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1.裾野は長し、赤城山
2.広がる荒野
3.赤城開墾用水
4.戦後開拓の困難
5.近代的営農の実現を求めて
6.赤城西麓農業水利事業
7.赤城西麓農業水利事業の概要

icon 1.裾野は長し、赤城山



 群馬県のほぼ中央部に位置し、榛名山(はるなさん)、妙義山(みょうぎさん)と並び、上毛三山(じょうもうさんざん)の一つに数えられる赤城山(あかぎやま)。最高峰の黒檜山(くろびさん:標高1828m)をはじめ、駒ケ岳(こまがたけ:1685m)、地蔵岳(じぞうだけ:1674m)、長七郎山(ちょうしちろうやま:1579m)、鍋割山(なべわりやま:1332m)などの峰々からなるこの山は、日本百名山、日本百景にも選ばれ、その雄大な姿で知られています。
 群馬県の土地や人物、出来事を詠んだ「上毛カルタ」にも「裾野は長し、赤城山」と歌われているように、その山すそには、長く緩やかな高原地帯が広がっています。この長い裾野は、太古の昔、赤城山の火山活動によって流れ出した土石流や火砕流で形成されたもので、それゆえに、広範囲にわたり、保水性に乏しい火山灰性土壌でできているのが特徴です。
 この地質から、赤城山の北面から南面にかけた赤城西麓地区には、渓谷に沿って数条の沢が流れていますが、水はすぐに地下へと吸い込まれてしまい、雨の時以外に流れを見ることはほとんどありません。
 また、この地の年間平均雨量は日本の平均値である1,700 mmを大きく下回る1,200mm前後となっており、降雨から得られる水の量も決して豊富ではありません。
 これらの自然条件のもと、この地域では、宿命的に水に乏しい生活を余儀なくされてきました。
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icon 2.広がる荒野



 言うまでもなく、人が生活するために、水は欠くことができません。飲み水や生活用水としてはもちろんのこと、水に乏しい大地では、豊かな作物の実りは、望むべくもありません。それゆえに、人々は土木技術が未熟な古代から、堰を造り、水路を掘り、ため池を築造するなど、いかに水を得るかということに挑み続けてきました。
 しかし、この赤城西麓地区では、近世に至っても、水利開発が行われることはありませんでした。先述したように、地区内には十分な水量を湛えた川はなく、豊富な水で知られる利根川からは遠く離れ、この地は慢性的な水不足の条件下に置かれていました。
 江戸時代、この地は周辺の村々の共有地である入会(いりあい)地として利用され、薪に使うための間伐材の伐採や、堆肥に使う落葉の採取などに使用されていました。わずかながら畑も開墾されていたようですが、気候条件のよい年に、少量のソバ、アワ、ヒエなどが収穫される程度でした。全国各地で盛んに開発が行われ、人口が急増した江戸時代においてなお、この山すそに広がる荒野が、人々にとって手の施しようのない不毛の地だったことがわかります。
 時代が明治に入ると、地租改正とともに、地域の大部分は皇室所有の土地となります。小規模の土地が個人に貸し出され、新耕地の開拓を狙って移住する人々も現れましたが、飲み水にさえ苦労するほどで、干ばつに対しては手の打ちようがない状態でした。
 山頂のちょうど中央部に位置する赤城大沼から水を引き、大規模な開墾を行う計画が幾度か請願されましたが、事業規模が大きすぎるという理由から、取り合われることすらありませんでした。水問題が解決されないままに、開墾の努力は続けられましたが、余りの窮乏にいったん開拓された耕地も、いつの間にか放棄され、また荒野へと戻っていくといったありさまでした。

icon 3.赤城開墾用水



大洞水道取入口
大洞水道取入口
 赤城西麓地域で、大規模な水利事業が実現したのは、さらに時代が下って昭和に入ってからのことです。
 昭和5年、地区の東端を流れる砂川支流を水源とし、渓谷を横断する水路を築き、飲料水やかんがい用水を取水する赤城開墾用水事業が計画されます。昭和7年、事業は県営事業として着工され、悲願の大規模工事が実現しました。昭和9年、延長2kmの送水路、14箇所の隧道、10箇所のサイフォンなどが完成し、工事は無事に完了します。
 しかし、翌年の昭和10年には、早くも水害によって取水口が壊れ、昭和14年、移設を行うも、昭和16年には、送水路が壊れたために、またもや、もとの位置へと取水口を戻すなど、その管理は困難を極めました。
 加えて、さらなる不運が人々を襲いました。日本は太平洋戦争へと突入し、この地は陸軍の演習地となることが決定します。これまで必死の思いで開墾を続けてきた土地から住民は転居を命じられ、耕地はあっという間に元の原野へと戻りました。


icon 4.戦後開拓の困難



当時水を運んだ様子
当時水を運んだ様子
 昭和20年、終戦を迎えると、食糧難への対応と復員者らの失業対策が急務となり、赤城西麓地区でも、大規模な緊急開拓事業が行われました。
 しかし、やはり水不足は大きな壁となり、人々を苦しめました。戦前に開発された赤城開墾用水は、戦時中には軍の飲料水として利用されたこともありましたが、水路の損傷がひどく、またそれを修復するための費用の目処も立たないため、利用することは不可能でした。そのため、毎日、数キロもの道を女性や子供が水汲みに通い、ようやく生活を送るといった暮らしが続けられました。
 開拓者の手記には、繰り返し水の苦労が記述されています。
 「朝起きると第一の仕事は水汲みでした。・・・各自がもよりの所へくみに行き、背負う者、かつぐ者、両手にさげる者などまちまちで、この水で米を洗う、顔を洗う。この水は大切にとっておいて、その日の手洗いや洗たく水に使うので、風呂に入る事は一週に一度か10日にいう有様でした。ただし風呂の水は、朝汲んだ水は惜しくて使えず、ドラムかんや四斗だるなどを用意しておいて雨降りの時、屋根から流れる水を樋でとって、これを使用することもありました。行水にもこれを使う、そのあとで洗たくするなど、実に水は大切でした。」【『赤城西麓――農業水利事業誌――』関東農政局赤城西麓農業水利事業所(平成10.3)より】
 昭和21年には、農地開発営団の手により、竹どいや四斗樽が提供され、共同水汲み場が設置されます。昭和25年、一応の水路の改修が行われ、ようやく生活用水だけは確保できましたが、入植者の生活と農地を支えるにはあまりにも量が少なすぎ、少ない水をめぐって争いあう水騒動も日常茶飯事だったといいます。

icon 5.近代的営農の実現を求めて



 再三にわたる開拓農家の陳情の結果、ようやく赤城北麓用水事業が着手されたのは、昭和35年のことでした。昭和40年、工事が完了すると、北麓を流れる鷹の巣川上流の取水堰などから取水が行われ、トンネル6箇所、サイフォン17箇所などを経て、各団地への配水が行われるようになりました。ついに念願であった生活用水と農業用水の確保が実現したのです。
 しかしながら、農業用水に関していえば、水の量はまだ十分ではありませんでした。この地の作物は干ばつに強いコンニャクや桑が中心で、レタスやキャベツなどの高原野菜の栽培に取り組むためには、ポリタンクを積んだトラックで水を運搬し、散水を行わなければいけません。
 昭和40年代後半、新たな水源の確保と野菜を主体とした営農の実現に向けて、地域は再び動き出しました。昭和50年には、利根川にダムを築造し、地区内に導水するという利根川ダム構想が持ち上がりますが、ダム構築費などに多額の費用が必要となるため、不可能との結論に至ります。そこで、隣接する群馬用水地区での余剰水をポンプアップにより分水する方法が検討されますが、こちらも維持管理費用の問題で反対の声が起こります。

icon 6.赤城西麓農業水利事業



 関係各者の調整は続けられ、ようやく根利川に取水口を設け、パイプランによって導水を行う赤城西麓農業水利事業が決定したのは、昭和60年のことでした。幹線水路、支川水路、揚水機場、調整地と全ての施設の工事が完了したのは、事業開始から16年後の平成10年です。2,400haもの畑地に念願の水が届けられ、安定的な収穫と品質の向上が実現しました。あわせて、関連事業である県営畑地帯総合土地改良事業によって、農道網の整備、区画整理などが行われ、畑作作業の近代化、野菜の生産団地化が叶いました。
 現在、一面の荒野であった、かつての歴史を塗りつぶすように、この地には豊かな畑作地帯が広がっています。近代的な技術と大規模水利事業がそれを可能としたことは言うまでもありません。しかし、生活にも事欠くような水不足の中、開墾に挑み続けた農民たちの精神こそが、この偉業を成し遂げたことを私たちは忘れてはならないでしょう。

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根利川頭首工
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スプリンクラーによるかんがい

icon 7.赤城西麓農業水利事業の概要



(1)受益地
利根郡利根村、昭和村、勢多郡赤城村、北橘村、富士見村の5村

(2)受益面積
畑地かんがい : 2,070ha
計 : 2,070ha
(3)主要工事
利根川取水工、赤城取水工(かんがい面積 計2,400ha)
利根調整池、昭和調整池、赤城第1調整池、赤城第2調整池(かんがい面積 計2,400ha)
揚水機場 第1揚水機場(かんがい面積 440ha)
第2揚水機場(かんがい面積 200ha)
第3揚水機場(かんがい面積 50ha)
導水路、幹線水路、支線水路 (かんがい面積 計2,400ha)



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