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1.地形的弱点
2.椿海の干拓
3.辻内刑部左衛門の干拓願
4.熾烈を極めた水争い
5.野口初太郎の計画
6.戦争と敗戦後の混乱
7.国営大利根排水改良事業

icon 1.地形的弱点



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海岸から山頂に至る段々畑

 この地方は、富士山の噴火による火山灰が一万年以上もの長い時間をかけて堆積してできた洪積台地で、標高は50m程度のなだらかな丘陵地帯です。しかし、下図の等高線が示すように台地の地形は海の方角ではなく、東は利根川、北東は黒部川、北西は栗山川の方向へ傾斜しています。この結果、台地の南東に広がる干潟平野(干潟地区、旧椿海)と九十九里浜平野(大利根地区)に向かって流れる大きな川がなく、9,200haもの広大な平野がありながら、農業には不向きな根本的な地形的弱点をもっていました。両平野に対応できる用水源は、小さな13個の溜池とわずかな地下水だけという、天水に頼るだけの農業を強いられていました。
 今では、東総の穀倉地帯として豊かな農作物の生産地と変貌を遂げていますが、そこには数百年に及ぶ農民達の辛苦に耐えた水を巡る闘いの歴史が繰り広げられてきました。
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千葉県の地形区分

icon 2.椿海の干拓



 九十九里平野の北部に東西12km、南北6km、その面積7,200ha、山手線エリアがすっぽりと入る巨大な湖沼干拓地、干潟地区。この地域は寛文10年(1670年)以前、椿海と呼ばれていた湖沼で、農民達は沼地廻りを少しずつ干拓し農地を拡げてきました。
 幕府にはじめて干拓願を提出したのは杉山三右衛門、この人物と干拓出資金が疑わしく幕府は許可を与えていません。つづいて、寛永年間(1624-1644年)に江戸の町人、白石治郎右衛門が干拓願を提出します。白石は約25年間にわたって幕府の吟味を受けています。この間、関東流干拓工事で幕府の信頼の厚かった伊奈忠克を派遣して椿海の検分をさせますが、その報告では「椿海干拓は八万石の耕地を造成できるが、椿海を用水源としている九十九里平野の村々は、水田の用水が不足する」という結論から許可には至りません。

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千年前の関東平野

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椿海開拓古図
(高木卯之助著「古城村史」)千年前の関東平野

icon 3.辻内刑部左衛門の干拓願



 当時の江戸は人口が激増、米価は高騰しており、江戸近くに穀倉地を開発する必要に迫られていました。そこで、白石は勘定奉行所の作事方であった辻内刑部左衛門と協力し、辻内から再度干拓願を提出します。幕府は寛文9年(1669年)6月から11月の5か月を費やして詳細な検分を行います。その調査、測量には人夫延べ1万1,050人を動員したとされ、いかに重要視していたかが解ります。下流の村13ヶ村に対して用水の供給量を2割増すという条件のもと、幕府はこの計画の許可を与えます。しかし、事業半ば資金を使い果たし工事は未完成のまま中止されます。幕府は金6千両を資金援助し、寛文10年10月に工事を再開、同年11月に完成しています。短期間に完成したのは、下流の村の反対運動を警戒したためとされています。こうして苦難の末、椿海の排水を挙行しますが、椿海の水が一挙に流れ出し沿線の村々は大洪水に襲われます。この責任をとって、請負奉行の関口は引責切腹します。
 この後、幕府は普請奉行として高室四郎兵衛、熊沢武兵衛、福村長右衛門を新たに任命して排水、用水の工事を行います。それは水路に排水を集めて新川(刑部川ともいう)を深か堀(落し堀)にし、排水路として機能させるというものです。落し堀の排水機能は椿海干拓の生死を左右することから、幕府は落し堀沿線の村落を幕府領として厳密に管理し干拓を進めていきます。300年間その排水機能を守るために、新川への新たな堰の設置は許されませんでした。また、用水源として周辺村落の田畑を潰して溜池を築造、その数は13カ所に及びました。
 文化年間(1804-1818年)、干拓地の土地の生産力が上昇する頃には、その石高は八万石に達し、増加する江戸の人口を養っていました。その一方で、さらなる用水・排水の確保という大きな課題を背負うことにもなりました。

icon 4.熾烈を極めた水争い



 椿海が重要な水源であった下流の村は、日照れば渇水、降れば洪水と度々被害を被り、干潟地域住民と新川、古川沿岸の大利根地域住民との用排水をめぐる水争いは熾烈を極めます。どの大字にも訴訟関係の文書が大切に保管され、訴訟の裁定や村どうしの約束事、証文の類が存在していました。いざ、もめ事が発生すると、この証文に照らし合わせて裁定するという、この地域の複雑な水秩序を形成していました。特に明治維新により、新川の管理が地元の町村に移るようになってから水紛争は一層激化します。大正末期から昭和初期に干潟、駒込、吉崎の3堰が新設され公認されるまで、まさに一触即発のなかで、辛うじて均衡を保ちつつ、ただひたすら堪え忍んでいるという状況でした。
 大正13年、翌14年(1924-1925年)、昭和8年(1933年)と続いた大干ばつ、洪水はこの地域に壊滅的な被害をもたらしました。水争いでは解決できない自然の脅威(空梅雨)の前に、農民達はなすすべもなく、抜本的な用水、排水の必要性が叫ばれるようになります。

icon 5.野口初太郎の計画



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野口初太郎 顕彰碑
 明治19年、銚子で米、味噌醤油の販売を営む野口家の長男として生まれた初太郎は、攻玉社工学校を卒業、千葉県の土地改良課に技師として採用され、生涯を賭ける土地改良事業の一歩を踏み出します。長生郡、君津郡などの仕事を経て、大正12年に干潟耕地整理創立事務所の開設に伴い、初代所長として旭町に赴任します。この時、地域の実情を調査し干潟水害予防の排水計画をまとめます。その骨子は、干潟地域以外の排水が農地に流入するのを防ぐことで、主要な排水路の改修を行い、改良後新川本流につなげるというものでした。一方、用水計画は台地山間の流域の水を取水能力一杯に利用すると共に、流域外からも水を引き溜池の拡張・新設を行い農業用水を確保、さらには、低い農地には堀溜を設け、揚水機によってかんがいしようという計画でした。ところが排水計画を主とし、用水計画を従とした計画に対する不満が噴出、溜池予定地住民の反対が強くこの計画は実施されるには至りませんでした。一方を立てれば一方が立たずという相反する矛盾が大きく立ちはだかる事になります。

大正13年の大干ばつ
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県営大利根用水事業の分水略図


 大正13年、この地域を襲う大干ばつ(6月下旬から8月上旬まで干天)が干潟地区、大利根地区に深刻な被害をもたらします。厳しい自然の災害を目の当たりにした野口は、いち早く両平野への用水源を研究、調査します。利根川から水が引ければすべてが解決します。明治の中頃にはすでに蒸気機関によるポンプ揚水も試みられています。しかし、利根川と干拓平野の間には約5kmにわたる丘陵地帯が横たわっています。しかも関東ローム層台地の下層は滞水層(もろい岩盤の成田層)、そこにトンネルを掘る、当時としては不可能な技術と思えました。ところが難工事で知られた関門トンネルで成功した空気ケーソン法の技術を聞くに及び開削の可能性を確信します。そして最終的に、抜本的な解決には利根川からの導水(揚水)しかないとの結論に達します。もともと野口は銚子の生まれ、豊かな水量の利根川を少年の頃から見て育った経験が、大事業実現へのヒントと原動力になったことは想像に難くありません。
 利根川から導水することを単なる荒唐無稽な夢に終わらせない綿密で用意周到な計画をまとめます。当時この計画の壮大さや、さらには用地買収やポンプ設備、隧道工事など莫大な資金が必要な事から、「天馬空を翔けるような話し」だとか「ペテン事業だ」とかと揶揄されながら、野口は夢の実現にむけて東奔西走を重ねます。やがて理解者が増え地元住民が進んで実現運動を繰り広げ、次第にその輪が広がっていきますが、実現にはなかなか至りませんでした。
 昭和8年、またもや襲った大干ばつで事態は一挙に実現の方向へと動き出します。この時、県に出した請願書の一文に「旱天持続せば水田忽ち水涸して草叢の荒野に化し、農家粒々辛苦の労忽ちにして失わるるの惨状を現出するに至る」とあり、当時の切羽詰まった状況が想像できます。そして、遂に早期の実現を図るため県営事業として採択され、昭和10年には賛否両論、反対運動渦巻く中、無事起工式をむかえます。中でも幹線水路工事の沿線地域では反対運動が激しく、時には警察隊に守られての測量も行いながら工事を進めていきました。工事中の昭和15年に三度大干ばつに襲われますが、この時初めて利根川から揚水による導水を行い、地域の大半を旱害から救うことが実証できました。これ以降、反対運動は陰を潜め事業が進展し、野口の夢は実現にむかって突き進んでいきました。しかし、一方で悲惨な戦争の足音が近づいてくることになります。
 東幹線の工事に関連して、野口技師から理解者の一人である飯田浅吉氏に対して、個人から個人に授与した感謝状があります。内容は工事に対する貢献の感謝を表したものですが、野口が四面楚歌の中で孤軍奮闘している時、飯田が敢然と賛意を表した先見の明に対しての敬意と、食糧が乏しい中、米15俵、甘藷数十俵の食糧を、就労者に提供してもらった支援に対しての感謝の念が表されています。理解者を得た喜びや希望といった、野口は万感の思いをこの表彰状一枚に託したのではないでしょうか。

icon 6.戦争と敗戦後の混乱



 県営大利根用水改良事業は、計画から施行、運用まで戦争と敗戦後の混乱の影を色濃く落とした事業でした。計画書の完成した昭和7年は満州国の建国と、大幹線の笹川揚水機場の大工事は、昭和12年の日中戦争の開始と時が重なります。そして、昭和16年の太平洋戦争が勃発する頃は、ちょうど東西大幹線水路工事が本格化する時でした。労力、資材のすべてが戦争に動員され、次第にインフレがひどくなり18年頃になると物資は不足し、とてもまともな工事が行える状況ではなくなりました。東西線の隧道工事などは、セメントはおろか骨材、砂利までもの入手が困難なため、東5号から11号までの隧道は素堀りのままという状況でした。19年からは全国の都市と工場が空襲を受け壊滅的な打撃を受けます。事業は昭和26年に竣工式を挙げますが、その後、戦争による物資不足の影響にともなう工事の不良箇所が至る所で露呈します。特に東西幹線に官路製サイフォン工を採用せず、軟弱地盤上に盛土水路を築造したため最大の弱点となります。頻発する通水による決壊、水路事故によるポンプ運転の中止、運転台数の制限と、本来の機能の半分も稼働しない状態でした。
 物資、資金、労力すべてにおいて十分な工事が出来なかったそのツケが、慢性的な水不足という戦前の状況に逆戻させるに至りました。昭和26年に竣工式を挙げてわずか10数年にして水利施設の抜本的改修をせざるを得なくなったのは、まさに、戦争における混乱がもたらした拭いがたい重い後遺症でした。

icon 7.国営大利根排水改良事業



  戦後の日本経済の著しい発展と農業政策の変更にともなう水田の汎用化などの耕地整理が行われる中、度重なる修理改修にともなう維持管理費の高騰に対処する抜本的な改修が叫ばれるようになりました。そこで、昭和45年に老朽化した施設を近代システムに全面改修する用排水改良、合理化事業として受益面積9,200haに及ぶ国営大利根用水水利事業が開始され、22年の歳月をかけて平成4年に完成しました。
 今では写真で見るように東総の穀倉地帯として豊かな大地に発展しています。まさに水乏しき台地を緑なす沃野に変え、次世代に歴史的資産を引き継いだ事業と言えるのではないでしょうか。

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干潟地区全景
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大利根地区全景干潟地区全景

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左より黒部川、利根川、常陸利根川
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笹川揚水機場
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兼田貯水池

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国営西幹線用水路
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新川排水路
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兼田分水工

大利根排水改良事業の主要施設



千葉県 ―大利根用水農業水利事業