生きる 水郷とよばれた射水平野:射水平野土地改良区
⑥ 富山県土地改良史(平成16年10月):富山県土地改良史編纂委員会
⑦ 小杉町史(通史編)(H19.3.31):小杉町役場
⑧ 北陸農政局H・P
⑨ 国土交通省H・P
⑩ フリー百科事典:ウイキペデイア