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1.日野川と渡来人の足跡
2.継体天皇の誕生
3.荘園の開発
4.開発の進行と水不足
5.水争いの激化
6.改修への悲願
7.国営日野川用水農業水利事業
8.事業概要

icon 1.日野川と渡来人の足跡



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福井県の地形
図:ジオテック(株)都道府県別 地形・地盤解説の図に加筆修正
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 日本で最も人気があるといわれる米の品種、コシヒカリの発祥の地であり、米どころとして名高い福井県。特に、木の芽峠より北の嶺北地方には、九頭竜川、足羽川、日野川の三本の大河が流れ、肥沃な沖積平野が形成されています。この平野ができたのは、弥生時代のことといわれていますが、そのころ、朝鮮半島を通じて大陸から伝わった稲作の技術は、またたく間にこの地に広がったようです。
 朝鮮半島の東を南へと流れるリマン海流は、南から流れる対馬海流と合流し、山陰や北陸の海岸沿いを北上します。若狭の語源は、朝鮮語のワカソ(行き来)であるともいわれていますが、古代、福井の地では、この海流を利用して朝鮮半島との交流が盛んに行われました。つまり、この地は、農耕をはじめとする大陸の文化を真っ先に取り入れることのできた先進地だったといえます。
 日野川の沿岸には、この時、朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちの足跡が数多く残っています。上流の今庄(いまじょう)町は、渡来した新羅人たちの移住地となっていたようで、周辺には、新羅神社や白髭神社など、新羅の国名に関連する名の神社が多数見られます。いずれも、新羅、加羅系の氏族が祖神をまつったのが始まりのようです。
 「日野川」の名は、日野山のふもとを流れることから付けられたといわれていますが、古代には「叔羅川(しくらがわ・しらきがわ)」、中世には「白鬼女川(しらきじょがわ)」とも呼ばれました。どちらも、新羅との関わりを感じさせる名です。

icon 2.継体天皇の誕生



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足羽山頂に建てられている継体天皇石像
写真提供:国土交通省近畿地方整備局 九頭竜川流域誌より
 日野山では、日野川沿岸に移住した渡来人によってもたらされた技術で、古代、製鉄が行われたといいます。
 日野山のふもとには、「平吹(ひらぶき)」という地名がありますが、これは、この地で行われた、たたら製鉄(※1)からきているといわれています。また、そのすぐ近くには、「鋳物師(いものし)」の地名もあり、金属を溶かし、鋳型に流し込む鋳物師の集団が住んでいたことから付けられたといいます。(※2
 鉄は、農業に革命的な発展をもたらしました。それまでの木製の農具から、鉄製の農具を使うようになり、土を掘る能力は格段に上がります。田の開墾や整地、水路の開削など、かんがい・治水の技術は飛躍的に高まりました。当然、水田の面積も広がり、米の収穫量も爆発的に増加します。鉄が大陸からもたらされる希少なものであったこの時代、製鉄の技術を得ることは、絶大な権力の掌握に繋がったと言っても、過言ではありません。
 それを証明するのが、六世紀の始めに即位したといわれる継体天皇の存在ではないでしょうか。三世紀ごろ畿内に成立した大和政権は、五世紀ごろには、九州から関東地方まで、勢力を伸ばし、日本海側の木ノ芽峠から新潟県の辺りまでは、「越(こし)の国」と呼ばれるようになります。その字の通り、「越(こし)」とは、険峻な山並みを越えて辿り着く地のこと。難所で名高い木ノ芽峠の往来は、それほど困難なものでした。この大和から見て辺境の地であった越の国から、天皇が迎え入れられます。第26代天皇である継体天皇は、越前三国の出身といわれていますが、このことは、当時の越の国(後の越前)の強大な権力を感じさせるのに十分な出来事といっていいでしょう。
 そして、この継体天皇の冨と権力の源泉には、日野川周辺に移り住んだ渡来人集団の技術力が大きく関係していたことは、想像に難くありません。

※1・・・たたら製鉄とは、古代の製鉄法で、足踏みの送風装置(ふいご)で風を送り、炭火の温度を上げ、砂鉄を溶解させて鉄を精錬します。
※2・・・この鍛冶や鋳物の技術は、後世に受け継がれ、武生市特産の包丁、鎌、はさみなどは、「越前打ち刃物」として、全国的にその名を知られています。



icon 3.荘園の開発



 さて、古くから開発の進められた福井の地でしたが、奈良時代に入ると、新たにこの地の豊かさに目をつけるものが現れます。その頃、奈良で大仏造営をはじめとする大事業を行っていた東大寺です。
 大化の改新以後、越の国は、越前・越中・越後に分割され、国司・郡司の支配のもと、条里制区画による土地の整備が行われましたが、公地公民制が崩れると、東大寺系の荘園が、いくつも開発されました。中でも、8世紀中ごろ、足羽川と日野川との合流地付近に営まれた道守荘(ちもりのしょう)は、300町歩にもおよぶ広大な荘園でした。正倉院には、奈良時代に作成された道守荘の詳細な地図が残っていますが、この地図からは、荘園に幾本もの水路が引かれ、水害に備える堤防が築かれていたことがわかります。また、水路が交差する場所には、樋(とい)によって、水を通す工夫がなされていたのも、うかがうことができます。
 平安時代以降、都が奈良から京へと移ると、この広大な東大寺荘園も、次第に廃れていきますが、9世紀以後の越前の地には、それに代わって藤原摂関家の荘園が広がっていきました。以後、源平の争乱や、南北朝の内乱、戦国大名の争いの舞台ともなり、戦乱に巻き込まれることも少なくなかった越前の地ですが、依然として、農地としての優良さは、諸国の注目するところでした。

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鯖江市中野町付近の条理地割(1962年頃の航空写真:国土地理院)
写真提供:国土交通省近畿地方整備局 九頭竜川流域誌より
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足羽郡道守荘開田絵図
写真提供:国土交通省近畿地方整備局 九頭竜川流域誌より

icon 4.開発の進行と水不足



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 江戸時代に入ると、北陸の玄関口として重視された越前の地には、家康の次男である結城秀康が封じられます。同時に、日野川の沿岸、武生盆地のあたりは、その重臣である本多富正が居館を構え、治めることとなります。
 富正は、着任するとただちに、町用水の改修や、戦乱で荒廃した町並みの整備に力を注ぎました。上野用水、関用水、町用水、十一ヶ用水、近年にいたるまで、農地を潤し続けたこれらの用水路は、全て江戸時代の初め、富正の指示によって開削されたものです。富正は、現在の武生の基礎を築いた人物といえます。
 もともとが、豊かな越前の土地のこと、用水や堤防などが整備されていくに連れて、次々と開墾は進んでいきました。しかし、それに伴い、この地には水不足という新たな問題が発生していきます。農地が増加すれば、当然のことながら、必要とされる水の量も増加します。しかし、日野川を流れる水の量は、古代から変わることはありません。農民たちは、少ない水で必要とされる農地をまかなう必要に迫られました。
 この厳しい水不足の状況は、村々の間に厳密な水利慣行を形成します。上流に位置する村は、下流の村に比べ、取水に関して絶対的な優位性を持っています。そのため、下流の村では、上流の機嫌を損ねることのないよう細心の注意が払われました。中元・歳暮・見舞い費に当たる「与内米」、堰の使用料や謝礼などの「ゆ酒」、用水路の使用料である「江敷米」。水が不足していくにつれ、これらの慣行は厳密な決まりとなり、村々の負担も大きくなっていきました。
 しかし、江戸時代も中期以降に入ると、水不足の状況はさらに厳しくなります。水をめぐる対立関係は、時には、裁判や流血沙汰をも引き起こすようになり、顕在化していきます。


icon 5.水争いの激化



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 日野川沿いで最も広いかんがい面積を有する用水に、右岸の松ヶ鼻(まつがはな)用水と鯖江八ヶ用水がありますが、ここでの水不足はより深刻で、頻繁に水争いが繰り返されました。
 松ヶ鼻用水での最も古い水争いの記録は、1611年の干ばつの際のことです。この用水の分水点では、大きな丸太で上流と下流の水配分を調節していましたが、流水量を左右する、この丸太の大きさや位置をめぐって、激しい争論が起こりました。争論は、話し合いでは折り合いがつかないほど紛糾し、とうとう争いを収めるために、上流の村人一人が自決し、人柱となって丸太の代わりに水をせき止めたと伝えられています。
 その後も水争いは続き、1683年、1696年、1713年、1723年、1766年、1818年、1868年には、江戸幕府での裁判沙汰にまで発展しています。なかでも、1723年の裁判では、上流の村で分水に関して勝手な行為があったということで、斬首二人、村追放三人の厳しい処分が下されました。(
 また、鯖江八ヶ用水では、主に新田開発をめぐって争論が繰り返されました。1794年、1799年、1815年、1827年、1850年と大きな争論が起こっていますが、これらは、いずれも取水地近くの新田開発を阻止するためのものでした。日野川沿岸では、すでに持てる水の量のギリギリまで開発が進められており、この上に、新たな開墾地が増えることは、既存の用水地区にとって死活問題でした。そのため、新田開発に対しては、各用水が団結し、強硬な反対運動が起こりました。

 ※・・・ 江戸での裁判には、村代表者の交通費や宿泊費など、莫大な費用が必要であり、また裁決が下されるまでには、多くの年月やわずらわしい手続きが必要となりました。その負担は、貧困にあえぐ村を、さらに圧迫していきます。当然、できる限り、避けたい方法ではありましたが、松ヶ鼻用水の潤す地域は、幕府領・福井藩領・鯖江藩領・小浜藩領とに跨っていたため、藩や代官の手で解決することは容易ではなかったようです。


icon 6.改修への悲願



 明治、大正と時代が変わっても、日野川沿岸の水不足は続きました。先述した松ヶ鼻用水の分水点では、明治2年には、多数の農民が集まり、斧や鍬で丸太を切り落とそうとする騒動が起こり、五十人以上の逮捕者が出ています。さらに、昭和に入ると、日中戦争、太平洋戦争と戦時体制が強化されていく中、食糧増産を目的とした大規模な開墾が、日野川沿岸で行われます。各用水では、それまでの水量を維持することすら難しくなりました。水不足は一層深刻となり、新たな水源対策は、一刻の猶予もない緊急の課題となります。
 松ヶ鼻用水地域では、昭和13年から、上流の下平吹にある淵からの取水が計画されますが、これには、日野山の山並みに二百メートルにも及ぶずい道(トンネル)を掘る難工事が必要でした。逼迫した戦時情勢の中、工事は難航し、ようやく完成したのは、戦後の昭和23年のことでした。しかし、戦時中の乏しい物資で行われた工事であったため、昭和30年には、早くも水路の漏水や堰堤の流出などの問題が発生し、昭和36年から、再び水路や堰堤の改修工事が行われます。
 鯖江八ヶ用水では、昭和24年、土地改良法が施工されると、県営事業が計画され、昭和26年から土地改良事業が着工されますが、必要な水量を確保することは容易なことではありませんでした。日野川からの取水に加えて、揚水ポンプによって湧き水・地下水を取水することで、ようやく、かんがい用水が確保できるのは、昭和40年のことです。
 こうして、戦後の復旧が進む中で、日野川沿岸では、大規模な用水を中心に整備の手がつけられていきますが、水不足や水利施設の老朽化は、日野川全域に渡る問題であり、その抜本的な対策こそが人々の悲願でした。

icon 7.国営日野川用水農業水利事業



 昭和40年代に入ると、これまでの用水不足に加えて、高度経済成長の影響で、新たな問題が発生します。都市化によって上水道水が増加し、また、工業団地の進出が進んだことで、工業用水の需要が急激に高まります。その水源を地下水に求めた鯖江市や福井市では、年間で最大5cmにも及ぶ地盤沈下が起こりました。当然、地下水位も下がり、沿岸の農地では、一層取水が難しくなります。
 以前から日野川全域の用水不足や施設の老朽化といった問題の解決が待ち望まれていたこともあり、日野川では、抜本的な解決策であるダム建設の計画が持ち上がりました。昭和42年、日野川の上流に洪水調節、かんがい用水、工業用水の確保を目的とした多目的ダムである広野ダムの築造が計画され、昭和46年には工事が着工されます。しかし、広野ダム完成後も、福井市を始めとする地域では、人口増加や工業団地の進出がさらに進み、昭和48年には、大規模な干ばつが発生しました。
 このさらなる水需要の増加に対応するため、昭和51年、日野川の支流、桝谷川(ますたにがわ)に、第二のダムである桝谷ダムの築造が計画されます。事業は、昭和56年から、国営日野川用水農業水利事業として着工され、広野ダムの上流から導水を行う二ツ屋導水施設や、老朽化した下流の取水口を合口する八乙女頭首工の築造、主要な幹線水路のパイプライン化の工事も行われました。農業用水、上水道用水、工業用水の確保に加え、洪水調節をも兼ねる桝谷ダムは、農水省施工のダムでは最大級の規模を誇るものです。この事業では、関連事業として、末端水路の整備や用水改良、圃場整備も進められ、大型機械による農作業も可能となりました。
 優良な農地であるがゆえ、早くから開発が進み、水の絶対量の不足という苦難にあえいだ日野川地域は、この事業の完成によって、ようやく水の心配のない豊かな農業地帯へと生まれ変わったといえます。平成18年からは、受益地の末端まで桝谷ダムの水が行き渡り、さらなる発展が期待されています。

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icon 8.事業概要



(1)関係市町の受益面積及び概況
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平成12年度福井作物統計より、農家戸数は2000年世界農林業センサスによる

(2)事業概要
 国営日野川用水農業水利事業のほか、福井県が行う3つの事業を併せた4者による共同事業(日野川流域水資源総合開発事業)として実施しました。
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(3)主要工事
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(4)事業のあゆみ
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