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1.はじめに
2.新江用水路開削の経緯
3.国営新江農業水利事業
4.付帯県営事業、国営阿賀野川農業水利事業と新江用水路
5.新江地区の今
6.新江農業水利事業の概要

icon 1.はじめに



 福島、栃木県境にそびえる荒海山(あらかいざん)(標高 1,581m)を源とする阿賀野川は会津盆地を潤した後新潟県に入り新潟市北区松浜で日本海に注ぐ我が国有数の大河で流路延長は210km もある。県境から山間を抜けた大河の両岸は今日、我が国有数の穀倉地帯に発展し最下流の新潟市は2007年に日本海側唯一の政令指定都市
(田園型政令市新潟)となった。
しかしこの地は大河左岸の鳥屋野潟、右岸の福島潟に代表される潟湖(ラグーン)が散在する大湿地帯であった。低湿なこの地の変貌は慶長3年(1598 年)に加賀大聖寺から新発田藩へ入封した溝口秀勝以降、歴代藩主が取り組んだ数々の治水、新田開発等の土地改良事業が礎となっている。
ここに紹介する新江地区は阿賀野川の右岸に位置し安田町渡場(現阿賀野市)付近から取水し旧岡方村(現新潟市北区)まで導水する延長37km の用水路でかんがいされる地域でその歴史は亨保年代まで遡る。
当時の阿賀野川は加治川を支流に抱え最下流で信濃川と合流し日本海に注いでいた。

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「国絵図の世界」を元に作成 原図の「正保越後国絵図」は新発田市図書館所蔵

 
新発田藩6代溝口直治時代の紫雲寺潟干拓で加治川から紫雲寺潟へ流れる境川を締め切る。しかし潟にあった遊水機能が無くなると新発田城下が反対。一方、締切で加治川から阿賀野川へ注ぐ水量が増え新潟港に悪影響が及ぶと長岡藩が猛反対する。
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松ヶ崎堀割(新潟市史から)
この為、洪水の増量分のみ日本海へ流す余水吐的な掘割を松ヶ崎に建設する工事が亨保
15年に始まった。
しかし翌16 年、雪解水が一気に流れ込み掘割を破壊し海に出る。これが阿賀野川本流となり信濃川と分離する。これで内水位が4 尺も下がり域内の島見前潟、福島潟等の開発が進んだ。
当時の新潟町は長岡藩領地だった

icon 2.新江用水路開削の経緯



 掘割の本流化で阿賀野川右岸沿い高地の岡方組53か村は阿賀野川の水位が
2m も下がったため取水不能となり新発田藩に新たな用水路の建設を願い出た。これが新江用水路開削の発端でその概略は次のとおり。
1)1733年、 新発田藩は渡場地内の古江を改修し阿賀野川から取水することを企画し幕府に陳情した。
2)しかし幕府領で庄内藩預り地の上流、渡場 村、新保村、久保村、会津新村新田は沢水や雨水利用のため池に頼っており新規用水による恩恵は少なく反対した。
3)岡方地区の農民は困窮し する。1733年新発田藩は岡方組の代表庄屋を数名を連れ江戸へ出府し幕府へ誓願を行った。
4)1733年8月、幕府は検使 役人を派遣し取入口から水路の掘削終点までの測量を実施した。
5)1734年、岡方組53ヶ村は上流域の庄内藩預り地と高田 藩領の農業に一切迷惑を掛けないとの約定を結び同年3月に工事着手し12月に竣工した。
また、水原編年史には次のように記されている。「..........当時の現地測量は測点を見透すために樹木を伐採し障害物を除去し、高低については夜間提灯を上下させて高低位置を定め、或いは身長 5尺の等身者を多数集め眉の高さに白鉢巻きを付して一定間隔に直立せしめ高低差を記録し、その土地の高低差を算出し土の切取、築立工事を施工するなど昼夜無き突貫工事であり.......」と記され数カ所の江堰の設置高、水路勾配等も現代の測量技術と遜色のない工事が行われていたと記されている。
当時は機械があるわけでなく全て人力と鋤などの道具で掘り“もっこ”で土運びをした。岡方組の農民の苦労と新発田藩の人力が実り亨保19年(1734 年)、約10ヶ月かけて新江用水路は完成した。

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享保年代の取水口


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(水準測量)
*画像クリックで拡大
  はちまきをした背高5尺(150cm)の男子を60間(108m)間隔に立たせ、突貫工事のため夜も目の高さに提灯を持たせ、高いところは堀り、低いところは土を盛り高低を測った。


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 堀込み河道方式で全て人力で施工した。約33.6kmの新江用水が約10ヶ月かけて亨保19年に完成918町歩の田に水が引けるようになり新たな村も誕生した。

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新江用水路旧村落
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寺社堰下流部の乱杭堰
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旧新江用水取水路

icon 3.国営新江農業水利事業



3-1.事業実施の経緯
 事業区域は新潟県北蒲原郡の西南部に位置し阿賀野川右岸沿いで上流から安田村、分田村、堀越村、京ヶ瀬村、長浦村、岡方村6 か村(現阿賀野市から新潟市北区に至る地域)を包含する2,113haの細長い地域である。
阿賀野川は山間を抜け平地に出る馬下地点から約12km 間は流心が一定せず所々に寄洲を形成し乱流蛇行し両岸の堤塘荒廃と河状の不規則と相まって出水の都度、人畜に被害を与えていた。
このため内務省は大正4 年から現状打開に乗り出す。最大洪水量8,300m3/sを目途に河口から32kmに及ぶ河川改修工事を実施し昭和8 年に完成した。(この他、阿賀野川へ流込んでいた新井郷川は阿賀野川からの逆流を防ぐ為分離し日本海へ直接流す放水路の建設。また阿賀野川の満願寺地点では信濃川への連絡となる満願寺水門(閘門)も建設され船運の便を図った)
阿賀野川本線の改修により流路短縮、勾配増、通水断面拡大が図られた半面、歴史ある新江用水が取水時期に著しい水位低下を来した。特に昭和10 年代後半から顕著な兆候が見られるようになった。
加えて昭和3年に東蒲原郡鹿瀬村に16,525千m3 の東北電力鹿瀬発電所堰堤が設置され連日7時間、水位差50cmの水量調節が行われた。
また上流からの砂礫供給も減じ洪水時は河床洗堀が一層進み河床低下が進行した。加えて戦後の山林乱伐が著しく進み、この為降雨時による流出率の増大を来たす半面、渇水量が減じ水位低下の原因となった。この為、渇水時における農業用水取水に甚大な影響を及ぼすようになった。
前述のように新江用水路は亨保19年新発田藩により築造され、阿賀野川右岸安田村大字渡場地先から700mの導流堤によって取水されている。用水路内には 8箇所の堰があり番水によりかんがいする状況だった。
また、河床低下により水位も年々低下し取水は全く困難になっていた。また不完全な導流堤による取水のためひとたび洪水となれば導流堤が破堤し土砂の流入で通水が困難となり維持管理費の増大を招いた。

この解消に向け昭和 21 年の農地開発営団、後の新江農業水利事業の発足を見ている。

3-2.新江農業水利事業の概要
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*画像クリックで拡大
 前述の阿賀野川の河床低下と上流水源地帯の森林乱伐により取水時期に著しい水位低下が生じ更に鹿瀬発電所のピーク発電の影響で用水取水に甚大な支障が生じた。 このため新江農業水利事業は昭和21年から農地開発営団事業、22年からは国営かんぱい事業に引き継がれ29年に完了した。 計画の要点は取水の不安定性を取り除くため新取入口を亨保年代に設置した取水地点より700m上流、赤坂山下の河床変動が少ない場所を選び昭和23年に新設したことである。


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新設された取水口

 また、新取入口から旧水路へ連絡するに隧道484.3m、暗渠125m、開渠356.1m (沈砂地含む)計965.4mを新設した。

 また、寺社堰を撤去し寺社堰まで4,723m間の堆積土砂を撤去し旧水路の改修を行い、堰撤去に伴う用水の補償として安田揚水機(1号、2号合わせて238.5ha)を設けた。

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計画平面図

 さらに中間補水として京ヶ瀬村嘉瀬島地先、岡方村灰塚地先に揚水機場を設置し不足しがちな末流部への用水需給に備えた。また、岡方村胡桃山地先には排水機場を設置して排水の万全を期した。

icon 4.付帯県営事業、国営阿賀野川農業水利事業と新江用水路



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小松隧道の建設
 昭和29年に国営新江農業水利事業が完了するも寺社堰以降は付帯県営新江用水改良事業として引き継がれ末端までの45kmの水路を昭和40年までに完成させた。 また昭和24年以降利用された赤坂山の国営新設取水口はその後の阿賀野川の水位変動による取水障害と区画整理事業の進捗による需要量増に対する用水不足から抜本的な対策が望まれていた。 その後、昭和39年から阿賀野川左岸の新津市、五泉市を含めた約16,800haの用水改良を目的とした国営阿賀野川用水事業が発足し基幹施設の阿賀野川頭首工が着手された。
 新江用水受益者はこの頭首工からの安定取水を望み右岸取水の小松隧道を流下し開渠となる六野瀬分水工から連絡水路を経由し新江用水の上流部に接続、通水が開始された。

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阿賀野川頭首工掛かりになった新江用水

 また阿賀野川頭首工の完成により赤坂山の新江用水路取水口とその上流小松の南耕用水取水口は統合された。なお新設頭首工からの取水で不用となった南耕用水、新江用水の隧道は阿賀野川用水事業で閉塞したが昭和55年頃から途中で陥没が生じ危険なので平成17年から23年にかけて団体営(広域農業用水適正管理対策)事業で閉塞した。 新江用水は昭和39年発生の新潟地震やその後の41年42年の羽越、下越水害でブロックや石積水路が崩壊、漏水を繰り返したので国営阿賀野川事業に編入し小松隧道から取水後の六野瀬分水工で南耕用水は右岸幹線用水路へ新江は連絡水路を通って下流へ引き継がれている。また約27km間をコンクリート三面張り水路に改修し今日に至っている。

※農地開発営団事業
 1941年(昭和16年)主要食糧等自給強化10ヶ年計画が樹立され、この食糧需給強化のため農地の造成を担当する国家代行機関として設立され1947年(昭和22年)に閉鎖された。 なお、閉鎖後は事業が農林省に引き継がれ「国営事業」として実施された。

【阿賀野川右岸地区放水路の歴史】
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【阿賀野川右岸地区土地改良事業の歴史】
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設置場所 旧豊栄市、岡方第1小学校校庭
(新江用水路と竣工記念碑は新潟市民文化遺産認定)
 新江は生きたり現代技術の粋を誇る頭首工漏洩皆無と用水路の理を究めし護岸の歴史を秘めたる各堰の徹底的な近代化此の完成により終着胡桃山までその水量水速水温は生物育成に聊の憂いなし国営より付帯県営工事に移行してここに十年大事業全く成る抑々に新江用水は亨保十九年完工日本一の称ある大工事にして松ヶ崎切通しによる阿賀野川右岸の用水不足の窮状をみて新発田藩が岡方組五十三ヶ村に命じ他方公領支配の幕府に願い精緻なる設計と莫大なる労力資材を投じて施工せしをその発端とす地域六十七ケ村なり爾来二百数十年旧安田村分田村堀越村京ヶ瀬村長浦村岡方村六ヶ村の動脈として田三千余町歩に拡大せる開拓地を潤し来たれり然るに内務省の阿賀改修は河床低下をきたし再び取り入れ困難となり昭和十六年新江は国営として世紀の大改修に決す戦後の二十二年に再度着工二十九年春県営に引き継がる即ち県営新江用水路改修事業の目的は旧寺社堰より下流四四九四米の地域に灌漑用水を確保して編く天賦の恩恵を均衡せしむるにあり途中窪川原堰と東股西股線の水量配分等総べて順調なりしかし農林財政縮減の命題にて末流工事打止めの悲運に遭遇すために大久保地点より下流の用排水事情は幕政以来の悪条件の宿命を脱し得ずさればこれが復活には役職員総代の筆舌に絶する根気と苦闘を要せしものにして悲願成就宏業達成に願晴を点じ得たるを喜ぶ総工費三億四千三百万円特殊排水工費一千三百万円也洪業なりて夢多し待望の年間送水は生産の活気的な高度化と消防活動に新産都市広域工業地帯への貢献期して侯つべきものなり親々の遠き親々も知らざりしこの歓び を石に刻して永代に伝う
昭和四十年十月
北蒲原郡新江土地改良区

icon 5.新江地区の今



5-1.管理団体の推移
 亨保19年の新発田藩の治水開田で建設した新江用水の管理者である新江水利組合は昭和24年の土地改良法制定に伴い組織変更し北蒲原郡新江土地改良区になった。 また昭和45年に岡方土地改良区、翌46年に安田土地改良区を吸収合併、さらに昭和54年に京ヶ瀬土地改良区と合併した。

 また、北蒲原南部土地改良区は大正12年に設立された北蒲原郡南部耕地整理組合を前進として昭和27年に北蒲原郡南部土地改良区となり平成10年には賀慶土地改良区を吸収した。 現在、新江用水は平成15年2月に新江土地改良区と北蒲原郡南部土地改良区が合併し設立した「阿賀野川土地改良区」が管理している。

 また、北蒲原南部土地改良区は大正12年に設立された北蒲原郡南部耕地整理組合を前進として昭和27年に北蒲原郡南部土地改良区となり平成10年には賀慶土地改良区を吸収した。 現在、新江用水は平成15年2月に新江土地改良区と北蒲原郡南部土地改良区が合併し設立した「阿賀野川土地改良区」が管理している。

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5-2.新江用水路の桜
 昭和55年、安田町(現阿賀野市)の町制20周年を祝い、新江用水路の道路沿渡場地点から小舟地点間、約4.6kmに500本のソメイヨシノが町民の手で植えられた。 毎年、4月中旬には桜祭りが開かれコンサートやうんめもん(美味しいもの)市で賑わっている。

icon 6.国営土地改良事業の沿革と経緯



6-1.事業年度・事業費

 昭和22年度から昭和29年度
 事業費183,000千円

6-2.受益地及び面積右岸

安田村   118.8ha
分田村   277.4ha
堀越村    41.4ha
京ヶ瀬村 743.9ha
長浦村   193.2ha
岡方村   738.3ha
計       2,113ha

メモ 表示は旧町村名である。

6-3.施設主要工事の内訳
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参考文献 φ 800 × 1 台 軸流 Q=1.375m3/s
・新江農業水利事業実施計画書・出来 金沢農地事務局高成績書
・阿賀野川用水農業水利事業誌 北陸農政局
・阿賀野川右岸農業水利事業誌 北陸農政局
・私たちの阿賀野市(副読本) 阿賀野市小学校長会
・水原町編年史(第一巻) 水原町史編纂委員会
・新発田郷土史第 42 号 新発田市史編纂委員会
・安田町史近世編一 安田町史編纂委員会
・新潟県ホームページ
・新潟市ホームページ
・資料提供・協力 阿賀野川右岸連合土地改良区