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1.釜無川右岸地域の状況
2.信玄堤で守られる農地
3.江戸の住人徳島兵左衛門俊正
4.幕府による維持管理
5.安定的な取水を目指して
6.釜無川右岸畑地かんがい事業
7.果樹王国の故郷に
8.梨北米と桃源郷を支えて

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釜無川の徳島堰取水口

icon 1.釜無川右岸地域の状況



 釜無川右岸の地域は、甲府市の北西約10kmの釜無川右岸で南アルプス連峰の麓に位置し、釜無川の段丘扇状地と御勅使川扇状地にまたがる、北部が水田地帯で、南部は果樹地帯に連なる地域で、関係面積は約〇haに及んでいます。この地域に欠かすことが出来ないのが延長約17kmに達する県内最大の農業用水路「徳島堰」です。

icon 2.信玄堤で守られる農地



 北西から南に流れる釜(かま)無(なし)川(がわ)と、南アルプスから東にむけて流れてくる御(み)勅(だ)使(い)川(がわ)が現在の信玄橋の付近で合流し、御勅使川の水力によって釜無川が甲府の方向にむかい、大きな水害をもたらしました。武田信玄は御勅使川の扇頂部を固定させ、河道を整理して二つの河道をつくり固定しました。その分流工事の中心となったのが先端の将棋頭(しょうぎがしら)で、韮崎市南割には巨大な石(十六石)を水制としておいて、合流した流れを高岩にむかわせ、高岩で流れの勢いをそいで、川を南にむけたのち、竜王には霞堤(かすみてい)を設けました。川の流れを中央にむけるために出しとよばれる水制と堤防とを雁行状に築き、さらにその背後に不連続の堤を築く工事は天文11年(1542)にはじまり、弘治3年(1557)に終わった。こうした治水事業がほぼ終わると、信玄は永禄3年(1560)8月に、旧河川の跡に竜王河原宿を設定する計画をたてました。
 これが従来の信玄堤の解説です。しかし、この治水工事は天文11年から弘治3年までとされながら、その模様を伝える古文書は1点も存在せず、当時の記録にすらまったく関係記事がなく、おそらく信玄の治水はすでに存在した河道の固定をしたにすぎず、実態は工事の規模も小さかったであろうと思われます。
 そうはいっても、図に示すように、御勅使川と前御勅使川には幾筋もの霞堤が造られており、洪水による直接の田畑への被害を軽減していました。

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信玄堤の状況

icon 3.江戸の住人徳島兵左衛門俊正



 徳(とく)島(しま)堰(せぎ)は、韮崎(にらさき)市円野(まるの)町上(かみ)円井(つぶらい)から中(なか)巨(こ)摩(ま)郡(ぐん)白根町(しらねちょう)曲(くる)輪(わ)田(だ)新田に至る総延長17kmの農業用水路です。山梨県では用水路を「堰(せぎ)」と呼んでいます。この徳島堰は、今から約350年前に江戸深川の住人徳島兵左衛門俊正により開削されたものです。
 身延山参詣の折、この地を通った徳島兵左衛門は、原七郷の水利のため堰を開削する計画をたて、甲府藩の許可を得て、寛文5年(1665)上円井の釜無川右岸から当堰の工事にかかった。途中の矢口沢・八ケ峰の難所を切りぬけて、多くの沢には埋樋(板樋)を用い、御勅使川の下は暗渠として、寛文7年には曲輪田新田まで通水しましたが、洪水により被災したため、それまでの工事費4,165両を補償する条件で堰を甲府藩に御入用堰として譲渡し、姿を消しました。このことは、開通に伴って永代年貢1割を与える事を藩がきらい、退去させたと考えられます。
 同年に甲府城代・戸田周防守が有野村矢崎又右衛門に復旧を命じ、寛文10年(1670年)に堰は完成して翌年に工事費と水代、年貢などを精算し、堰は藩の管理下におかれました。
 徳島堰の取入口は、上円井村で釜無川と小武川とが合流する地点が選定されました。その施設をみると、釜無川を締切るために川を直角に横断する長さ45間(81m)、高さ4尺(1.2m)、敷2間半(4.5m)、馬踏なしの石積みが造られました。そして粗朶や筵が使って集水が行われました。この締切りは苗代水引入れの時期に設置し、秋彼岸を期限に撤去されました。
 用水路は、堰完成当時、上円井村釜無川取入口から曲輪田村人輪沢まで4里22町(約17km)で、その巾は取入口からこの水門までは、上口4間(7.2m)、敷3間(5.4m)、この水門から三ツ沢までは上口3間、敷9尺(2.7m)でした。用水路の設置場所は、急な傾斜地であるため、高地では掘割り部分もありますが、右岸側は掘取りで、左岸側は盛り土で、護岸には石積みよりも柵(しがらみ)(即ち杭を打ち並べ、木や竹をそれに絡みつかせた)護岸でした。

icon 4.幕府による維持管理



 徳島堰の取入口の締切りは時代が下るに経て、決潰を防くために石積以外の施設が加えられるようになりました。文政12年(1826)頃になると、高24尺3寸、堅横1丈1尺四方の沈枠を29新宛2側、川を直角に埋め、蛇籠は三本・二本・一本と三重に重ねて締切るようになりました。幕末には更に、沈枠を31組づつ2通り、そのほか鳥居枠31組、弁慶枠2組などを加えました。
 水路は、堰(水路)右岸は急傾斜の山地であるので降雨の際には、雨水が堰へ流れ込むので崩壊することも多くあり、さらに、扇状地帯を横断するので水の浸透も甚だしく、特に御勅使川扇状地に入ってからよく浸透しました。
 寛文10年から36年後の宝永3年(1706)には、かんがい面積が21ヵ村で264町歩。享保9年(1724)には、水掛村22ヵ村の村高12,200石余になっています。そして、江戸時代末期には、「徳島堰は延長4里8町旧22ヵ村を経過し、かんがい面積560町余に達す。(明治前日本土木史)」となっていました。
 明治維新に至るまで、約200年間、徳島堰は幕府の経営に属し、定式(ていしき)普請の際は年々高100石に付き人足50人の夫役を課し、なお50人の御扶持米人足とし1人に付き7合5勺あてが支給されました。小修繕は地元の支弁としました。
 用水取水設備は、釜無川を横断して設置した枠堰により河床を固定したが、水叩工および沈砂池の設備が無いために、水叩剖の洗掘が著しく、洪水の都度破壊される状態であった。しかも枠堰の上流部には笈(おい)牛(うし)および中聖(ひじり)牛(うし)等で仮締切工を設けて導水しなければ用水引用が困難であったため、流水とともに水路内に土砂の流人が著しく、浚渫費・修繕費を毎年必要とする上に、高水の都度仮締切工が流失するため維持費に多額を必要とする状況であった。取水口以下の幹線水路は、すでに開削後、約200年を経過し、水路は山腹を迂回する素堀空石積の護岸箇所が多いため、自然に承水路の役も果し、特に途中に多数の渓流を横断するために降雨が連続すると、渓流の土砂が流入して水路は埋没崩壊の被害を受けた。したがって洪水の都度災害を受けるために、毎年修繕土木費だけで8,000円以上の経費を必要としていた。このような復旧工事は応急的施工のために、漏水個所や護岸の不良な個所が多くなり、徹碇的措置をとらなければならない状況であった。

icon 5.安定的な取水を目指して



 寛文4(1664)年、江戸の人徳島兵左衛門は、北巨摩郡円野村釜無川右岸に用水路を掘り牛(うし)枠(わく)蛇(じゃ)籠(かご)造りの仮堰で取入れ円野村外9ヵ村を養いました。この取入れ地点は、その上流900m(500間)に小(こ)武(む)川(かわ)が合流し、川幅約80間(m)、勾配約1/80で河床転石が多く、土砂流入また夥しく、洪水毎に取水堰は流失し、修築改築を繰り返しました。
 明治45年(1912)には、公費13,000円で取入れ施設が改築されました。その工法は幅7.2m(24尺)、延長135m(450尺)の洗堰で、取入口を堰の右岸に石造樋門で幅1.8m(6尺)、高1.8m(6尺)の木扉2連を設けていました。
 昭和13年(1938)には、「県営徳島堰用水幹線改良事業」に着手し、再度大改築が行われました。この時の工法は、堰主体は延長104mで、内部玉石コンクリートで、外層石張り工、堰高地盤上2.5m、堰主体敷幅5.5m、石張りコンクリート水叩(みずたたき)長8.0m、止水壁3ヵ所つけていました。そして、堰最下流に長さ20mの小西式4層の木工沈床を付けていました。
 取入口水門は巾2m×2門、鉄筋コンクリート造切石張工で、その前面に円弧形砂止め水越土台を付けていました。土砂吐は堰の右端取入口寄りにあり、3門は巾3.6mの角落し、2門は巾1.8mの巻揚式で、最大放流量76㎥/secを予定し、取入水門敷より1m低くしていました。さらに、その隣には巾2.1m、長さ13.2mの階段式の魚通り(魚道)が設けられていました。
 この事業は昭和17年(1942)に竣工し、取入水量が約6㎥/secで、受益面積が円野村外10ヵ村808町歩に及んでいました。


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徳島堰取入口付近平面図


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徳島堰頭首工土砂吐樋門構造図

icon 6.釜無川右岸畑地かんがい事業



 本事業地域は、釜(かま)無(なし)川(がわ)の右岸に展開する韮崎市外6ヵ町村の南北20数km、東西6kmにおよぶ耕地3,336haを受益地としています。この地域の水田用水は水源を釡無川に求め徳島用水路(徳(とく)島(しま)堰(せぎ))16.6kmによりかんがいしていますが、300年近い年月により水路は全線にわたり老朽化し、災害対策等により局部的に改良されたとはいえ、ほとんど昔のままの石積の姿で通水中の漏水は甚だしく、また豪雨の際には決壊の脅威を受けていました。また地区の中央部は、御(み)勅(だ)使(い)川(がわ)により形成された大規模な扇状地帯で、果樹園、桑園からなる畑作地帯で、地下水位が低く浸透性も大きいうえにかんがい施設がなく、天水に頼る常習干ばつ地帯のため、農業経営は極めて不安定な状況にありました。
 このため御勅使川扇状地の畑作地帯に対する農業用水の確保と徳島堰の改修が、地元農民の間に強く熱望され、農林省(現農林水産省)は国営釜無川農業水利事業としてとりあげ、昭和40年(1970)10月事業所を開設し、事業に着手して以来、国営事業に伴う附帯県営事業が昭和43年度に、団体営事業が昭和44年度にそれぞれ着工されました。
 国営事業では、既設の徳島用水路16.6kmをコンクリート水路に改修して漏水を防止し、併せて取水施設である徳島頭首工を全面改修し、釜無川より7.72m3/sを取水し、用水改良の水田地域963haにかんがいすると共に、新たに御勅使川扇状地に貯水量15,200㎥の調整池を設け、畑地かんがい地域1,753haに導水するパイプライン(主幹線1,528m、1号幹線3,054m、2号幹線4,844m、3号幹線5,246m)を施工しました。附帯県営事業では枝幹線が布設され、団体営事業では最末端の小支線、電磁弁、スプリンクラーを設置しました。これら事業は、昭和49年(1974)9月に完成し、畑地かんがいは、調整池に設けられた総合監視装置により各ブロックに均等に配分された水を農協単位に設置された自動制御装置により、スプリンクラー自動散水されています。この事業により、地区全体の用水不足が解消され、農業経営の安定と合理化が図られています。

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国営釜無川農業水利事業平面図


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徳島頭首工一般平面図


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徳島頭首工土砂吐構造図

〇事業費および工期
 事業費 2,804百万円
 工 期 1965(昭和40)年度~1974(昭和49)年度



(以上、写真提供:釜無川右岸土地改良区連合)

icon 7.果樹王国の故郷に



 昭和33年の繭の生産過剰と不景気による糸価暴落、台風・早魅・きよう蛆(寄生蛆)被害などの災害があいついで襲い、養蚕農家は昭和32~34年の4万戸をピークに以後漸減していった。
 この養蚕業の凋落と、おりからの高度経済成長を背景とする労働力の流出に対応すべく、農業生産の選択的拡大、主産地形成を目指す農業構造改善事業が推し進められた。山梨県では米麦・養蚕に代わる果樹・畜産・野菜栽培の導入、とりわけ果樹作付けの大幅な増加がこれである。
 笹子トンネルの開通は大消費地である京浜地区との時間距離を大幅に短縮した。また、戦後の食生活の改善は、それを背景とする果実の需要を増大させ、果実の生産額は飛躍的に増加した。種なしブドウをつくりだすジベレリン処理の成功、ビニール栽培の普及などにより、昭和35年のブドウの栽培面積は30年の約2倍の2,600haとなり、さらに40年には3,700haへと増加した。モモも無袋栽培技術の実用化、早生種の普及などで栽培面積が拡大していった。
 果樹栽培の伸びは、昭和36年に東郡の果樹生産地帯石和町の一角に温泉が噴出したこともあいまって、ブドウ狩りなど観光と果樹とをセットにした観光農業の発展をうながし、「果樹王国山梨」を築いていった。
 一方、果樹園面積は増加し続ける。昭和33年10月5日の『山梨日日新聞』は「果樹への切り換え本腰を入れる塩山市」と題する記事で、桑園や畑地を果樹や園芸とする畑地転換に本格的に取り組みはじめたことを報じている。しかし、ブドウとモモの栽培面積の推移はかなり異なることも事実である。
 ブドウの栽培面積は、昭和32年にいっきょに倍増した。この背景には新笹子トンネルの開通とデラウェアを新品種のように生き返らせたジベレリン処理による種なしブドウの誕生がある。一時的な停滞ののち同45年を境に増加に転じ、昭和57年には517haとなる。一方、モモの栽培面積は、昭和40年代の初頭まで急増が続き、昭和39年にはブドウの栽培面積を、同42年には桑園面積を抜く。しかし、40年代にはいると伸び方はにぶり、昭和45年には昭和30年当時の3倍の473haを記録するが、横ばいで推移し、昭和53年にふたたびブドウの栽培面積に抜かれる。また、スモモの栽培面積は昭和40年代の半ばから登場し、50年代半ばまでは増加する。かつての養蚕地帯は果樹地帯にかわっていったのである。
 しかし、昭和50年代にはいると果樹生産にも伸び悩み傾向がみられる。これは、昭和45年以降しだいに顕在化してきたように農家数の滅少がはじまり、50年代になると塩山市域では養蚕業や果樹生産の頭打ち状態を背景に、比較的経営規模の小さな農家の農業離れが進んだと考えられる。

icon 8.梨北米と桃源郷を支えて



 お米の食味ランキングは、毎年(一財)日本穀物検定協会から公表されています。この中で、山梨県の峡北(韮崎市・北杜市)産「コシヒカリ」は平成27年産を含めて、9回(平成17~21年、平成24~27年)「特A」に認定されています。南アルプス連峰と八ヶ岳からのミネラルたっぷりの水と肥沃な土地、長い日照時間がお米をおいしく育てています。
 南アルプス市の一帯は、桃源郷と呼ばれる桃の花が見事です。

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徳島堰と桜

 国営かんがい排水事業「釜無川」地区の用水施設は、国営釜無川右岸土地改良事業(昭和40年度~昭和49年度)により整備された韮崎市及び南アルプス市にまたがる1,930haの農業地帯において、水稲及びぶどう、もも等の果樹を中心に、水田の畑利用による豆類、野菜等を組み合わせた営農が展開されてきました。しかしながら、造成後約40年が経過し、管水路の継手部から漏水が発生するなど、性能低下が生じていることから、今後のさらなる性能低下の進行により、農業用水の安定供給に支障を来すとともに、施設の改修等に多大な費用を要することとなります。
 このため、本事業において、基幹的な農業水利施設の機能を保全するための整備を行うとともに、関連事業において末端施設の整備を併せて行うことにより、農業用水の安定供給と施設の長寿命化を図り、農業生産の維持及び農業経営の安定に資するものです。
 工  期  平成○年~○年
 総事業費  30億円

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国営釜無川農業水利事業平面図


参考資料

  1 『明治以前日本土木史』、土木学会、岩波書店、1973
  2 『山梨県土地改良史』、山梨県農務部耕地課、1972
  3 『国営釜無川農業水利事業竣工写真集』、関東農政局釜無川農業水利事業所、1974
  4 『国営釜無川農業水利事業竣工図集』、関東農政局釜無川農業水利事業所、1974
  5 『日本水利施設進展の研究』、牧隆泰、土木雑誌社、1953
  6 『角川日本地名大辞典山梨県』、角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店、1984
  7 『釜無川右岸畑地かんがい事業概要書(平成9年3月)』、釜無川右岸土地改良区連合
  8 『徳島堰の概要(平成14年1月)』、徳島堰土地改良区
  9 『1/50、000地形図:韮崎・鰍沢・御岳昇仙峡・甲府(平成○年度版))』、国土地理院
  10 『国営かんがい排水事業釜無川地区事前評価書』、農林水産省、