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1.事業発足の背景、経緯
2.事業計画の概要
3.事業計画の変更
4.石岡台地地区の現在

icon 1.事業発足の背景、経緯



(1)背景
 本地区は昭和27年当時、石岡市、玉里村の2市村により旧高浜町の台地440haに用水事業を計画し霞ケ浦を水源として県営事業で実施する予定で推進していました。しかし、昭和33年の大干ばつにより、安定水源確保のため近隣の美野里町、小川町、八郷町の3町が加わり関係面積が1,430haとなり、昭和34年2月に関係市町村で構成する「事業促進協議会」が発足しました。さらにその後、千代田村、岩間町、玉造町、茨城町の4町村が事業参加し関係面積は6,800ha余に拡大しました。
 面積の拡大に伴い、関係市町村の要望により昭和39年度に国営直轄調査地区に採択され、調査の進展に伴い地区内の平地林(未こん地)を含めて、開拓パイロット事業も併せて計画し、関係面積は7,965haとなりました。
 その後、昭和43年度に国営全体実施設計地区に採択され、事業計画の取りまとめに入り関係面積8,150ha、計画面積7,540haとして計画地域が確定しました。
 この地域における農業の歴史は古く、常陸国府を現在の石岡市に置く以前の6世紀にまで溯る谷津田の開発がそのはじめとされています。その後さかんに谷津田の開発、台地の開墾が進み現在(事業発足時)に至っていますが、首都圏に近いという立地条件から他産業の進出もめざましく農工一体として発展している地域です。しかし、歴史ある農業も水源に恵まれない谷津田では度々の干ばつに苦しみ、一方、台地上の畑地帯では水がないために低生産性の農業が余儀なくされ、このため霞ヶ浦の水を台地に導くことが、この地域の長年の悲願でありました。戦後まもなくその実現に向けた動きが具体化し始め、昭和39年度から国による直轄調査が行われました。

(2)経緯
 戦後食糧が不足して田圃は勿論のこと山でも陸田を作って、食料増産に懸命に努力していた最中の昭和33年に稀に見る大干魃に見舞われて、畑も水田も殆どが植付け不能となり何処でも緊急対策を色々と打ち出して、取り分け地下水をフルに活用して、何とか応急処置をして、急場を脱したことがあった。その苦難の結果期せずして、早速五カ市町村の市町村長が集って、霞ケ浦の満々にたたえた水を目前に眺め乍ら、天候相手の不安定な農業を何とかして、何時でも安心して水利用の出来る恒久的な事業を早急に確立しようと言う結論が、真剣に審議の結果、意見の一致を見た。この計画には当時の全農家が諸手を挙げて喜んだのは勿論であった。丁度その頃石岡市と玉里村の一部が高浜台地に用水計画を進めていたので、早速その事業と合流して、昭和34年に五カ市町村で促進協議会発足させて、色々と研究し乍ら計画を進め、昭和43年に石岡台地土地改良区を設立して本格的な事業を開始した。その後猛烈に関係機関に運動の結果、昭和43年に全国で始めて山林を含めた総合かんがい排水事業地区として国営直轄調査地区に採択され、昭和45年度より待望の国営事業が着工となったのであった。
 〔事業回顧録 石岡台地土地改良区2代目理事長 滑川 清〕
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 戦後食糧が不足して田圃は勿論のこと山でも陸田を作って、食料増産に懸命に努力していた最中の昭和33年に稀に見る大干魃に見舞われて、畑も水田も殆どが植付け不能となり何処でも緊急対策を色々と打ち出して、取り分け地下水をフルに活用して、何とか応急処置をして、急場を脱したことがあった。その苦難の結果期せずして、早速五カ市町村の市町村長が集って、霞ケ浦の満々にたたえた水を目前に眺め乍ら、天候相手の不安定な農業を何とかして、何時でも安心して水利用の出来る恒久的な事業を早急に確立しようと言う結論が、真剣に審議の結果、意見の一致を見た。この計画には当時の全農家が諸手を挙げて喜んだのは勿論であった。丁度その頃石岡市と玉里村の一部が高浜台地に用水計画を進めていたので、早速その事業と合流して、昭和34年に五カ市町村で促進協議会発足させて、色々と研究し乍ら計画を進め、昭和43年に石岡台地土地改良区を設立して本格的な事業を開始した。その後猛烈に関係機関に運動の結果、昭和43年に全国で始めて山林を含めた総合かんがい排水事業地区として国営直轄調査地区に採択され、昭和45年度より待望の国営事業が着工となったのであった。
 〔事業回顧録 石岡台地土地改良区2代目理事長 滑川 清〕

icon 2.事業計画の概要



(1)計画の内容
 本地区は茨城県中央部に位置し、石岡市外7町2村に跨る洪積台地上の畑地帯と、その間に介在する谷津田の平地農業地帯です。
 現況のかんがい用水は、水田にあっては霞ヶ浦に流入する河川を中心としてかんがいを行っていますが、これら河川の主水源は丘陵性台地からの浸出水からなるため、水源流量に恵まれず恒常的な用水不足をきたしていました。また、畑地は軽しょう火山灰土からなり、かつ、見るべき水源水量がないため生産性は低く、水田は水源流量が乏しいほか湿田、半湿田の状態にあるため、畑地同様低生産性地帯となっています。このような低生産性の原因となっている水利条件を改善するため、霞ヶ浦に水源を求め、第1揚水機場により毎秒最大10.6m3を揚水し、途中2カ所の揚水機場と幹線水路42km、支線水路37km、支線機場10カ所、加圧機場38カ所を新設して地区内に配水し、水田への用水補給と畑地かんがいを行うとともに経営規模の拡大と生産性の向上を図るために、平地林の開畑と併せて既畑の区画整理を行う計画で、全国で初めてとなる「かんがい排水事業」、「農地造成事業」、「区画整理事業」と、畑地の末端まで一貫的に施行する「総合かんがい排水事業」として事業計画が樹立されました。
 併せて、県営かんがい排水事業、県営畑地帯総合土地改良事業等の関連事業も計画されました。

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【 霞 ケ 浦 】
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(霞ケ浦から筑波山を望む)
 霞ケ浦は、琵琶湖に次いで我が国第2位の湖であり、その湖面積は約220km2です。霞ヶ浦 の水は生活用水や農業用水をはじめとして、漁業や工業など地域の産業を支えています。
 平均水深は約4m、最大水深は約7m、年間流下量は約14億m3、貯留量は約8.5億m3で、主な 流入河川は桜川、恋瀬川、巴川、小野川などです。
 「霞ケ浦」という名称は、古代にはなく、常陸国風土記には「流海」(ながれうみ)、万葉集には「浪逆の海」(なさかのうみ)の名 がみえています。流海は海水が停滞しないで 流動している海ということです。浪逆は太平 洋の浪が銚子口から今の霞ケ浦へ逆に流れ込んでいたとの意味です。
 鹿島灘を「外の海」と呼んだのに対し、流 海を「内の海」と称し、高浜の海、佐賀の 海、信太の海および行方の海にかこまれた 最も広い海を「霞ケ浦」と称するようにな ったのは鎌倉時代のことです。

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位置図

(2)事業の実施  本事業は、当初一般会計により実施していましたが、事業効果の早期発現を計る目的で 昭和52年度より特別会計に振り替えて事業の促進を計っています。
 一方、この時期、社会情勢の変化や農業情勢の変化も著しく、本地区も大きな影響を受 けることになります。
 本地区は、東京まで約80kmと大都市近郊の国営地区ですが、高度経済成長期と相俟っ て、①鹿島開発、つくば学園都市の建設、②地域内外での多数の大規模工業団地の造成、③地区内での大規模な宅地開発、④常磐高速自動車道の建設及び道路交通網の整備発達により通勤範囲の拡大等によって事業地域は急速に変貌していきました。これらにより就業構造も大きく変化し、第二次産業、三次産業従事者が増える一方で、農業離れが顕著となり、農業従事者の高齢化、後継者不足等の問題が生じていきました。また、土地の価格も急激に上昇していきました。
 そのため、農地の資産保有意識が強まり、面(農地造成及び区画整理予定地)の権利調整  の難航など事業の推進に大きな支障を与えることになりました。
 また、昭和48年のオイルショックを契機に労賃、資材費が大幅に増大し、本地区の事業 費も増えていきました。

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取水口・導水路
 農業面では、昭和45年に始まった「米の生産 調整」 をきっかけに開田抑制や稲作転換が政策的 に行われる 中で、社会情勢の変化と相俟って、関係市町村の農 業情勢も大きく変化していきました。昭和40年に専 業農家40%、一種兼農家39%、二種兼農家21%あっ たものが昭和55年には同18%、31%、51%と、特に二 種兼農家が急激に増大していきました(農業センサス)。 同時に、農業労働力不足の対応策として単位労働量が少 なくても栽培可能な「栗作」へと自己転換が進み、普 通畑から樹園地に約1,000haも蚕食的な切り替えが進 みました。

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第1揚水機場
 このように社会経済情勢の変化を引き金とする農業情 勢の変化が本地域の農家の営農意欲の低下や事業意欲に 格差を生じせしめ、事業推進に支障を与える結果になり ました。このような状況を踏まえ、農業計画としては、 農業振興整備計画が樹立され、今後の農業開発地域とし て本地区が明確化されました。また、茨城県は低下した 農村の連帯性の維持向上と事業意欲の格差是正を目的 とした方策や主産地形成のための作物の選択等を考え合 わせた「畑作振興推進方策(昭和55年度策定)」を立て本 事業の推進に向けてきめ細かい対策を進めてきました。
 本地区は、総合かんがい排水事業として計画され、事業着手後鋭意進捗を図ってきまし たが、事業のもう一つの柱である農地造成事業の推進が困難な状況になっていきました。
 本地区の農地造成対象の未こん地の特色は、奥山開発とは違って、平均傾斜度が3度以 下で、かつ、畑、宅地等と混在錯綜している平地林です。さらに、面事業に占める畑の割 合は80%と大きいことから、未こん地の事業化を図るに当たっての畑受益者の営農意欲の 減退等から、畑地の区画整理に対する理解と合意が得られず、未こん地との一体的事業化 が進められませんでした。また、未こん地は、僅かな切り盛りで容易に造成が可能なこと から、宅地や駐車場、資材置き場に自己開発がなされ、主要な部分が蚕食され団地構成が 悪化しました。
 水田利用再編対策による水田の畑地化も進みましたが、畑作物の価格の低迷不安定などが 原因して未こん地を開墾してまで畑にする意欲がわかない農家が増えていきました。
 平地林の土地価格は、大都市隣接地帯であるため旺盛な地域開発に支えられて畑同様に 資産保有と投機の対象になりやすかったことも開発意欲を低下させる原因になりました。
 ちなみに、(財)日本不動産研究所の「田畑価格調」によりますと、畑の価格は昭和40年を100とすると昭和55年では560、昭和60年では708となっています。
 他方、農地造成、区画整理事業を除く事業の進捗率は昭和60年時点で70%と、事業完 了に向けて順調に推移していました。また、水田用水補給の受益地にあっては、国営事業による水源を前提とした計画でもってほ場整備事業及びかんがい排水等の関連事業が進められ、昭和59年度で71%の進捗が見られました。
 しかし、畑地かんがいの受益地にあっては、末端の用水施設を畑地帯総合土地改良事業 等によって施行する計画ですが、畑受益者の営農に対する意識の変化から、区画整理事業に着手または完了した面積(面整備のみ)の割合は昭和59年度で全体計画の15%と用水効果の発現の遅れることが考えられました。

icon 3.事業計画の変更



(1)計画変更に至った経緯
 本事業は昭和45年度にかんがい排水事業、農地造成事業、区画整理事業を一貫施行する 総合土地改良事業として着手しましたが、昭和44年に制定された「農業振興地域の整備に関する法律(農振法)」に基づき、49年度までに実施された農業振興整備計画の策定等により、水田及び畑地に係る受益地の大幅な減少(農振除外770ha)がありましたが、事業の推進が急務であり、特に昭和52度から特別会計に移行し積極的推進を図ったことから、受益面積の減少については、各市町村ごとに位置、地目等を調査しつつ、当該市町村で当初計画に見合う面積を確保する方針で調整してきました。
 受益地の変動等により土地改良法に規定による計画変更が必要になり、昭和55年度よ り計画変更のための受益地見直し調査を実施しました。その結果、畑受益地の大幅な変動もさることながら、総合土地改良事業としての根幹である農地造成事業においても当初計画536haの半数以上も権利移転等がなされ、実質上事業実施が不可能な状態でありまし た。これに伴い合わせ行う区画整理事業も成り立たなくなりました。
 また、水田用水補給の受益地についても、昭和55年の鉾田町の新規編入や新たな参加希 望及び農地転用等により受益地の変動が生じていました。
 しかし、①受益地の再編に伴う事業参加者の確定が十分でなかったこと、②事業の進捗 が昭和55年度で34%とまだ低く、事業効果の発現は水田の一部のみであり、計画変更に対する同意取得が困難と予想されたこと、③関係市町村の計画変更に対する組織体制が十分でなかったこと、等により計画変更の手続きを進めるには、さらに十分な調査及び実施体制の確立が必要となりました。
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幹線水路工事
 昭和56年度以降、事業実施についてはペース ダウン(55年度22億円、56年度18億円、以降 漸減)し、計画変更作業実施してきた中で、①水 田の用水補給面積が40%台に上昇したこと、②特 別会計地区であり事業が長期化すれば財投資金借 入れによる金利が増嵩し,地元負担金の面から早期 に事業を完了した方がよいとする意見が大勢を占 めたこと、③これまでの畑地整備状況からみて、 現行の総合土地改良事業を存続することは事業が 長期化すること、④小規模で広域に分散している 未こん地の畑地化を当初計画どおり国営事業で進 めていくことは面積の確保、事業参加者意識等か ら事業の長期化が避けられず、むしろ、県営事業の「畑地帯総合土地改良事業」で一体的に施行する方が妥当と判断されたこと、等から関係機関と計画変更実施に係る諸条件を整備し、本事業の計画変更を行うことになりました。


(2)計画変更
 現行の総合土地改良事業の事業制度を継続するが、内容的には、水田の用水補給及び畑地かんがいの水利条件改善を図る一般かんがい排水事業に変更し、農地造成事業及び区画整理事業については既に実施した106haで完了させ、未施行の開発可能な未開墾地及び畑地の整備(農地造成を含む)は国営事業計画から外し関連事業で実施することとし、国営事業の早期完成を計る方針としました。
 また、国営事業の計画変更に伴い、国営事業の資格要件を失った支線用水路及び支線揚水機場等については、地元状勢を勘案したうえで極力補助率及び予算面で有利な関連事業により重点的に推進することにしました。
 当地域は畑地率も高く立地条件も良好なことから今後に於ける畑作振興を図る重要な地域であるので、その規模、技術的妥当性を考慮しつつ積極的に取り組むことにしました。
 昭和62年に計画変更の概要公告を行い、平成元年度に変更計画が確定し、同年度に事業が完了しました。

(変更計画の事業概要)
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関係市町村名は事業完了時のものです

(変更計画の事業概要)
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事業完了後の感想
 昭和45年度より待望の国営事業が着工となったが、総事業費296億円で一般会計のため予算も年々5億円位しかつかず、遅々として事業も進まず、幹線全長42㎞の中、末端の受益者は何時になったら水が使えるやら待ちきれなくなり、再協議のうえ昭和52年度より特別会計に切り替えた結果、予算も年々約20億円前後の獲得が出来、然かも加入範囲も10カ市町村に拡大して事業もめざまして一挙に進展を見たのであった。
 しかしながら段々と農業をとりまく情勢は頗る厳しくなり、急激な変化が出て参りましたので、事業費232億円余とし、受益面積も7,260ha余に計画変更して一応の事業の完了の運びとなった。この事業計画を始めてから約30年、国営事業開始からでも約20年近くになり、事業も非常に長期化し、その間、社会、経済、農業の各情勢も当初とは著しく変化し、昨今は将に逆現象を示している。
 しかしながら永年かかって莫大な事業費を投資してできあがった立派な施設と、毎秒10.6トンの貴重な取水権の獲得は将来のために、大きな財産であり宝であります。今後、農業事情が如何に変化しようとも、農業と水は絶対に切り離すことのできない不可分のものである。(以下、省略)

〔事業回顧録 滑川理事長〕

icon 4.石岡台地地区の現在



 事業完了から23年経過し、関係する市町村は当初10市町村でしたが、市町村合併に伴い現在は石岡市、小美玉市を中心に7市町になっています。受益面積は、農地転用等により現在6,940ha(水田3,970ha, 畑2,970ha)です。
給水面積は現在水田3,500haで、取水量も最大で5.3m3/sと水利権水量の半分の取水量となっています。畑地については、現在県営畑地帯総合整備事業で2地区(約55ha)実施中ですが、畑地かんがい用水の利用はまだ先のようです。
 国営、県営事業で造成された施設の管理については、第2機場内の管理操作室より専用ケーブルを使用した遠方監視制御装置によって各機場の運転制御、分水量、取水量の調整を実施していますが、近年、水管理システムの故障(誤作動、誤表示)等が多くなってきています。
 施設の維持補修費はポンプ、モーター、流量計の交換、管路の漏水対策で年間平均30百万円に及んでいます。また、ポンプの電気料金は年間70百万円以上となるため、土地改良区ではポンプの運転を6月~8月の週のうち数日は休止するなど電気料金の節約に努めているところです。
 今後の課題は、引き続き畑地の整備と水管理システムをはじめとした老朽化施設の更新が課題となっています。

〔参考文献〕
・事業誌 石岡台地                   関東農政局石岡台地農業水利事業所
・石岡台地<完工記念写真集     関東農政局石岡台地農業水利事業所
・石岡台地農業水利事業計画書  関東農政局石岡台地農業水利事業所