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戦争に翻弄されながらも築いた、水土の沃野 千葉県 ―大利根用水農業水利事業
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戦後の国営事業










辻内刑部左衛門の干拓願



 当時の江戸は人口が激増、米価は高騰しており、江戸近くに穀倉地を開発する必要に迫られていました。そこで、白石は勘定奉行所の作事方であった辻内刑部左衛門と協力し、辻内から再度干拓願を提出します。幕府は寛文9年(1669年)6月から11月の5か月を費やして詳細な検分を行います。その調査、測量には人夫延べ1万1,050人を動員したとされ、いかに重要視していたかが解ります。下流の村13ヶ村に対して用水の供給量を2割増すという条件のもと、幕府はこの計画の許可を与えます。しかし、事業半ば資金を使い果たし工事は未完成のまま中止されます。幕府は金6千両を資金援助し、寛文10年10月に工事を再開、同年11月に完成しています。短期間に完成したのは、下流の村の反対運動を警戒したためとされています。こうして苦難の末、椿海の排水を挙行しますが、椿海の水が一挙に流れ出し沿線の村々は大洪水に襲われます。この責任をとって、請負奉行の関口は引責切腹します。
 この後、幕府は普請奉行として高室四郎兵衛、熊沢武兵衛、福村長右衛門を新たに任命して排水、用水の工事を行います。それは水路に排水を集めて新川(刑部川ともいう)を深か堀(落し堀)にし、排水路として機能させるというものです。落し堀の排水機能は椿海干拓の生死を左右することから、幕府は落し堀沿線の村落を幕府領として厳密に管理し干拓を進めていきます。300年間その排水機能を守るために、新川への新たな堰の設置は許されませんでした。また、用水源として周辺村落の田畑を潰して溜池を築造、その数は13カ所に及びました。
 文化年間(1804-1818年)、干拓地の土地の生産力が上昇する頃には、その石高は八万石に達し、増加する江戸の人口を養っていました。その一方で、さらなる用水・排水の確保という大きな課題を背負うことにもなりました。


千葉県 ―大利根用水農業水利事業