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1.笛吹川農業水利事業
2.甲府盆地の農業
3.ぶどう王国
4.信玄の遺産
5.江戸時代の甲府盆地
6.甲府農業の変遷
7.事業の概要

icon 1.笛吹川農業水利事業



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 事業地区は、甲府盆地の東部を南流する笛吹川(富士川の支流)沿岸の台地、塩山市他1市9町2村(現4市1町に合併)に及ぶ5、420haの農地。ここは勝沼町のブドウ、一宮町のモモなど山梨県を代表する果樹園地帯となっています。
 しかし、いずれも標高250m~800mに展開する傾斜地であり、気象条件も年平均気温14℃と盆地特有の日気温差が大きく、果樹栽培には適していますが降水量は1、100m/mと少なく、降雨分布も不均一であるため、恒常的な用水不足をきたしている状況で天候に左右される不安定な農業経営を余儀なくされてきました。

  笛吹川農業水利事業は、治水、発電、かんがいを目的として笛吹川中流に広瀬ダムを築き、笛吹川両岸の畑地に送水するとともに、県営事業によって畑地帯総合整備事業、農道事業等を併せて行なうものです。    この事業は、昭和43年、笛吹川総合開発事業の一環として土地改良事業の調査地区に採択され、昭和46年より国営事業として着工、18年の歳月を経て同63年に完成しました。

icon 2.甲府盆地の農業



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  山梨県の土地面積は約4,254km2であり、富山県(約4、252km2)、石川県(4,197km2)福井県(4,191km2)などとほぼ同じです。しかし、農地面積となると富山県の60,200ha(水田57,800ha)、石川県の45,000ha(水田38,000ha)、福井県の41,900ha(水田38,100ha)に比べて、山梨県は26,000ha(水田9,010ha)ですから、北陸の県の半分から6割程度となります(データはいずれも平成16年)。
  しかし、江戸時代中頃のデータを見ると、富山51,297町、石川(加賀・能登)50,745町、福井(越前・若狭)44,452町に対して、山梨(甲斐)は45,094町ですから、ほぼ互角だったことが分かります。
  またわが国の農地面積がピークであった昭和36年の山梨県における農地面積は51,400ha(水田20,100ha)となっていますので、近年になって半減したことを示しています。これは都市化や工業化もさることながら、山国ゆえの水田の少なさが大きく影響しているものと思われます。
  しかし、山梨県は落葉果樹王国としてブドウ、もも、すももが全国一の面積、生産量を誇るとともに、ワインの生産量も全国の40%を占めて日本一、また、花き・野菜・畜産等においても特色ある農業が展開されています。したがって、農地面積の減少(水田の減少)はいわば土地利用の最適化の結果であり、悲観すべきものではないのかも知れません。
  とりわけ、この事業の受益地である甲府盆地の東部は約9割が果樹園であり、農・工・商がバランスよく配分された独自の田園地帯を形成しています。

icon 3.ぶどう王国



勝沼や 馬子もぶどうを 喰いながら    芭蕉


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大善寺
 甲府のブドウは江戸時代から有名だったようで、松尾芭蕉も俳句に詠んでいます。また江戸中期の代表的儒学者である荻生徂徠も「勝沼の宿は、人家多くし繁昌な所、甲州街道で第一番地、甲州葡萄は此国の名物なり」と記しています。江戸時代には「甲州八珍菓」として、ブドウ、もも、りんご、かき、ざくろ、くり、なし、ぎんなんが挙げられるなど、この地域は古くから果物の産地として知られていました。
  甲州におけるブドウの起源としては2説あるそうです。ひとつは「雨宮勘解由説」、もうひとつは「大善寺説」。
  「雨宮勘解由説」は、1182年、上岩崎(勝沼町)の農民であった雨宮勘解由が石尊宮へ参詣した折に、珍しい山ブドウを見つけて持ち帰り、栽培して実生したものが広まったというものです。もうひとつの「大善寺説」は、718年、有名な僧侶の行基が勝沼の地へ来た際、川岸の岩壁で21日間修行したところ、満願の日に右手にブドウを持った薬師如来像が現われたので、さっそく如来像を彫り、大善寺に安置するとともに、村人に法薬のブドウ栽培を教えたという説です。この大善寺は武田家とのつながりも深く、武田勝頼も戦勝祈願をしています。


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長田徳本の碑
 大善寺も雨宮勘解由の里・上岩崎の近くにあり、いずれにせよこの周辺が甲州ブドウ発祥の地ということになるのでしょうか。この上岩崎は傾斜地であるため水に恵まれず、極貧の地であったと言われています。このような逆境の地が後に全国一になる特産物を生んだことになります。もちろん、その特産物も一朝一夕にできるものではなく、多くの先駆者の努力によってもたらされたものでしょう。ぶどうの棚架法を考案したのは、武田信虎に医者として仕えた長田徳本(とくほん)であるといわれています。彼は上岩崎で棚架法を考案し、ブドウ栽培に革命をもたらしました。また後年、江戸に赴き、徳川秀忠の病気を治したともいわれています。
  江戸時代には、すでに観光ブドウ園のようなものをつくり、明治になると「観光遊覧ブドウ園」として著名人の間では有名になりました。また明治時代には、町の起業家が2人の地元青年をフランスのボーヌ市へワイン研修に派遣し、ワイン産業を起こしています。
  日本で本格的な米の生産調整(減反)が始まるのは昭和45年。すでにこの地域はその2年前に果樹栽培に徹した「畑地かんがい」の道を選んでいます。こうした歴史が示すように、かなり進取の気性に富んだ地域であったことが分かります。
  しかし、こうした気性も水田の少なさ、つまり山間盆地ゆえの農業条件の厳しさが生み出したものと言えなくもありません。

icon 4.信玄の遺産



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武田信玄の館(武田神社)
  甲斐の国はヤマト政権ともつながりが深かったらしく古墳からは三角縁神獣鏡も出土、また、受益地である中道町(現甲府市)の銚子塚古墳は全長170mの前方後円墳で東日本最大級の大きさであり、古事記や日本書紀にもヤマトタケルの話に絡んで甲斐の国は東国制覇の拠点であったような記述が見られます。
  平安時代、八ヶ岳の麓に朝廷用の牧場が3ヶ所設置されます。「甲斐の黒駒」は駿足で知られ、多くの伝説を残しており、戦国時代、全国最強といわれた武田騎馬軍団もこの馬の伝統を生かしたものだったと思われます。
  中世に入るとこの地は甲斐源氏の領するところとなり、いくつかの戦乱に乗じて武田氏が台頭。そして、武田信虎が各地の国人たちとの戦を制し、名実ともに甲斐の守護となります。しかし、相次ぐ戦乱と天候の不順で甲斐領民の生活は困難を極め、晴信(信玄)が父親を追放した時には、「国中の老若男女と牛や馬までが喜んだ」と記録に残されています。


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今に残る信玄堤
  信玄の偉大さは軍団の強さよりもむしろ領国経営の手法に求められるべきでしょう。戦に明け暮れ、豊かな地を武力で奪い合うことしかしなかった当時の戦国大名の中で、彼はまず自分の国を富ます道を選びました。信玄堤として名高い釜無川や笛吹川等の治水事業、新田開発、甲州法度の制定、黒川金山の採掘など、戦国大名としては特筆に価する政治を行なっており、その後、その領国経営は各国の手本となったといわれています。
  とりわけ治水や鉱山技術は水路開削にも飛躍的な進歩をもたらし、信玄亡き後、多くの武田家臣を召抱えた徳川家は、江戸の治水や新田開発に際して甲州流といわれる技術を採用しています。水戸徳川家最大の用水・小場江用水路(約30km)を造った永田茂右衛門も黒川の出身です。

icon 5.江戸時代の甲府盆地



 関ケ原の戦いの後、徳川家康が行なった「石見検地」には、甲斐の石高は約24万石という記録が残っています。甲府の地は江戸初期には将軍家一門が領主となる特殊な領地でしたが、5代将軍・綱吉の時代に大出世をした柳沢吉保に15万石として与えられています。柳沢氏も武田の旧臣であり、甲斐の出身でした。この吉保の時代に現在の甲府市は整備され、城下町として大きな発展を遂げますが、柳沢氏が郡山へ転封になった後は幕府の天領として明治維新を迎えています。

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桜でも有名な徳島堰
 信玄の遺した土木技術は、戦いの終った江戸時代になるとこの地でも遺憾なく発揮されています。
 とりわけ、農民2人が自普請で茅ケ岳山麓に開削した11kmの浅尾堰(1642年完成)はその後何度も延長され、現在では460haを潤すという大用水となりました。
 この用水開削が与えた影響は大きく、同じ茅ケ岳山麓に楯無堰、両村堰も完成しています。また釜無川右岸では舟運を伴った延長約17kmの徳島堰も開削され、現在では500haにおよぶ用水路となっているなど、今日の甲府盆地の水路網はほとんど江戸初期から中期にかけて完成され、今に至るまでに計り知れない恩恵を与えてきています。
 1750年、東山梨郡と八代郡一帯を中心とする「米倉騒動」が起きます。これは、たばこと養蚕の運上金をめぐって農民2万人が蜂起するという大一揆でした。このことは、すでにこの地方では米中心の経済から、たばこ、生糸など換金作物の栽培が盛んになっていたことを物語っています。
 天領としての幕府の支配は、江戸文化との交流にも大きな影響を与えました。幕府が甲府に設置した甲府学問所は一般の有志にも門戸を開放し、多くの寺子屋や塾を開かせることになりました。
 驚くべきことに、明治3年には詫間、山田両氏が日本で初めてワインを醸造し、同10年には2人の青年をフランスに送ってワイン造りを学ばせています。この地の進取の気性もこうした江戸の開明的文化がもたらしたものと言えなくもありません。

icon 6.甲府農業の変遷



 明治時代に入ると、政府の殖産興業政策のもとで養蚕、製糸業が飛躍的に発展することになります。また多くの先駆者の努力により果樹なども新品種が導入され、果樹の生産も次第に広がりを見せるようになります。
 この養蚕を中心とする農業経営は、昭和30年代まではこの地の主力産業でしたが、生糸の価格が低迷すると、果樹栽培へと転化する農家が急増することになります(下グラフ参照)。とりわけ昭和33年、新笹子トンネルの開通や国道20号の整備により、首都圏に近いという立地条件を生かして果樹、野菜、畜産などの商品作物へと急速に移行します。

 昭和61年における果実の粗生産額は、全農業生産額の49%を占め、ワイン生産量も全国の56%のシェアーを占めるまでに成長しました。甲府市の市街地近郊の水田などでも、ナス、キュウリ、トマトなどの蔬菜栽培が急増しています。
 したがって、山梨県における土地改良事業は昭和40年頃までは米作のためのかんがい排水事業が中心でしたが、40年以降は畑地かんがい事業が実施されるようになります。釜無川両岸は江戸時代から続く水田地帯でしたが、昭和49年に完了した釜無川農業水利事業でも、受益地は水田1、583ha、畑地1、753haとすでに畑作志向が顕著になっています。
 こうした時代を見越したかのような独自の農業展開。信玄の領国経営の遺伝子が今に受け継がれていると見るのは穿ちすぎでしょうか。

icon 7.事業の概要



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県営広瀬ダム
 本地域は山梨県のほぼ中央に位置し、甲府盆地の北東、笛吹川が山地より平野部に移行する塩山市藤木地先より、釜無川と合流し富士川となる両岸の丘陵地の樹園5、420haからなり関係市町村は塩山市外1市9町2村です。
 地形は県を南北に縦走する富士川の支流、笛吹川沿岸の丘陵地及びそれに流入する重川、日川、金川等の扇状地からなり、いずれも標高250m~800mに展開する緩一急傾斜地となっています。
 この地帯の気象条件は、年平均気温14℃で、盆地特有の日気温差が大きく、果樹栽培に適していますが、年平均降水量は1,100mmと少なく、降雨分布も不均一であるため、恒常的な用水不足をきたしている状況で、気象条件に左右された不安定な農業経営が行なわれてきました。


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 当事業は、畑地かんがいに必要な用水を確保するため新規水源を、山梨県が治水と水利用による沿岸地域の開発を目的とし笛吹川総合開発事業の一環として笛吹川上流に築造する広瀬ダムに求め、塩山市藤木に建設された発電用の藤木調整地に取水工を設けて最大4.48m2/sを取水し、笛吹川左右岸の受益地に送水するものです。
 このため、導水路8.4km(共同区間)、幹線水路47.4km、副幹線水路49.05km、調整池20ケ所、揚水機場10ケ所等水利施設を建設し、あわせて関連事業により、スプリンクラーにより、計画散水と防除施設の導入及び農道網整備事業等農業基盤を整備します。

  また、用水の適正な配水操作の省力化と合理化並びに水利施設の安全性確保のため、集中監視制御を行なう水管理システムとして、遠方監視制御装置を設置して、従来の不安定な農業から脱却し生産性の向上と農業経営の安定増大を図ることを目的とした事業です。


主要工事の概要
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計画平面図
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山梨県 ―笛吹川農業水利事業