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1.「暴れ天竜」の激流
2.開発の萌芽
3.降れば洪水、照れば渇水
4.二人の義人
5.大規模水利事業の実現
6.戦火の中での開削
7.天竜川下流農業水利事業
8.天竜川下流農業水利事業の概要

icon 1.「暴れ天竜」の激流



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 天竜川は、長野県の諏訪湖を源流とし、愛知県をかすめながら、静岡県の遠州灘へと注ぐ日本有数の急流河川です。「天竜」という猛々しい名が表すとおり、古くから、暴れ川として恐れられ、水害の歴史を挙げれば、枚挙にいとまがありません。
 天竜川の流域には、中央構造線をはじめとする多くの断層が走っているため、土地が崩れやすく、大量の土砂が下流へと運ばれます。洪水時には、この土砂が激流によって押し流され、さらに壊滅的な打撃を与えました。殊に、下流部での被害はひどく、怒涛のような流れと、おびただしい土砂の流出で、流路すら変えることも、しばしばでした。
 天竜川には、「鹿玉川(あらたまがわ)」、「広瀬川」、「小天流」、「天の中川」など、時代によっていくつもの呼び名が残っており、奈良時代のあたりには、現在より西の三方原(みかたはら)台地側を、鎌倉時代には、東の磐田原台地側を流れていたようです。西に東に、激流が猛威をふるっていた様子が想像できます。
 古くは『続日本書紀』に、「山崩れて鹿玉河を塞ぎ水これがために流れず、数十日を経て敷地、長下、石田三郡の民家百七十余区を壊没する」との記述が残されています。古代や中世の人々の土木技術では、この「暴れ天竜」の激流に太刀打ちすることは到底不可能で、辺りには広大な氾濫原野が広がっていました。

icon 2.開発の萌芽



 この天竜川で初めて本格的な水路が造られるのは、時代を大きく下った戦国時代のことです。各地の戦国大名が覇権をめぐって、しのぎを削り、自国の国力の増強を目指したこの時代、天竜川でも大規模な治水、利水事業が試みられます。
 1588年、当時、浜松城主として遠江(とおとうみ)を支配していた徳川家康は、この荒れ狂う大河から水を引く寺谷用水の開発に取り組みました。工事を任されたのは、家臣であった伊奈忠次(いなただつぐ)と、在地の代官であった平野重貞でした。水路は、天竜川の右岸、現在の磐田市あたりに、支流を利用し、開発されました。
 二年後の1590年、彼らは、見事延長12kmもの水路の開削に成功、そのかんがい面積は73ヶ村、約1,668haにも及びました。天竜川の豊富な水を利用した農業は、その後、2万石もの収穫をもたらしたといいます。
 この事業に当たった伊奈氏は、利根川の付け替え、見沼代用水、葛西用水など、関東平野の治水や新田開発事業に携わり、数々の偉業を成し遂げたことで有名な家系です。その技術は「関東流(伊奈流)」と呼ばれ、江戸中期まで幕府の工法の基礎となりました。
 ともかく、この歴史に名高い伊奈忠次の手によって、天竜川の豊満な水を利用した農業がようやく萌芽を迎えることとなったのです。


icon 3.降れば洪水、照れば渇水



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 しかし、寺谷用水の東側、天竜川から離れた磐田原台地では、その後も、依然として太田川、原野谷川(はらのやがわ)などの小河川を利用した農業が続けられました。水量の少ないこれらの河川では、少しの日照りでもすぐに水が枯れてしまい、常習的な水不足に苦しめられました。さらに悪いことに、これらの河川は、川幅が狭く、屈曲しており、大雨が降ると、必ずと言っていいほど堤防が決壊し、田畑、家畜、全てが濁流によって押し流されました。
 同じことは、天竜川の西側、安間川(あんまがわ)、馬込川(まごめがわ)の流域でも起こっており、繰り返し襲いくる洪水と渇水に苦しめられる生活が続きました。この地の洪水の記録は特に壮絶で、辺り一面海面同様の状態となり、船、筏で往来し、炊き出しも追いつかず物乞いが現れるなど、惨状は筆舌に尽くしがたいものがあったといいます。荒れ狂う濁流と土砂に田畑は埋もれ、五年や六年では復旧の目処が立たないこともありました。
 一方、1733年には、磐石かと思われた寺谷用水も、流出土砂の堆積などによって川の流れが変わり、取水が不可能となってしまいます。そのため、1738年には、再び8km上流まで水路を開削し、取水口を移動させます。しかし、この取水口も、洪水によって土砂が流れ込んで破壊され、再三にわたる修復、変更を余儀なくされます。崩されては修復、修復すると破壊。用水管理の労苦は、並々ならぬものでした。


icon 4.二人の義人



 さて、このような状況の中、天竜川を挟んだ東西で、人々を惨状から救うべく、奮闘する二人の人物が現れます。
 まず、一人は、江戸時代末期の1830年、幕府の普請役として天竜川東部の太田川流域へ派遣された犬塚雄一郎です。土木技術に精通した犬塚は、一帯の水利状況を調査し、現在の太田川、原野谷川(はらのやがわ)からの取水では、どうしても水が足りないとの結論に達します。そして、それを解決するため、磐田原台地の北にある社山(やしろやま)に一大トンネルを打ち抜き、天竜川からの水を引く「社山疏水事業」の計画を打ち立てました。
 これは、後の大規模水利事業の原点ともなる着想。犬塚は、この壮大な構想の実現のため、各地を奔走しましたが、時期尚早というべきか、関係者の同意を得ることができず、着工には至りませんでした。しかし、その後も、明治、大正、昭和と、犬塚のこの志は絶えることなく受け継がれていくことになります。

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金原明善
 もう一人は、天竜川の西側、右岸1kmほどのところに位置する安間村の実業家、金原明善(きんぱらめいぜん)です。同じく江戸末期の1832年、この地に生まれた金原は、一帯が水浸しになるような大洪水を幾度も体験し、度重なる氾濫に疲弊しきった人々を見て育ちました。特に金原が29歳の時に起こった大洪水はひどく、三方原と磐田原との間が一面の湖のようになったといいます。
 度重なる災害から逃れるすべも、復興のゆとりも持たぬ人々の姿に、金原は、天竜川の治水事業を一生の課題として取り組むことを決意します。私財を投げ打ち、堤防の補強や改修などの事業に献身的に取り組みました。この金原の働きが、後の用排水改良事業実現への礎となっていきます。


icon 5.大規模水利事業の実現



 江戸時代の終わりに犬塚雄一郎の提唱した社山疏水構想は、その後、時代を経ても引き継がれ、明治に入ると、12年もの歳月をかけた調査が行われます。明治17年、ようやく工事は着工へと至りますが、しかし、途中で設計ミスが見つかり、明治21年、ついには一滴の水も流れないままに中止となりました。
 難工事の末の無残な結末に、あきらめきれない人々の無念の声は、大正時代、抑えきれないほどに高まり、大正15年、再び事業は、着工に向けて動き出しました。ほとんど例年のように、巨額の費用を投じ、堰の維持に努めなければならない寺谷用水の声もそれと重なり、事業は両者の協力によって、昭和4年、天竜川に強固な取水口を設け、社山に隧道を切り拓き、一大用水路を築造する県営磐田用水幹線改良事業として着工に至ります。
 また、一方、金原明善(きんぱらめいぜん)の尽力によって河川整備の取り組みが進められた右岸側でも、用排水改良を求める声が限界まで高まり、昭和12年には、県営浜名用排水幹線改良事業が着工されます。この事業の地元負担金のほとんどは、金原が設立した治山治水財団が担いました。
 ようやくにして、二人の義人の志から始まり、幾多の人々の献身的犠牲によって受け継がれてきた夢、右岸左岸の両岸へ天竜川の豊かな水を導く大規模水利事業が結実の時を迎えようとしていました。

icon 6.戦火の中での開削



 しかし、残酷にも、ようやく着工に至った両事業には、またもや壁が立ちはだかりました。完成を前に、戦争が激化、逼迫した状況の中、工事の継続が不可能となってしまったのです。念願の水を目前にしての事業断念に、到底諦めがつかない人々は、事業再開へと粘り強い取り組みを続けました。
 昭和16年、食糧増産が急務となり、緊急開拓達成のための農地開発法が制定されると、状況は大きな転機を迎えます。粘り強い訴えが実を結び、昭和17年、中断されていた右岸、左岸の両事業が、天竜川沿岸大規模農業水利事業として再び着工されたのです。
 工事には、食糧増産のため全国から集められた2,500名以上もの人々が動員され、敵機の空襲下にも、文字通り、命を賭した作業が続けられました。事業が完了し、左岸の磐田用水、右岸の浜名用水へと天竜川の水が流れ出したのは、昭和22年のことです。あまりにも過酷で長い道のりでした。

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利根川頭首工
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待望の天竜川の水が来た(袋井市山梨)

icon 7.天竜川下流農業水利事業



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船明ダム
 戦後になると、天竜川の豊富な水を利用した水力発電が一躍脚光を浴びるようになり、発電ダムの建設ラッシュが始まります。昭和28年には佐久間ダム(昭和31年完成)、昭和29年には秋葉ダム(昭和33年完成)の築造工事が、それぞれ着工されました。これらダム郡によって、集中的な電源開発事業や農業、都市用水の利水事業、洪水対策が実現します。
 しかし、昭和30年代の末になると、こうした大規模ダム築造の影響が下流部に急激に現れてきます。天竜川の河床が大きく低下し、その結果、下流では用水の取水が不可能となってしまいます。また、同時に地下水位も低下し、水源不足に陥りました。
 緊急の対策を求める強い声が巻き起こり、昭和40年、右岸の浜名用水と左岸の磐田用水、さらには畑地帯も含め、用水系統を整備し、取水を行う天竜川下流農業水利事業の計画が持ち上がります。昭和44年には、発電、農業、上水道、工業水の四者の共同施設として、船明(ふなぎら)ダムの建設が決定しました。
 昭和59年、事業が完了すると、船明ダムで発電に使用した水は、左右両岸の磐田用水、浜名用水へと配水されるようになり、安定的な取水が実現しました。さらに、延長約104kmに及ぶ幹線水路の新設、改修、畑地帯の水利施設導入、5箇所の揚水機場の新設があわせて行われ、天竜川下流域は、現在見る一面の沃野へと変貌しました。
 幾度となく、濁流となって押し寄せ、尊い命を奪っていった「暴れ天竜」。現在、満々とたたえられたこの川の水は、私たちの豊かな生活を支える命の水として、限りない恩恵を与えてくれています。この見事なまでの変貌を可能としたのは、近代技術の進歩と大規模水利事業であることは言うまでもありません。しかし、生涯を捧げ、献身的な犠牲を払ってきた先人たちの恩恵がなければ、事業の実現は、ありえなかったであろうことも忘れることは


icon 8.天竜川下流農業水利事業の概要



(1)受益地
磐田市、袋井市、浜松市、浜北市、竜洋町、浅羽町、福田町、豊田町、森町、豊岡村、可美村の4市5町2村

(2)受益面積
水田 : 8,971.9ha
畑  : 3,055.5ha
計  : 12,027.4ha
(3)主要工事
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(4)事業期間
着工 : 昭和42年10月
完工 : 昭和60年3月



静岡県 -天竜川下流農業水利事業