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1.豊かに見えた霞ヶ浦の水
2.江戸に始まる開削の嵐
3.認められない水源を求めて
4.干拓事業の廃止が救う
5.霞ヶ浦用水事業の概要

icon 1.豊かに見えた霞ヶ浦の水



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現在の霞ヶ浦の様子
(マッピング霞ヶ浦サイトより)
 茨城県における河川・湖沼は、県総面積の35%以上を占め、南東部には琵琶湖に次ぐ日本第2の大湖・霞ヶ浦、西部には我が国最大の流域面積を誇る大河川・利根川が流れています。これらに流入する水量は年平均135億トンにものぼり、2500を越える全国のダムの総貯水量202億トンと比較しても、茨城県の水量の膨大さは容易に実感できます。
この水郷景観が広がる日本古来の農業地域は、一見すると、豊かな水と自然の恩恵を受けているかのようですが、実は、非常に偏った利水形態ゆえに、ある地域では洪水に、ある地域では干ばつに苦しむ歴史であったと言えます。

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茨城県地形図(茨城県庁サイトより)
河内村をはじめとする利根川と霞ヶ浦に挟まれた地域や、北浦と霞ヶ浦に挟まれた低平地は洪水に悩まされ続け、広範な排水不良地を持つ人々にとって、湿田を乾田化させることは長い間の夢でした。
一方で、 県南西部の鬼怒川・小貝川の末流部にある台地や谷地は長い間干ばつに悩まされます。利根川流域の降水量が他の大河川に比べて相当少なく、水源は主に台地からの浸出水と天水であるため、干害は常習化していました。この地域での水利開発は江戸時代初期から中期にかけて行われ、数多くの用水路と取水堰が築かれる中で、複雑な水利秩序が築かれてきました。そのため、鬼怒川と小貝川が貫流しながらも、そこからの取水は既存の水利施設が競合し、新たな水利配分を得るにはとても困難な状況でした。
霞ヶ浦用水事業は、この地域を潤すための水源を模索することに多大な時間を要することになります。
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霞ヶ浦用水事業受益地域

icon 2.江戸に始まる開削の嵐



 東京湾に注いでいた利根川が、現在のように銚子へ向かって流れるようになったのは、江戸時代に徳川家康が行った「利根川東遷事業」によるものです。

 目的は、利根川の水害から江戸を守り、埼玉県東部の新田開発をすること。また舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立することなどに加えて、東北の雄・伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれます。 この事業は、当時栗橋付近から江戸湾(現東京湾)に向かう利根川の流れを、台地を切り通して赤堀川として東に移し、常陸川と多くの湖沼を結び付けて銚子に流すものでした。 天正18年(1590)に江戸に入った家康は、関東郡代に伊奈備前守忠次を任命し、この利根川東遷事業を行わせます。そして文禄3年(1594)の会の川締切から60年もの歳月をかけて、忠次から忠政、忠治へと受け継がれました。先史時代から長い間、東京湾に注ぎ続けていた利根川・渡良瀬川系の主流が、赤堀川の開削により常陸川・鬼怒川水系と合流し、銚子で太平洋に注がれるようになったのは、承応3年(1654)のことです。これによって、わが国最大の流域面積を誇る河川・利根川が誕生したのです。

またこの時代には、利根川の東遷事業のほかに、藩直営の事業として、鬼怒川や小貝川の沿線で盛んに用水路の開削や取水堰の造築などが行われました。 その費用や人足が領内一般に賦課されたことからも、これらの事業がいかに重く見られ、力を注がれたかが分かります。 この時、同時に新田開発も進み、藩の石高増加に大きな役割を果たしました。現在の利根川の本流や支流と那珂川などの沿岸の耕地は、その4分の1が新田としてこの時代に開発されたものです。
そしてこのときに開発された既得用水が後世にわたって主権を握り、新規用水の取水を困難なものにしたのです。

根川東遷概要図(利根川上流河川事務所サイトより)

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icon 3.認められない水源を求めて



 昭和に入っても、小貝川水系では、江戸時代初期に開発された既得用水が主権を握り、新規用水の取水は不可能なままでした。また利根川からの利水も、渇水時の排水樋門からの取り入れ程度にとどまり、用水としての本格的な取水は見込めません。その上、戦後の食糧増産対策に伴う開拓で、霞ヶ浦にしか水源が求められない地区が先行して霞ヶ浦用水を確保します。高度成長による首都圏の水需要が急増したこともあり、豊富な水を湛えていた霞ヶ浦も、その取水の余地は無い状態となっていました。このように、地域を取り巻く利水の水源環境は厳しくなるばかりです。

 しかし、 昭和17年(1942)の大干ばつを契機に“水不足の著しい県西地方に、満々とたたえる霞ヶ浦の水を”という思いから地元が立ち上がり、鬼怒・小貝・桜川の広域利水構想を企画します。
ところが戦争の激化とともにこの構想は立ち消えとなり、続く昭和22年(1949)に立案された鬼怒川逆木付近へのダム建設計画も経済的な理由から具体化しませんでした。そして、何の対策もないまま昭和33年(1958)、この地方を記録的な大干ばつが襲います。小河川の水が枯渇し、ため池も干上がり、被害水田は約20,000haに及びました。その後、昭和35年,36年にも連続して干ばつとなり、これによってようやく農業用水確保の重要性と緊急性が認識され、広域水利開発事業の具体化を望む声が高まっていきました。

 そして昭和37年(1962)、県西地域全体の用水問題を根本的に解決するための技術的な検討を開始。翌年には、霞ヶ浦を水源とする「県西用水事業計画」を公表するとともに事業化を前提とする予備調査に着手しました。地元の悲願はついに行政を動かしたかのように見えました。
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icon 4.干拓事業の廃止が救う




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中止に至った高浜入干拓計画地
(マッピング霞ヶ浦サイトより)
 ところが、昭和43年(1968)から始まった建設省所管の霞ヶ浦開発事業計画の中には、この用水事業の取水計画は掲上されなかったのです。霞ヶ浦には、新たな開発に分ける水利余地はないという状況でした。豊かな水に満たされた霞ヶ浦からはいつでも取水可能と考えていた住民は、首都圏経済社会の急激な膨張と都市用水の需要増加による取水の限界を目の当たりにするのです。
 それでも地元関係市町村は、水需要の逼迫の現状を考え、都市用水の確保に強い要望を持ち続けました。「霞ヶ浦用水部会」を設けて利水調整を続けたのです。当初、計画されていた農業用水事業に加え、上水道用水、工業用水の参加が本格的な検討に入ったのもこの時です。
水源の調整が長期間にわたって行われた末、高浜入干拓事業の廃止による水資源の利用転換で、ようやく事業の実現が可能となりました。高浜入干拓事業は、昭和35年(1960)に農林省の計画として発表され、昭和42年(1967)には工事着工が決定していましたが、農政の米自給から減反政策への政策の転換や、地元住民の干拓阻止運動などを理由に昭和53年(1978)に干拓中止が決定されたのです。
 昭和37年に始まった調査から18年の歳月が流れた昭和55年(1980)、ようやく霞ヶ浦用水事業が着工されました。ここに水源をめぐる調整がいかに困難なものであったかが伺えます。

 この事業は、霞ヶ浦の水が筑波山をトンネルでくぐり抜けて鬼怒川を渡り、県南西地域の20,000haの農地を潤すというもので、水田を主なる対象とした一期事業が平成4年に完了し、畑地かんがいを主眼とした二期事業は平成16年に完了しました。

 古くから農業生産を主体としながら、常習的な用水不足から低位生産を余儀無くされていたこの地域は、東京から75km圏内で大都市消費を支える優良農業地域となりました。

icon 5.霞ヶ浦用水事業の概要



(1)受益地 
 茨城県土浦市、下館市、結城市、下妻市、水海道市、笠間市、取手市、岩井市、つくば市、同県西茨城郡友部町及び岩瀬町、同県新治郡出島村、八郷町、千代田村及び新治村、同県筑波郡伊奈町及び谷和原村、同県真壁郡関城町、明野町、真壁町、大和村及び協和町、同県結城郡八千代町、千代田川村及び石下町、同県猿島郡総和町、三和町、猿島町及び境町並びに同県北相馬郡守谷町。

(2)受益面積 
     水田  10,930ha
     畑     8,720ha
     計     19,650ha

(3)主要
     共用施設         霞ヶ浦用水機場   1箇所
                          基幹線水路         約53km
     農業用水施設   揚水機場            7箇所
                          調整池               6箇所
                          管水路               約212km
     都市用水施設   浄水場               3箇所
                          管路                  約470km

(4)総事業費
     約2,620億円


茨木県 ―霞ヶ浦用水事業