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1.まえがき
2.事業のあらまし
3.地勢及び気候
4.地域の動向及び農業
5.事業地区の土地改良の歴史
6.事業の沿革
7.当事業により設置された主要施設
8.櫛挽ヶ原の農と歴史
9.六堰頭首工に纏わる農と荒川の歴史
10.当事業完了後の国営土地改良事業(後継事業)の概要

1. まえがき



 昭和34年から41年にかけて実施された荒川中部農業水利事業は熊谷市を中心とした「大里地区4,774ha」と深谷市を中心とした「櫛引地区3,829ha」を合わせた8,603haの受益地を対象とした国営事業(図-1)となります。国営事業実施の流れで行くと、「現行実施中の荒川中部=櫛引地区」「旧荒川中部=大里地区+櫛引地区」となります。
 この2地区はその後の周辺状況の変化や土地改良施設の経年劣化等により、大里地区は国営総合農地防災事業(H6~18)として土地改良事業が実施され、櫛引地区は現行の国営かんがい排水事業「荒川中部農業水利事業」(H26~)として実施されています。

図-1:当事業の受益図 (出典:関東農政局HP)

用語の補足説明
  • 「当事業」とは、昭和34年から41年に実施された荒川中部農業水利事業を指します。
  • 「関係市町村」とは当事業の受益地を含む旧市町村を指し、現熊谷市(旧熊谷市、旧大里町、旧江南町)、現行田市(旧行田市、旧南川原村)、現鴻巣市(旧吹上町)、現深谷市(旧深谷市、旧川本町、旧岡部村、旧花園村)、寄居町が該当します。
  • 「県」とは埼玉県、「県営事業」とは埼玉県営事業を指します。
  • 「櫛引地区」は、古くは「櫛挽」の記載であり、本文中では同じ地名を指します。



  • 2. 事業のあらまし



     当事業地域は埼玉県北部に位置し、荒川沿岸に展開する熊谷市ほか10市町村(熊谷市、深谷市、行田市、吹上町、寄居町、大里村、江南村、南河原村、川本村、岡部村、花園村:S34時点)に跨る洪積台地上の畑地4,225haと沖積地帯の水田4,378haに及ぶ地域です。
     本地域の用水源である荒川は秩父連峰に発し、玉淀ダム地点(寄居町地先)にて山岳部を出て熊谷市の南方を流下し、東京湾に注ぐ一級河川です。河川の上流部は急流で、流域面積に比して洪水量は多く、渇水量が極めて少ない特徴を有しています。当事業着手当時の六堰頭首工の水利権流量12.8m3/sに対して、かんがい期の渇水量が7m3/s程度の河川流量に低下することが有り、用水不足をしばしば来すことが有りました。また、洪積台地上の畑地帯は年間平均降水量が1,250mm程度で干害を受けることが多く、陸稲においては収穫量皆無となる事もありました。
     当事業は、これらの根本対策として、水源施設の増強により大里地域の用水不足を解消し、合せて畑地帯に新規用水を供給する事により土地生産力の向上を図ることを目的としています。また、荒川総合開発の一環として建設省が昭和36年に完成させた二瀬ダムに本地域の必要水量を確保しました。大里・元荒川地域は既設の六堰頭首工より最大約16.5m3/sの用水を取水し、櫛引台地は昭和36年に完成した玉淀ダムから最大約9.1m3/sの用水を取水し、本畠地域は揚水機により取水する事としました。
     この効果として、櫛引・本畠地域の田畑輪換※による作付けが可能となり、大里・元荒川地域の用水補給が確保され合理的な配水により、受益面積8,603haは米換算で5,712t(3万8千石)の増収が期待されるものとなりました。当事業は昭和35年3月に工事着手し、総事業費17億円を投じて昭和41年8月に事業を竣工しました。
     農業用水の安定供給・新規供給は地域の念願であり、安定した近代的農業が出来るようになっただけでなく、将来にわたっての高付加価値を追求できる基盤を整えたと言えます。

    ※「田畑輪換とは」
     水稲作と転作作物(畑作物)等の輪作により、双方の生産力を高める方式。一定の周期で交互に耕作地を利用する事で、地力の維持・連作障害の回避・酸性化の防止などの土壌条件の改善効果及び雑草や病虫害の除去に効果が有るほか、農業経営改善にもつながる効果が期待できます。

    3. 地勢及び気候


     
    (1)位置

     本地区は埼玉県北部に位置し、熊谷市、行田市、鴻巣市、深谷市、寄居町の4市1町(昭和34年当時は熊谷市他2市5町3村)に跨る埼玉県を代表する穀倉地帯で、首都圏の大消費地に近接する農業立地条件に恵まれた地域で、群馬県との県境を流れる利根川の南側、荒川の中流域の沿岸に分布する受益地8,603haの洪積台地の畑地と沖積地帯の水田が事業の対象受益地となる地域です。首都圏からの交通の便に優れ、受益地内を関越自動車道、JR高崎線・上越新幹線が南東から北西に横断し、JR八高線、秩父鉄道、国道17号、国道140号も利用できます。東京都心から50km~80kmの圏内に位置し、首都圏への交通輸送上の拠点となっており、農産物の輸送条件は恵まれています。
    (出典:関東農政局HP)


    (出典:関東農政局HP)


    (2)地質・地形

     本地区は一級河川荒川の中流域に位置し、北は利根川、南は丘陵地に挟まれ、西は秩父山系に連なる丘陵地からなり、地区の西部は扇状台地、東部は妻沼低地で形成されています。県内では比較的低地の割合が高い地域です。
     地質は、北東部一帯は肥沃な沖積土壌からなり、西部は関東ローム層に覆われ、南部の台地上と荒川沿いは沖積土壌となっています。
     櫛引地区は一級河川荒川の扇状台地の最上流に位置し、標高は35mから100mで南西から北東に向かってなだらかに傾斜しています。地形勾配は田では1/1000から1/100が半分を占め、畑はほぼ全てが3度未満の傾斜であり概ね平たんな地形です。地域の排水は利根川に向けて小山川・福川を通して流下しますが、戦後間もなくまでは、大雨の際に停滞する野水による湛水被害が発生する地域でした。
     大里地区は荒川左岸の水田は妻沼低地に位置し、右岸の本畠地域は江南台地上に位置しています。

    (3)気候

     本地域の気象は、年間平均気温14℃程度、年間降水量1,250mm程度で有り、温暖で雨量が比較的少ない地域です。一方で、雷雨・突風も多い地域で特に春先の晩霜や初夏の降雹が多く、冬期には北西の季節風「北関東のからっ風」が地区内に強く吹き付けます。また、夏の暑さが有名な地域であり、熊谷市では過去に最高気温40.9℃(平成19年8月16日)を記録しており、平成16年には最高気温35℃以上の日数が全国で一番多い市となっています。

    4. 地域の動向及び農業



    (1)地域の動向

     当地区の関係市町村では、平成2年からの20年間で、田面積は20%弱減少し、畑は7%弱減少しており、県全体より減少率は小さくなっています。耕作放棄率も県全体より低くなっています。農業産出額は平成に入ってから減少傾向にありましたが、近年は持ち直している状況です。
     平成に入ってから経営規模5.0ha以上の大規模経営農家数は増加していますが3.0ha未満の農家数は減少していて、県全体の動向と同じ傾向にあります。経営耕地面積の集積割合は全県に比べて進展している状況となっています。

    (2)農業・農産品

     受益関係市町村の主要農産物のうち、有名ブランド品目は、ねぎ、ブロッコリー、花卉類です。ユリ・チューリップはいずれも全国的に高いシェアを保っています。作付面積で見ると、関係市町村(H17)で水稲8,201ha、大豆172ha、小麦3,918ha、そば20ha、ねぎ1,319ha、ブロッコリー690ha、ブロッコリーと小麦は県内の50%以上を占めています。全国市町村別農産物生産量(H18野菜・花き生産出荷統計)ランキングでは、ねぎ収穫量で深谷市が全国第1位、熊谷市が第3位。ユリ出荷量では深谷市が全国第1位。チューリップ出荷量では深谷市が全国第2位。ブロッコリー・ほうれんそう・きゅうり収穫量ではいずれも深谷市が全国第2位となっています。


     (出典:HPフカペディア「深谷ネギ」) 
     (出典:関東農政局HP) 



    (出典:関東農政局HP、JAふかやゆり部会HP)

    5. 事業地区の土地改良の歴史



    (1)「大里地区」の歴史

     大里地区は古くから水田用水として奈良堰、玉井堰、大麻生堰、成田堰、御正堰、吉見堰の6取水堰から農業用水を取水していましたが、荒川の渇水流量が少ない事や河床が安定しない事により安定した取水が出来ない地域でした。昭和2年から実施された県営かんがい排水事業「大里地区」受益面積2,774ha(昭和14年完了)では6つの堰を合口して六堰頭首工を新規設置し、江南サイホンや2.3kmの隧道を含む幹線導水路4.8kmを整備しました。その後、昭和36年に完成した二瀬ダムの農業用水容量を活用して昭和34年に着工した荒川中部農業水利事業(昭和41年完了)によって受益面積4,378haをかんがい出来るように改修されました。
     平成に入ってからは、荒川の河床低下により六堰頭首工・江南サイホンの洪水に対する危険性が高まったことにより、国営大里総合農地防災事業(受益面積3,820ha:平成6年時点)にて六堰頭首工は全面改修されて現在に至っています。


    (出典はいずれも埼玉県HP大里農林振興センター)


    (出典:埼玉県HP大里農林振興センター)
    「平成11年8月の被災状況写真」
     防災事業実施中の1999年8月の集中豪雨により118mの固定堰のうち約93mが決壊しました。年間平均流量27m3/sなのに対して5,300m3/sの洪水量が流下しました。

    (2)「櫛引地区」の歴史
     
     櫛引地区は荒川扇状地最上部の洪積台地に位置する事から荒川本川の用水利用が難しかったこと、台地上に排水河川が発達していないことから、戦前までは秣場(まぐさば)として利用されていました。秣場とは肥料や飼料を供給する草刈り場のことで、江戸時代の新田開発では開墾政策が試みられたことも有りましたが、排水不良が大きな原因となり、耕地利用は進みませんでした。昭和20年には県の櫛挽ヶ原開拓事業が始まり、昭和22年に着工された県営事業櫛挽ヶ原地区外幹線排水路では櫛引台地東部の排水を荒川本川に排水(荒川放水路)し、この後は基盤整備事業が急速に実施されるようになりました。荒川放水路は利根川に向けて緩勾配の排水系統を一部荒川本川に放流する画期的な事業で、開拓地の排水条件が改善され、畜産農業の振興を含めて農業振興につながり、今日の隆盛につながっていると言われています。  
     昭和34年に着工された荒川中部農業水利事業が昭和41年に完成したことにより、農業用水・発電共用の玉淀ダム(昭和32年着工、36年完成)から受益面積4,225haに対して9.1m3/sの農業用水を取水する事が出来るようになりました。(現在は昭和40年代からの減反政策の影響も受け5.4m3/sの許可水利権となっています。)

    (出典「国営荒川中部竣工写真集 1966」より)


    (出典「国営荒川中部竣工写真集 1966」より)

    6. 事業の沿革



     本地区の受益地である大里、櫛引、本畠は域内に一級河川荒川が流れていますが、受益地より低位部を流下し、洪水流量に比べて渇水流量が小さい事により、農業用水として利用が難しい地域でした。戦前までは、上流部で小規模の発電が5カ所と中流部で大里地区が3,472haのかんがいを行っているだけでした。昭和26年には荒川総合開発審議会を埼玉県が設置し、農林省では同時期に荒川上流部のダム建設による農業用水確保のための調査を行いました。また、建設省は治水上の見地から洪水調整用ダムを調査しており、関係者において治水・利水の調整を図りました。その結果、昭和34年に洪水調整・かんがい・発電を兼ねた多目的ダム(二瀬ダム)建設が確定しました。二瀬ダムで確保した農業用水容量を、櫛挽地区には波久礼地点に頭首工を新設して取水、本畠地区には揚水機場を設置して取水、大里・元荒川地区には既設の六堰頭首工を利用して下流幹線水路の改修・増設して取水する事を計画として昭和35年3月、国営荒川中部農業水利事業は着工されました。  
     その後、波久礼頭首工は、水資源の効率的利用を図る見地から県営発電事業との共同事業で玉淀ダム建設に合わせて櫛引地区の取水口を確保することに変更されました。
     受益面積8,603haに導水路の新設・改修を行い、櫛挽・本畠地域の田畑輪換・畑地かんがい計画を樹立、大里・元荒川地域の用水補給を確保しました。これによって、この地域の近代的農業発展に道が開かれることになりました。
     一方、荒川の扇状地として最上流に形成されている櫛引台地では農業用水が不安定なだけでなく、褶曲する台地に滞水する野水を排水する事が第一の課題でした。戦前までは台地上の排水は利根川に向けて流下しており、流下能力不足により深谷市内等各所で度々湛水被害を被っていました。これに対して県営櫛挽ヶ原地区外幹線排水路事業で荒川本川に地域の排水の一部を放流する事によって大きく湛水被害の軽減が図られました。その後は利水に対する機運が高まり当事業による農業用水施設整備へとつながっていきました。

    (1)用水源となった『二瀬ダム』

     荒川総合開発の一環として、洪水調整・かんがい・発電を目的とした多目的ダム。
     堤高95mのアーチ式コンクリートダム。総貯水量2,690万m3、うち、かんがい補給容量は1,600万m3。発電容量は2,000万m3。
     昭和29年に事業着手、昭和36年に完了。
     貯水池は秩父宮妃殿下により「秩父湖」と名付けられ、秩父多摩国立公園内に位置する。

    (出典「国営荒川中部竣工写真集 1966」より)

    (2)櫛引地区の取水口:『玉淀ダム』
     
     電源開発として構想され、発電・かんがい利用を目的とした多目的ダムとして設置。  
     堤高32mの直線重力式コンクリート造ゲートダム。総貯水量380万m3。農業用水は最大9.11m3/sを取水。新設された玉淀発電所は30m3/sの使用水量で最大4,300KWの発電を行っています。
     昭和32年に着手、昭和36年に完了。
    (当初の計画では、発電専用として長瀞に第1ダム、玉淀地点に第2ダムを設置して隧道でつなげる構想もあったようですが、景勝地での環境配慮等の影響で現在の玉淀ダムのみ設置されました。)

    (出典「国営荒川中部竣工写真集 1966」より)

    7. 当事業により設置された主要施設



    (1)「櫛引地区」

     ①取水施設 表面取水自然落差減勢方式 自動流量測定に基づく電動遠隔操作
     ②導水幹線 6.54km(うちトンネル4.24kam、暗渠0.88ka、開渠1.42km)
                (射流分水工1ヶ所を含む)
     ③右幹線 5.62km(サイホン5ヶ所、落差工13ヶ所、分水工12ヶ所を含む)
     ④左幹線 4.52km(サイホン6ヶ所、落差工5ヶ所、分水工9ヶ所を含む)
     ⑤揚水機場 1ヶ所

    導水幹線暗渠施工状況完成断面  (出典「国営荒川中部竣工写真集 1966」より)


    (2)「大里地区」

     ①幹線水路 8.24km(うち開渠5.65km、暗渠1.83km、その他0.76km)
      (頭首工1ヶ所、サイホン2ヶ所、落差工10ヶ所、分水工9ヶ所、揚水機場1ヶ所を含む)

    大里幹線水路(屋敷、八反田、元荒川分水工) (出典「国営荒川中部竣工写真集 1966」より)

    8. 櫛挽ヶ原の農と歴史



     江戸時代に入るまで、櫛挽ヶ原は付近12ヶ村共同の「入会地」(いりあいち)として広大な秣場(まぐさば)でしたが雨期から秋にかけて野水が滞水する地域でした。秣場は、肥料や飼料にするための重要な草刈り場であり、大事に管理されてきました。時の経過と生活の変化により秣場を開発し耕地を増やそうとする開発派と、開発を阻止しようとする保守派との衝突が連続し何回となく繰り返されました。
     徳川幕府は新田開発を積極的に推進しましたが、本田畑の障害にならない範囲内で行う本田畑(古田畑)中心主義でした。八代将軍徳川吉宗は、幕府の財政難克服のため新田開発を政策の柱として大幅な転換を図りました。享保11年(1726)には、幕府の力によって櫛挽ヶ原の入会秣場も解体され、新田開発への道を歩むことになりました。しかしながら流下能力が十分な河川や排水路が無い事から、毎年のように雨期に停滞する野水による湛水被害が多発し、また往時の秣場的林地に戻ってしまったと考えられています。
     終戦後の食糧増産及び戦地からの引揚者対策のため、昭和20年代から県の櫛挽ヶ原開拓建設事業によって農地開発と排水及びかんがい施設の整備が実施され、近代的な農業が始まりました。昭和22年には地域念願の櫛挽ヶ原地区外幹線排水路が県営事業として着工され、基盤整備事業は急速に進展し、開墾の拡大や道路・水路が整備されました。
     今日の整然とした区画割り、並行に走る防風林と防風林を背にした住宅・畜舎等、散居型新農村出現の基礎が出来るに至りました。
     また、水不足に悩む農業地域への用水補給の必要性等から、従来は電源開発として検討されてきた貯水池計画が、発電・農業利水・治水・観光を目的とした総合開発計画として立案され、昭和30年代には国営荒川中部農業水利事業等により、安定的な農業用水利用が可能となり、県内でも有数な農業地帯として大きく発展しました。

    トピック1:渋沢栄一と地域の養蚕
     櫛挽地域における養蚕業は、桑園地として昭和38年頃には最盛期を迎えました。昭和45年には県下最大級の人工飼料による稚蚕共同飼育場が建設され、優良稚蚕の確保と繭の増産に寄与しました。日本資本主義の父と言われる深谷市出身の偉人・渋沢栄一は世界文化遺産に登録されている富岡製糸場の創設に関与し、各地で製糸工場を作り、地域の産業発展にも貢献しました。

    9. 六堰頭首工に纏わる農と荒川の歴史



     徳川家康が関東に入国するまでは、利根川本川も荒川も東京湾に注いでいました。それまで関東平野は洪水被害の常襲地帯で治水も利水も人為のなすところではありませんでした。1602年伊奈備前守忠次は荒川中流(現熊谷市)に石堤を設置し、6つの用水路を整備しました。忠次の子・忠治は利根川・荒川改修の抜本的対策を立て、1629年に熊谷市久下地区に久下堤を築堤して荒川と利根川を分離し、利根川を東遷させました。そして荒川も入間川筋へ瀬替えして西に流しました。利根川・荒川は瀬替えによる分離によって河川の河道が安定してきました。これにより周辺低地部は次第に開発されていくこととなりました。  
     本地域において、江戸時代から荒川本川からの取水が可能となりましたが、江戸時代における施設整備水準は、6年に1度程度の確率で起きる大洪水被害と13年に1回程度の確率で大旱害に悩まされていました。特に用水施設の普請と水争いは深刻な問題となっていました。
     1722年八代将軍徳川吉宗は「享保の改革」を推進し、新田開発を奨励しました。紀州から井沢弥惣兵衛為永を招集し、強固な築堤等の改修を行い、河川を直線状に固定しました。これにより、河川は河川敷内を流下するようになり、遊水地帯や低平地の新田開発が進められるようになりました。

    トピック2:伊奈備前守の「関東流」と井沢為永の「紀州流」  
     荒川流域の河川改修の歴史は江戸時代の改修により大きく飛躍します。特に荒川流域は、関東流と紀州流という対照的な治水技術が用いられた全国的にも珍しい地域となっています。荒川は利根川・荒川の瀬替えと関東流の治水・利水に関する土木工事によって江戸時代前半の新田開発が大きく進展しました。江戸中期になると都市や耕地が拡大し、洪水被害が増大するようになり、それに加えて関東流の利水形態である用排水兼用が下流の用水確保と上流の排水困難を顕在化させる事態とさせました。徳川吉宗はこの事を改善すべく紀州流の土木技術を採用しました。  
     関東流とは、堤防を連続して築堤するのではなく、乗越堤・霞堤・遊水池を設けて、河道を幅広く蛇行したままにして洪水を蛇行部に滞留させつつ徐々に流入させる方法です。農地に肥沃な土砂が流入する利点もあり、自然の猛威をうまく利用した技術です。かんがい排水では用排兼用し反復利用を上手く取り入れています。  
     紀州流とは強固な連続築堤と水害防止施設により直線状に河道を固定した方法です。これにより生み出された土地を利用して新田開発を推進しました。かんがい排水では用水と排水を分離し、荒川下流域の新田開発に大きく貢献しました。
     江戸時代に整備された六堰は相互の対立抗争の歴史を経ながら荒川本川からの独立取水を確立しており、明治に入ってからは数次にわたる用水管理制度の変遷を経て、それぞれが普通水利組合を組織して、その経営にあたってきました。
     各堰とも荒川河川内に相当規模の導水路を確保する必要があり、その維持・復旧に困難を極めていました。明治時代に入ってから、洪水が頻発し状況を悪化させ、大正時代に入ってからは荒川の河床が低下し始め、通常の取水も困難となりつつありました。
     これに対応する方法として合口事業の推進が提案されるようになり、大里用水路関係六箇水利組合連合が設立され、昭和4年に県営用排水改良事業大里地区が開始(調査開始は昭和2年)されました。県営大里地区は旧熊谷市ほか2市4村の水田2,740haにかんがいするために12.8m3/sを取水する六堰頭首工を新設して旧6堰を合口し、4.8kmの幹線導水路を整備しました。施設設置当時、東洋一と言われた最新式のローリングゲートを採用するなど高い技術を駆使し地域の悲願達成に貢献しました。
     その後は荒川本川の渇水等により、六堰の受益も植え付け期の遅延や用水量不足にしばしば悩まされるようになりました。これと隣接する元荒川上流地域は星川・忍川の自然湧水を利用していましたが、荒川の河床低下と都市化による地下水利用の急増により、その利用が困難になってきました。本畠の洪積台地は水利施設が無く天水依存の状況でした。
     この状況に抜本対応する手段として当事業が樹立されました。つまり、二瀬ダムで生み出した水量を利用してこれらの用水不足を解消したわけです。

    10. 当事業完了後の国営土地改良事業(後継事業)の概要



    (1)国営かんがい排水事業「荒川中部地区」(荒川中部農業水利事業)

     当事業完了後の経年的な施設老朽化により、用水路等ではコンクリートのひび割れや剥離、目地の変形などにより漏水等が発生し、地区の一部では取水堰の不具合等により不安定な取水状況をきたし、農業用水の安定供給に支障来たすようになりました。この事に対して、農業水利施設の改修と併せて用水再編を行い、農業用水の安定供給を図り、農業生産性の向上及び農業経営の安定に資するための国営事業を実施しています。

    ① 受益面積3,212ha(深谷市、本庄市、寄居町)平成26年時点
    ② 主要工事(事業実施期間:平成26年度着工、令和4年度完了予定)
    ・頭首工改修(玉淀ダム)
    ・揚水機場改修(花園揚水機場)
    ・用水路改修 57.1km(導水路6.6km、幹線水路10.1km、支線水路等40.4km)
    ・水管理施設 1式

    (出典:関東農政局HP)


    (2)国営総合農地防災事業「大里地区」
     
     大里地域の主要施設である六堰頭首工、江南サイホン等は戦前に整備され、当事業で部分改修したものです。その後、荒川の河床低下により河川内の主要施設が洪水に対する危険性が増大しました。また、都市化の進展で生活排水が混入し、農業用水路は水質悪化しました。この事に対して、施設の機能回復と災害の未然防止及び農業用水の水質改善を行い、農業生産性の維持及び農業経営の安定化に資するために国営事業を実施しました。
    ① 受益面積3,820ha(熊谷市、行田市、鴻巣市、深谷市)平成6年時点
    ② 主要工事(事業実施期間:平成6~18年度)
    ・六堰頭首工(全面改修)
    ・導水路改修9.4km
    ・幹線用水路改修36.9km(大里7.1km、奈良堰6.6km、玉井堰14.3km、荒川左岸4.6km、御正吉見堰4.3km)

    (出典:ウィキペディア「六堰頭首工」)



    参考文献


    1.『荒川中部農業水利事業所』(関東農政局HP 国営事業所の取り組み)
    2.『国営荒川中部竣工写真集』(関東農政局荒川中部農業水利事業所 1966)
    3.『荒川の恵み』大里総合農地防災事業完工誌(関東農政局大里総合農地防災事業所)
    4.国営総合農地防災事業「大里地区」【基礎資料】(関東農政局HP 2013)
    5.『国営荒川中部地区土地改良事業について』(JAGREE89 2015・5 荒木正則)
    6.『埼玉土地改良』(埼玉県土地改良事業団体連合会 1977)
    7.『続埼玉の土地改良』(埼玉県土地改良事業団体連合会 2012)

    参照したHP


    1.荒川上流河川事務所(荒川の歴史、治水技術の系譜)
    2.二瀬ダム管理所
    3.荒川中部土地改良区
    4.大里用水土地改良区
    5.埼玉県大里農林振興センター(六堰頭首工の歴史)