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1.印旛沼と手賀沼の誕生
2.印旛沼・手賀沼の干拓
3.印旛沼開発事業による変貌
4.印旛沼開発施設の概要
5.手賀沼干拓事業による変貌
6.干拓事業の成否を担った...
7.印旛沼開発事業...

icon 1.印旛沼と手賀沼の誕生



 縄文・弥生時代における印旛沼・手賀沼は、茨城県の鹿島や千葉県の銚子の方向から内陸に向かって広く開けた内湾の小さな入り江の一つであったといわれています。そしてこの内湾の存在は、貝塚が利根川下流部の台地が低地に接する地域に存在し、アサリを始めとして海産性や汽水性の貝類が数多く発掘されていることでもわかります。
 その後、この内湾は、流域から海に注ぐ河川が運んでくる土砂等の堆積や、海退によって徐々に陸地化し、縮小していきました。
 今から1,000年ほど前の印旛沼と手賀沼の状況は、図-1に示すように、現在の霞ヶ浦や北浦、牛久沼(茨城県)、手賀沼(千葉県)、利根川下流の水郷一帯を一つにした水域の一角にすぎず、淡水と海水が混じり合った汽水域であったと考えられています。
 しかし、印旛沼や手賀沼などのような小さな入り江は、陸地化から取り残されて、自然に湖沼化せざるを得なかったのです。

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1000年前の関東地方の水域状況図

 その後において、印旛沼や手賀沼の湖沼化が進展する出来事は、東京湾へ注いでいた利根川が、近世になって銚子で太平洋に注ぐ流路に変えられ、その流入土砂によって今日みるような低湿地と湖沼群が形成されたことです。かつて、東京湾に注ぐ流路は古(ふる)利根川となり、さらに千葉県関宿(せきやど、野田市)で江戸川を分流させることにもなりました。江戸幕府が行った瀬替えの目的は、江戸市街を水害から守ること、食糧確保のために中川流域の新田(しんでん)開発を進めること、また東北諸藩に対する江戸防御線とすることにもあったといわれています。利根川を埼玉県羽生(はにゅう)市川俣(かわまた)で締め切り、渡良瀬川の改修、瀬替えを行う一方、鬼怒川、小貝川の分離、改修によって利根川の東流(利根川の東遷事業)を図りました。
 利根川東遷事業の完成後、印旛沼や手賀沼および周辺で頻繁に起こった洪水(水害)は、単に利根川の氾濫(「外水」と称される)のみによってもたらされただけではなく、印旛沼や手賀沼に流入する河川の増水(「内水」と称される)によっても引き起こされていました。

 注 1 「外水」とは、利根川の氾濫によって印旛沼や手賀沼に逆流する洪水を
   いう。
   2 「内水」とは、印旛沼や手賀沼に流入する河川の増水によって、沼の水
   位を上昇させる洪水をいう。

 このような状況を背景に、徳川幕府は利根川や印旛沼・手賀沼の洪水による被害を防止することと、さらに新田開発や舟運の整備等を目的として、江戸期に大規模な開発工事を行いました。
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江戸時代の関東地方の水域状況図


icon 2.印旛沼・手賀沼の干拓



 利根川の瀬替えにつれて砂州の形成が進み、湖沼化して印旛浦口には笠神野、手下浦口には手賀沼野ができました。江戸時代に入ると、それらの干潟で新田開発(しんでんかいはつ)が行われ、中期以降になると大規模な干拓が試みられました。
 江戸時代から現代に至る印旛沼・手賀沼の干拓の経緯を整理すると表-1のようになります。

1.近世の手賀沼干拓

 手賀沼は近世前期から、数回にわたり干拓工事が行われている。江戸幕府による利根川工事の進展ともかかわりながら干拓が計画され、実施されたが、1655年(明暦1)江戸町人らの干拓計画が許可を受けたのが最初である。71年(寛文11)には江戸町人の請負で干拓工事が着手され、約300haの耕地を得たが、数回にわたる洪水で破壊された。1730年(享保15)には勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永の建議などにより、沼中央に横堤を築いて上下に分断し、下沼を干拓して180haの耕地を得、その後の検地によりさらに45haの増加をみた。だが頻繁な洪水により安定せず、1785年(天明5)には老中田沼意次の下で幕府の手により大規模な干拓工事が実施されたが、利根川大洪水により諸施設が破壊され、同時に行われていた印旛沼干拓工事とともに中断された。

2.近世の印旛沼干拓

 江戸時代に印旛沼の水を江戸湾(現在の東京湾)へ流す延長約17㎞の掘割工事と干拓事業(新田開発)が3度行われました。
 第1回目は、1724(享保9)年に平戸村の染谷源右衛門が幕府に出願したことから始まり、幕府はこれを許可し、源右衛門に6000両を貸与して工事を請け負わせて着手しましたが、請負人、出資人の資金が不足して中断しました。
 第2回目は、老中田沼意次の手で着手され、新田開発、治水、水運を目的に、1782(天明2)年に調査を始め、85年には幕府の手で工事をおこし、翌年には計画の2/3が竣工しましたが、おりからの利根川の洪水により掘割も破壊され、老中田沼の失脚とともに工事も中断しました。
 第3回目は、1843(天保14)年老中水野忠邦が天保の改革の一環として、鳥居忠耀を責任者として駿河沼津藩(静岡県沼津市)、出羽庄内藩(山形県鶴岡市)、因幡鳥取藩(鳥取県鳥取市)、筑前秋月藩(福岡県朝倉市)、上総貝淵藩(千葉県木更津市)の5藩に御手伝普請(土木工事を割り当て行うこと)を命じ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が行われました。印旛沼開発の目的は、前2回が新田造成と水害防止でしたが、天保期は、新田造成と水害防止に通船が新たに加えられました。この堀割が成功すれば、江戸湾と利根川を結び、銚子を経て太平洋を結ぶ航路ができる予定でした。しかし、各藩
の多大な財政負担や老中水野の罷免により、御手伝普請は中止となり幕府直轄工事となりましたが、翌44(弘化元)年に廃止されました。
このように江戸時代の印旛沼の堀割普請は、いずれも失敗に終わりました。

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3.天保期の印旛沼堀割普請の状況

 天保時代に行われた印旛沼堀割普請で残された大量の資料や図面から、この時代の土木工事の状況をみることにします。
 天保期の印旛沼堀割普請の概要は、次表のとおりです。


表 天保期の印旛沼堀割普請の概要

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 印旛沼の天保期の普請(工事)

 旧暦7月23日(新暦8月18日)の鍬入れで普請が始まりました。普請に動員された人足は、庄内藩(山形県)では地元から人足1,463人を連れてきました。そのほかは、普請場の近郷と江戸市中から雇い入れました。多い日には1日に1万数千人が堀割工事に従事しました。5大名による普請は閏9月23日(11月14日)に中止になりました。この間、延90日間に5藩が支払った金額は10万7千両余で、人足動員数は4藩で約71万人、記録のない沼津藩と記録が一部失われている貝渕藩の人足を加えると約100万人と推定されます。単純平均で1日に1万人以上が工事現場で仕事を行うとともに食事や宿泊するという工事の状況でした。

 庄内藩の郷人足

 庄内藩では、旧暦7月7日(8月2日)に郷人足の第1陣が出立し、徒歩で13日間かけて千葉県の普請場に来ました。5回に分けて全員で1463人が動員されました。郷人足は、横戸村(千葉市横戸町)に建てられた小屋で自炊生活を行いながら、堀割工事に従事しました。庄内藩の普請場は丘の部分でしたので、20m以上も掘り割らなければならない非常に困難な工事場所でした。工事の期間に19人の郷人足が過労や病気で亡くなり、横戸村の墓地に葬られました。普請が中止となり、郷人足が庄内に帰り着いた頃には雪になっていました。

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庄内藩百川屋雇丁場


 一定の区画割りで段切りを行い、大量の人足と中央左側の斜面にはジグザグ状の作業道をもっこや籠で土を運び揚げている状況が描かれている。

 藩の農民、専門家もいた人足

 印旛沼から検見川までの工事現場には、工事現場の近隣や江戸から人足が動員されました。庄内藩では農民約1,500人を山形県の庄内地方から徒歩で13日かけて動員されました。一行の中には、村役人・医者・大工・鍛冶屋など、各種の職人も含まれていました。また、人足の中には「黒鍬者(くろくわもの)」と呼ばれる土木専門家もいました。
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黒鍬者(続保定記)


 絵の注に、「江戸働黒鍬の者、大もっこうにて堀捨土をかつぐ図、土の重さ3、40貫目(150kg)より、水つき候土は70貫目(260kg)位までもかつぎ」とある。黒鍬とは、江戸時代、主として川普請や新田開発などの工事に従事した工事の専門家である。
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庄内役人・庄内夫(続保定記)


 右は腰にマネキ(小旗)をつけた役人、左は庄内夫。

人力での作業

 機械力や畜力を利用できなかった江戸時代の土木工事は、人力で行われていました。土を掘り、土の運搬には、鍬(くわ)や鋤(すき)・鶴嘴(つるはし)や畚(もっこ)などを用いていました。
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黒鍬・土方者の道具(模写)


鎌、屶(なた)、斧は1種類であるが、鍬・鋤簾は数種類が描かれている。
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黒鍬・土方者のもっこう(模写)


 右は2人かつぎ用、左は1人かつぎ用のもっこう。

icon 3.印旛沼開発事業による変貌



 干拓以前の印旛沼  印旛沼(いんばぬま)は、中世に「香取(かとり)の海」と呼ばれた内湾奥部の入り江が湖沼になったものです。印旛沼に注ぐ主な河川は、両総台地の水を集める鹿島川(かしまがわ)と神崎川(かんざきがわ)、さらに利根川につながる長門川(ながとがわ)があります。長門川はかって、平常時には印旛沼の水を利根川に排水し、利根川の増水時には利根川の水が逆流する河川でした。利根川の増水の逆流はたびたび発生し、規模が大きかったため、長門川の印旛沼に注ぐ河口には逆デルタ地形が形成されました(下図参照)。このデルタの西部一帯は、笠神埜原(かさがみやわら)と呼ばれる低湿地で、近世には新田開発が盛んに行われました。松虫(まつむし)、萩原、中根(図中では中)、行徳(ぎょうとく)、下曽根、押付(おしつけ)、長門屋(ながとや)、下井(しもい)の各集落は、寛文(かんぶん、1661~73年)に新利根川の開削によって土地を失った農民の代替地として開発された新田で、酒直卜杭(さかなおぼうくい)はそれ以前に、甚兵衛・和泉屋(いずみや)・佐野屋はそれ以後に開発された新田です。
 印旛沼は利根川の遊水池としての役割を持っていたため、沼の周辺は水位上昇による洪水の被害が絶えませんでした。近代になって、大正期には長門川と利根川の合流地点に水門が設けられ、利根川の逆流(外水)は防げるようになりました。しかし、鹿島川などを通じて沼の周辺地域から流れ込む水(内水)が増加した際に生じる水害は、依然として頻発していました。印旛沼周辺で水害が克服されるのは、第2次世界大戦後の印旛沼開発事業の展開以降のことです。
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印旛沼の昭和19年地形図


 佐倉(1/50,000、昭和19年部分修正)・成田(1/50,000、昭和19年部分修正)

 印旛沼開発事業の進展と周辺地域の開発  印旛沼の干拓事業は、近世以来幾度も計画されましたが失敗し、本格的な干拓が実現するのは、1946(昭和21)年に始まる国営印旛沼手賀沼干拓事業の展開によるものでした。この事業は当初、排水を良くして水害を防止する、食糧難を背景として農地を開発する目的で行われました。しかし、後に周辺耕地の土地改良事業や京葉工業地帯などへの用水源・上水源開発事業も含むようになり、3度にわたり事業計画が変更され、印旛沼開発事業と名称が変更になり、ようやく1969(昭和44)年に事業が完成しました(下図参照)。この開発事業によって、約2,000haあった印旛沼の面積は1,310haに縮小されるとともに、934haもの耕地が新たに生まれました。図2にみるように、印旛沼は用水の調整池の役割をもつ北印旛沼と西印旛沼に分離され、北・西印旛沼の間は干拓地になりました。分離された両印旛沼をつなぐ水路として、印旛捷水路(しょうすいろ)が新たに開削されました。沼を横断する交通路は、かつての渡しにかわって甚兵衛大橋や舟戸大橋などが架橋されました。また、沼の周辺には揚水機が数多く設置されましたが、これらの揚水機で周辺地域への農業用水ならびに、京葉地域への工業用水や上水道用水が供給されています。

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印旛沼周辺の地形図


 佐倉(1/50,000、昭和54年第2回修正)・成田(1/50,000、昭和53年修正)

 印旛沼開発事業によって、干拓地が増加するとともに、既存の耕地においても土地改良事業が伸展し、かつてこの地域に広くみられた島畑は消滅し、沼の周囲の耕地は整然とした大区画に再編成されました。そして、こうして沼は京葉臨海工業地帯の工業用水と都市用水、干拓地の農業用水の源となり、沼の水は長門川から印旛排水機場によって利根川へ。疎水路を通り大和田排水機場によって東京湾へ排水されています。
 印旛沼開発事業の概要を施設の整備状況と図面で示します。

icon 4.印旛沼開発施設の概要



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現況印旛沼地形図に昭和19年地形図の水域・湿原の範囲を図示


icon 5.手賀沼干拓事業による変貌



 干拓以前の手賀沼

 手賀沼の周辺には新田という地名が多く存在します(下図参照)。これは干拓による新田開発の歴史を示すものです。新田開発を目的とした手賀沼干拓は、17世紀半ばまでさかのぼることができ、徳川幕府によって断続的に試みられました。下図の手賀沼北岸には、我孫子新田・高野山(こうのやま)新田・岡発戸(おかはっと)新田・都部(いちぶ)新田・中里新田の地名をみることができます。これらは寛文年間の1670年前後に干拓によって成立した新田です。
 享保年間(1716~36年)には、手賀沼を東西に仕切り下流部の下沼の干拓を目指して、千間堤(せんげんつつみ、下図の南東端の「浅間渡」)が築堤されました。しかし、利根川への排水路は十分では機能せずに大雨のたびに冠水したほか、利根川の洪水時には逆流水に見舞われるなど、第2次世界大戦前までの干拓事業の多くは不成功に終わり、水田となった土地も慢性的な水害に悩まされてきました。戦後まもなくの下図にも沼周辺には湿地・荒地が多く残っています。
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印旛沼の昭和19年地形図


佐倉(1/50,000、昭和19年部分修正)・龍ヶ崎(1/50,000、昭和19年部分修正)

 干拓事業で変化した手賀沼

 1946(昭和21)年に農林省直轄の手賀沼干拓事業が始まり、沼の東半分が干拓されました。干拓事業完了(1968年)後の姿が下図で、干拓地が水田に生まれ変わった様子がわかります。ところで、「干拓」とはどのような工事を行うことでしょうか。辞書には「湖沼・浅海などを堤防で囲み、水を除いて陸地化すること。」とあります。干拓は「埋め立て」ではありません。干拓地は湖沼や浅海の堤防で仕切り、水を排除して出てきた底地のことを いっていますので、仮に水が排除できずに溜まってしまったら元の湖沼や浅海に戻ってしまいます。埋め立て地は、湖沼や海を土砂などで埋めて陸地化した土地ですので、湖沼や海に戻ることはありません。
 干拓の歴史は治水の歴史でもあります。戦後の手賀沼干拓は、手賀川と利根川の合流地点に機械排水施設(手賀排水機場、1956年完成)を設置することから始まった。すなわち利根川からの逆流を防ぐとともに、利根川の水位に左右されることなく排水を可能にすることによって冠水を防止して、干拓事業が進められた。
 この干拓によって手賀沼の面積は650haに減少した反面、435haの農地が造成されました。同時に、上沼の東端をはじめとして6カ所の水門排水機場が設置され、沼の水は干拓地と周辺耕地2,475haの灌漑水として利用されているほか、洪水調節のための水位調節がなされている。
 我孫子市は東葛地域では米作が最も盛んな地区であり、耕地の水田化率は74%、米の農業粗生産額に占める割合は40%で、いずれも東葛地域では最も高い値である。これは近世から300年間にわたって続けられてきた干拓事業の結果である。

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手賀沼周辺の地形図


佐倉(1/50,000、昭和54年第2回修正)・龍ヶ崎(1/50,000、昭和53年第2回修正)

手賀沼干拓施設の概要

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現況手賀沼地形図に昭和19年地形図の水域・湿原の範囲を図示


icon 6.干拓事業の成否を担った...



 手賀排水機場は、手賀沼流域約160km2から手賀沼に流入する洪水を、手賀川の流末で毎秒40m3で利根川に強制排除する施設として、昭和31年に完成した施設です。
 手賀沼の水位は、灌漑期ではYP+2.20m、非灌漑期ではYP+1.80mに保つよう管理されています。雨が降り、利根川の水位が手賀沼の水位より高くなって、自然に利根川へ流れなくなると、手賀樋門が閉じられ、手賀排水機場のポンプが運転を始めます。
 利根川との水位差が3.50mまでは並列(1秒間に排水量40m3/s)で運転され、それ以上の差になると直列(1秒間に排水量20m3/s)に切り替えられて排水を継続します。
 この方式は、横型直並列運転式手賀沼排水機場(1,700mm斜流ポンプ×6台)というもので、1955(昭和30)年に「国営手賀沼干拓事業における主排水機(手賀排水機)の計画概要について」で第4回農業土木学会賞(現農業農村工学会賞)を受賞した技術です。

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手賀排水機場の横軸直並列運転方式


 続いて、印旛沼では印旛排水機場(2,800mm可動翼軸流×6台)が完成して、干拓事業の成否に大きく寄与しましたまた、印旛沼では腐食質の多い特殊土壌とクイックサンド現象に苦心した印旛疏水路・大和田排水機場(3,600mm×2台、2,500mm×4台)、印旛沼ショートカットの大工事が次々と実施されました。
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手賀排水機場の平面図


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手賀排水機場のポンプ写真


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大和田排水機場(花見川側)


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印旛沼疏水路縦断面図


 資料 印旛沼開発事業工事誌の図を一部修正した。
注1 改訂計画線(濃い色)まで掘削する計画から変更計画線(薄い色)に掘削深を上げた。また、天戸と長作に落差工を設けて、柏井・花島近辺の地下水対策に対応した。

 2 これに伴い,大和田排水場機に毎秒120m3のポンプを設置して,印旛沼の洪水量を排水して、東京湾に流した。

icon 7.印旛沼開発事業...



 自然環境の保全

 戦後の印旛沼・手賀沼周辺の土地利用は、干拓と宅地開発によって大きく変化しました。市街地が大幅に増加する一方で、樹林地や畑地は著しく減少してきた。現在の樹林地は、台地と低地の間の斜面を中心として、市街地の縁辺部にわずかに残るのみである。水辺と台地の市街地の緩衝地帯でもある斜面には、アカマツの群落が広く分布していたが、面積が減少したのみならず、害虫によるマツ枯れ発生地は急速に竹林へと変化しており、森林群落は単調化している。
 また、手賀沼では面積が半減したのみならず、流域の急激な都市化に伴って水質汚染が進み、水生生物に大きな影響をもたらしている。かつてはウナギ・ワカサギなど多種の魚類が生息していたが、現在ではコイ・ギンブナなど10種程度に減少、種の単調化が進んでいる。また、貝類は絶滅状態にあり、最盛期には40種を超えた水生植物もアシ・ハスなど4種が残るのみである。
 このようななかで、かつての手賀沼の生態系の回復を目指すとともに、水際から台地に至る一連の景観形成を図り、手賀沼を中心とした生態系と共存する住宅都市づくりが進められている。
 最近、沼周辺の我孫子・柏両市などの人口増加によって生活用水の流入が続き、アオコの異常発生など沼の汚染が著しい。
 印旛沼開発以前の印旛沼は、流域面積53,350haで、平水時(Y.P+2.3m)の水面積が約2,900haを有し、鹿島川・高崎川・新川、神崎川等が沼に流入し、沼からは長門川を経て安食地先の印旛水門から利根川に排除されていました。
 大和田排水機場は、新川と花見川の分水嶺に当たる場所にあります。新川は勾配がとても緩い川ですから洪水で印旛沼の水位が上がるに従って新川の水位も上昇します。ですから、ポンプ(毎分120m3)で洪水を汲み上げて花見川に流し、洪水調節ができるのです。

洪水時には東京湾に排水

 台風や低気圧の通過により大雨が降り、利根川の水位があがり、印旛沼の水を自然に利根川へ排水できなくなった時は、利根川につながる印旛水門(国土交通省管理施設)を閉め、利根川から長門川に逆流するのを防ぐとともに、印旛排水機場のポンプを運転して利根川に排水します。それでも印旛沼の水位が下がらないような大雨の時には、さらに大和田排水機場のポンプを運転し、花見川を通じて東京湾に排水します。

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印旛沼は千葉県民の大切な水瓶

 印旛沼の水は、私たちの生活に欠くことのできない大切な水資源になっています。1年間に使われる水の量のうち60%(1億7,100万m3)が工業用水として京葉工業地帯へと送られ、24%(6,900万m3)が農業用水として周辺6,300haの田畑を潤し、16%(4,600万m3)が水道用水として千葉県柏井浄水場に送られて、必要な水需要に応えています。工業用水と水道用水は、ほぼ通年同量が取水されていますが、農業用水は稲作が行われる夏期に大量に取水されています。

 花見川(はなみがわ)

 花見川は、印旛沼と東京湾を結ぶ一級河川・印旛放水路(印旛疏水路)のうち、八千代市村上の大和田排水機場より下流側を花見川、上流を新川と呼び、東京湾河口付近では検見川とも呼ばれています。
 花見川は千葉市花見川区柏井町付近を水源として東京湾(江戸湾)に注ぐ小さな川でした。一方、印旛沼側には印旛沼へと注ぐ勝田川、高津川などがありました。江戸時代以降、印旛沼と花見川と結ぶ堀割(疏水)工事が幾度となく繰り返されて、戦後の工事で1969年(昭和44年)に現在の疏水路(花見川・新川)が完成しました。花見川・新川は多くの人々の汗の結晶の人工の河川であるといえます。

 印旛沼開発事業

 印旛沼開発事業では、従来の印旛沼を2分して北部と西部の2つの調整池を残し、中央部と両調整池の周辺を干拓して934.1haの農地造成、印旛機場を設置して利根川に機械排水し、大和田機場を設置して千葉市検見川に至る疏水路で東京湾に排除して沼の水位調節、干拓地と周辺農地の農業用水の確保、毎秒5?の工業用水を京葉工業地帯への供給を目的としていました。事業は1946(昭和21)年に農林省が着手し、1963(昭和38)年に水資源開発公団(現水資源機構)が引き継ぎ1969(昭和44)年3月に完了しました。その後、排水機場の管理を水資源機構が行っていますが、30年を経過し、ポンプ施設が老朽化したので、緊急改築事業で大和田・印旛・酒直機場のポンプを更新中で2010(平成21)年3月に完成しました。

参考資料

1  『印旛沼開発工事誌』水資源開発公団印旛沼建設所、1969
2  『印旛沼開発事業竣工写真集』水資源開発公団印旛沼建設所、1969
3  『手賀沼干拓事業竣工写真集』関東農政局印旛沼干拓建設事業所、1968
4  『手賀沼干拓土地改良事業計画概要書』関東農政局印旛沼干拓建設事業所、1968
5  『国営農地開発事業「嬬恋地区」評価結果基礎資料』、農水省、2008
6  『開拓維新記 -印旛沼の水土に挑む開拓精神-』関東農政局印旛沼二期農業水利事業所、2013
7  「手賀・印旛沼干拓、印旛、手賀沼干拓事業、印旛沼開発事業」『利根川水系農業水利誌』農業土木学会、1987
8  『明治以前日本土木史』土木学会、岩波書店、1973
9  『1/50,000地形図:佐倉・成田・龍ケ崎(昭和19年版)』、国土地理院
10 『1/50,000地形図:佐倉・成田・龍ケ崎(昭和53、54年版)』、国土地理院