水土の礎 キッズページ サイトマップ ご意見・お問い合せ
水土の歴史年表 地域の礎 水土の成り立ち 大地への刻印 国土を創造した人々 礎の歴史的展開 近代日本の礎 水土の巧
地域の礎
カテゴリトップへ
加賀平野が、これからも北陸の米どころであり続けるために 石川県 ―手取川農業水利事業
北陸エリア
戦後の国営事業




七ヶ用水の父「枝 権兵衛」



取入口の配置と隧道の模式図
取入口の配置と隧道の模式図
 七ヶ用水が生まれるきっかけは、この人、枝権兵衛が行った富樫用水の改修でした。時は江戸末期、そのころの手取扇状地へのかんがいは、それぞれの地域の独立した水利組織が直接手取川に堰を築いて取水していました。上流から富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川の順で、7つの用水がありました。当然上流ほど有利な条件で水を引くことができ、時の権力者(富樫氏)がその権利を持っていました。下流にある用水ほど水不足に悩まされ、水をめぐっての紛争が絶えませんでした。上流の富樫用水でさえも、夏の日照りが続くと水不足となること度々、また大水のたびに堰や、取水口が何度も壊され洪水を引き起こしていました。
 そこで、夏の日照りにも水の豊富な安久濤ヶ淵(あくどがふち)に着目した枝権兵衛は、小山良左衛門と共に現在の白山から岩をくり抜いて300mものトンネルを掘る工事を計画します。悪戦苦闘を続けること5年、農民達のために私財を投じて完成させた掘り割りが、今の七ヶ用水が生まれた背景になっています。
 この権兵衛が成し遂げた大事業は、明治31年に着工した合口事業(7つの用水の取水口を合併する)で、取水口の位置の参考とされました。また権兵衛の掘った穴のひとつは、昭和24年まで予備の取水口として使われていました。


石川県 ―手取川農業水利事業