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1.上毛の地、群馬
2.渡良瀬川と坂東武者
3.水利体系の確立
4.足尾銅山による繁栄
5.足尾銅山鉱毒事件
6.田中正造の闘い
7.水利施設の限界
8.渡良瀬川農業水利事業
9.事業概要

icon 1.上毛の地、群馬



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 「上毛の地」と言い表される群馬県。特に当事業の受益地である渡良瀬川流域は、その位置から、「東毛」や「両毛」と呼ばれてきました。
 この「毛」という字の語源は、諸説ありますが、その中の一つに、「毛は木が転化したもの」という説があります。もともと木という字は、草木の木―――転じて「穀物を実らせる植物の総称」という意味があります。毛の国とは、“豊かな穀物が生産される土地”ということもできるのではないでしょうか。
 東毛地域は晴れの日が多く、日照時間の長さでは指折りの地域です。年間平均降水量は、1200mm~1300mmと決して多くありませんが、少ない雨を補うほど広い流域※1を持つ渡良瀬川があるため、水も豊富です。また、この渡良瀬川が運ぶ肥沃な土砂は、上流部に広大な扇状地※2を形成してきました。
 気候、地形ともに好条件を備えていた東毛では、古くから豊かな農が営まれてきました。古代、この地に東日本最大の天神山古墳(太田市)が築かれたのも、生産性の高さを背景に、大和朝廷の東国の要衝として機能していたためでしょう。

※1・・・ 流域面積2620km2
※2・・・ 1万年前、渡良瀬川は、大間々から南に流れて東京湾に注いでいたといわれています。右上図の点線が古代渡良瀬川の流路ですが、大間々を頂点に広大な扇状地が形成されているのがわかります

icon 2.渡良瀬川と坂東武者



 東毛地域の大規模な開墾は、中央の貴族や豪族が進出してきた平安末期に始まります。荘園開発がピークを迎えたこの時代、中央の荘園領主は、新たに開墾する土地を求め、地方に目を向け始めました。関東平野の中でも、水利条件や平野に恵まれていた東毛地域は、彼らにとって格好の的だったのでしょう。中央からきた荘園領主、在地の豪族らは、競うようにこの地の荘園開発を進めていきます。
 こうした荘園開発により力をつけたのが、新田氏や足利氏といった、後に坂東武士ともよばれた豪族でした。特に新田氏の治めた新田荘は、極めて古くから開発され、平安末期には大規模な荘園を形成し、大きな勢力を持っていたといいます。
 都からの距離が遠いので、その支配が及ばなかったことや、都とつながりを持っていても大きな恩恵は得られなかったことなどから、この地の荘園領主は次第に自立していくようになります。領主は開墾した土地を自ら守るために武装し、独自の支配体制を強めていきます。これがいわゆる坂東武士の起こりです()。
 朝廷と奥州(今の東北)の間でしばしば起こった争いに、兵士として参加した坂東武士は、合戦の中で自然と鍛えられていったのでしょう。頼朝の奥州征討(1189)、承久の乱(1221)六波羅探題攻め(1333)と、歴史の節目とも言える大きな戦には、坂東武士の活躍がありました。そして、後に、「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになります。
 こうした勇猛な武士を育てたのも、豊かな土壌と渡良瀬川の恵みがあったからこそといえるのではないでしょうか。

※・・・ 武士の発生は全国的にほぼ同時期といわれ、その起源については諸説あります。

icon 3.水利体系の確立



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 東毛地域は、近世以降の大規模な水利施設の開発によって、更なる発展を遂げることになります。
 1570年、大谷休泊(※1)によって、現在の太田市と足利市の境に、矢場堰と休泊堀が造られました。その規模は当時としてはかなり大きく、水路延長は約40km。灌漑面積1000haにも及んだといわれています。
 また、この堰は絶妙な位置にありました。今の時代に堰や用水を造る計画をしたとしても、その場所は矢場堰・休泊堀と全く同じ位置になるといい、当時の計画の綿密さや技術の高さをうかがい知ることができます。
 記録にはあまり残されていませんが、同じ頃、矢場堰と休泊堀の近くに待堰・新田堀が造られたと伝えられています(※2)。
 2つの堰は、合わせて待矢場両堰と呼ばれ、江戸時代に一帯が天領となった後は、幕府直営の用水として管理されました。
 江戸時代初期(1672年頃)には、上流部の扇状地一帯に水を引くため、大間々のあたりに大規模な用水路「岡登用水」が掘削されます。岡登用水は、農業用水としてだけではなく、東山道の宿場町の宿用水としても使われ、地域の発展に大きく貢献しました。
 こうして、この地域の水利体系は江戸時代までに確立し、渡良瀬川農業水利事業によってその見直しがなされるまでの数百年間、この地域を潤しつづけることとなります。
※1・・・ 上杉憲政の家臣だった大谷休泊(おおやきゅうはく)は、主を失った後、農民のために尽くすことを決意。以後、様々な業績を今に残しています。
※2・・・ 新田堀は1500年代よりはるか昔に造られたとする説もあります。

icon 4.足尾銅山による繁栄



明治17年の足尾銅山の様子
明治17年の足尾銅山の様子
 ところでこの地域には、江戸時代以降、農業に劣らず地域の繁栄に貢献した産業があります。日本の公害問題の原点ともいわれる足尾銅山です。
 1610年に発見された足尾銅山は、以後、幕府直轄の銅山として運営されることとなりました。開山当初の生産量は300トンほどでしたが、1668年以降は、一時1500トンにまで増加しています(※1)。産出された銅は、徳川幕府の財政を支え、日光東照宮や江戸城の建設時にも使われました。足尾の町は、足尾千軒と表されるほどの発展を遂げます。
幕末から明治初期にかけて、一時銅山は衰退しますが、明治4年に民営化がなされ、古河市兵衛は経営に名乗りを挙げたことで持ち直します。
 古河市兵衛が経営を始めてから4年で、大鉱脈を掘り当てることに成功。産出量は経営着手当初の何十倍にも膨れ上がります(明治17年:2286トン)。その後も成長を続け、大正期以降には1 万トンを越える産出量にまで増大しました。工夫(こうふ)などが全国各地から集まり、足尾の町の人口は一時、栃木県で2位にまで膨れ上がります。また、生産量にいたっては、東アジアトップにまで上り詰めました。
 だれもが心から喜んだ、足尾銅山による地域の繁栄。しかし、この急激な発展の影で、この土地は考えもしなかった大きな問題を抱えることになります。

※1・・・ 前述した岡登用水を開削した岡上景能が足尾代官に任命され、銅山経営にも手腕を発揮したことによります。

icon 5.足尾銅山鉱毒事件



 日本初の公害問題―――足尾銅山鉱毒事件。問題の発端は、銅の精製時に発生する亜硫酸ガスや鉱毒(銅イオンなど)の流出にありました。
 まず、被害が発覚したのが、1885年におこった鮎大量死。その後、上流部の木が枯れ始めるなど、その被害は拡大の一途をたどります。そして、ついに被害は水田へと及び、渡良瀬川から取水していた上流部1200haの田畑が、鉱毒の影響で数年間収穫不能に陥ってしまうという事態に見舞われてしまいました。
 それだけではありません。上流部の山林の崩壊によって、山に降った雨は地面に染み込まずに川へと流れ出てしまうようになります。さらに、荒廃した山の土砂は、雨によって下流部へ流されて体積し、現在の足利市あたりに大規模な天井川を形成しました。
 この条件下にひとたび大雨が降ると・・・天井川は氾濫し、広範囲に渡って田畑は水没。しかも、上流部から流されてくる水や土砂には鉱毒が・・・。壮絶を極めた洪水・鉱毒の被害に、地域の農民は長い間苦しめられました。下流部の邑楽地域では、明治から昭和30年頃までの約90年間の間に、35回もの洪水被害に見舞われたと記録にあります。中でも、明治23年、同29年に3度起こった大洪水では、各地に大きな被害を引き起こしました。
 頻繁におこった洪水は、いわば自然の猛威にさらされる最前線の施設ともいえる、待矢場両堰や岡登用水(※1)など、先人達の築き上げてきた水利遺産にも大きなダメージを与えます。洪水の度に、堰や水路が破壊されてしまい、その都度多額の費用をかけてでも修復を迫られる―――農民達には修復工事の負担金が重くのしかかりました。

※1・・・ 岡登用水では、洪水による破損や、河床の激しい変化のために、取水口は幾度となく変更を余儀なくされています。 取り入れ口の付け替えごとに、下流で水を使う人々の了解を得なければならないなど、苦労は絶えませんでした。

icon 6.田中正造の闘い



 度重なる洪水の被害、田畑に流入する鉱毒・・・。農民の苦悩は極限にまで達します。
こうした姿を見かねて立ち上がったのが、映画「襤褸の旗(らんるのはた)」や「赤貧洗うがごとき」でも知られる、田中正造です。
 当時国会議員だった田中は、1891年と1896年(大洪水の年)の衆議院議会で鉱毒問題を取り上げ、鉱毒被害の実情を訴えています。さらには、各地で演説も行うなど、精力的に鉱毒反対運動を展開していきます。
 田中は、1902年に議員を辞職した後、天皇へ直訴を試みています。当時、天皇に直訴するということは、死罪に問われる可能性もあるほどの行為でした。田中は、直訴の日、妻宛てに遺書を残していたといいますから、その覚悟のほどがうかがえます。結局、天皇直訴は失敗に終わってしまいますが(※1)、田中のこの命をかけた行動は、農民の心を強くうちました。
 こうして盛り上がりをみせた農民の反対運動は、ついに政府を動かし、鉱毒予防令や鉱毒被害農民への免税措置を発令させるに至ります(※2)。また、1910年から17年間にわたって、渡良瀬川遊水池の造成や河川の改修工事など、抜本的な治水対策が施されました(※3)。
 田中は死ぬ間際まで反対運動を続け、運動資金を集めるための旅先でなくなっています。自らの財産は全て使い果たし、死ぬ間際に残っていたのは、わずかな食糧と数冊の本のみ。生涯のほとんどを農民へとささげた田中は、多くの農民に愛され、葬儀には数万人もの参列者が訪れたといいます。

※1・・・ この時田中は、天皇に直訴しようとして取り押さえられ、警察署で取り調べを受けていますが、即日釈放されています。
※2・・・ 政府は、1993年の環境白書で、当時の対策は不十分であり、根本的な解決にはなっていなかったことを認めています。群馬県側では、その後も鉱毒被害が続きました。
※3・・・ 田中の運動がきっかけとなって行われたこれらの治水対策は、洪水被害は解決しましたが、鉱毒問題への抜本的な対策ではありませんでした。鉱毒の根絶を最大の目的としていた田中は、政府のこの措置に「論点をずらすものだ」と猛反発しています。また、この遊水池の造成地となった谷中村は、反対運動の活動拠点であったため、田中は「これは活動をつぶすための陰謀だ」ともいっています。

icon 7.水利施設の限界



 田中の熱い思いと農民の反対運動により、鉱毒被害は次第に弱まり、洪水の被害も減少。各所で豊作がみられるようになりました。しかし、すべてが解決したわけではありません。大正、昭和となってからも、荒廃した山々からの土砂の流出はその後も続きます。下流部では依然として河床変動が激しく、各地で取水もままならない状態となり、不安定な水利状況のもとでの農業を余儀なくされました。
 また、度重なる洪水の被害は、施設老朽化の進行を早めたのでしょう。中には著しい老朽化から、その機能を果たせなくなった施設も出始め、ついには、各所で干ばつの被害が起こるなど、事態は深刻化していきました。
 農民の間では、安定した水を供給できるようにと、施設の近代化を望む声が高まります。

icon 8.渡良瀬川農業水利事業



 地元関係者は、渡良瀬川沿岸農業水利改善促進協議会を設立し、関係機関に請願陳情を行います。地元関係者の長年にわたる願いを込めた嘆願は受け入れられ、昭和41年から昭和44年農林省直轄調査が開始。翌年には農林省全体実施設計が実施されます。昭和46年10月、群馬県太田市に国営渡良瀬川沿岸農業水利事業所が開設され、ついに、念願の国営事業がスタートしました。
 国営渡良瀬川沿岸農業水利事業では、3つの頭首工が新設されました。新しい頭首工は近代的工法で作られ、それまでに比べ格段に耐久性があがり、また、水利調節や維持管理もそれまでとくらべはるかに容易となりました。
 上流部の扇状地のほぼ頂点には、それまであった岡登用水の新たな取水口として、大間々頭首工が造られました。また、中流域では、待矢場両堰と三栗谷堰の3つの堰を、待堰のあった場所に統合し、新たに太田頭首工として生まれ変わっています。そして、下流地域で度々洪水の被害で安定した農業が行えなかった、邑楽地区にも、新たに邑楽頭首工が新設され、下流にも安定した水が行き渡るようになりました。また、本事業では、同時に51kmにも及ぶ幹線水路が新設、改修されています。先人達の築き上げた水利資産と近代的施設の融合により、それまでの苦悩の歴史は幕を閉じ、渡良瀬川右岸に展開する広大な農地に安定した水が行き渡るようになりました。

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icon 9.事業概要



(1)3頭首工の新設
大間々頭首工 ・・・ 灌漑面積  :1180ha
太田頭首工 ・・・ 灌漑面積  :6640ha
邑楽頭首工 ・・・ 灌漑面積  :1800ha
総受益面積:9620ha

(2)受益地
◎市町村合併前:4市6町1村
  桐生市・太田市・足利市(栃木県)・館林市
  藪塚本町・新田町・大泉町・邑楽町・千代田町・板倉町・笠懸村
◎市町村合併後(平成18年3月27日現在):5市4町
  みどり市(笠懸村が合併)・桐生市・太田市・足利市(栃木県)・館林市
  大泉町・邑楽町・千代田町・板倉町

(3)水路の新設及び改修
計51km

(4)費用総額
192億円

(5)事業年表
昭和39年: 渡良瀬川沿岸農業水利改善促進協議会を設立し、国や県に陳情。
昭和41年: 農林省直轄調査を開始
昭和45年: 農林省全体実施設計を実施
昭和46年: 10月に国営渡良瀬川沿岸農業水利事業として、工事着工
昭和49年: 邑楽頭首工工事着工
昭和51年: 邑楽頭首工工事完了 太田頭首工工事着工
昭和53年: 大間々頭首工工事着工
昭和54年: 太田頭首工工事完了
昭和56年: 大間々頭首工工事完了
昭和59年: 工事完了



群馬県 ―渡良瀬川沿岸農業水利事業