水土の礎 キッズページ サイトマップ ご意見・お問い合せ
水土の歴史年表 地域の礎 水土の成り立ち 大地への刻印 国土を創造した人々 礎の歴史的展開 近代日本の礎 水土の巧
地域の礎
カテゴリトップへ
泥田地帯から有数の穀倉地帯へ劇的な変貌を遂げた射水平野 富山県 -射水平野農業水利事業-
北陸エリア
戦後の国営事業




洪水と戦いながら新田の開発を行った江戸時代



射水郡倉垣組堀岡又新領附文化13年放生津新開領内検地領絵図
文政12年10月 
射水郡倉垣組堀岡又新領附文化13年放生津新開領内検地領絵図

図-2
 越中の国の守護所が置かれたのは、放生津潟(現富山港入り江)とされています。放生津潟は自然の環壕である奈呉の浦(富山湾)と、背後の水郷地帯に挟まれた水運の便利な要塞のような地でもありました。
 この地域の人々は、近世初期から個人による干拓(泥を積み「うね田」とよばれる)を造って新田開発を行ってきました。潟付近の新田開発には潟の底にたまった泥を舟(タズル)に積み埋め立てる方法(客土)がとられていました。この泥は肥料にもなり客土の土としては有効でしたが、海底深くもぐっての泥取りは、過労から死ぬ人が相次いだというほどの過酷なものでした。しかし、ここは洪水常習地帯、度々の洪水で田畑は流出、また一から「うね田」にしては、潮除け堤防をつくり新田を開発する。造っては流され、造っては流されながらの新田開発の歴史でした。
 こうして努力の結果造られた農地に排水のため川を掘ることも続けられました。宝暦8年(1753年)に片口村から久々湊まで5間巾の川を、また片口から野村津幡江にかけて3間巾の川が掘られたとあります。 [片岡文書] 
 さらに、新田開発は土木技術の進歩から、潟中に大きな囲いの堤防(締切堤防)を造りそれをいくつにも仕切り、それぞれに水門をつけて開拓していったことが文政12年(1829年)の古地図に印されています。[図-2]


富山県 ―射水平野農業水利事業