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1.先人の足跡
2.国営邑知潟干拓建設事業
3.邑知地溝帯総合農地防災事業
4.今日の邑知潟

icon 1.先人の足跡



1.邑知潟の誕生と稲作のはじまり
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位置図
(カシミールを用いて作図)
 石川県能登半島の羽咋市から七尾市にかけて延びる地溝帯(ほぼ平行する二断層間が陥没して生じた帯状の低地(広辞苑))は「邑知地溝帯」と呼ばれています。
 「邑知潟」はその南西部にあり、下流は羽咋川となって日本海に流入していますが、かつては羽咋市四柳付近まで達する大きな入江でした。海水面が今より10m程高い温暖な縄文時代の前・中期(約5000年前)の頃のことです。
 やがて氷河期となり、手取川などから吐き出された土砂が沿岸流や波浪によって運ばれ、次第に羽咋砂丘が北に向かって伸び、入江を塞ぎ、邑知潟が誕生したといわれています。
 潟の誕生は、稲作に適した土地の誕生でもありました。 昭和27年(1952)羽咋川改修工事で発見された遺跡は、数次の発掘調査により北陸最古の弥生ムラ「吉崎・次場(よっさき・ずば)遺跡」として知られるようになりましたが、弥生中期~後期(約2000年前)の集落跡のほか、稲作に使われたと見られる水路跡や炭化籾、木製のエブリ(水田を平らに均す道具)や鍬などの農具、鹿の骨や猪の牙などが多数出土しました。
 この頃の稲作は、潟縁(水位の低い時だけ陸地となるところ)などの湿地帯に限られ、狩猟や漁労によって不安定な稲作を補っていたものと考えられています。

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縄文早期末頃、縄文中期末頃、縄文晩期~弥生時代、古墳時代の頃
邑知潟周辺の古地理(変 遷)
(出典:吉崎・次場遺跡 県営ほ場整備事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書)

2.埋立ての時代
 邑知潟に流れ込む河川の流域には、崩壊地形が多く、洪水のたびに土砂を運び、水田をつぶしたり河筋を変えたりしていたため、荒廃田が多くありました。荒廃田の修復や低湿地の開発が盛んに行われるようになったのは近世(1574~)に入ってからのことであり、江戸時代(1603~)初期の頃から、これまでの自然埋立てから「うね田」「川流し」などによる人為的な埋立が行われるようになったといわれています。
 うね田は、潟縁開発の最も一般的な手法で「むね田」とも呼ばれていました。潟縁の浅瀬で畝(うね)を造るように溝を掘り、掘った土を盛り上げた畝状の埋立地を水田とするもので、畝幅を少しずつ拡げて耕地を拡大し、掘り下げた溝はかんがい排水のほか耕作や収穫などに用いる小舟の小運河として利用されていました。また「カブト」と呼ばれるもぐりの職人が、潟底の土を足で方形に踏み切る「鉄砲切り」という独特の方法で採取し、それを小舟で潟縁まで運んで畝を造る新開の方法もありました。
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冬の畝田(昭和29年撮影)
(出典:石川県土地改良史)
 川流しは、吉野屋村の彦助の事跡として有名です。
 飯山(いのやま)川の流域には地すべり地が多く、洪水時には大量の土砂が河口に流れ込んで浅瀬を造ってきました。ここに着目した彦助は、飯山川を東折させ、上流の神子原、菅池の崖を切り崩して飯山川に流し込み、潟縁に施した粗朶囲いの中に導いて埋立てしました。今日でいう「流水客土」の方法です。
 彦助の川流しによる開発は、万治2年(1659)に着手以来、生涯で780石余におよび、土地への憧れが極めて強かった農民らの開発意欲を盛り上げ、その後いくつかの全面埋立て計画が出されています。例えば、文化13年(1816)には鳳至郡道下村の丹治が郡奉行に全面埋立を願い出ました。藩も食指を動かしましたが、余りにも規模が大きかったためか計画倒れに終わっています。また、大正2年(1913)には羽咋郡中荘村の田辺又五郎らから全面埋立願が出され、県は邑知潟沿岸集落や漁業組合等の意見を聞いて調整し、計画の修正を指導しました。県の指導に基づいて邑知潟水面の1/3(120ha)埋立て計画に修正した田辺らは、大正10年(1921)に認可を得ましたが、工期延期願いを提出した後、自然消滅しています。こうした農地を拡げたいという農民の夢は、後の国営干拓事業で叶えられることになるのです。

3.排水との闘い
 羽咋川は、下流部で北に向かって大きく湾曲し、洪水のたびに変動していました。このため潟の水がスムーズに流れず、河口付近で合流する子浦川が潟へ逆流することもあって、潟周辺は常習的な水害に見舞われていました。加えて、日本海が満潮になると邑知潟に海水が逆流し、これが洪水時に潟縁の田畑を襲い、塩害で作物が赤く枯れてしまう「赤開き」が3年に1回程度は発生したそうです。また、今のように堤防らしいものがない潟縁農業は、排水が悪いため腰まで浸かっての農作業でした。稲刈りは水中での手探りで、刈り取った稲は「田づり」や舟に乗せて洪水のない高台の「はぞがけ場」まで運んでいました。
 明治末期になると、従来天災としてあきらめていた水害などの解決策を模索する動きが高まり、石川県は水害の解消と塩害の防止のため逆水止水門の設置と屈曲した羽咋川のショートカット工事に着手し、昭和4年(1929)に完成しました。
 逆水止水門は塩害の防止に大きな効果を発揮しましたが、潟の生態系にも変化が現われました。潟は徐々に淡水化して藻やヒシが異常繁殖し、潟の漁獲量が大きく減少したのです。とりわけ潟漁に依存度の高い千路と鹿島路は大きな打撃を受けました。
 この事態を深刻に受け止めた石川県は、地元と協議のうえ潟を干拓して漁業者に農地を配分することとし、昭和13年(1938)に千路地先で40.7ha(田面積36.0ha)の干拓を完成させました。干拓地での稲作は既成田をしのぐ収穫をあげるようになり、洪水の恐怖から解放された干拓地の農業は、潟縁農家から羨ましがられたそうです。
 しかし、昭和19年(1944)7月の大洪水により干拓堤防が破堤し、さらに同年9月の台風による高波で逆水止水門も倒壊したため、潟縁農業は再び「赤開き」の脅威にさらされるようになりました。逆水止水門は、太平洋戦争直後の非常時にもかかわらず早期に復旧工事に着手され、昭和25年(1950)に復旧しましたが、水没した干拓地については「邑知潟を全面干拓すれば、水害を防止できるし耕地も増大する」として、邑知潟干拓期成同盟会を結成し、県とともに請願して国営干拓事業に委ねることにしました。
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腰まで浸かっての稲刈り
(出典:鹿島路町のあゆみ)
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田づりで稲運び
(出典:鹿島路町のあゆみ)
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昭和4年に完成した逆水止水門
(写真提供:邑知潟土地改良区)


icon 2.国営邑知潟干拓建設事業



1.概 要

 邑知潟沿岸住民の強い願いは、終戦直後の経済安定と食糧増産が叫ばれていた時期でもあり、水害の解消と水没した干拓地の復旧、さらに耕地の拡大を図る一石二鳥の方法として「国営邑知潟干拓建設事業」が実施されました。
 この事業は公有水面456haのうち潟中央に残存水域として82haを残して堤防で締切り、374haを干拓して306haの農地を造成するとともに、潟周辺低位部既耕地の排水改良を実施したものです。
 潟面積の縮小と既耕地の排水改良による洪水位の上昇に対しては、干拓堤防に併せて流入河川堤防の嵩上げを行うとともに、羽咋川流路の改修や断面拡幅によって対処しました。さらに逆水止樋門の拡幅や鉄道橋の嵩上げにより排水の円滑化を図っています。また、用水源は残存水域に依存することとし、羽咋川に設置した用水調節水門で潟の水位を調節し、工区ごとに自然取入または機械揚水で取水することにしました。
 工事は、昭和23年(1948)に県営干拓地(越路野工区)の復旧工事から進められ、越路野工区の復旧は昭和26年(1951)に完成しました。引続き鹿島路・邑知・余喜工区と工事を進め、昭和43年(1968)に事業完了しましたが、工事施工は、人も寄せつけない最深24mにも及ぶ「ヘドロ」と称する軟弱地盤との闘いであったという記録が残されています。
 国営事業で干陸された干拓地を農地として完成させるため、かんがい排水用の小水路及びほ場整備は県営事業で実施されました。干拓地内の水田は50a区画で整備され、昭和45年(1970)には全面作付されています。また、周辺既耕地は小区画(10a)で既に整備されていましたが、効率の良い干拓地区内の作業に影響され、次第に大区画に再整備する気運が高まり、昭和47年(1972)頃から相次いで再整備が進められています。
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国営邑知潟干拓建設事業計画概要図
(出典:国営干拓建設事業邑知潟地区工事図譜)

2.主要工事
(1)地   域  羽咋市および鹿島郡鹿西町の一部にわたる邑知潟周辺

(2)干拓造成田
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(3)主要工事
 ①締切堤及び防水堤 8.2km(越路野締切堤1.6km、富永防水堤0.4km、鹿島路締切堤2.9km、邑知締切堤2.9km、余喜締切堤0.4km)
 ②用排水路 25.7km(幹線用水路4.2km、承水溝13.5km、幹線排水路8.0km)
 ③河川改修 9.9km(羽咋川2.1km、吉崎川1.2km、飯山川1.4km、長曽川1.8km、 金丸川3.4km)
 ④揚排水機場 8ヶ所(越路野第1、越路野第2、富永、鹿島路第1、鹿島路第2右岸、 鹿島路第2左岸、邑知、余喜)
 ⑤幹線道路 8.3km
 ⑥逆水止樋門 1ヶ所(既設8連、増設4連、計12連)
 ⑦水位調節樋門 1ヶ所

3.工 期
 昭和23年~昭和43年(1948~1968)





(出典:国営干拓建設事業邑知潟地区工事図譜)

4.国営干拓事業完了後のアフターケア
 水害の解消と水没した干拓地の復旧、そして食糧増産を図る一石二鳥の事業として実施された国営干拓事業でしたが、事業完了直後のころから米が生産過剰となり、米の需給を均衡させる対策が採られるようになりました。しかし、国営干拓事業は水稲栽培を前提とした整備水準であったため、昭和50年(1975)頃から県営事業などによって干拓地やその周辺の排水施設などを増強整備し、畑作物も作られるように水田の汎用化が進められてきました。
 一方、土地改良施設の機能低下を防ぎ、機能を回復させるための維持管理も行われています。揚排水機のオーバーホールや水門ゲート塗装などのほか、昭和54~60年度(1979~1985)には、羽咋川逆水止水門が木製で老朽化が著しいため、ステンレス製に取替えて維持管理費の軽減を図っています。また、軟弱地盤上に築造された干拓堤防は、予測を上回る沈下や侵食の影響を受け、洪水時には溢水の危険が生じるようになったため、昭和56年度(1981)から順次盛土や護岸の整備が行なわれています。

icon 3.邑知地溝帯総合農地防災事業



1.経 緯

 邑知潟周辺の農地及び農業用施設は、昭和23年度(1948)から昭和43年度(1968)にかけて実施された国営邑知潟干拓建設事業及び付帯県営事業等により造成・整備されてきました。しかし、その後の地域開発などに伴って、土砂の流出により主要排水河川である羽咋川の河床が変動し、洪水の流出形態も変化しました。加えて干拓地及びその周辺に発生した地盤沈下に伴って干拓堤防も不同沈下するなど、地域の排水機能が著しく低下したため、しばしば農地及び農業用施設等に湛水被害をもたらすようになり、一般公共施設への被害の発生も懸念されるようになりました。
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昭和60年7月の梅雨前線豪雨による湛水状況
(写真提供:邑知潟土地改良区)

 このような排水施設の著しい機能低下に対して、地元関係機関から早急な対応が求められるようになりました。これを受けて、平成3年度(1991)から地区調査、平成5年度(1993)から全体実施設計が行われ、平成7年(1995)12月に国営総合農地防災事業建設所を開設、平成8年6月に事業計画を確定させ、平成18年(2006)3月に事業完了のはこびとなりました。

2.事業計画の概要
 本事業は、排水本川である羽咋川を主体とする排水路の整備を行うと共に、逆水止水門と用水調節水門を統廃合した潮止水門の新設、並びに余喜排水機場の改修を行うことで排水施設の機能回復・強化を図り、災害を未然に防止するものです。

(1)排水機能の強化

 農地防災事業は、用排水施設の機能回復を図る事業ですが、現施設は国営干拓事業当時の低い整備水準であり、ひとたび災害が発生すると農業被害が甚大であるばかりでなく、一般・公共被害の発生も危惧されるため、抜本的な排水改良が必要です。また、農業経営の安定を図るには耕地の汎用化が不可欠です。このため、排水施設の機能回復に併せてその機能を強化し、災害を未然に防止する総合農地防災事業として計画を樹立しました。 なお、排水計画の整備水準は次のとおりです。
  ①計画基準雨量:国営干拓事業では、機械排水区で1/10確率、自然排水区で1/15確率の降雨量を採用していましたが、本事業では機械排水区・自然排水区とも1/30確率降雨量を採用しました。
  ②許容湛水深:国営干拓事業では、水稲単作計画のため80㎝ 48時間以内としていましたが、耕地の汎用化を考慮して基準田面上30㎝を超える湛水時間を24時間以内としました。

(2)羽咋川及び湖岸堤

 排水本川である羽咋川(二級河川)は、流域からの土砂流出などにより通水断面積が減少し、越路野堤及び富永堤では、最大で約50㎝の沈下が観測されるなど、地域の排水機能が著しく低下しています。このため、洪水時は邑知潟水位を計画高水位よりも50cm以上低く規制管理している状況にあり、この対策として、羽咋川は浚渫と護岸により、越路野堤と富永堤は盛土により排水機能を回復・強化する計画としました。

(3)逆水止水門及び用水調節水門

 羽咋川には、防潮を目的とした逆水止水門と干拓地等の用水調節を目的とした用水調節水門が設置されていますが、河川幅に対してコンクリート堰柱の占める割合が逆水止水門で1/3、用水調節水門で1/5を占めており、これが洪水の流れを阻害しています。また河川管理施設等構造令にも適合しないものとなっているため、両水門を統廃合し、新たな潮止水門を築造して流水阻害をなくします。

(4)余喜排水機場
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邑知地溝帯地区計画一般平面図
(出典:国営総合農地防災事業「邑知地溝帯」地区事業誌)

 国営干拓事業で造成された排水機場ですが、地盤沈下(不同沈下)や洪水の流出形態の変化等に対応するため改築することとしました。

3.主要工事
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4.工 期
 平成7年度~平成17年度(1995~2005)




(出典:邑知地溝帯農地防災事業事業誌)


icon 4.今日の邑知潟



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干拓地の豊かな農地
(出典:邑知地溝帯農地防災事業事業誌)
 邑知潟周辺の農業は、先人たちの長い努力の積み重ねによって発展してきました。かつての邑知潟には、一面青々とした作物が実り、さわさわと豊かな波音を立てています。
 この一帯は「白鳥の里」として知られていますが、非かんがい期には潟水位を調整して渡り鳥の良好な水辺環境を保つよう配慮しています。また、土地改良区を中心として、関係集落や団体等が一丸となり、地域ぐるみの環境保全活動に取り組む姿が見られます。
 私たちは、快適な生活、安全で安心な食料の確保等を図りながら、先人の造成した農地や施設と潟の豊かな自然環境を守り、環境共生型の地域環境を築き、次世代に引き継いでいく必要があります。


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邑知潟に飛来する白鳥の群れ
(出典:邑知地溝帯農地防災事業事業誌)

(参考文献)
吉崎次場遺跡 県営ほ場整備事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書(石川県立埋蔵文化財センター)
鹿島路町のあゆみ(鹿島路町のあゆみ編集委員会)
石川県土地改良史(石川県農林水産部耕地建設課編集)
羽咋市史(羽咋市史編集委員会)
邑知潟土地改良区ホームページ (http://www.outigata.or.jp/)
国営干拓建設事業邑知潟地区工事図譜(北陸農政局邑知潟干拓建設事業所)
国営土地改良事業調査 邑知地溝帯地区報告書(北陸農政局西北陸土地改良調査管理事務所)
国営邑知地溝帯農地防災事業完工記念冊子(北陸農政局邑知地溝帯農地防災事業建設所)
国営総合農地防災事業「邑知地溝帯」地区事業誌(北陸農政局邑知地溝帯農地防災事業建設所)
国営土地改良事業等事後評価 国営総合農地防災事業「邑知地溝帯地区」評価結果の概要(北陸農政局)