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1.天竜の激流
2.伊那盆地の農業
3.段丘上の水不足
4.大規模水利事業の実現
5.取り残された西部台地
6.国営伊那西部農業水利事業の実現
7.国営伊那西部農業水利事業の概要

icon 1.天竜の激流



 天竜川。流域延長213km、日本第9位の長さを誇るこの川は、長野県の諏訪湖を源流とし、愛知県をかすめながら、静岡県の遠州灘(えんしゅうなだ)へと注いでゆきます。
 川の名前の多くは、その地名や成り立ちに由来するといいますが、「天竜川」とはなんとも雄大な名前ではないでしょうか。東西を赤石山脈(南アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)という日本の屋根にはさまれ、200近い支流の水を集めながら南下するこの大河にふさわしい名前です。
 かつては、天高くそびえる峰からの雨を集めて流れるその姿から「アメノナガレ(天流)」と呼ばれていたそうで、いつしかその激しい流れから「天に昇る竜」の名へと転化していったようです。
 急峻な地形の中を竜のごとく流れる天竜川の奔流は、古来より人々の畏怖の対象であったようです。沿岸の低地では数多くの洪水記録が残されています。

icon 2.伊那盆地の農業



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 東西を山地に挟まれた伊那盆地。伊那谷ともよばれるこの地で、人々が生活を始めたのは、一万年ほど前の旧石器時代にさかのぼるといわれています。
 その後、稲作が伝わると、人々は天竜川沿いの低地やその支流の沿岸に水田を営み始めました。現在、鉄道や道路開発が進み市街地となっている地域です。天竜川の流れによって運ばれる肥沃な沖積土を利用したこの地の農業は、しかし、決して恵まれたものではありませんでした。
 冒頭にも述べた通り、洪水被害がひどく、古くは、701年に天竜川最古の水害記録が残されていますが、あふれ出る激流で、伊那盆地はあたかも湖水のようなありさまとなったといわれています。洪水の被害は、昭和に入り、国が本格的な堤防建設を始めるまで続いており、大雨の際には、せっかく耕した水田も一度に流失してしまい、それを復旧するのに三年、元のように収穫できるまでには、十年がかかったといいます。
 また、水利の便の問題もありました。水量の豊かな天竜川ですが、複雑な地形のため、沿岸部以外では水を引くのが困難で、支派川の中には水が地下へともぐってしまっているところもありました。そのため、天竜川とその支流には、規模の小さな取水堰が数多く設けられ、各地でわずかな水をめぐっての争いが起こることもしばしばでした。

icon 3.段丘上の水不足



 また、なお困ったことに、天竜川の両岸は、河岸段丘と呼ばれる階段状の峡谷となっています。伊那市西箕輪羽広は、天竜川の沿岸低地から直線距離にして6kmほどの距離にありながら、高低差にして300m以上も高い段丘上に位置しています。この6km間の違いで、桜の開花の時期にも一週間前後のずれが生じるほど気候などの条件も大きく異なります。
 ポンプのなかった時代、1mでも高い位置の土地に水を運ぶことは、ほぼ不可能です。川から距離も高さも格段に遠ざかったこの段丘上での水不足が、どれだけ深刻な問題だったか、想像に難くはないでしょう。わずかな湧き水を長い水路で引いてきたり、ため池を築造したりと人々は苦労を重ねましたが、十分な水が得られることは望むべくもありませんでした。
 多くの水を必要とする水田はあきらめ、夏には、陸稲、粟、稗(ひえ)、大豆、そばなど、冬にはわずかに小麦が栽培されていましたが、生産性はきわめて低く、換金作目としての養蚕を中心とした生活が続けられました。

icon 4.大規模水利事業の実現



 農民たちの水への希求の思いは強く、江戸時代の天保年間には、伊藤伝兵衛によって三峰川(みぶがわ)から水を引く10kmの水路が開削され、伝兵衛用水と名付けられました。また、明治6年には、木曽山脈の向こう側の奈良井川の最上流部から9kmの水路を開削し、木曾山用水が建設されます。
 しかし、いずれも部分的な改善でしかなく、江戸期以降、人々は抜本的な解決法として、上流の諏訪湖から水を引く開田計画を切望してきました。しかし、技術的に困難だっただけでなく、上流の藩の同意が得られなかったなど問題が重なり、実現には至りませんでした。
 人々の悲願が実現に向かうのは、大正時代に入ってからのことです。大正7年の米騒動を受け、翌8年に開墾助成法が発布されたのを契機に、西天竜耕地整理組合が設立、認可され、「西天竜開発事業」の県費による補助が決定します。大正11年、事業が着工され、昭和3年には、上流岡谷市から右岸の段丘上を通る26kmもの水路が完成しました。人力の工事が主なこの時代、いくつものサイフォン、水路橋を設け、水を届けるこの事業は、農業土木史上画期的な大規模工事と呼ばれ、約1,200haもの水田が開発されました。
 昭和38年には、天竜川沿岸の標高640~674mの細長い水田地帯に、既存の取入口17箇所を統合する頭首工を建造する「伊那農業水利改良事業」が完成します。さらに、昭和40年には、天竜川の最大支流である三峰川の河岸段丘に、美和ダム(昭和34年築造)から取水した水を届ける「三峰川沿岸農業水利改良事業」が実施されました。

icon 5.取り残された西部台地



 しかし、これらの地域で、次々と大規模水利事業が実現するも、隣接する標高700m~900m付近の山麓部では、依然として水不足にあえぐ生活が続けられました。
 もちろん水を求める声があがらなかったわけはなく、彼らは戦後すぐの時期から国や県へと必死に陳情を繰り返しています。しかし、関係市町村の受益面積の関係などから、なかなか足並みがそろわなかったこと、計画の主水源である諏訪湖周辺集落やダム構築予定地点から反対の声が起こったことなどから、計画の実現は困難となります。
 昭和38年には、天竜川からの揚水と地下水の揚水による「伊那北部地区計画」が立案されますが、水利権の確保が困難な状況であったこと、地下水位が低いことなどから、水価が高くなり、またもや開発計画が困難であることが明らかとなります。様々な調査、計画が行われましたが、いずれも必要な用水量は確保できませんでした。
 行き詰まったこの状況に、一大転機が訪れるのは、昭和40年のことです。中央自動車道が地域内を縦断することが決定し、地域住民は用地買収と引き換えに、農業開発を国営事業として行うよう交渉を始めました。西天竜用水の余剰水および排水を利用するという案のもと、粘り強く交渉が続けられました。

icon 6.国営伊那西部農業水利事業の実現



 ようやく長年の夢である事業実現への目処が見えてきたにもかかわらず、昭和44年度からは、米の過剰状態から生産調整が開始され、開田計画は畑地かんがい計画へと大きく変更されます。開田への願いのもと、運動を続けてきた農家の動揺は激しいものでした。しかし、どんな作物によって営農を行うにせよ、水は必要不可欠、農民たちのこの想いは強く、昭和46年、ついに「国営伊那西部農業水利事業」が採択されました。
 多年にわたる願いが結実し、台地上の3,300haもの土地に悲願の水が行き渡ったのは、昭和63年のことです。総合的、効果的に開発整備を図るため、昭和46年度には「県営広域営農団地農道整備事業(大規模農道)」が、昭和47年度には「県営畑地帯総合土地改良事業」が採択され、畑地かんがい施設、区画整理、農道の整備があわせて実現しました。
 広漠たる林野と荒廃した桑園が広がっていたこの地は、かつての歴史を脱ぎ去るかのように、現在、各種の野菜、なし、りんご等の果樹を中心に、豊かな実りを生み出し続けています。


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取水工
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アスパラ畑のスプリンクラー

icon 7.国営伊那西部農業水利事業の概要



(1)受益地
辰野町、箕輪町、南箕笠輪村、伊那市の1市2町1村

(2)受益面積
畑地かんがい : 2,670ha
水田の用水補給 : 617ha
計 : 3,287ha

(3)主要工事
揚水機 : 第1機場(かんがい面積 3,287ha)
第2機場(かんがい面積 1,399ha)
用水路 : 集水路(かんがい面積 3,287ha)
第1送水路(かんがい面積 3,287ha)
第2送水路(かんがい面積 1,399ha)
上段北幹線(かんがい面積 787ha)
上段南幹線(かんがい面積 612ha)
下段北幹線(かんがい面積 795ha)
下段南幹線(かんがい面積 1,093ha)
調整池 : 14ヶ所(有効水 2,200~6,000m3)
分水工 : 19ヶ所
水路総延長 : 39,233m

(4)事業期間
着工 : 昭和47年10月
完工 : 昭和63年3月



長野県 -国営伊那西部農業水利事業