江戸期、明治期も手賀沼の干拓は一時的に干拓が成功しても、利根川の洪水が押し寄せて、堤防や新田までも破壊されました。干拓の歴史は治水の歴史でもありました。
300年の時を超え、昭和31年、長年の手賀沼沿岸住民の悲願であった手賀排水機場が完成しました。手賀沼干拓事業は、昭和21年度に着工し昭和43年度に完了しました。
1.要旨
手賀沼水面積1,180haのうち543haを干拓し449haの農地を造成し周辺農家の経営規模の拡大と農場整備等による農業の近代化を図る。又本干拓事業に関連し、手賀沼流域16,304haからの流出水を利根川の高水位時にも排除し、沼周辺低部耕地の湛水被害を除去すると共に残存水域650haの用水を周辺低位部、高位部耕地に導水し用水改良を行う等周辺耕地2,620haの土地改良も併せ行い農業基盤を整備する。沼南村地先及び我孫子町地先に第一及び第二干拓地を造成する。手賀落堀を改修整備し最下流部印西町大森地先に排水機場を設置する。手賀沼内に流入する3河川も改修整備する。手賀沿岸6ケ所に揚水機場を設置し現況の小地域、小施設の揚水機を廃し合理的な用水配分とする。又隣接の用水不足地域にも導水し同時に用水改良を行うものである。
(1)工期 昭和21年度~昭和43年度
(2)事業別面積 単位ha
(3)干拓計画 手賀沼1,180haのうち用水源その他として650haを残し深浅部449haの干拓を行う。
造成面積
※「公有水面埋立権 昭和32年6月5日付千葉県知事郵認
漁業権等の名称:手賀沼漁業組合(免許番号、千葉県内協第5号)
種別 第1種・・・しじみ貝、カラス貝
第5種・・・鯉、鮒、鰻、わかさぎ関係戸数 503人(内専業3戸)」
(4)主要工事計画
(5)総事業費
- 1.工事費 1,835,230千円
- 排水工費 630,064千円(主要 手賀排水機場 394,163千円 調節水門 51,500千円)
- 干拓地費 820,600千円(主要 堤防 358,850千円 機場費 222,528千円)
- 用水工費 332,150千円(主要 泉機場 124,450円 高野山機場 55,500千円)
- 2.測量及試験費 48,340千円
- 3.用地及補修費 100,000千円
- 4.船舶機械器具費 63,300千円
2.計画概要
(1)排水計画洪水に翻弄された歴史であったことから、これに対応できるよう検討がされた。
検討された概要は以下のとおり。
- ① 手賀沼全体の湛水検討
- Case1 30年確率雨量3日間連続278㎜が降った場合降雨と同時に手賀排水機場、第1第2排水機場を運転する。手賀沼最高水位はY . P.3.7 5mまで上昇する。
平水位Y.P.240mに復元するのは運転開始後9日目である。
Case2 上記雨量が本事業着手前に降った場合、手賀排水機がないため自然排水樋門を閉鎖し外水位の関係から降雨後20日間は排水不能となり手賀沼最高水位はY. P4.26mまで上昇する。平水位Y. P2.40mに復元するのは外水位に関係するが降雨後約30~40日目である。
Case3 100年確率雨量3日間連続338㎜降った場合排水機場を運転する。
この場合手賀沼最高水位はY. P4.20mまで上昇する。降雨開始後4日後に現れ、平水位Y. P2.40mに復元するのは運転開始後11日目である。
② 干拓地区内、湛水検討
- 排水設備能力決定の目標としては30年確率日雨量187㎜を2日排除とし安全かつ経済的な設備とする検討は上記雨量を含む3日間連続計画として行う。
(2)計画基準雨量
(3)洪水調整検討
手賀排水機場から利根川に排水することに当たって、河川への影響について検討されている。
- ① 河川改修計画との関係
- 排水本川の利根川の本地点下流は建設省で改修整備されている。手賀排水樋管の本工事は昭和31年度に建設省と合併施工しており、同省所管の治水計画と何ら矛盾しないものである。
② 洪水調節が下流に及ぼす影響
- 利根川の手賀排水樋管地点に於ける計画洪水量は5,500m3/sであり、本排水計画に於ける洪水時排水量は20~40m3/sであるが洪水ピーク時は200m3/sであり、本排水量については既に上記施工時に建設省に協議し又河川法による許可申請も証認となっているので建設省の治水計画への影響はないものと考える。
(4)排水施設
- ① 丸手賀排水機場
- 降雨時には流域約160km2(柏市、印西市、我孫子市、鎌ケ谷市、白井市、流山市及び松戸市)から手賀沼に流入する洪水を手賀川の流末にて毎秒40m3/sで利根川へ強制排水することで、受益地3,400haを保全しており、近年では、流域の都市開発や道路等の浸水対策にも効果を発揮し、農地以外の社会共通資本の防災対策上も重要な施設となっています。
施設の規模等
- ② 管理方法
- 手賀沼に集まる雨水の量と利根川の水位に応じて、運転の方法を変えます。
- ③ 運転方法
- ふだん手賀沼の上沼の水位はY.P.+2.55m、下沼はY.P.+2.00mに水位を、非かんがい期ではY.P.+1.80mに保つようになっています。(大雨の時は、沼周辺の農地や住宅に浸水の被害が出ないように最高Y.P.+3.75m以下になるように計画されています。(上図)
雨が降り、利根川の水位が手賀沼の水位より高くなって、自然に利根川へ流れなくなると、手賀樋門が閉じられ、排水機場のポンプが運転を始めます。
利根川との水位の差が3.5mまでは、「並列」(図2)で運転されます。それ以上の差になると直列」(図3)に切り替えられ、より強い力で排水されます。
- 手賀排水機場の工事風景
- 第二排水機場
- 第一干拓第一排水機場
(5)調節水門
干拓地造成後の残水域は既耕地を含め本地域の唯一の用水源であり、これに貯留してポンプかんがいで供給する。更に洪水調節の機能をも併せて発揮させる必要がある。排水を良好にならしめるためには、沼水位を常時低く保つことが必要であるが、一方用水源としては所要水量を確保する必要があります。また、本沼の魚類の保護並びに周辺耕地の保水、風致、舟運等に対する配慮から最低水位は、Y.P.1. 50mを要する。更に本沼周辺の既耕地の常時排水の都合から沼水位の常時水位を検討すると上沼沿岸では、 Y.P.3.00m、下沼沿岸ではY.P.2.00m程度であるので、用水源としての所要量4,949,700m3を確保するため下沼でY.P.2.00mを貯水位とし、上沼でY.P. 2.55mまで貯水するものとし用水利用と洪水調節の両機能を発揮させるものとした。
調整水門
- ① 洪水調節要領
- 台風接近と共に調節水門を開放し上下沼水位をY.P 2.40m以下にして、何時でも手賀排水機場が6台運転出来る様態勢にしておく。降雨開始と共に調節能力を増大させるために、手賀排水機場を6台運転し手賀落堀の通水能力に応じてポンプ台数を加減して調整池の水位低下を図る。豪雨による流出量に応じ排水機場運転を続行し内外水位が平水に復すまで行う。
- ② 調節水門の構造
- 主水門 鋼製口ーラーゲート10.0m×2.20m 3門
- 舟通し 鋼製口ーラーゲート5m×2.2m 1門 5m×2.7m 1門
(6)排水路
- ① 手賀水道
- 干拓地の真ん中に造成された排水路で、周辺の排水を受け、末端は手賀排水機場で利根川に排水される。
- ② 金山落水路
- ア. 金山落水路は、鎌ヶ谷市、白井市及び柏市を流域とする水路です。
- イ. 水路が完成した当時、地元の有志で桜が植樹され、春になると多くの人が訪れます。今井の桜と呼ばれています。
- ウ. 平成25年10月の洪水の様子。地元からは、これまで経験したことのない洪水で、農地の湛水、宅地も浸水の被害を受けた。
計画基準年 :昭和23年~32年
かんがい方式:たん水かんがい
かんがい期間:5月11日~8月23日
(1)水源計画
(2)揚水機場
- 泉揚水機場は灌漑面積が8つの揚水機場で最も広い面積を抱え、配水途中に円筒分水が設置されている。円筒分水は、高野山揚水機場掛かりにも設置されている。
泉揚水機場の配水の流れ
- ア. 沼から導水路で泉揚水機場まで導く。
- イ. ポンプで圧送
- ウ. 円筒分水は、18mの高台にあり、円筒分水の中央にはき出された農業用水は、内側の水槽から外側の水槽にあふれ出します。円筒分水の外側の水槽は、分水する2つの地域の面積比率で区切られているため、農業用水が公平に配られるようになっています。
高野山揚水機場
(1)経営規模
1960年センサスでは、1ha未満が49%、1~5haが51%であった。2015年のセンサスでは、1ha未満が35%、1~5haが60%、5ha以上が5%で、50ha以上の農家も7戸も確認される。
(2)農業所得
1960年センサスでは、全農家が農業所得が70万円以下であった。2015年センサスでは、100万円未満が41%、100~1千万円未満が52%、1千万円以上が7%で、5千万円以上は6戸確認される状況となっている。
<参考> 手賀沼干拓事業の歴史的経過
1.手賀沼干拓への試み
事業の沿革手賀沼の干拓の歴史は、古く利根川の治水との関連により何れも完成を見ないで今日に至った。
大規模な新田開発へ最初に挑んだのは、明暦元年(1655)に万屋治右衛門ほか15名が開発の申請を行ったことに始まります。
幕府でも印旛沼・手賀沼の新田開発を目的として寛文6年(1666)新利根川を開削し布川・布佐の狭窄部を締め切り、利根川を付け替えましたが、寛文9年再び旧流路に戻されました。
そこで、寛文10年(1669)、16名の申請人たちは、江戸の海野屋作兵衛を加え、『手賀沼落堀』を開削して手賀沼の水を現在の将監川に落とし、新田開発を行う計画を勘定奉行に提出しました。
しかし、七か村の反対により、結局は寛文11年(1670)、現在の木下から将監川の間は地元の村民の自らの手で『手賀沼落堀』を完成させ、1700年代の初頭までには約360haもの新田がつくられました。
しかしながら、元禄期(1688~1703)には利根川の河床上昇により排水能力が低下して新田への冠水が増え年貢の収納も激減しました。第2回目は、江戸の町人高田茂右衛門友清が井沢弥惣兵衛の指導により、享保14年(1729)に工事を完成させたもので、千間堤を築いて下沼と上沼を分けて別々に排水して下沼に新田をつくりましたが、洪水で千間堤が決壊し、完成から10年で失敗に終わりました。第3回目は、幕府の補助を得て地元の農民が延享2年(1745)に完成させたが洪水により失敗に終わりました。第4回目は、田沼意次が天明3年(1783)に印旛沼の水と合わせて検見川に排水し新田をつくる計画を作り、手賀沼は天明6年に完成しました。その効果は大きく、手賀沼新田は復興の兆しがみられたが、また洪水により水害に襲われたことと、田沼意次が失脚したため完成を見ないまま中止されました。
2.利根川の瀬替え
利根川の瀬替えは、東遷と呼ばれる事業で、会の川の締め切りを始め、赤堀川の開削、荒川の付け替え、鬼怒川の付け替え、小貝川の付け替え、江戸川の開削などがあります。
当時の技術では困難が付きまとい、多くの人命が失われた。また、洪水のたび水は元の流路をたどって流れ、瀬替えした地点から江戸までの広範な地域が幾度となく大きな水害にあっている。
瀬替えの理由は明らかではないが、江戸の食糧を賄うための新田開発、舟運の開発と安定化、東北・伊達藩から江戸の防御、水害の軽減、飲料にする上水、排水路としての下水のためなどと考えられている。
(1)昭和13年の記録
6月11日から降り始めた雨は、やむことなく降り続き27日夜から豪雨と変わり、手賀沼背後台地からの流出水は沼沿岸の道路上1m余りの水高となる大洪水となった。降り続く雨で沼の水位も上昇し沿岸堤防の補強、水田の浸水防止に沿岸農家は止むことのない降雨の中、舟を浮べ鋤簾で泥取作業を進めていたが、背後台地からの大流出水と沼水位の異常な上昇により腹背の大増水のため、努力の甲斐もなく全て水没してしまった。手賀沼と周辺耕地3000ha大海原如く変わり、浸水家屋800戸、田畑1735haは収穫皆無となった。又国鉄成田線布佐駅付近の線路は200mも水没して不通となり、木下町より大森町布佐の間、また木下町大森より永治村、白井村に至る県道、町道等の道路は全て普通となり、大堀川両岸の国道は浸水不通となり、舟運に頼り連絡する状況となった。利根川の水位が下がり手賀沼が自然排水によって減水するまで1ヶ月余に及んだが、沼沿岸の米農家の生活の困憊は極限に達した。利根川の最高水位は布川地先で7月1日20時YP8.04m。
(2)昭和16年の記録
昭和16年は、梅雨期が過ぎても霖雨が降り続き、沿岸の農家は手賀沼と利根川をつなぐ、木下閘門の開くのを一刻も早くと待っていたが、利根川は減水することなく、隅々7月20日集中豪雨に見舞われ忽ちして沿岸低地の水田は水没し、農家は農船を浮べ泥取をして堤防の補強嵩上げを行い、また土俵を積んで欠潰、浸水を防ぐと共に排水のため、石油発動機、電動機にバーチカルポンプ等加えて足踏水車に至るまで排水可能な機械器具の全てを動員して日夜必死に敢闘を続けたが、急激な増水に努力の甲斐もなく、力つき呆然自失の姿となったが未だ水没をみない中の口耕地の浸水をくい止め種籾だけでも確保しようと云う近隣農家の必死の応援も空しく8月6日未明水魔のため中の口耕地もすべて水没してしまった。手賀沼水位最高は、8月7日Y.P.5.10m、利根川水位最高は、7月23日 18時Y.P.10.38m(六軒地先)に達した。昭和16年洪水による水害の状況7月20日印西町浦部地先の大部分、7月21日印西町亀成、浦部、沼南町布瀬の全部、7月22日印西町発作、我孫子市相島、道下、新木、日秀、中里、都部、岡発戸、滝下、沼南町、手賀、片山、泉、岩井、箕輪、大井、柏市名戸ケ谷、戸張、呼塚、根戸、8月6日印西町中の口全部が水没する。
手賀沼干拓土地改良事業は、当初印旛沼・手賀沼国営干拓事業から始まった。
【事業背景】
昭和13年、16年の水害の惨状を契機に、地元からの強い要請を背景に、昭和21年、印旛沼と手賀沼の両沼を含めた計画として干拓事業の着工に至った。
【印旛沼手賀沼干拓建設事業概要】
(1)目的
印旛沼、手賀沼の湛水を疎水路によって東京湾へ排除し両招の湛水被害を除去し、両沼を干拓し沼周辺の既耕地を改良し、食糧増産の実を挙げる事にある。
(2)事業地域と関係面積
本事業地域は、千葉県の北部で利根川に近接する印旛沼、手賀沼の両水面を含む低域の耕地であって、千葉県の印旛、東葛飾、千葉の三郡及び茨城県稲敷郡に跨り36ヶ町村を包括し、共の面積は1万2340haに及ぶ広大な地域である。
(3)両沼の現況
両沼は広大な水面積と流域があるにも拘らず、唯一個の排水を利根川に持つのみであって、利根川の水位が沼水位以上に上昇すれば排水扉門は閉鎖され、両沼内の降雨による悪水は排け口を失って沼内に湛水し、水位は開扉迄増嵩する許りである。近年利根川の改修工事の結果、洪水の到達時間が短縮された為両沼の自然排水の余裕は極めて少なく、加えて大雨量を伴う降雨の頻度が、近年益々大きくなり、その湛水被害は稲作期間において、著しく6564haに及ぶ耕地が冠水被害を蒙った記録を持ち、既往17ヶ年の湛水被害量は年平均1万5千石に及ぶのである。又、周辺耕地は天水田が極めて多く、洪水時には湛水被害を蒙り、一朝旱天時には、又旱害を蒙ると言う状況の下にあり、その被害の実状は義民宗吾の昔から周知の事実である。
(4)排水計画
既往17ヶ年の記録中、最大の豪雨である昭和13年6月、昭和16年7月の降雨は、それぞれ連続雨量630mm、660mmであるが、これを計画の基準として老察を加え、両沼の排水量を決定し、各流域よりの洪水を地形上、可能な限り疎水路へ流集し、東京湾へ排除する。
即ち、沼底平均標高は印旛沼Y.P.1.20m、手賀沼Y.P.1.30mであり、東京湾の平均潮位はY.P.0.76mであるから、洪水時は勿論、平水時に於いても自然排水が可能であり、沼及びその周辺の低位部は自然排水が不可能であるため、全休排水量の60%を水路により自然排水とし、40%をポンプによる機械排水とする。即ち、自然排水路は印旛沼西端平戸地先より東京湾に至る16.5kmの間を底幅約70mに開削し、この印旛疎水路を根幹として各流域よりの排水を承水路によって束京湾へ導く。印旛疎水路は、最大毎秒330m3の洪水を排除する。印旛沼においては鹿島川、高崎川をうける印旛承水路を11.6kmに渡って底幅約46mに開削し、手賀沼においては手賀沼西端柏地先を流頭とする延長15.2kmの手賀沼承水路を底幅約8mに開削し、延長9kmの手賀疎水路を経て、平戸地先疎水路に連絡する。機械排水は、自然排水路に収容し得ない流域の悪水を沼周辺と、中央部に設けられた総延長70km に及ぶ各集水路によって集水し、安食、士浮、亀成、保品地先に設けられた揚水機に依って夫々利根川と自然排水路へ排除する。
安食揚水機場は1,000mm、1,200mm、1,00mmポンプ各4台、土浮揚水機場は1,300mm、1,800mm、ポンプ各2台、亀成揚水機場は500mml台、1,300㎜3台、保品揚水機場は500mm5台を設置する。
事業計画図
参考文献
1.国営手賀沼干拓土地改良事業変更計画書(昭和38年):関東農政局利根川水系調査管理事務所
2.60年の歩み千葉手賀沼土地改良区(平成26年3月):手賀沼土地改良区
3.たんぼを守る 人も守る:手賀沼土地改良区
4.土地改良の歴史(千葉県HP)
5.利根川水系の歴史(関東農政局HP)