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1.山地からの激流
2.暴れ川 鬼怒川
3.江戸に始まる開発
4.続く洪水被害
5.ダム開発と近代化
6.国営鬼怒中央農業水利事業
7.事業概要

icon 1.山地からの激流



 栃木県は、関東平野の北部と東北地方からの山並みが交わる地にあり、ちょうど県の東西を挟むように、山地が発達しています。とりわけ険しいのが、西部一帯の山岳地帯である奥羽山脈。二千メートル級の山々が屏風のように連なり、那須岳(なすだけ)、高原山(たかはらやま)、男体山(なんたいさん)などの火山群も発達しています。
 この険峻な山並みからは、鬼怒川(きぬがわ)、那珂川(なかがわ)、箒川(ほうきがわ)、荒川(あらかわ)、思川(おもいがわ)など、幾本もの河川が流れ出、中央には北から南に緩やかに傾斜する平野が形成されています。
 県の中央を縦断する鬼怒川は、群馬県との境に発する一級河川で、二千メートルもの大山脈から急傾斜で流れ出る激流のため、上流部は高い渓谷となっています。中流部からは扇状地を形成しますが、周囲には丘陵地や台地など複雑な地形が錯綜しており、川沿いの平野は針のように細長く延びています。
 鬼怒川の周りの丘陵地には、縄文時代以前の遺跡も残っており、数十万年の昔から、この辺りで人々が生活していたことがわかっています。弥生時代に入ると、この人々は農耕の広まりとともに、低地の湿地帯へと生活の場を移していきますが、河道が安定せず、洪水の多い鬼怒川沿岸は、長く、生活ができるような場所ではなかったようです。弥生時代の遺跡の多くは、鬼怒川沿岸ではなく、宇都宮の中心部や渡良瀬川流域に集中しています。

icon 2.暴れ川 鬼怒川



 4世紀の末ころ、この地方に力を伸ばした大和朝廷によって、栃木・群馬の県域には「毛野国(けぬくに)」と呼ばれる国が成立します。古代、鬼怒川は「毛野河(けぬかわ)」と呼ばれており、「毛野国」の国名は毛野河、つまり鬼怒川の流れからきたようです。
 この「毛野(けぬ)」の語源には諸説ありますが、その一つに「崩野(くえの)」が転じたものとする説があり、頻繁に洪水を起こす鬼怒川の姿を表したものと考えられます。「けぬ」という音は、次第に「きぬ」へと転化し、明治時代に「鬼怒(きぬ)」の漢字が当てられますが、これも、測量に入った役人が「鬼が怒ったような」激しい流れに、この字を当てたとの話が残っています。名前からも、鬼怒川が古代から一貫して、容易には治められぬ暴れ川として恐れられてきたことがわかります。(※1
 毛野国は5世紀に入り、渡良瀬川を国境として、「上毛野(かみつけぬ)」(現在の群馬県)と「下毛野(しもつけぬ)」(現在の栃木県)に分割され、大化の改新以後はそれぞれ「上野(かみつけ)」「下野(しもつけ)」と呼ばれるようになります。(※2)以後、上野の地は、渡良瀬川の恵みもあり、古代、中世を通して開墾が進みました。しかし、下野、特に鬼怒川沿岸で大規模な開墾がなされたという記録はありません。山地から急勾配で下りてくる激流と広い川幅を持つ鬼怒川に堰を作り、水を引くことは容易なことではありませんでした。

※1・・・ このような氾濫河川に由来した地名は、栃木県には多く、鬼怒川の東を南流する小貝川も「壊(こか)」「井(い)」という、洪水被害の多い、決壊河川の意味を持つといわれています。また、栃木市内を流れる「巴波川(うずまかわ)」も、かつては水害が多く、河川の氾濫する様を示す「渦(うず)」と場所の意味の「間(ま)」から名付けられたようです。
現在、県名となっている「栃木」という地名も、接頭語である「ト」と「千切る」の「チギ」からできた地名で、洪水や河川氾濫によって、土地の崩壊がよく起きる、この地の特徴を示したものという説があります。
※2・・・ 「上野(かみつけ)」は、後に音便で「こうずけ」と呼ばれるようになります。

icon 3.江戸に始まる開発



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鬼怒川沿岸に開削されていく諸用水
 鬼怒川の開発が進むのは、徳川家康が江戸に幕府を開いて以降のことです。長い戦乱の時代に区切りがつき、関東の地が安定を見せ始めたこの時代、戦国時代に土木技術が発展したこともあり、各地で大河川の治水・利水事業が本格化しました。鬼怒川沿岸の場合、家康が没した後、その祖廟が日光山に建立され、登山口にあたる宇都宮藩が重視されたことも影響しました。日光東照宮の造営や宇都宮城内外の整備、領内の検地とともに、鬼怒川から水を引く用水路の開削が行われ始めます。
 宇都宮藩によって、西鬼怒川筋に初めての本格的な用水路、逆木用水が開削されたのを始めとし、上流左岸には市の堀用水、草川用水、釜ヶ淵用水、右岸には根川用水、下流には勝瓜用水など、多くの用水路が引かれていきます。こうして、用水路が増えるにつれ、鬼怒川では上流下流、右岸左岸の間に、堰の管理や取水量の調整などをめぐって、複雑な利害関係が形成されていきました。水争いが起こることも多く、それを避けるための様々な取り決めが作られていきます。時間を決めて、交代で取水を行う番水制が定められ、上流、下流での取水量も決められました。
 江戸期に開削されたこれらの水路は、幾度もの改修を繰り返しながら、昭和に至るまで、使い続けられますが、同時にこれらの水利慣行も順守されていくことになります。


icon 4.続く洪水被害



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牛枠(うしわく)と蛇籠(じゃかご)の図
国土交通省 北海道開発局 帯広開発建設部
 用水路も引かれ、ようやく開発が進められた鬼怒川沿岸ですが、鬼怒川の激しい流れを制御するのは、依然として困難なことでした。
 開発された堰や用水路は、牛枠(うしわく)や蛇籠(じゃかご)()で水をせき止め、素掘りの導水路で引水するというもので、鬼怒川の激流に耐えるものでは、到底ありません。そのため、人々は、頻繁に起こる増水のたび、堰や水路の修復作業に追われました。鬼怒川の水害については、江戸中期からしか明らかではありませんが、それでも十年に一度は大規模な氾濫が起き、堤防や堰の決壊による甚大な被害が記録されています。当然、このような堰や水路では、取水量も安定せず、干ばつ被害に遭うこともしばしばでした。
 しかし、明治、大正と時代が変わっても、この堰や水路は破損と補修を繰り返しながらも使い続けられます。老朽化した堰を改修し、洪水や増水に耐え、安定的に水を引くことのできる水利施設を築くことは、この地の人々にとって、悲願ともいえるものでしたが、堰の抜本的な改修には、なによりも、まず洪水対策が必要でした。
 また、この地には、江戸時代から形成されてきた水利慣行の問題もありました。仮に、上流部で洪水に耐える丈夫な堰を作り、取水量を増加させることができたとしても、その影響で下流部で、それまでの水量が確保できなくなるとすれば、当然のことながら大きな反対が起こります。
 鬼怒川の水利施設の近代化には、抜本的な洪水対策と江戸時代からの水利慣行の調整という大きな課題が立ちはだかっていました。


※・・・ 牛枠(うしわく)とは、川の流れをコントロールする水制(すいせい)の一種で、水の勢いをやわらげて河岸が削られるのを防ぐとともに、流れを川の中央部に導き、河道を安定させるために設けられました。太い丸太を組みあわせた構造で、三角錐や四角錐の形をしています。激流に流されないよう、足元には重しとなる石を詰めた蛇籠(じゃかご)を載せて、川のなかに設置されました。

icon 5.ダム開発と近代化



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 鬼怒川で水利施設の抜本的な改修が可能となるのは、昭和31年、上流に五十里(いかり)ダムを始めとした多目的ダム群が建設され、治水対策が確立されてからのことです。
 鬼怒川におけるダムの建設は、大正の初めから幾度も計画された悲願でしたが、いずれも、地質上の問題や戦争の開始などの状況によって、断念せざるをえませんでした。五十里(いかり)ダムの完成は、長い間、頻発する鬼怒川の洪水被害を被ってきた住民にとって、何よりも待ち望んだものでした。さらに、昭和41年には、西側に川俣ダムも完成し、この二つのダムによって、河道が安定し、水源も確保された鬼怒川は、近代化に向けて大きく動き出します。近代的な堰堤を設け、老朽化した取水堰を一箇所に統合する合口事業が、ここにきてようやく可能となったのです。
 まず、計画されたのが、扇頂部に位置していて、最も洪水被害が多く、面積規模も大きい鬼怒川上流部です。昭和32年、逆木用水や市の堀用水などの旧9用水を佐貫頭首工に合口する「国営鬼怒川中部農業水利事業」が着手されました。
 しかし、先述した通り、鬼怒川には江戸時代から続く水利慣行がありました。下流の茨城県内の用水からは、今後、これまでの取水量が確保できなくなるのではないかという強い不安の声が上がります。水利用の限度を定め、下流の権利を守るという上流側の説得が受け入れられるまでには、7年もの歳月を要しました。


icon 6.国営鬼怒中央農業水利事業



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旧取水堰(石井川用水取水堰)
 昭和41年、上流部の事業が完了し、続いて、昭和40年からは下流部の勝瓜用水、大井口用水など7用水が勝瓜頭首工に合口する「国営鬼怒川南部農業水利事業」が着工されます。昭和50年、下流部での事業が完了を迎えると、残すは、ちょうどその中央にあたる中流部のみとなりました。
 昭和43年、これまでの五十里ダムと川俣ダムに加え、上流部に新たに、川治ダム建設が着工され、取り残されていた中流部でも、老朽化した8井堰を合口し、近代的な岡本頭首工を建設する「国営鬼怒中央農業水利事業」の計画が動き出します。清原、芳賀、高根沢地域に大規模な工業団地の進出が著しく進んでいたことから、事業は、上水・工業用水の共同取水もあわせて計画されました。

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旧取水堰(石井川用水取水堰)
 昭和53年、念願の事業が着工しますが、その年の内に、またもや、下流部から強い反対陳情が出されます。それほど、江戸時代から積み重ねられてきた水利慣行の不文律は重く、近代化によるものとはいえ、容易には動かすことのできないものでした。岡本頭首工での取水は既得の用水を合口するものであり、取水量は従来と変わらないこと、また、その全水量は川治ダムで確保されていること。この中流部の必死の説得によって、下流部の理解が得られたのは、二年後の昭和55年のことでした。技術の進歩と下流部の協力、この両方がそろうことで、ようやく鬼怒川の近代化という大事業は実現されたのです。
 昭和62年からは、完成した岡本頭首工からの取水が開始され、現在では東京からわずか一時間という有利な立地条件を生かして、鬼怒川沿岸の農業は発展を続けています。


icon 7.事業概要



(1)事業別面積
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(2)事業の歩み
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栃木県 ―鬼怒中央農業水利事業