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1.自然環境と歴史
2.地区内を縦断する「姫街道」
3.浜名湖周辺のみかんの歴史
4.国営事業事業発足の背景
5.国営事業計画概要

icon 1.自然環境と歴史



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黄色く色づいたみかん
(みかん園から浜名湖を望む)
 浜名湖北部地域は、静岡県の西端に位置し、都田川を中心とした豊かな自然を有した都市近郊農業地帯であるが、東・北・西の三方は赤石山脈から分か れた連山に囲まれ、南は浜名湖に面した浜松市北区三ヶ日町、引佐町、細江町、都田町の丘陵性山地の斜面及びそれに続く洪積台地は、陸上浸食(特に 風食)を受けて等高線が著しく複雑で大小の沢谷が入り込んでおり、丘陵傾斜部では、果樹園地帯が広がっています。
 この地方は、日本列島のほぼ中央部に位置し、遠州灘や浜名湖を有する景勝地で気候も温暖であるが、冬期には「遠州の空っ風」が吹き付ける厳しさもあります。 このような温暖な気候に加えて海・湖の幸、山の幸にも恵まれ古くから住みよい条件にあるため、今からおよそ1万5千年から2万年前の第四紀洪積世に住みついたと思われる 「三ヶ日原人」の人骨が、三ヶ日町只木遺跡から発掘されました。
 本地域は、古くからみかん栽培の盛んなところでもあり、この地方に導入されたのは今からおよそ250年前の享保から宝暦の始め頃に遡り、自家用として栽培されたのが始まりと言われています。
 しかしながら、樹園地は丘陵性山地の斜面に分布するため、道路条件、水利条件が悪く、また、農地造成等による規模拡大を図る余地はありませんでしたが、今では「三ヶ日みかん」等の高品質なみかんを産出する地として全国に知られています。

【本文引用・参考文献】
・「事業誌 浜名湖北部用水」(平成2年3月)関東農政局浜名湖北部農業水利事業所

【写真引用】
完工記念誌「浜名湖北部地区畑地帯総合整備事業」
(平成23年3月)
浜名湖北部用水土地改良区三ヶ日工区連合会

icon 2.地区内を縦断する「姫街道」



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毎年桜の咲く頃に、お姫様を中心とした100余名が豪華絢爛な衣装をまとい都田川堤桜並木を歩く「姫様道中」が行われています。
【写真引用】浜松市HP
 当該地区をほぼ縦断する“姫街道”は、愛知県御油宿から静岡県見附宿の間を浜名湖の北岸経由で結ぶ東海道の脇街道として極めて重要な街道であり、正式には「本坂通」と呼ばれました。
 江戸幕府により東海道が整備されると険しい山越えのある本坂通はさびれ、「ひね」*1た脇街道に転落した。そこで本街道である東海道を男、脇街道の本坂通を女に見立てこれを「姫街道」と呼ぶようになりました。一説には東海道の新居の関所を「今切関所」ともいい、新居・舞阪間を「今切の渡」と呼んだため女性にとって縁起が悪い言葉として嫌われ、また船の危険を避けるため女性にはこのルートを避け、本坂通を通ったからとも云われています。
 この脇街道が、幕府御用道として陽の目をみるようになったのは、宝永4年(1707年)10月4日、東海道筋を襲った大地震により浜名湖口から新居宿一帯が大打撃を受けた時からです。すなわち、東海道の通行が困難となり応急措置として姫街道が
 利用され、日増しに交通量が増加しました。
 その後東海道が通行できるようになった後も、姫街道を御朱印の荷物や大名行列までが利用しました。
このため、旅宿で生活をたてていた東海道の宿場は生活に困窮しました。 一方、姫街道の村も助郷役のために 百姓は次第に難渋したため、幕府は 今切の渡しが渡航困難もしくは急病 の場合以外は通行禁止令を出したが 効果はなくそのまま明治を迎えました。 しかし、維新と共に大名の通行がなくなり、東海道が前にもまして便利になると再び以前の静けさに戻りました。

*1 「ひね」とは、古いという意味


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本坂通(姫街道)概略図
【概略図引用】浜松市HP

【本文引用・参考文献】
・「事業誌 浜名湖北部用水」(平成2年3月)関東農政局浜名湖北部農業水利事業

icon 3.浜名湖周辺のみかんの歴史



1)みかん栽培の始まり

 本地域の特産である浜名湖周辺のみかんは、大正10年(1921年)発行の「引佐郡史」によれば、三ヶ日町平山の山田弥右衛門が今からおよそ250年前の享保から宝暦の始め頃、西国巡礼の旅で紀伊国那智地方において、小みかんの苗を持ち帰ったのが始まりであると云われています。彼の植えた小みかんは明治初年度まで現存し、当時の名残として明治10年代頃の平山村には、樹齢70~80年に達する小みかんの古木が随所に植えられていたと伝えられています。
 当時は、主として農家の自家消費的な栽培用でしたが、江戸末期には販売にも供せられた記録もありますが、その量は多くはなかったと思われます。 その後、天保年間に加藤権兵衛が、三河国吉良地方から温州みかんの苗木を始めて購入し栽培しました。これが明治に入って急速に増植され、今日のような産業としての浜名湖周辺みかんの基礎をつくりあげました。

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みかんの収穫作業風景
2)みかん栽培の発達

 明治時代に入り地租改正により現物納から金納へと変化するとともに流通経済の目覚ましい発達に伴い、米、麦の自家消費用のものより換金作物として、イ草、煙草、桑、茶、みかんの栽培が増加していきました。明治10年代には、みかん栽培が平山周辺の集落より町内各集落に拡大していき、有望な換金作物として注目されたのは、明治20年以降でした。また、三ヶ日地方の重要産物として県に報告する農業調査書にみかんが記載され始めたのは明治26年からであり、明治末期になるとみかん栽培は栽培 技術の普及、噴霧器の開発により品 質が向上し、生産も増加していきました。
 日露戦争(明治37,38年)後、宇利峠(静岡県と愛知県境の峠)が県道として開通すると手車で輸送できるようになり、その出荷量も増加していき、大正末期になると生産額も増し、静岡県は和歌山県を追い越して日本一のみかん生産県となりました。
 大正末期から昭和の初期にかけ、みかん栽培が高収益になるにつれ、養蚕が衰退し、桑畑のみかん園への転換が盛んに行われました。特に「中川宗太郎」技士による剪定方式、土壌改良、防寒設備、販売機構の改善等の画期的指導により、山林開墾が盛んに行われていきました。
 このように、この地方にみかんは三ヶ日町を中心として栽培され,次第に近隣の町村に広がっていきました。 三ヶ日町平山の加藤家には「温州みかん発祥地」としての表示板があり、三ヶ日町稲荷山には紀州みかん導入の山田弥右衛門、温州みかん導入の加藤権兵衛、及び大正時代に現三ヶ日みかんの栽培技術を普及させた中川宗太郎ら3人の「柑橘頌徳碑」が建立されており、先人の遺徳を讃え、毎年11月には「柑橘頌徳祭」が執りおこなわれています。

【写真・本文引用】
・「完工記念誌 浜名湖北部地区畑地帯総合整備事業」(平成23年3月)
浜名湖北部用水土地改良区三ヶ日工区連合会

3)貿易の自由化とみかん農業

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丘陵の暖傾斜面に整然と植栽された
みかん園(平山地区)
 近年、我が国における温州みかん(以下単に「みかん」という。)の生産は次のとおり大幅に減少しているにもかかわらず、なおかつ供給過剰傾向が続いています。
 これは生食用みかんの消費量が減少してきたのが大きく影響しているためです。この原因は近年の食生活の多様化、輸入果実の増大もありますが、みかん果汁を含む低濃度果汁の消費量の 急激な伸びが大きいと云われています。
 我が国のみかん農家のおかれた環境をみると、加工用果実の生産では経営が極めて難しい状況にあり、高品質の生食用みかんの生産による収益増を目指さねばなりません。我が国の多くの みかん園は、その立地条件からみて大規模機械化農業には適しておらず、安いみかんを生産するには限界があり、むしろ多少高価でも品質の良いみかんを生産することを目標とせざるを得ません。
我が国では伝統的に高級果実への評価が高いうえ、質の良いものは高くても売れる傾向があることから、品質で勝負できるみかん農業を確立することがこれからの課題となっています。幸い本地区の過半を占めるみかんは、「三ヶ日みかん」として既にブランド化されているのでこの実績を生かしつつ、より一層高品質みかんを安定的に生産していく体制を整える必要があります。

【本文引用・参考文献】
・「事業誌 浜名湖北部用水」(平成2年3月)関東農政局浜名湖北部農業水利事業所

【写真引用】
 完工記念誌「浜名湖北部地区畑地帯総合整備事業」(平成23年3月)
   浜名湖北部用水土地改良区三ヶ日工区連合会

icon 4.国営事業事業発足の背景



 本地区におけるみかん栽培は、三ヶ日町を中心に早くから行われ、気象条件、地形、土壌条件を生かし優良産地を形成してきましたが、防除やかんがいは昭和20年代までは渓流水や上水道を利用して行われ、特に不便はみられませんでした。しかしながら、昭和30年代に入ってみかん栽培技術の長足の進捗や需要の増大、さらには機械開墾の発達や共販体制の確立等々と相まって、本地域みかん園は飛躍的に拡大され、この結果著しい用水不足を生じその対応策が強く求められ、水源確保のために、小規模ながら地区内にダムやポンプ場の建設について検討が行われた他、水道料単価の引下げ要望が出されるなど、水に対する関係者の関心が急速に高まってきました。
 昭和40年代に入って高速道路インターチェンジの開設など地域の発展が続き,水の需要が一層増すなかで、地下水の塩水化など旧引佐郡3町(細江町、引佐町、三ヶ日町)の水源枯渇の新たな事態が生じ、かんがい用と併せて安定した生活用水の確保が課題となり、関係者からの強い要請により、昭和46年(1971)9月に「浜名湖北部用水事業期成同盟会」(旧引佐3町及び各町の農協で組織)を結成して、積極的に取り組むことになりました。そして昭和46年10月からの県単調査に続いて、昭和47年4月からは農林省直轄調査が開始されることとなり、地域内において水源調査が国・県の共同で実施されました。しかし、調査結果からは地域内において安定した水源の確保は困難であることが判明し、静岡県営都田川防災ダムを嵩上げした多目的ダムによる共同事業について検討をしました。
 その結果、嵩上げによる用水確保は既定の防災洪水調節容量546万m3の他、利水容量488万m3が可能であると判断され、水源を都田川ダムに求めることになりました。  利水計画としては、ダム利水容量にダム地点から中流部までの渓流水の利用も含めることとし、須部地点(ダム下流約7km地点)に頭首工を設け取水をおこなう計画としました。 さらに、浜松市を含めた1市3町による、浜名湖北部用水事業期成同盟会は、昭和49年3月19日に、上水道事業(浜松市)も合わせた計画として推進することになりました。
 その後、昭和51年6月10日には、農地防災・農水・上水の三者基本協定が調印され「国営浜名湖北部農業水利事業」は発足されました。

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都田川ダム

 【引用・参考文献】
 ・「事業誌 浜名湖北部用水」(平成2年3月)関東農政局浜名湖北部農業水利事業所
 ・「静岡県土地改良史」(平成11年2月)静岡県土地改良史編纂委員会

icon 5.国営事業計画概要



1)事業目的
 本地域は古くからみかん栽培が盛んであったが、用水、地形等の圃場条件に恵まれず、かん水、適期防除、あるいは生産物や営農資材の搬入等に支障をきたしており、みかん生産の条件は必ずしも有利ではありませんでした。
 更に近年の量産体制、外国からの輸入攻勢等と相まって、優良みかん産地である本地域といえども前途は厳しいものがあり、生産基盤の整備は緊急な課題でした。
 このため、果樹生産団地形成の一環として畑地かんがい施設を設置すると共に施設の防除、施肥等への多目的利用を行うことにより、みかん生産の安定と品質向上ならびに農家経営の安定、農業従事者の労働環境の改善を図り、もって消費者に高品質のみかんを豊富かつ兼価に安定供給することに寄与するものです。

2)主要工事概要
 (1)事業名   国営浜名湖北部農業水利事業
 (2)事業工期  昭和50年度~平成元年度
 (3)受益地   浜松市(都田町、鷲沢町、滝沢町、細江町、引佐町、三ヶ日町)
 (4)受益面積  2,430ha(果樹園)
           (都田,鷲沢,滝沢町390ha、細江町240ha、引佐町360ha、三ヶ日町1,430ha)
 (5)総事業費  21,576百万円
 (6)主要施設
  Ø 須部頭首工(二者協同工事) 堤長40.5m、洪水吐ゲート2門、土砂吐ゲート1門
   (最大取水量;農水1.481 m3/s、上水0.42m3/s)
  Ø 湖北揚水機場 実揚程150.3m(全揚程155.5m)
  Ø パイプライン
   送水路は須部頭首工より取水した最大取水量1.481m3/sの用水を湖北揚水機場より口径500mmポンプ2台、口径300mmポンプ2台により標高17.7mから168.0mにある第一吐水槽まで、実揚程150.3mを圧送するもので、口径1,000mm、管厚15mmの鋼管を用い、送水管を併設して口径500mm、管厚11mmの鋼管を吐水槽の余水路として設置しました。
   また、パイプラインは口径1,000mmから口径300mmで、途中2箇所の調整池を設けている。当地域は山岳地帯で高低差が多く、地形が複雑な屈曲部も多いため安全上管種は口径600mm以上を鋼管、口径500mm以下をダクタイル鋳鉄管で布設されています。なお、パイプラインの総延長は約5万5千m(送水路1千m、幹線水路3万2千m、支線水路2万2千m)となっています。
  Ø 調整池  2ヶ所 貯水量(三ヶ日調整池57,000m3、小野調整池38,000m3、)
  Ø 関連事業
    都田川ダム (三者共同工事)
     中央コア型ロックフィルダム 堤高55.0m、堤長170.0m、堤体積676,000m3
     (有効貯水量;農地防災5,460千m3、農水3,460千m3、上水1,420千m3)

【引用・参考文献】
 ・「事業誌 浜名湖北部用水」(平成2年3月)関東農政局浜名湖北部農業水利事業所


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湖北揚水機場(左側) 須部頭首工(中央)、 上段の橋は新東名高速道路
・都田川上流に建設された「都田川ダム」から放流された水を須部頭首工で取水し、揚水機場で畑地上段の第一吐水槽に圧送する。
    【写真引用】浜名湖北部用水土地改良区