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1.母なる川「手取川」が創造した加賀平野
2.洪水の歴史
3.七ヶ用水の父「枝 権兵衛」
4.明治の大改修
5.昭和9年の大水害と昭和の改修
6.手取川農業水利事業の概要

icon 1.母なる川「手取川」が創造した加賀平野



 加賀平野は、石川県最大の河川「手取川」が生みだした広大な扇状地の平野です。その面積は約12,000ha、金沢市、小松市、加賀市ほか8町村に及びます。
 扇状地の頂点の要にあたる鶴来町から、扇を開いたような美しい加賀平野を一望することができます。その規模と形の美しさは、まさに日本一の扇状地といえます。手取川右岸に七ヶ用水、左岸に宮竹用水の8つの用水路が、それぞれ扇の骨のように張り巡らされており、米どころ、加賀平野を支えています。
 しかし、この一見沃野に見える加賀平野の美田には、何代にも渡る農民達の水との戦いの歴史が刻み込まれています。
 手取川は白山から流れる急峻な川のため、季節による川の流量の変動をまともに受けます。梅雨期や台風時には洪水となって大きな被害を与える反面、雪解け水による豊水期を過ぎた6月下旬以降は急速に流量が減少するため、度々干ばつにさらされます。また土壌が扇状地特有の砂土のため多量の用水を必要としていました。用水不足を解消すると同時に洪水の調整も図り、安定した農業経営と洪水の不安を解消するという願いは加賀平野の農民、住民全ての願いでもありました。
 そこで、手取川の支流である大日川に貯水ダムを建設し、雪解け水を貯水し、夏のかんがい用水を確保すると共に、ダムの落差と水量を発電に利用し、さらに洪水を調節して沿岸の被害を防ぐことを目的として、昭和27年、国営手取川農業水利事業が開始されました。17年の歳月を費やして行われたこの事業により、ようやく加賀平野の人々の苦闘の歴史に終止符が打たれたと同時に、七ヶ用水、宮竹用水の合同取水の完成により、水争いの歴史も幕を閉じることになりました。


icon 2.洪水の歴史



 手取川は霊峰白山(標高2,702m)にその水源をもち、途中で尾添川、瀬波川、大日川、直海谷川を集め急流となって峡谷を刻み、扇状地を形成しながら日本海へ注ぎます。長さは72km、流域面積809km2に及ぶ石川県最大の一級河川です。この手取川は母なる川として大地を沃野にする反面、常願寺に次ぐ県内でも有数の河川勾配をもつ暴れ川のため、一度大水となって牙を剥くと、多数の死者を出すまでの惨憺たる被害をもたらしました。手取川は「七たび水路(みずみち)を変えた」という大氾濫川です。江戸時代には記録として残るだけで9回、明治年間に4回の沃野を泥海と化す災害が発生しています。中でも、明治29年の大洪水は七ヶ用水の合口事業のさなか、殆どの堰と用水路が壊滅しました。最近では昭和9年、おりからの梅雨前線の影響による集中豪雨により死者97名をだす未曾有の災害を引き起こしています。


icon 3.七ヶ用水の父「枝 権兵衛」



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取入口の配置と隧道の模式図
 七ヶ用水が生まれるきっかけは、この人、枝権兵衛が行った富樫用水の改修でした。時は江戸末期、そのころの手取扇状地へのかんがいは、それぞれの地域の独立した水利組織が直接手取川に堰を築いて取水していました。上流から富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川の順で、7つの用水がありました。当然上流ほど有利な条件で水を引くことができ、時の権力者(富樫氏)がその権利を持っていました。下流にある用水ほど水不足に悩まされ、水をめぐっての紛争が絶えませんでした。上流の富樫用水でさえも、夏の日照りが続くと水不足となること度々、また大水のたびに堰や、取水口が何度も壊され洪水を引き起こしていました。
 そこで、夏の日照りにも水の豊富な安久濤ヶ淵(あくどがふち)に着目した枝権兵衛は、小山良左衛門と共に現在の白山から岩をくり抜いて300mものトンネルを掘る工事を計画します。悪戦苦闘を続けること5年、農民達のために私財を投じて完成させた掘り割りが、今の七ヶ用水が生まれた背景になっています。
 この権兵衛が成し遂げた大事業は、明治31年に着工した合口事業(7つの用水の取水口を合併する)で、取水口の位置の参考とされました。また権兵衛の掘った穴のひとつは、昭和24年まで予備の取水口として使われていました。


icon 4.明治の大改修



 それぞれが独立した形で取水する状況では、各取水口で堰堤や張出工を築造して自分たちに有利なように多量の水を取り入れようと争います。すると次第に川床が変動し、やがて、手取川本流の流れが乱れ、一旦大水になると堰堤や水門を破壊するという治水面で悪影響が顕著に表れるようになりました。渇水時の下流の水不足に拍車を掛けると共に、大水のたびに破損、流出する取水施設の修復工事の費用も膨大になり、農民の大きな負担となっていました。
 そこで、県は七つの取水口を廃してひとつにまとめ、新たに設ける幹線水路で各用水に分水する計画を立てます。この事業が決定した翌年の明治29年8月に襲った大洪水で壊滅的な被害が発生しました。そこで抜本的な改革を余儀なくされ、先の枝権兵衛が築いた白山地内に新たな合併取り入れ口を設け、230mのトンネルを通じて、延長約8kmにおよぶ幹線水路で七ヶ用水に分配されることとなりました。この時、現在の手取川七ヶ用水土地改良区の前身の組織である七ヶ用水普通水利組合が設立されました。しかし、この事業によって、宮竹用水の取り入れ順序は最下流となり、水争いはこの国営事業が完成するまで続くことになります。


icon 5.昭和9年の大水害と昭和の改修



 昭和9年7月11日、活発な梅雨前線により刺激された豪雨が手取川沿岸を襲い未曾有の大洪水を引き起こしました。死者97名、行方不明15名、負傷者35名を出す大災害でした。この洪水で上流から押し流されてきた土砂により手取川の川底が低くなったため、水門の前には5mに及ぶ土砂が堆積し、取水不可能な事態に陥ります。地区内の全耕地が4日間も断水するというものでした。
 そこで、この洪水を契機に、七ヶ用水、宮竹用水の取水口はさらに上流に移され、昭和12年に両用水の合同取水を目的とした白山堰堤の建設が進められました。同時に、旺盛な電力需要に対応するために水力発電もあわせて建設しています。
 その後、農林省(現農林水産省)が戦後の食糧増産を打ち出し、かねてからの農民達の強い要望により、一大貯水池として大日川ダムが計画されるとともに、昭和28年、本国営手取川農業水利事業の計画が告示され、本事業が開始されました。
 この昭和の大改修と大日川ダムの完成により、水不足と洪水による被害が激減したことは言うまでもありません。


icon 6.手取川農業水利事業の概要



受益地
金沢市、小松市、加賀市、ほか8ヶ町村

受益面積
12,072ha

主要工事
貯水池 大日川ダム 有効貯水量23,900,000m3
頭首工 1カ所(津江町)
導水路 枝川導水路 (総延長874m)
    加賀三湖幹線導水路 (総延長7,700m)

※掲載の一部写真は、手取川七ヶ用水土地改良区、石川県のホームページより転載させて頂きました。